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安曇族(阿曇)

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「あづみ」とは「あまつみ」すなわち「綿津見の海神=スサノヲと月読の子孫」である。
月読とは太陽を守護し、助力する者であり、スサノヲとは海を統率し暴風を自在にあやつることができる、つまり天皇家に対し諫言を言える者。時に大王を援助し、時に朝廷にまつろわぬ誇り高き存在。

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       穂高神社安曇比羅夫像


●「古代の海人族の中でもっとも優勢を誇ったのは阿曇連氏である。この氏が有するところの連なる姓(かばね)は、古代の名族大伴・物部・中臣等の諸氏のそれと同じく、大和の王権の下で特定の職業集団(品部(ともべ))を統率する氏族(伴造(とものみやつこ))に与えられたものであるが、同じく伴造でも造(みやつこ)とか首(おびと)といった、より低い姓を与えられたものもあったから、連姓を与えられた阿曇氏の政治的地位はそれなりに高いものであったといえる。」
「海人族のウヂを探り東漸を追う」(黛 弘道、『日本の歴史?倭人争乱』集英社)



●『新撰姓氏録』
・「阿曇宿禰 海神綿積豊玉彦神(わたのかみわたつみとよたまひこ)の子、穂高見命の後(すえ)なり」・ 阿曇犬養連は、「海神大和多罪(おおわたつみ)命の三世孫(みつぎのひこ)、穂己都久(ほこつく)命の後なり」・ 安曇連 宇都志日金折(うつしひがなさく)命の後という・ 穂高見命、別名宇都志日金折命(古事記に記載)といわれている古くにおいては宇都志日金折命といわれ、その後穂高見命といわれたとの説もある


●阿曇氏の発祥の地筑前国糟屋郡安曇郷(福岡市東区和白・福岡県粕屋郡新宮町あたり)、志珂郷(福岡市東区志賀島)を中心とした地域式内名神大社 志加海(しかわた・志賀海)神社 があり、神職は阿曇氏4.
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「志賀」とは「鹿」であるが、海でもある。
安曇族は鹿角を釣り針などにし、鹿をステータスにした。そしてそれゆえに鹿=海の神としたのである。
中世志賀氏の名も、滋賀県・志賀島の名前も彼らがいたところの地名になっている。祖神である安曇磯良し(あずみのしら)は磯の岩礁の神格化である。住吉三神を祀る。その配下からは漂泊の中世芸能民が出る。いわゆるクグツである。


安曇氏族の系列阿曇連(あずみのむらじ)(または阿曇宿禰)海犬養連(あまのいぬかいむらじ)凡海連(おおしあまのむらじ)八木造(やぎのみやつこ)阿曇犬養連(あづみのいぬかいのむらじ)?

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●安曇氏族の分布
( 黒字:宮地直一、青字:大場磐雄 による)
?筑前国 糟屋郡志珂郷、阿曇郷、志賀海(シカノアマ)神社?
壱岐・対馬 和多都美神社?
豊後国 戸为山部牛の妻阿曇部馬身賣(ウマミメ)他、海部郡?
長門国 下関市安園町富任 長門国豊浦團五十長凡海我孫

肥後国大津郡向津具村 八木家所有の畑地から有柄銅剣?
隠岐国 海部(アマ)郡 少領外従八位下阿曇三雄、海部郷?
伯耆国 會見(アツミ)郡安曇郷西伯郡宇田川村 和名抄に安曇郷記載、石剣出土?
出雲国 簸川郡大社町杵築 海部が居住していた、銅戈が出土?
丹後国 熊野郡湊村函石濱 和名抄に安曇郷記載、石剣出土與謝郡日置村 海部氏が奉斉する籠神社、石剣出土?
播磨国 揖保郡浦上里、石海 安曇連百足?
讃岐国 大内郡入野(ニフノ)郷 安曇茂丸戸他、讃岐是秀 安曇直眉他?
阿波国 男帝の御宇に供奉する神祇官選定阿曇部、名方郡の人安曇部栗麻呂宿禰、和多都美豊玉比賣神社、海部郡?
淡路国 三原郡南方の野島は海人の本拠地、西南の方に阿萬(アマ)郷?
摂津国 安曇犬養連等の地、難波津の安曇江、安曇寺?河内国 阿曇連等の地?
山城国 阿曇宿禰等の地?
近江国 伊香(イカコ)郡安曇郷(東北方湖辺の地であるが所在は明らかでない)?
美濃国 厚見郡、厚見郷?三河国 渥美郡、渥美郷?信濃国 更科郡氷鉋、斗賣郷 氷鉋斗賣神社 、埴科郡玉依比賣命神社?
信濃国 安曇郡 穂高神社 安曇部百鳥

以上の他に、「信濃の安曇」(笹川尚紀『信濃第 55 巻第 7 号』平成 15 年)によると、肥前国、周防国、備中国、伊予国にも安曇連、安曇部の存在があるという。

● 日本書紀にみる安曇氏の系譜1.神代上巻第一第五段伊装諾尊(いざなきのみこと)、伊装冉尊(いざなみのみこと)伊装諾尊が黄泉(よもつくに)から逃げ帰って川で祓ぎ除(みそぎはら)った時に、多くの神を生んだ。そして「又海(わた)の底(そこ)に沈(かづ)き濯(すす)ぐ。因りて生める神を、号(なづ)けて底津少童命(そこつわたつみのみこと)と曰(まう)す。次に底筒男命(そこつつのをのみこと)。又潮(しほ)の中に潜(かづ)き濯(すす)ぐ。因りて生める神を、号けて中津少童命(なかつわたつみのみこと)と曰す。次に中筒男命(なかつつをのみこと)。又潮の上に浮き濯ぐ。因り生める神を、号けて表津少童命(うわつわたつみのみこと)と曰す。次に表筒男命(うわつつのをのみこと)。凡(すべ)て九(ここのはしら)の神有(いま)す。其の上筒男命・中筒男命・表筒男命は、是即ち住吉大神(すみのえのおほかみ)なり。底津少童命・中津少童命・表津少童命は、是阿曇連等(あずみむらじら)が所祭(いつきまつ)る神なり。」『日本書紀一(巻第一神代上第五段)、岩波文庫』


●景行天皇紀 ( 70〜98 年)→ (後漢の光步帝より漢倭奴国王印を授与される 57 年 )
82 年日本書紀によると、熊襲征伐に向かう途中筑紫において、鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折という名の賊者を討伐したとある。
続いて、青、白という名の土蜘蛛と打猨(うちさる)、八田(やた)、国摩侶(くにまろ)という名の土蜘蛛を討伐したとの記述がある。このときは抵抗が激しく、志我神(しがのかみ)、直入物部神(なおいりもののべのかみ)、直入中臣神(なおいりなかとみのかみ)に祈ったとある。

この点に関して『日本古代の軍事航海史(松枝 正根)、かや書房』(上、267 頁)は次のように指摘している。
肥前風土記によると、景行天皇が巡幸したとき供者の安曇連百足(あづみみらじももたり)に命じて、近くの島を視察させたところ、二つの島に大耳、垂耳という土蜘蛛がいた。そこで安曇連百足は彼らを捕らえた。彼らは貢物をすること約束したので、天皇は恩情をかけ、赦免したとある。その嶋は値嘉嶋と呼ばれ、そこに住む白水郎(あま)は牛や馬を多く所有しており、容貌は隼人ににており、いつも騎射を好み、言葉は俗人と異なっていると記述している。

●神功皇后紀 ( 200〜270 年)→(卑弥呼、魏へ入貢し親魏倭王の印綬をうける 238 年) 200 年日本書紀によると、神功皇后はこの年新羅へ出征した。「又磯鹿(しか)の海人(あま)、名は草(くさ)を遣わして視しむ」とある。(名草郡の地名由来はこれであろう)

『日本古代の軍事航海史(松枝 正根) かや書房』(中、15頁)によると、
新羅出征に際し神功皇后は「阿曇連磯良丸命に舟師を率いさせて出征した。九月には諸国に令した船が集まったので、磯鹿海人(しかあま)名草を水先案内人として壱岐経由して、十月三日、対馬の和珥津(わにつ)を出港して新羅の南岸へ迫ったとされている」と記述している。

●応神天皇紀 (270〜313 年) 273 年 日本書紀によるとこの年、『処処の海人、訕?(さばめ)きて命に従わず。則ち(すなわち)阿曇連の祖大浜宿禰(おおはまのすくね)を遣わして、其の訕?を平ぐ。因りて海人の宰(あまのみこともち)とす』とある。275 年日本書紀によると、「諸国に令して、海人(あま)及び山守部(やまもりべ)を定む」「伊豆国に科(ふれおおせて)、船を造らしむ。長さ十丈(とつゑ)。船既に成りぬ。試みに海に浮く。便(すなわ)ち軽く泛(うか)びて疾(と)く行くこと馳(はし)るが如し。故(かれ)、其の船を名けて枯野(からの)と曰ふ。」とある。『日本古代の軍事航海史(上、52 頁)』(松枝 正根、 かや書房)によると、「応神天皇は、三人の皇子にそれぞれの職の分担を定め、皇子大山守命を山海を担当する総宰にしている。そして阿曇連および凡海連を副総宰とし、吉備、紀伊、但馬、播磨、阿波等の諸国にそれぞれ海直(うみのあたい)を置いた」と記述している。


要するに住吉信仰の大元を太陽信仰として記紀は神功皇后という、限りなく倭の女王に近い女性を作り出すのである。それが伊勢信仰、つまり天皇家とアマテラス信仰の大前提としてとりこまれ、日本の神社信仰のすべての形態がこの8世紀以後完成する。
安曇はそのために朝廷の大陸交易渡航の道具となり、信仰も奪われ、結果、配下に存在した多くの海人族の中でそれに反発して海賊と化したものが多数出たのである。しかしながら現代日本の海運業、あるいは明治のバルチック艦隊を殲滅したその海軍力の原動力は、少なからず彼らの長い経験やその血脈によってなしえたと考えてもいいだろう。

私自身は、日本人が大陸渡来の弥生人の子孫であるよりも、勇猛な彼ら海人族縄文倭人の子孫であらんことを誇りとするものである。



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大量の円筒埴輪が出土 墳丘をぐるり 堺・ニサンザイ古墳/<飛鳥京跡苑池>石組み地下水路発見 南池噴水装置につながる

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<飛鳥京跡苑池>石組み地下水路発見 南池噴水装置につながる
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121130-00000021-maiall-soci

新たな地下水路発見 - 「高低差導水」覆す/飛鳥京跡苑池   奈良新聞
http://www.nara-np.co.jp/20121130091613.html
現地説明会は12月8日午前10時~午後3時。小雨決行。受け付けは発掘現場で、説明は随時行う。



大量の円筒埴輪が出土 墳丘をぐるり 堺・ニサンザイ古墳
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121130-00000132-san-soci
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 宮内庁が陵墓参考地として管理する巨大前方後円墳、堺市北区のニサンザイ古墳(全長約300メートル、5世紀後半)で、大量の円筒埴輪(はにわ)などが出土し、同庁が30日、報道関係者に公開した。円筒埴輪は墳丘のほぼ全体を囲んでいる可能性が高く、天皇クラスの古墳にふさわしい壮大な状況が浮かび上がった。
仁徳天皇陵の次に造られたことも判明し、いよいよ履中天皇陵の可能性が高まった。
倭王珍でいいかな?


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遣唐船航路はなぜ南路になったか

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◆遣唐船の航路

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「初期の遣唐使は朝鮮半島の西岸沿いを北上する北路をとっていました。
しかし新羅との関係が悪化した8世紀からは東シナ海を横断する南路が取られるようになったようです。船は五島列島で良風を待ち、一気に長江河口を目指しました。このルートは朝鮮半島を北上する北路に比べ、外海を突っ切ることから遭難する事が多かったようです。
復路は風向きから奄美などの南西諸島を目指す「南島路」をとることが多かったのですが、南路よりさらに危険なルートでした。」
http://inomanari.net88.info/2007/11/post_8.html


新羅との関係悪化や船舶と技術の進化だと学者は言うのであるが、筆者はそれだけじゃないと思っている。北周りの渤海経由で向かうのは北朝のある中国北東部である。しかし南回りの南路と南島路で向かうのは長江河口部のかつての南朝の故地なのである。


空海もそうだが、むしろ南朝を日本人の出身地だとうすうす知って、故地と想定して長江をめざしたかも知れないし、その知識と行路選択は船頭である海人族の積み上げてきた経験則を取り入れるようになったのかも知れない。

さらに詳細な図面を見ると、船ははるか南の海南島まで航路があって、長江河口部からはわざわざ陸路で北上することが見える。一世紀~三世紀からの伝統的な後漢・魏への朝貢ルートをなぜ変更するのかはちゃんと考える必要がある。

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三世紀までは半島に楽浪郡があり、まずそこを中継する。だから航路は渤海まわりにならざるを得なかった。
しかし八世紀になって半島を独占した新羅との関係が悪くなろうと、対馬から渤海へは新羅の埒外の配流先だった済州島を経由して海流で上昇できたはずである。なぜ危険度の高い南回りを頻繁に使い始めたのだろうか?北路はそもそも
「古くから新羅の商人によって利用された 航路であって第17回遣唐使の帰路は新羅船をやとってこの航路で帰国した。」http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/kentousi.html

のだから、新羅との不仲は船の民たちの民間レベル通行ではそれほど影響がなかったとも考えられる。いつの時代も民衆間のつきあいと国家間の正式交流とは別物である。

と同時に、八世紀までにできあがる南航路の遣唐使は、それまで毎年のように朝貢していたものが、

「太宗の貞観5年、使いを遣わして入貢す。帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、歳貢にかかわることなからしむ。(『新唐書』日本伝)」

「その後、唐僧維躅(ゆいけん)の書に見える「二十年一来」(20年に1度)の朝貢が8世紀ごろまでに規定化され、およそ十数年から二十数年の間隔で遣唐使の派遣が行われた。」

などの唐側からの日本への渡航頻度許容がいわれている。

二十年も往来がなければ、中国は過去の経緯から政権が代わってしまうこともありうる。もちろん唐がそれだけの安定政権だったことは大きいだろう。しかし他国を蛮族としてはばからない中華思想が、なぜ日本だけは特別扱いにしたのか?ただ遠いから?危険な海路だからか?ばかにやさしいではないか?秦の時代なら日本は蓬莱の聖なる人々がいる島だったろうが、魏~唐の現実主義ではそれも薄れていたはずだ。白村江での実戦もあったし、中国にとって日本はすでにかなり具体的な国家になっていたはず。


「円仁は最初から壱岐対馬コースを選んでいる。しかし空海・最澄はどこから出航しているか?
有明海である。これでは壱岐対馬~半島経由を最初から選んでいないことになる。
それで難破したと言いたいかも知れない。難破するから玄海灘になった・・・。
それが違う。
やはり有明海から出航する船は続いていた。
つまり中国の長江河口部へ直行するルートは往古からあったのである。
なぜなら長江河口部には多島海があるが、この島々は現代も国際貿易重要地点で、今は有数の市になっていて人口百万人都市なのだ。つまり長い海外貿易の歴史が、この島々を大都市にしていった。ここには多種の民族の子孫が住まっており、中には倭人の子孫も多い。つまりコスモポリタンの港であり、縄文時代から日本人が寄航してきた歴史があるはずである。」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54557112.html


黄河で近い長安へ、なぜわざわざ長江を選ぶか?
長江河口部は多島海とデルタ地帯で、崇明島(すうめいとう)などの島々が密集し、ここが古くは中国白水郎たちの集まる南部最大の貿易港だったことは大事である。

「589年、隋朝による中国統一が達成されると、煬帝は中国南北を連絡する ”大運河を建設” した。しかしこの大規模土木事業により民衆の反発の招いた煬帝はその後江都(現揚州)で反乱軍に殺害された。行政区画としては開皇年間(581-600)に蘇州、揚州、徐州が設置され、大業年間(605-617)に呉、毘陵、丹陽、江都、下邱、彭城、東海の諸郡に改編されている。

宋代、江蘇地区では富裕商人階層と新興の商工業経済が発展し、蘇州と揚州等の主要都市は商業の中心となり富裕と贅沢の代名詞となった。宋朝は江南東路、両浙(浙東・浙西)西路、淮南東路を設置している。1127年、金朝が華北を征服すると宋朝は江南地区に避難、南宋が成立した。この時期江蘇北部の淮河は金と南宋の境界線となった。これ以後、江蘇の南北に顕著な経済格差が現れ、文化の差異も強められた。13世紀、モンゴル人が中国全土を掌握すると元朝により江東建康道、江南浙西道、淮東江北道が設置されている。」 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%98%87%E7%9C%81


現代でもここは中国有数の大都市(人口101万人)で、南は上海市に接し、重要な交易の重要都市港。海門市(ハイメン)という。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E9%96%80%E5%B8%82
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E6%B5%B7%E9%96%80%E5%B8%82_%E6%B5%B7%E9%96%80%E5%B8%82%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81


いわゆる「水の蘇州」である。運河がめぐり、水上交通が整備されていた。そして南部こそが中国の文化と仏教の震源地だった。その文化にこそ弥生時代、長江からやってきた弥生日本人のルーツである郷愁と文化の大本があったのであろう。土木技術やその他の実践的科学や芸術を吸収するならば、首都長安より、実は南朝の都市の方が、古くて新しいさまざまの利点があったに違いない。飛鳥・奈良時代の知識人なら、自分たちのルーツを長江に求めるだけの知識はすでにあったはずである。舟人の縄文時代から積み上げた航海地図による南航路は、彼らの欲求を満たすものだったに違いない。



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藤原良相邸宅跡から仮名文字土器画像追加

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先日啓上した平安京の藤原良相邸宅跡から出土した仮名文字土器の公開展示があり、たまたまここのファンの方が見に行かれたので、画像をお借りした。追加記事として添付させていただく。

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With2ブログランキングに古代史カテゴリー新設

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かねてよりWith2に新設要望をしておいた古代史カテゴリーが今日から加えられた。
このほかに考古古代史も要望しておいたが、今回、とりあえず古代史だけ増設していただいたので、さっそく移動することにした。


With2ブログランキング古代史カテゴリー→With2ブログランキングへ

これまで日本史と世界史、考古学、人類学、民俗学、理化学史学、環境学、生物考古学など、歴史をグローバルに分析する人々のための垣根を越えたランクリカテゴリーは、どのランキングサイトにもなかったと思う。是非ご利用いただきたい。



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なぜ鵜だったのか?考 土井ヶ浜遺跡・禹王・黒い鳥の謎

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古代の古墳や埋葬に関わる遺跡の地名に、意外と多いのが「う」のつく地名ではないだろうか?
熊本県宇土半島は鴨籠古墳など、葦北国造系の古墳が多いところで、近くには近畿や吉備や近江の石棺に使われた阿蘇ピンク石の産地がある。

大阪府最南部の淡輪古墳群に五十瓊敷入彦(いにしき・いりびこ)命の墓だとされている「宇度(土)墓がある。

いずれも「うと」「うど」である。

聖地の地名でも、宮崎県の海岸部にある鵜戸神宮、大分県の宇佐神宮、あるいは山岳信仰の宇曽神社など、「う」のついた神社名は結構存在する。

山口県の有名な大量人骨埋葬遺跡である土井ヶ浜のおびただしい人骨の中で、シャーマン王らしき女性は鵜を抱いていた。太陽の使者として魂魄を運ぶとされた数ある鳥の中でなぜ鵜だったのか?

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土井ヶ浜遺跡の鵜を抱いたシャーマン

鳥類が魂魄を運ぶとされたのは、北部九州の古墳時代の壁画に描かれた(珍敷塚古墳など)「天の鳥船」よりも、もっと古く、縄文時代の鳥葬風習からすでにその大元があったと見ていいだろう。

鳥は空と地上を自由に往復できる自由な存在である。その鳥の飛翔に古代人は、大昔からあこがれを持つと同時に、時に太陽に向かって舞い上がるその姿を、太陽の使者であり、死者の魂魄を天に運び、また新たな生命の魂を持ち帰ると信じられた。だからこそ、あえて古代人は鳥葬を行ったとされている。
その際、鳥たちがスムーズに魂を運べるように、遺族たちは死者の肉体をばらしていたという考古学の報告すらある。

その太陽に向かう姿は鳥を黒く見せたことだろう。シルエットとしての黒い鳥こそが魂を運ぶと。だから往古から中国でも、鳥はカラスや鵜ではなかったか。どちらも肉食であるからこそ、鳥葬で多く集まるのだろう。太陽の黒点にみたてたという天文学的な意見もある。




紀伊田辺市に多い海食洞穴に葬られた、どうやら安曇らしき集団の夭折の子供には、アジサシが抱かされていた。夭折幼児は北アジアの匈奴や西アジアのスキタイ、縄文時代の東北人、九州の甕棺、紀伊田辺の住居内埋葬甕などで、特別な扱いをうけている。すなわち幼い童子にこそ天の祖霊は宿って再生するという再生願望思想は広範囲に古代人の常識であった。アジサシの中でもセグロアジサシは肉食の、背の黒い鳥である。
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田辺市磯間岩陰遺跡のアジサシを抱かされた少年


黒い鳥であり、肉を食べる鳥でなければならなかった。


それがやがて一般的によく見かけるカラスに統一されていったと見る。しかし当初、なにゆえに鵜が選ばれたかは不明なままである。鳥ならば何でもよかったのではないのか?

鵜や魚の意匠は中国では帝王・天子の墓からも出てくる。それは神仙思想でも王のシンボルだったと見られている。熊本県の江田船山古墳出土鉄剣にも鵜と魚が描かれており、ここの被葬者が、大陸の北魏とか朝鮮とのつきあいがあって、そういうシンボルを使うことを許容されていた氏族・・・国造的な氏族だったからだと考えられる。

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またインドやインドシナの洪水神話に、魚を追いかけていた子供だけが洪水から免れ、その子孫が祖先となったという伝説や、銅鼓の意匠にも魚が存在する。生命を運ぶ鳥の絵柄はエジプトにさえ存在した。

鵜は王の魂を運ぶ鳥であったのだ。
それは数の多いカラスよりも希少だったからかも知れない。
ではその鵜は海鵜か川鵜かと問われて、誰が答えられるだろうか?
推測するしかないがそれは海鵜ではないか?
なぜならのちに鵜を扱う鵜匠たちが使ったのは、川での漁であるにも関わらず海鵜だったからだ。もっとも海鵜のほうが性格が温厚で扱いやすかったからだが。これは筆者の想像に過ぎない。




さてこの「う」という音は、中国でも[U]であるが、その後、王を表す音になったのではないかと思える。「Um」という押し殺すような発声には念誦がある。それはサンスクリットのオーム、日本語のア・ウン(阿吽)にも通じる。開音である「あ」の対極にあって閉音の「う」あるいは「うん」はやがてふたつながらに聖音として、仏教で「な・む」になっていったか。

「宇」には屋根、天、宇宙の意味がある。宇佐は、だから天を佐=助けるという熟語になっている。
古い人なら戦時中の「八紘一宇」を思い出すことだろう。この「一宇」も世界はひとつ屋根の下の同族という意味がある。一歩間違えば「同祖」論につながって、先の大戦のような「ならばすべてはわがものにしてよい」というような極論に達してしまいかねない危険な着想でもある。



奇遇にも、中国の古王朝にも「う」の音を持つ王がいた。

中国最古の伝説的国家「夏」の初代王であった夏王禹(かおう・う)である。
この人は考古学によって現実にあったことが証明された中国南部の古代国家「商」の伝説的王で、いわば神仙思想の象徴的存在である。

商は殷の前にあった国家で、始祖王ゆえに、日本で言う神武天皇のような存在である。
神武はヤタノカラスに助けられるが、禹王の夏という国名が、中国が南朝方面を呼ぶときの「夏華(かか)」の語原なのである。夏とは暑い中国であり、つまり南部の温暖多湿な気候である場所の意味を持つ想像上の国名だろう。

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             夏王禹

倭人伝などにも日本の倭人風習が「夏華に同じ」などと書かれている。倭人が長江以南の海岸部に居た夏王国の血筋である白水郎(あま)に似ていると書いているのである。


夏王禹は中国最古の神氏族である神農氏の子孫とされ、黄帝の子孫という。


「禹(う、紀元前2070年頃)は中国古代の伝説的な帝で、夏朝の創始者。名は、文命(ぶんめい)、大禹、夏禹、戎禹ともいい、姓は姒(じ)、夏王朝創始後、氏を夏后とした。
父は鯀(こん)であり、鯀の父は五帝の一人である帝顓頊である。従って、禹は帝顓頊の孫にあたる。また、帝顓頊は同じく五帝の一人の黄帝の孫であるので、禹は黄帝の玄孫にあたる。」Wiki禹王

治水王とも言われ、片目片足だったという。

彼の片足での歩き方は「禹歩=いざり歩き」というが、その歩行がそのまま神楽や能や呪師神事に「九字」「反閇」として今に伝わっている。つまりそれはのちの道教の基本動作である。


片目だったのは彼が山々を歩き、資源を探し回った結果とされるが、片目は鉱山師・たたら鍛冶の象徴でもあった。つまり禹王はあらゆる国家造成に必要な事業の始祖であり、中国人にとって、すべての始まりの祖霊なのである。日本の古墳にもこの思想は反映されたとみてかまうまい。また渡来人秦氏の秦河勝にもそうした治水や鉱山開発、土木事業の創始者としての「おおさけ」という表現があるのも、おそらく禹王の思想に影響されたのであろう。阿蘇の神にもそうした類似の思想があって、先祖の神が「けりさいた」とか開発に関わる伝承がある。

始祖王としての「う」音は、文字なき時代の倭人には音で同じ鳥の鵜に反映されたかも知れない。

もちろん筆者の個人的妄想に過ぎないが。

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     土井ヶ浜遺跡人骨

天子はすべからく黒い鳥、鵜の子孫だったのだろう。
群れるカラスではいけなかった。それは天子以外のその他大勢の国民の祖霊を運んだからだろう。
「う」は聖なる太陽、天である。


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秦河勝の葛野大堰を推理復元する/愛媛県古照遺跡の堰から

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◆江戸時代までの堰と現代の堰・その種類
往古の堰(せき)にはいくつかの工法がある。
河口に設置する河口堰や海浜の堰は、諫早湾や長良川河口堰が、地元の反対などで話題になったので有名である。

また河川の中流域ややや上流の広く浅いところに造る「大堰(おおい)」も多く、その種類には、河川内に何ヶ所も段差をつけるものと、そこに木材・丸太などをジグザグに組んだ「追い込み漁」の筌口式や簗(やな)状のものなどがある。

段差工事は一旦流れを堰き止めて行うため大きな土木工事であるが、外観は長期的残存が期待できる。一方、組み合わせた木材はいずれは朽ちて流されるので、ほぼ残存は難しい宿命にある。

京都葛野の秦氏が造った大堰川(おおいがわ(桂川・保津川))の大堰(葛野大堰)などは、今ではどこに存在したかもまるでわからなくなっている。一説ではまだ当時の石組み段差が川床に残っているというが、確認はできていない。現代の葛野大堰はコンクリートで作られ魚道を持った形式で存在する。

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    京都市嵐山の葛野大堰(段差と隔壁と魚道がセットになっている)



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    過去の桂川用水の位置と堰設置想定場所図


●越中三叉(えっちゅうさんさ)工法

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越中三叉は、木を三角すいに組んで藤づるで結び、石をおもしにして前面にむしろを張ったもの。
写真背後にはずっと昔に廃線になった京福永平寺線の鳴鹿鉄橋,建設中の旧鳴鹿堰堤。
http://www.naruka.ed.jp/pages/gakunen_05/5nen.htm

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九頭竜川・鳴鹿(なるか)大堰で使われていた堰止め材越中三叉(えっちゅうさんさ)
●大正時代の堰
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●江戸・明治の石組み堰
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論田の西井出堰(江戸期)
http://blog.enviro-studio.net/?eid=75

●江戸時代の堰
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越中三叉式の背後部の部品である。藤ヅルで丸太をピラミッド型にゆわえ、土台に石を置くことで安定する。この全面にさらに木組みして、柴枝やムシロで簗状の柴垣にして流水をうっちゃる。この柴垣は温泉の熱湯を冷ますのにも使われる地域がある。別府市鉄輪温泉にも復元されている。           
          

●現代の河川堰
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              利根大堰



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考古資料

◆4~5世紀(秦氏渡来と同時期)愛媛県松山市古照遺跡「堰」の復元模型
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ここの堰遺構は、桂川に秦河勝が造らせたという葛野の大堰復元の最も参考になる構造である。
おそらく葛野堰も、まず川を堰き止め、石組みを築いて段差を造った基礎に、このような材木・丸太・雑木枝・ムシロなどを組合せ、W字型かV字型の簗を連続させたものと思われ、材木部は何度も何度もやり直しがなされたであろう。それが平安京を譲って以後だろうが、秦氏が松尾や葛野から平安京右京・左京の中心部へ移住した結果、放置されたか、暴れ川である上流の保津川がそれらを流し去ったと考えられる。
そういった意味で、ここの遺構は非常に貴重な、古代のままの姿で残っていた遺跡である。これを想定に用いれば、葛野だけでなく、淀川沿いの摂津三島の筑紫津あたりにあったはずの三島溝咋の木杭なども想定できるだろうと思う。


●こでら・いせき【古照遺跡】
「愛媛県松山市西郊にある古墳時代(4~5世紀)の堰堤遺跡。1972年,下水処理場建設工事で発見,当初埋没家屋と誤認されたが,発掘の結果,幅13m,24m,8mの3ヵ所の用水確保のための堰の遺構であることがわかった。堰は流れに直交する方向に杭列を打ち,その上流側に径15cmほどの丸太を横に渡し,これに合掌状に径数cmの材を流路方向にかぶせた堰堤で,その上流側に用水の取入口が設けられていた。一部建築廃材を使用し,これから古墳時代建築の復原もなされている。 」
http://kotobank.jp/word/%E5%8F%A4%E7%85%A7%E9%81%BA%E8%B7%A1

松山市考古館解説
「古照遺跡は、1972(昭和47)年松山市南江戸町にある下水道中央処理場の建設工事中に『木組み遺構』が発見されたことにより、弥生時代の竪穴式住居跡が当時のままの状態で埋没しているかも知れないとして全国的に有名となった遺跡です。  その後、本格的な発掘調査が実施され、発見されていた『木組み遺構』が、古墳時代前期に機能した農業灌漑用の『堰(せき)』であることが分かり、現在までに合計3基の『堰』が発見されています。
松山市考古館では、全国的にも著名な古照遺跡を常設展示のメインとし、特に良好な状態でみつかった『第2堰』を復元し、ビデオ解説をまじえながら公開しています。」
http://www.cul-spo.or.jp/koukokan/information/josetsuten/tenji1.html
松山市考古館  愛媛県松山市南斎院町乙67番地6 電話(089)923-8777

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       発掘当時の古照遺跡

「昭和四七年一一月九日・「松山の南江戸町の下水道中央処理場建設現場から、弥生時代の住居が発見されたという」突然の新聞報道は全国民の注目をあぴた。発掘調査の結果は期待されていた埋没住居ではなく、四世紀の巨大なダムと堰材に転用されていた建築用材は切妻造りの高床達物であることが判明した。「古代のこれだけ大がかりな農業土木事業の跡が発掘されたのは初めてで非常に貴重なものである」と折紙がつけられ、我が国古代の農業史・建築史・考古学界に投げかけた問題は、はかり知れないものがあります。 」
http://home.e-catv.ne.jp/ja5dlg/kakure/kakure2.htm



●上から見た古照遺跡第一・第二・第三堰の配置図
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松山市教育委員会・松山市文化財協会 1976年


●古照遺跡堰遺構での使用雑木類同定
雑木類とは史上木製品に使用された木材全般を言う。加工度合いの低い杭材(くいざい)などの土木・構築用材や、人為的加工痕跡が認められない用材、非加工木、自然木の総称である。(参考「植物利用」中原 計 2012 『隣接科学と古墳研究』所収)


「(古照で)発見された第一の堰は東北からの流水を南北に一三メートルの堰でせきとめ、第二の堰(二四メートル)は第一の堰でせきとめた東からの流れに、東南方向から流れ込む別の流れを、その合流点近くでせき止める役割をしていた。第二次調査の結果さらにその上流に第三の堰五・八メートルが築造されていた。堰の構造は、径約数センチ、長さ約二メートルの自然木の先端を尖らせたものを主に使用して、写真のようにつくっていた。三つの堰に使用されていた材木は、約一、五〇〇本の

スギ、ヒノキ、アラカシ、コナラ、クヌギ、アベマキ、エノキなど

で、木組の何か所かにはツヅラフジで互の材を縛りつけた所が残っていた。また木組の空間には粘土塊やこぶし大の石をつめ込んだりオギや藁で編んだ、たわら状のものを目つぶしに使って堰の効果をさらに高めていた。

葛野の堰に使用された用材を推定するためには、河勝が存命した当時の嵐山周辺の植生を知っておく必要がある。
これが環境復元考古学の中の植生分布と言う。過去の植生分布を知るには遺跡や古墳の土壌に混在する植物の種を漉しとって分析する方法がある。

参考 山城盆地西縁における古墳時代の古環境と遺跡立地 - 京都大学(PDFファイル)


盆地西側の長岡京ではアカマツ花粉が多かったので、おそらく京都盆地西部の葛野や松尾でもそうだっただろう。
すると広隆寺に置かれる弥勒菩薩像がアカマツ製だったことや、松尾地名の由来がしのばれることになろうか。
想像ではあるが葛野大堰の材木にもアカマツが多かったのではないか?

ほかにムシロや柴枝も使うので、それが何だったかを考察してみるのも面白かろう。


このように植生の復元によって、当時の素材や環境は復元可能である。このような自然科学からの理化学的分析の書物は、決して面白くはない、難解さはあるが、けっこう歴史分析の役に立つ。それどころか今後の主流になっていくだろう。目が離せない分野だと認識していただきたい。

また秦河勝という伝説的人物が本当に存在したのか、あるいは聖徳太子伝説に付随するあくまでも秦氏伝説であったかは考えておくべき課題である。『日本書紀』が描いた古代山背の秦氏記事はわずかしかなく、河勝の記事はさらに数箇所もないほど少ない。河勝という名前は「川の村主すぐり」であると解析するならば、秦氏が拠った中国南朝にあった秦の伝承やその流れである夏王禹の土木事業=大避伝説としての「治水王河勝」のイメージが作られたものであったという見方も必要なのである。山背秦氏の信頼できる実在の祖としては秦公酒、秦酒君が初出と考えるのが正しい。極論ではあるが頭の中に「河勝は伝説の人」であることを叩き込んでおかないと、平安以降の秦氏・河伝説の面白さにはまり込み、正しい歴史を見失うことにもなりかねないと申しておく。

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古墳時代の地震災害

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わが国は地震記録について世界に冠たる豊富に残されている国である。これらの貴重で真摯な報告を今回の震災に生かしえなかった地震学には憤慨せざるを得ないが、しかしその記録のほとんどは飛鳥・奈良時代の文字導入以後のもので、古墳時代の記録はまったく存在しない。従って古墳時代以前の地震を知るには地震考古学に頼るほかない。


これまでに遺跡の発掘調査で、断層、地割れ、地滑りなどさまざまの痕跡が見つかっている。遺跡には年代の判明している遺構や遺物が多く、これらとの前後関係で地震の起きた年代を絞り込むことができる。
それらの地震痕跡の中で、最も多く出てくるのが液状化現象の痕跡である。

液状化現象は、地下水位の高い、沖積低地や埋立地で発生することが多い。このような地域の地下には、柔らかな砂層が堆積している。このような地層では、砂粒の間隙が大きいので地震の揺れを受けることで、砂粒間の結合がはずれやすい。このため揺れによって砂層が収縮し、砂の間をつないでいた地下水が圧迫され水圧が高まり、やがて大量の砂を含んだまま地表に流れ出す現象(=噴砂・ふんさ)が残される。これが非常に多い頻度で遺跡・古墳で発見されるのである。

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                液状化現象の模式図


●地震による痕跡の見つかった遺跡

徳島県板野郡板野町 黒谷川宮ノ前遺跡 弥生時代 墳砂
大阪府堺市 下田遺跡 弥生~古墳 液状化による銅鐸流出跡 地滑り
静岡県袋井市 坂尻遺跡 5~6世紀 地滑り 砂脈 液状化
大阪府高槻市三島地域  新池遺跡(5~6世紀土師氏窯跡) 断層 
兵庫県神戸市明石川 新方遺跡 弥生時代人骨流出 砂脈
兵庫県神戸市東灘区 液状化砂脈 5~6世紀
群馬県榛名山 古墳時代三度の噴火による火砕流での村落の埋没 古墳~6世紀中期 黒井峯遺跡
群馬県三ッ寺遺跡 竪穴式住居を引き裂く地割れ→相模トラフ境目のプレートのずれで大地震発生
奈良県 カヅマヤマ古墳 地滑りによる崩壊 その後盗掘 1361年南海地震(太平記)の痕跡
大阪府高槻市 今城塚古墳 活断層(安威断層が真下を通る)のずれによる地滑り 崩壊 
奈良県 黒塚古墳 石室の崩壊
奈良県 高松塚古墳 墳丘盛り土に亀裂
奈良県 赤土山古墳 墳丘亀裂 切断 地滑り

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また今回の東北大震災で非常に有名になった天武13年の白鳳南海地震は、東海地震と南海地震が複合的、連続的に一気におこった複合地震である。

江戸時代前の地震記録はきわめて少なく、まずもって飛鳥時代・奈良時代までは空白期間といってよい。それは歴史を振り返れば戦国時代、室町、鎌倉という動乱期だったことが大きく影響している。

つまり中世は地震やその他災害の記録は皆無であるため、考古学に頼るしかない。いままでに高知県四万十市アゾノ遺跡、徳島県宮ノ前遺跡などの発掘から15世紀末ころの液状化遺構が見つかっている。

参考 寒川 旭「古墳時代の地震災害」2012 


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平安の雅な遊び/貝覆・伊勢カルタ・賀茂競べ馬

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しばらくお堅い理化学ものが続いたので、気分転換に平安時代の国風文化の雅(みやび)を画像でお楽しみください。意匠は有職彩色家の林美木子による復刻版。
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◆貝覆(かいおおい)
今は「貝合」とも言うが、そもそも正式には「貝覆」が正しい。もともと別の遊びで、貝覆はトランプの神経衰弱のようなもので、貝合は2グループで集めてきた貝殻の美しさを競う団体戦遊びだった。近代はこれを混同し、貝覆も貝合と誤用していることになる。

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ハマグリの貝殻が上下対称で模様も同じであることから、内側に細緻な花鳥画を描いてふせおき、それを360組もの数を広間にひっくりかえしておき、中の絵柄が同じであることを競った宮中女御たちの遊び。
使う貝殻は伊勢湾産を最上としたが、朝鮮半島産の日本人女御たちの白魚のような手には合わない大きいものも立派だとされた。

吉田兼好『徒然草』第百七十一段に

 「貝を覆ふ人の、わが前なるをば置きて、よそを見渡して、ひとの袖の陰、膝の下まで目を配る間に、前なるをば人に覆われぬ。よく覆ふ人は、よそまでわりなく取るとは見えずして、近きばかり覆ふやうなれど、多く覆ふなり。碁盤の隅に、石を立ててはじくに、向かひなる石を目守りてはじくは当たらず、我が手元をよく見て、ここなる聖目を直ぐにはじけば、立てたる石必ず当たる。

 よろずのこと外に向きて求むべからず、ただここもとを正しくすべし。」

とある。
うまい人は、広く散らした貝殻のすべては探さず、手元に近いものだけ把握してそれを狙うという意味。
これは百人一首カルタや普通のカルタ、神経衰弱にも言えることだろう。あっちもこっちも覚えようとしてもなかなか散漫になって、結局最後までうまくとれない。東大を出るような人なら別だが、人生もまたより道、外へ散漫に求めず、まず足許を固めよということ。 
筆者なら最初に貝殻の外側の模様を覚えるのだが・・・。だって左右対称ですし。


◆伊勢カルタ
貝覆から発展して、絵札と詠み札にしたのがカルタ。伊勢カルタは業平(なりひら・在原)の『伊勢物語』各段の情景と和歌を札にしたもの。ここから有名な「小倉百人一首」がうまれてくる。

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いずれも公家の嫁入り道具であった。公家の妻問いは夜這いなど男が女の家に押しかけるものだったが、武家の妻問いには流派があって^^;伊勢流と小笠原流などの武家社会の流派が重視された。貝は貝桶にいれ、カルタなどとともに嫁入りのさい持ち込まれた。全部で360組もあって重いので、十二ヶ月にあやかって12組に省略することが多かったようだ。


◆馬競べ(うまくらべ)
賀茂の祭りには天皇から勅使が遣わされていたが、この役目は近衛中将や少将の役目だったので「近衛使い」とも呼ばれた。旧暦四月、中酉目(なかのとりめ)には宮中では近衛使いを決める宮中儀が行われた。使いは十五日に賀茂社に向かうが、その前に五月五日にその迎えの祭りとして賀茂社では競べ馬が行われた。


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使者が来る前に邪気を祓う意味があったという。
ちょうど端午の節句なので、勇猛な男子たちの勢いで邪気を祓おうというのであろう。

武家幕府の台頭によって全国神宮・大社への斎王派遣が撤廃され、応仁の乱のあとには近衛使いさえも廃止になる。江戸時代には賀茂祭(葵祭)さえも簡略化。賀茂社が献上した葵と桂の花を宮中の御簾にひっかけるだけになってしまう。それを復活させる任を受けたのが野宮定基(ののみや・さだもと・有職学者)である。つまり現在の葵祭り(もとは藤祭り)は野宮が王政復古の時代に復活させたものである(明治時代・大戦で数度の中断がある)。

現代の斎王の行列は「斎王代」であり、実際の皇女ではない。往古は皇女が伊勢や賀茂の斎王となっていたが、これは「神妻」であり、アマテラスの役目であるので、天皇の食事係=妻である「かしぎやひめ」と同じようなものである。


この「かしぎやひめ」=神饌係を名にする天皇が飛鳥時代の推古天皇。
額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という

つまり聖徳太子のおばで、蘇我馬古の姪であるが、この諱号はすべての天皇の妻に共通性のある一般名、役職名だといって良い。だからこの女帝の実在性を筆者はいぶかっているのである。
なお、平安の国風文化の大元は奈良時代の遣唐使廃止から始まるので、原因を作ったのは天神さん、菅原道真さんである。



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榛名山二ツ岳火山灰のなかに古代こざねよろい武者遺骨とよろい・日本初

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◆古墳時代のよろい着用人骨発見
群馬県渋川市の古墳時代の遺跡から、火山灰に埋まった男性の骨がよろいを身につけた状態で見つかりました。
専門家は、男性が近くにある榛名山の噴火を鎮めるまつりをするためによろいをつけていたか、噴火から身を守るためによろいをつけていた可能性があると見て、分析しています。
発掘調査が行われたのは、群馬県渋川市の「金井東裏遺跡」で、6世紀はじめの古墳時代、火山灰で埋まった溝の中からよろいを着けた男性の骨が見つかりました。
よろいは高さ60センチ、幅50センチで、小さな鉄の板を重ねて編んで作られた「小札甲」でした。古墳時代のよろいが装着された状態で、人の骨が見つかったのは全国で初めてで、群馬県教育委員会などは現場の状況などから、男性は近くにある榛名山の噴火で火砕流に巻き込まれたとみています。当時、この地域では大きな争いがなかったと見られているため、専門家は男性が榛名山の噴火を鎮めるまつりをするためによろいをつけていたか、噴火から身を守るためによろいをつけていた可能性があると見て分析しています。

群馬県教育委員会などによりますと、榛名山では5世紀から6世紀のおよそ100年の間に、大きな噴火が3回起きたとみられるということです。
いずれも火砕流は最大で周辺15キロ余りまで広がり、火山灰は福島県にまで達したと推定されています。
当時、榛名山のふもとには地方豪族に率いられた集落が点在していて、その多くは火砕流などで壊滅的な被害を受けたとみられています。

古墳時代に詳しい群馬大学の右島和夫講師は「これまで古墳の副葬品としてしか見つかっていなかったよろいが、人が身につけた状態で出土したというのは大きな発見だ。当時、よろいは権力の大きさを示すために使われていたが、榛名山の火山活動が活発化する中で、男性が山の神に立ち向かおうとよろいを身につけたとも考えられる」と話しています。
http://www.nhk.or.jp/lnews/shutoken/1004072701.html?t=

突然の火山爆破に「すわっ!!」と飛び出した勇敢な古代武人?そんなシーンが非常にリアルに感じられる「日本のポンペイ」でしょうか?日本初の発掘。
またよろいの意匠も、東国らしく鉄素材をふんだんに重ねたもので、どこの鉄を使ったか、そのデザインの同じものの分布は?などこれからが楽しみである。

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群馬県教育委員会画像

金井丸山(かないまるやま)古墳
 渋川市金井字東裏1806番地1に所在した古墳で、金井東裏遺跡に近接する。1978年に渋川市教育委員会が調査を行ったが、墳丘の規模は不明である。埴輪は調査時には検出されていない。埋葬施設の主体部は、長軸長1.85メートルの竪穴状小石槨(たてあなじょうしょうせっかく)であり、調査報告書では箱式棺状と表現されている。副葬品は、剣3点、鑷子(ちょうし(毛抜き))1点を出土している。調査段階では、榛名山二ッ岳軽石の降下以前の築造であることが確認されているが、榛名山二ッ岳火山灰との関係は不明である。鉄剣の出土ともあわせ遺物の様相から、5世紀後半から6世紀初頭の築造と考えられる。


榛名山二ツ岳火山灰(Hr-FA)
 6世紀初頭(古墳時代後期)に噴火した、榛名山二ツ岳の火山灰。細粒の火山灰、火砕流堆積物、軽石などからなる15層のユニットが確認されている。金井東裏遺跡では、約30センチメートルの堆積が認められる。給源から東~南東の方向に火山灰を降下させ、東側は栃木県宇都宮市、南東側は埼玉県鴻巣市で確認され、それぞれ給源から約100キロメートルの距離にある。県指定史跡の中筋(なかすじ)遺跡は、この火山灰で埋没した集落遺跡である。


小札甲(こざねよろい)(挂甲(けいこう))
 小札とよばれる小さな薄い長方形の鉄板を縦に用い、これにあけられた綴孔(とじあな)に革紐の綴革を通して、左右横一段に強固に綴合わせ、これを上下に威孔(おどしあな)に通した威革でブラインド状に屈伸する様に組みあげたもの。古墳出土のものに特徴的な胴丸式のものは、胸や腹部をおおう竪上(たてあげ)や長側(なががわ)とよばれるいわゆる胴と、腰をおおう草摺(くさずり)とを一体に組みあげたもので、前開きになっており、正面で左右に引き合わせて、それぞれについている革紐の引合緒(ひきあわせお)を結んで装着する様になっている。胴と草摺とは、ウエストの部分に用いられた長さが普通の小札の倍近くあり、その中央をウエストの線に合わせて内側にゆるく彎曲させた腰小札(こしこざね)の上下に威付(おどしつ)けているが、挂甲着用の埴輪ではこの部分に帯を結んでいる。
http://www.pref.gunma.jp/03/x4500038.html



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食国(おすくに)の意味から蘇我氏台頭の謎を解く1

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◆御食国
「御食国(みけつのくに/おすくに)は、日本古代から平安時代まで、贄(にえ)の貢進国、すなわち皇室・朝廷に海水産物を中心とした御食料(穀類以外の副食物)を貢いだと推定される国を指す言葉。律令制のもと租・庸・調の税が各国に課せられたが、これとは別に贄の納付が定められていたと考えられる。『万葉集』にある郷土礼讃の歌に散見され、『延喜式』の贄の貢進国の記述、平城京跡から出土した木簡の記述などから、若狭国・志摩国・淡路国などへの該当が推定されている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%A3%9F%E5%9B%BD


大和朝廷以前、古墳時代までの日本国(倭国)の豪族関係を御食国・・・すなわち大王への帰順の証としての「贄」から飛鳥時代蘇我氏にまつわる氏族関係を分析してみたい。わが国の古代は神への贄を各氏族が、各氏族の祖霊と神へ捧げる御食(みけつ)=贄を習慣としていた。それが5世紀になると大王が河内地方に出現することで、贄→御食→へと変化し、それが大王家への帰順の印となり、大和朝廷ではそれが租庸調という官僚体制下での税へと変化していくことは史学者の誰もが肯定している。

贄の代表は塩、海草、アワビを最古とする。その産出国は若狭、阿波、志摩である。品目と地域から、その氏族が海人族をまず束ねたことは一目瞭然である。それはとりもなおさず海人族の中でも縄文時代から列島海岸部に広範囲に住まってきた安曇部を管理することから始まると言っていいだろう。つまり安曇族は最も早くから大王、畿内王権の帰順者であり、それを束ねた安曇臣こそが最古の大王を支える倭人氏族だったということなのである。

一方山の産物である雉や猪や鹿類は、河内の大古墳群の東側にあった葛城山麓から献納された。葛城南麓は王家の最古の狩場であった。雄略大王が王位につき最初に向かった狩場こそが葛城臣の領地であった葛城南麓であることから、畿内で大王家に帰順するのが早かったのは武内宿禰の枝族である葛城臣やその枝族であったことが言われている。つまり有智(うち)の氏族のすべてが「内臣うちつおみ」とされるのはここに理由がある。紀氏、巨勢氏、平群氏、蘇我氏(石川氏)などがこれにあたる。おそらく葛城一族はすべからく半島伽耶や百済地域の海岸部に存在した縄文系の倭人である。それが安曇の北部九州に対して、有明海から南九州という太平洋側を居住地にしていたのであろう。双方の海人族が結集していたのが瀬戸内海の備前地域である。大王家になる一族は北部九州から葛城勢力と安曇勢力の双方を抱きこみながら東征し、豊前から備前に入り大王としての足固めをしたと見てよい。記紀はこの中で特に、大王家に妻を出して、瀬戸内の塩と半島の鉄資源を牛耳っていた葛城臣の故地である南九州を神武東征の妻方として取り上げたのである。大和の政権が九州の南北どちらから来たかで、研究者は大いに悩んできたが、それは南北双方のほぼ同時の助力によるものである。だから研究者は文献と考古学の間で悩んできたのである。半島から、まず安曇の強力で南下した長江文明人は、西北部九州(長崎・島原・佐賀)に入り、ここで南の勢力の対峙していることを知り、南の葛城・武内系氏族との婚姻によって北部と南部九州の合体・強力をとりつけておく必要があった。三世紀直後にあてはめれば、邪馬台国勢力と狗奴国勢力の大同団結こそが長江文明人を大王に担がせる唯一の方策だったのである。

こうして吉備に最初の王国が生まれ、葛城・安曇両勢力の手はつながることで、造山古墳や作山古墳の巨大古墳の王権が出来上がる。ここから大王一族が担がれて分岐し、まず大和に入るのである。

その贄を出す帰順した氏族は、厳格な基準=氏かばね制度によって古墳時代から決められていた。
安曇臣・阿部臣・膳大伴臣・宍人臣らがまず記録として登場する。つまりこの「臣」というかばねは、大王へ貢物、食物を捧げる枝族を持つ御食の氏族であることになる。それ以前に想定できるのは葛城臣がいたと思われる。

●食膳関係官吏には古くからいくつかの役職がある。その氏族名を見れば、天皇家の片腕氏族(大臣クラス)の変遷が一目瞭然になるのである。ここでは『養老律令』によるその規定と代々の担当氏族を列挙する。その氏族がつまり伴造(とものみやっこ)であり、大王家の片腕たちである。
1 内膳司ないぜんし天皇家の食事調達(食材のコーディネーター、料理のコースコーディネーター)
2 大膳司      儀式・饗宴の料理係り(シェフとコック)
1・2を合わせた古い役職が膳職である。大宝律令によって分化した。
3 大炊寮(おおいりょう)諸国からコメ・雑穀を集め収蔵・分配し、天皇家に炊飯する「かしき」係り
4 造酒司(さけのつかさ)酒・甘酒を造る
5 主水司(もいとりのつかさ)その水の調達・管理をする、水と粥の係り
5 園池司        湧き水の園池施設を管理し、野菜・飲料水・果樹栽培、魚鳥の捕獲管理
6 主膳監(しゅぜんげん)  皇太子の食事を造る
7 主漿署(しゅしょうしょ) 皇太子の粥・水・菓子管理

●歴代食膳関連氏族一覧表
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(黛弘道『古代を考える 蘇我氏と古代国家』2012より)

これを見れば記録ある先の阿部・膳(のちの高橋)・宍人・安曇の臣たち以外に、多くの武内宿禰子孫系氏族が臣として関わったことが見て取れるはずである。

ここに朝廷内にあった二大食膳氏族の対等関係を見出すことができる。これが全国の枝族に大きな影響を与えたのは、平安時代の源平の対立構造、両雄割拠による冷戦状態を見る思いがする。
二朝並立の影に食膳内大臣外大臣の勢力争いが垣間見える。


◆共食共飲すなわち共宴=饗宴こそが帰順と伴氏族への最初の一歩
五世紀までの大和畿内の体制は大王家と葛城氏の並立状態であったろうと直木孝次郎は言う。その安定政権には両氏族間の共飲共食つまりパーティが重要だったと門脇禎二や松村武雄は言う。この段階ではまだ官僚という厳格な国家体制は整っておらず、対立する勢力の対等関係の安定による大同団結的な両頭政治が可能だった。それが雄略によって葛城・吉備王の切り崩しが起こり、畿内安定政治は瓦解、これをいちはやく読み取って台頭したのが武内宿禰子孫を名乗る蘇我稲目だったのである。

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これは武内宿禰後裔氏族と安曇系大彦後裔氏族との二大勢力の交代劇と見ることが可能である。その二代後裔氏族が実は第八代孝元天皇の子孫としてひとつから分かれた同族であったとされているところが、どうやらかえって両グループの内部での対立構造、大王への側近としての抗争を影で示唆してしまうのである。そしてこの両者を調停してきたのが大伴氏ではなかったか。

●蘇我稲目と御炊宿禰と蘇我氏台頭
『新撰姓氏録』・・・「御炊(みかしき)宿禰は武内宿禰の五世孫、稲目宿禰の後なり。男、小祚臣(をそのおみ)の孫、耳高(みみたか) 。岸田村に家居れり。よりて岸田臣の号を負へり。日本紀に合へり。 久米朝臣(くめのあ そみ)。 武内宿禰の五世孫、稲目宿禰の後なり。日本紀に合へり。」

「川辺朝臣は武内宿禰六世孫宗我馬背(そがのうませ)宿禰の後也」

『紀氏家諜』・・・「馬背宿禰 亦曰高麗(こま)」
「蘇我馬背宿禰男稲目宿禰」
「韓子宿禰男蘇我馬背宿禰」とあるので、
蘇我高麗は蘇我氏系図で馬子の祖父。稲目の父である。つまり蘇我高麗の本名は馬背である。
馬子の名はつまり祖父馬背由来であるとなる。
蘇我氏から早々に分岐した御炊宿禰氏族とは、すなわち蘇我氏が大王家の御食氏族=大臣となるために、分家したのである。

このように蘇我氏は継体~欽明への動乱期に突如登場し、いきなり稲目の代で大王家に御食氏族を提供している。これは古い慣習破りともいえる出来事で、それまで一切記録にない氏族が大臣になり、河内王朝を継体という一時的な無縁氏族に「ぶんどられる」原因になった氏族でもある。そしていちはやく今度は継体血脈を消し去って、和邇氏という一世紀~邪馬台国時代の古い大臣氏族や息長という継体のパトロン氏族と結託して、飛鳥時代を切り開く。今の天皇家はその流れにあり、ここで継体を境にして、河内王朝と飛鳥王朝には大きな断裂があることがわかるのである。その謎の中心人物こそが蘇我稲目とその父馬背(高麗)であるが、高麗以前の日本での経緯は不明なのである。伝統的日本最古の大王匹敵氏族だった葛城の系譜に、どこでどうやってこの石川宗我に入った渡来人?が紛れ込めたのか。その謎は百済から消えた王家参謀木(木)氏に求めるしかあるまい。



次回に続く


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古代とチーズ三題

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●7000年前にチーズ作り、土器に証拠発見 ネイチャー
【AFP=時事】およそ7000年前に既に先史時代の人類が土器を使ってチーズを作っていたことを示す証拠が見つかったと、英ブリストル大学(University of Bristol)などの国際研究チームが12日、科学誌「ネイチャー(Nature)」に発表した。

チーズはバターよりも悪玉コレステロール増やさない、研究

 動物の乳を加工して腐敗しにくく、運搬しやすく、また消化に良いチーズにするという保存技術は、人類史において重要な進歩と位置付けられる。これまでに北欧の新石器時代の遺跡から小さな穴が多数開いた陶器片が出土しており、チーズ作りに使うこし器ではないかとみられている。

 英ブリストル大のリチャード・エバーシェッド(Richard Evershed)氏(有機地球化学)率いる研究チームは、ポーランドから出土した約7000年前の素焼きの土器片に付着していた脂肪酸を化学分析した。土器片からは、現代のチーズ製造用こし器に匹敵するほど大量の乳脂肪分が検出されたという。論文は、この土器が牛乳から水分を抜き凝固した牛乳(カード)と乳清に分離する作業に用いられたことを示す強力な証拠だと結論付けている。

 研究チームによれば、今回の研究は北欧で紀元前6千年紀に牛が家畜として飼われていたことを初めて明確に示すものだという。また、当時の人類が、土器をチーズ作り用のこし器や肉調理用の鍋、蜜ろうで防水処理を施した水がめなど、目的に応じて使い分けていたことも今回初めて明らかになったとしている。

 人類の歴史において牛乳の加工技術の取得は重要な転換点となる。新石器時代に貴重な家畜を殺さずして食料を得る手段を得た人類は、遊牧生活から定住農耕生活に移行した。

 ただ、人類がいつからチーズを作り始めたのか、厳密な起源はまだ不明だ。【翻訳編集】 AFPBB News
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121213-00000011-jij_afp-sctch


●フランスの郷土チーズ、食の地図から消滅の危機
【3月28日 AFP】仏パリの高級ホテルの一角で今週、大勢の食通たちが、ほんのひとかじりでも良いからありつきたいと集まったのは、「食の地図」から消滅する危機に直面している昔ながらの製法のフランス・チーズだった。

 週末に10周年を迎えたフランスの「チーズの日」を前に、伝統的なチーズの保存・継承に取り組むチーズ生産者団体「フロマージュ・ド・テロワール(郷土チーズ)協会(Association Fromages de Terroirs)」が主催したチーズ・テイスティングだ。

 赤白のワインを口にする合間に給仕係が、酸味の強いブルーチーズからクリーム感たっぷりの山羊のチーズ、バターほどの塊のまわりを堅い皮が覆うチーズなどを次々とパレットに盛り付ける。「すべてのチーズの共通点が分かりますか?」、チーズ生産者のエルベ・モン(Herve Mons)氏に声をかけられた。「全部、生乳から作っているのです」
 
 現在手に入る100~150種類の生乳を原料としたチーズのうち、毎年3種類前後が姿を消している。「フランスはチーズの国として知られているのに、毎年消えていくチーズは増えているのです」とフロマージュ・ド・テロワールのリシェ・ルルージュ(Veronique Richez-Lerouge)代表は嘆く。

 熱狂的なチーズ好きで有名なフランスには、色も香りもさまざまなチーズ1000種類以上があり消費量全体は伸び続けている。しかし、農場で手作りされる伝統的なチーズを、工場で生産されるチーズが駆逐しているのだ。

 最近生産を止めてしまったチーズで最も惜しまれるのは、極上のクリームのようなチーズ、「ヴァシュラン・ダボンダンス(Vacherin d'Abondance)」だ。アルプスのふもと、サボワ(Savoy)地方でセリーヌ・ガニュー(Celine Gagneux)さんが放牧する牛の生乳から、先祖伝来のレシピを使って作っていた熟成チーズだったが2004年、ガニューさんが72歳でついにチーズ作りをあきらめて以降、途絶えてしまった。

「娘さんに後を継ぐ意思はなく、ガニューさんは工業会社にレシピを譲ろうとは思っていないのです」とルルージュ氏は肩を落とす。「スーパーの棚には置かれていないチーズの存在と多様性に、消費者は気づくべきです」(c)AFP/Claire Rosemberg
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2714163/5539544?utm_source=yahoo&utm_medium=news&utm_campaign=txt_link_Thu_r1



●古代のチーズ「蘇」をお手軽に作ってみた
 「蘇」と言う古代のチーズを知っているだろうか。美味しいことを表現する醍醐味と言う言葉があるが、10世紀頃の日本で牛乳を煮詰めて作ったチーズのような乳製品がその語源になっている。そしてこの「蘇」こそが醍醐の元になった食品なのである(醍醐は蘇を熟成させて作られたらしい)。たまにTVで再現されたり、少しだが市販されているものもあるので知っている人もいるだろう。乳製品好きなら一度は食べてみたい幻の食品だが、作るのは意外に簡単だ。ただひたすら焦げないように牛乳を固まるまで煮詰めていけば良いからだ。
 しかしそうは言っても焦げないようにひたすら牛乳を煮詰めるのはめんどくさい。そして何と言っても時間がかかる。そんな訳で今回は比較的簡単にこの「蘇」を作る方法を試してみて上手くいったので紹介したい。
 まずポイントは牛乳から煮詰めるのではなくエバミルク(無糖練乳)を使って作ることだ。エバミルクはもともと牛乳を2.5倍程度に濃縮したものなのでこれで大分手間が省ける。後は煮詰めるときにつきっきりにならなくてはいけないガスと鍋を使うのではなく、耐熱容器(出来れば熱が回りやすいよう金属製のものが好ましい)にエバミルクを入れ、オーブンで低温(120〜110度程度)で煮詰めるのである。
 これなら付きっきりで無くても20〜30分に一度かき混ぜてやるだけで焦げ付くこともほとんど無い。煮詰まって最終段階に達したら10分毎に混ぜてやる必要があるが、付きっきりでいるよりは簡単だ。後は完全に固まりきる前に別の容器に入れ冷蔵庫で冷やしてやれば出来上がりだ。
 作ってみた結果はごらんのように見た目はまるでアイスクリームのような感じで、味はものすごく濃厚なチーズケーキ(砂糖控えめ版)のような味だった。予想通りとても美味しかったが、甘いのが好きな人は固める前にハチミツを足してやるか、できあがった後に上からかけてやると良いだろう。
http://fukuma.way-nifty.com/fukumas_daily_record/2009/10/post-3971.html


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最初の記事にある7000年前のチーズ?は、長い時間で成分変化も考えられそう。
最後の蘇は、醍醐味の語源になった日本のチーズ。うまそうである。うちでも手軽に作れそう。
真ん中の記事は古代の話題ではないが、本場フランスでもチーズの味は既製品へと淘汰されてきたという寂しい話。そういえば韓国でキムチも市販品が中心になってきたと聞いている。時代は一見、どんどんグルメになっているように見えるが、実は味覚はどんどん画一化し、個性は失われていて、結果、食味は収縮の方向へ「退化」してきたということでしょうか?


閑話休題の味付け記事でした。

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食国(おすくに)の意味から蘇我氏台頭の謎を解く2

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氏姓制度の氏族の中で臣姓を持つものの大抵は居住した地名を氏族名にしている。武内宿禰末裔葛城系氏族のすべてが特に顕著にそうである。だから蘇我臣氏の「そが」も、 奈良県橿原市曾我の地名である「宗我」に入ったことからの名乗りで、蘇我氏名から彼らがどこから来たかはわかるはずがない。今、曾我町には宗我坐宗我津彦神社があるが、ここが蘇我氏が建立したという社伝が、果たしてその通りかどうかわからないし、それ以前から宗我地域の宮であった可能性は否定できない。


蘇我と名乗る前は石川で、これも大和川支流のある石川を名乗ったもの。
蘇我倉の倉は大蔵・内蔵を管理したという職称である。

その地名「そが」の由来は「すが」「菅」である。

真菅よし 宗我の河原に 鳴く千鳥    万葉集巻12-3087

真菅(ますが)とはもちろん曾我川河原に生える葦のことである。ということは「そが」は本来「すが」だったということも充分に考えうる。
ここで神話スサノヲが出雲の須賀で「すがすがし」と言って居住地に決めたという説話を思い出すべきだろう。
あの神話説話を蘇我氏の定着に置き換えてみたらおかしいだろうか?
ここに須賀神社があるが、
「須賀神社(すがじんじゃ)は、牛頭天王・須佐之男命(すさのおのみこと)を祭神とする祇園信仰の神社。日本全国に存在する。「すが」は「須我」「清」「酒賀」「素鵞」などとも表記される。島根県・高知県に特に多い。他に祇園信仰に基づく神社名称としては、八坂神社(八阪神社・弥栄神社)、祇園神社、広峯神社、天王神社、八雲神社、素盞嗚神社があり、時代や資料によって通用される。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E8%B3%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE

出雲大社神殿の背後、真北の場所に素鵞社がある。
出雲大社の中心である大国主の神殿の背後、真北にそれがあることは、ちょうど天智天皇ののちに移築された京都山科陵が藤原京の真北にあることに似ている。天智天皇陵が今、藤原京の真北である山科にあるのは持統天皇の指示があったためであろうから、その意味は江戸の真北にある日光東照宮と同じ意味で動かされたのである(遠山美津男など2012)。
つまり天子のいる北極星の位置にこれらは置かれたのである。それは天皇や祭神よりも格が上の太一=皇帝=天子とされたということになる。つまり蘇我氏は出雲に深くえにしがなければならぬ。蘇我氏はスサノヲ神話の題材になったモデルではないか?そうでなければ逆に、蘇我本家は滅びてからスサノヲとして持ち上げることによって、残されたクーデター側がたたりを恐れて出雲に祖霊を流し、それでも足りずに天子に仕立て上げられたと考えてもいい。

ゆえに本当は、『日本書紀』が表示している「蘇我」という氏族名が実際に「そが」だったのかどうかから追求してみるべきである。地名「そが」を名乗ったのだから音は間違いなかろうが、表記は曾我・宗我・蘇我とさまざまである。神社が宗我ならばそれが正式な表記なのだろう。しかし「我蘇る」という漢字表記はあまりにも示唆に富んでいる命名ではあるまいか?

もちろん彼ら自らがその良字を選択したのかも知れない。しかし『日本書紀』編纂側の藤原氏や孝徳大王や中大兄から見て、憤死させた蘇我氏の対してどういう見方をしたかが重要である。「そが」は「すが」由来ゆえに「すがすがしく」宗我に住まった蘇我氏をスサノヲに見立てて祟りを祓おうとしたのではないか?本来すが氏だったかも知れない。いずれにせよ蘇我氏の系図では祖は石川宿禰があるのだから、蘇我氏すべての本拠地は宗我ではなく石川と見るべきではある。そのほうが河内王朝時代末期からの蘇我氏登場にはふさわしい河内出自、それも同族だとする葛城臣領地の範疇になろう。

●蘇我氏が木満知の子孫だったとしたら・・・
聖徳太子の逸話の中に太子が蘇我馬子を「葛城臣」と呼ぶシーンがある。また馬子本人も葛城は「我が本居(うぶすな)」なりと明言し、ゆえにかのちを戻して欲しいと推古女帝に懇願している。当時、葛城地域は葛城氏滅亡以後、大王の直轄地であった。だから蘇我氏は葛城高尾山山麓の石川を出自とする葛城氏の一派から出ると、一般にはされてきた。しかし馬背(高麗)以前の系譜にある韓子と満智にはほとんど何も記録がない。突然登場するのは高麗の子、稲目からである。韓子にはこういう話があてられてきた。

「大日本人娶蕃女所生為韓子 也」(大日本人、蕃女(となりのくにのめ)を娶りて生めるを韓子とす」)
『日本書紀』継体天皇24年秋9月条・注

つまりここには「韓子」とは日韓の間の混血児であると書いてあり、韓子という名前は混血児だと書いてあるのだ。
だから蘇我韓子もまた混血児だと・・・。ということは彼の父蘇我満智こそは渡来した半島人だということではないか?

次回は御食国の本題に立ち返って武内宿禰系臣氏族をひとつひとつ分析する。


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応神・仁徳不在説/森博達の『日本書紀』音韻分類

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小市民の「あの星をとってきてちょうだい」的正論に迎合して国際社会の中の位置をあやうくしてきた自民・民主政治へのレクイエム
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蘇我氏の分析をやるということは、飛鳥時代の始まりを疑義することである。ということは当然、飛鳥時代直前の二朝並立時代が大いに知識として必要になるし、ということは継体の本当の出自や、武烈以前のどたばた劇から、倭五王は河内の王家を充当させていいのかどうか?はたまたその河内王朝の最初の大王であると言う応神、その母神功皇后、その子仁徳もちゃんといたことを証明しなければならなくなる。

筆者は神功皇后・応神・仁徳の三代も、崇神から始まる三輪王朝の最後を飾るヤマトタケル・仲哀天皇までも疑義する。実在を疑っている。では先年発掘された纒向遺跡の崇神の宮(水垣宮)らしき運河などは?とこれも疑義せねばなるまいし、当然、その前にはあの卑弥呼が存在する。河内の巨大古墳も応神や仁徳のものでない可能性、まして二サンザイ古墳の履中陵からが王朝であり、倭五王が記紀の応神や仁徳ではない王朝があったことまでも常に頭に入れている。どんな記事を書いても、それらはすべて赤の他人の学説の紹介をしてきたに過ぎず、筆者自身の考えはまずもってまったく別である。筆者は記紀編纂時代に近い飛鳥終盤以前の記紀歴史観のすべてを疑っていると明言しておく。



そこで蘇我氏の前にまず応神・仁徳捏造までさかのぼっておきたい。

●『日本書紀』作文製作者は二種類に分けられる
森博達という偉大な学者は『日本書紀』漢文体を厳密に音韻分析した結果を1999年に発表した。『日本書紀の謎を解く』中公新書がそれである。

これによれば、『日本書紀』はあきらかに漢文を知っている渡来人の作風と、あまりよく知らないだろう日本人の作風の二種類に分類できると言う。

『日本書紀』は全30巻ある。
そのうち巻14(雄略紀)~巻21(用命・崇峻天皇紀)プラス巻24(皇極紀)~巻27(天智天皇紀)(森はこれらをα群と呼ぶ)はあきらかに正しい漢文の書ける人が作者。候補者は中国人の薩弘恪・続守言(さつこうかく・しょくしゅげん)の二人。


いずれも持統天皇時代の渡来唐人である。

そして巻1(神代紀)~巻13(允恭・安康紀)までプラス巻22(推古紀)と巻23(舒明紀)、巻28巻29(天武天皇紀上下)をβ群として、正確な漢文が書けず中国語の発音も苦手な人。候補は山田史御方(やまだのふひとみかた)。

巻1~巻10の応神紀までは、国家が律令に基づきその頂点に君臨する天皇の地位がどうやって生まれたかの解説になっている。神武が南九州から東征し、高天原には日の神であり天津神であるアマテラスがいて、だからこそ日に一番近い場所である日向が降臨の場所に決められた。本当はもちろん大陸~北西部九州である。
つまりそこより東にあって日の出の方向の「ひむか」ならどこでもいいのであろうが・・・。

そして神武がやってきてないはずの欠史八代がきて、崇神へ・・・つまり大和地方の話になる。崇神はだから当時の大和地域の王でしかない。

そして景行・ヤマトタケル・仲哀と来て、九州の王の伝説を挿入。ところがここで中国の史書に日本には倭五王がいたことが遣唐使によってもたらされ、さあ困った。

そういう河内の王統が、神武から崇神を経てちゃんとつながっていなければならなくなった。そこでつなぎの始祖を作ろうとする。景行からヤマトタケルの大冒険で話を複雑化し、仲哀のあとなぜか神功皇后が長々と摂政に。摂政などこの時代にあるはずもない仕事である。摂政とは藤原氏の平安時代の役職である。ここで神功皇后は胎内に子供を宿したまま新羅征伐。新羅はこの時代に存在せずまだ敵対もしていない。敵対するのは雄略前の葛城襲津彦の時代であり、征伐に出向こうとしたのはずっとあとの斉明女帝である。さらに河内王朝から飛鳥王朝をつなぐために「種馬」継体を招聘としたが、実際にはこれは継体による大和簒奪、王朝交代劇である。その継体一家は子供(欽明)が生まれると反対氏族(葛城連合蘇我氏)によって抹殺された。

応神は「胎中天皇」つまり生まれながらの天皇である。これもあきらかに『日本書紀』成立期の発想である。というのは『日本書紀』のイデオロギーは唐に対してのアピールとして存在し、持統にとって日本は半島をも平定した「もうひとつの天子」の国なのだからだ。その「もうひとつの天子」国家日本を言ったのは持統以前の聖王である聖徳太子である。ちゃんと隋書俀国伝にそう書いてあると。日出処の天子より日没する処の天子へ・・・つまり日本の天皇とは中国皇帝に朝貢する国家の王なのではなく、唐と並立する、あなたと同じ地位の、東アジアを手にできる国家の天子なのだと。だから神功皇后は新羅を先手手に入れた。だからその子供は生まれながらの天皇であり、しかも神武~崇神、崇神~持統まで連綿と続いてきた「交代なき王朝」=中国より立派な国家の王なのだと。

応神の子仁徳は、現実に実在した大王である雄略や武烈の対極の性格・・・仁義と徳に厚い聖人である。ゆえに聖帝(ひじりのみかど)と別称がある。これは中国の天命による聖人が王朝を開くという大前提をそのまま性格にした想像上の大王である。だから何度も反乱がおきてもこの大王は大王のまま時代が続く。普通なら交代するはずである。だから仁徳も作られた大王である。

『日本書紀』が『古事記』と違うのは、あきらかに対外への日本の偉大さ、正当さ言うところである。
その相手とは半島なんぞの小者ではない。相手は中国である。中国もまたそれを察して一目置いたからこそ、遣唐使は例外中の例外で20年に一度を認めたのである。日本は唐と同じく、半島を手中にできる天子の国家だと、堂々と『日本書紀』は言っているのである。

参考文献 遠山美津男『日本書紀の虚構と史実』洋泉社 2012



日本の今の政府もこれくらいのはったりは言っても全然かまわないのである。それが対等な東アジアのかけひきなのだから。


戦争に一回負けたくらいで腰が引けてしまった政府の60年間などなかったと思うことである。日本人が今度の選挙で選ぶべき政府も持統のような偉大な君主でなけりゃ意味がない。もう敗戦などはわすれて明確に東アジアの君主となるべきである。もちろんそういう背中の軸がぴしっと通ったリーダーという意味であって、すすんで侵略せよなどと言っているのではない。毅然とせよと言っているのだ。
小市民どものこざかしい正論などぶっとばパワーのある政治を望む。誰になるか知らんけれども。


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書紀講筵/遠藤慶太『日本書紀』に捏造・創作ははさめない説

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史書について疑義するとき、常に自説や疑義すること自体に反対の視点が存在することには気配りすべきである。そこで筆者はできるだけ、疑問提示するほうの参考文献と、反対に『日本書紀』に捏造や改ざんはなかったとする参考文献の双方を同時に読むことにしている。今回の参考書は前者が遠山美都男『日本書紀の虚構と史実』であり、後者が遠藤慶太の『東アジアの日本書紀』であり、その中間として黛弘道編『古代を考える 蘇我氏と古代国家』の三冊を平行して読むことにした。いずれも本年度2012年出版の最新版であり、著者はベテランから中堅そして若い世代と、バラエティに富んでいる。



さて、疑義する対象である『日本書紀』には、編纂の翌年からすでにその訓読や意味を教授する講義が設けられている。これを「講書」と言い、その講義録がちゃんと残っている。

◆『日本書紀私記』
「『日本書紀』については、平安時代に(ママ、養老5年は平安ではなく奈良時代末期)、養老5年(721年)、弘仁3年(812年)、承和10年(843年)、元慶2年(878年)、延喜4年(904年)、承平6年(936年)、康保2年(965年)の7回の講書が行われたとされる。(養老を除けばほぼ30年おきに講義が行われたKawa)

『日本書紀私記』は、これらの講書の記録であり、種々のものが作成されたと考えられているが、現存するものとしては甲乙丙丁の四種が知られている。甲乙丙本は水戸の彰考館に伝えられたもので、彰考館本と呼ばれる。また、丁本は六人部氏本と呼ばれる。このうちどの本がどの年代の講書の私記であるのかは明らかでないが、甲本は弘仁、丁本は承平の講書の私記であると考えられており、甲本は『弘仁私記』とも呼ばれる。

鎌倉時代に成立した『釈日本紀』にも、元慶や承平の私記が引用されており、『日本書紀私記』は『日本書紀』を解釈する上で重要な史料である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80%E7%A7%81%E8%A8%98

◆養老講書
以上の「私記」にある『日本書紀』講義録のうち、特にその成立からまもなく行われたものを「養老講書」と呼んでいる。講師は『古事記』編纂した太安万侶が養老五年、同族の多人長(おうの・ひとなが)の弘仁三年の講義がよく知られている。


これに先立って「養老五年私記」という講義記録があった(『本朝書籍目録』)という。また『日本書紀』にもそういういくつかの記録のあったことが書かれている(「養老説」「養老日本私記」)。
平安時代の講書開催については『釈日本紀』開題に記録がある。
養老5年は『日本書紀』提出年の早くも翌年のことになるので、これを以って各種の『日本書紀』疑義は起こりえないのだ、改変もできない、とするのが若き史学者である遠藤慶太である(『東アジアの日本書紀 歴史書の誕生』吉川弘文館 2012)。


記紀の疑義、謎があるとする立場でモノを言う場合、常に別の意見がまとわりつくのが常であるが、それ以前に、そもそも『日本書紀』が当時の氏族たちに講義されたという事実は、確かに、虚構を書くにはあまりにガラス張りの状況である。ただ、『日本書紀』については、天武・持統年間の藤原不比等らによる律令政治との齟齬なき描き方をされていることは誰もが認めることで、当時の講義を受講した、当然、各有力氏族から選出された俊英の代表たちにとっても、祖先から伝えられてきた氏族別伝承や神話との微妙な相違に対し、口を挟めたかどうかは立場的には難しかろう。また、書かれている内容そのものを、ある年代以上さかのぼるにはすでに記憶がうすれてしまっていたことも考えられる。『日本書紀』の多くのエピソードは当時までの天皇に妻を出すような超有力氏族の伝承が中心であり、それ以外の氏族には初見の内容も多かっただろう。100年前の飛鳥時代のことなら人の記憶にあろうが、それ以前は古今伝授で氏族に伝わるもので、当然記紀編纂の目的がそうだったように、若い氏族の間でそれらの正鵠な伝承はすでにうやむやになっていたことが知られている。となると、これらの講義の意味は、難しい『日本書紀』の漢文体の翻訳と同時に、受講者はむしろ過去の有職古事を知るために参加したことは充分に考えうるのである。

遠藤は講義があったということは、『日本書紀』内容の改ざんはなかったと考えるべきだと言うのだが、確かに大前提はそうなのだろうが、以上のような、すでに伝承が曖昧模糊としていた奈良末期以降には、受講者の日本史への無知は明白で、それどころか先に編纂した『古事記』が、わずか10年も経たぬうちに『日本書紀』へとバージョンアップされたことや、『日本書紀』が「一書曰く」としていくつもの別伝を載せねばならない状況・・・つまり選択する記憶が編纂者にすらすでにわずかしかないので選別しがたい状況だったことを鑑みれば、講義によって受講者氏族側から疑問や異論がそれほど出ないことになっていただろうことは否めないのである。

「『日本書紀』は歌謡部分を除き、原則として純粋漢文で記されているため、そのままでは日本人にとっては至極読みづらいものであった。そこで、完成の翌年である養老5年(721年)には早くも『日本書紀』を自然な日本語で読むべく、宮中において時の博士が貴族たちの前で講義するという機会が公的に設けられた。これを書紀講筵(こうえん)という。開講から終講までに数年を要するほどの長期講座であり、承平年間に行なわれた講筵などは、天慶の動乱のために一時中断したとは言え、終講までに実に七年を要している。」
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80_%E6%9B%B8%E7%B4%80%E8%AC%9B%E7%AD%B5%E3%81%A8%E6%9B%B8%E7%B4%80%E5%8F%A4%E8%A8%93
このように講義は延々と『日本書紀』全部の講義に渡ろうとはしているが、なかなかすべてを終了するには至らなかった。こうなると当然、当初の受講者すべてが終演まで貫徹できたかもあやうくなってくる。

遠藤自身も書いているように、「天武朝に開始された歴史書の編纂は、国家制度を整備する意図にもとづき、同時期の律令編纂と関連する」わけで、記紀ともに天武天皇の肝いりで、天武朝、天智朝などの正当性のために書かれたのであり、編纂された国の正式史書でもある。もしそれに対して同意しない氏族があっても、一度書き上げられた正史を容易に書き直させるには、相当な朝廷内での実力がなけらばなるまいし、またあきらかな捏造が露見すれば、これは編者の自刃にまで及びかねない。しかしそこに天皇の強力な体制や、それをバックアップした息長、藤原、和邇、葛城残党などの有力者からの反対意見がなければうやむやにされたことは必定である。従って講義によるガラス張りがあったにしても、編纂時からの「造作」には誰も口ははさめなかったと筆者は見るのである。

さらに、講義内容がどこまで『日本書紀』全体まで網羅したかも問題である。神話部分や三輪・河内王朝あたりだけなら、どうだったか。特にその講義内容の中核を占めたのは、渡来人によって書かれた本格的漢文の読解や訓読に向けられた可能性が高い。当時、漢字による表記が始まってまだまもなく、しかも日本人史(ふみひと)と言えど自在に漢字を手繰れなかったことは森博達の書紀分類を見えればよくわかる。当然、口伝のあやふやな伝承しか、多くの朝廷氏族や官僚(ほとんどが渡来人?)は知らなかったわけである。

しかしながら遠藤のこの著作は、『日本書紀』がどのような行程と意義で作られたかを詳細に知るには有益な書物である。

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植山古墳東石室入り口密封の謎/推古も竹田も遺体なし!

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●石室入り口、土で固める=推古天皇合葬説の植山古墳-奈良
推古天皇母子の合葬説が有力な植山古墳。写真は竹田皇子が葬られたとみられる東石室で、手前が石棺、奥が入り口=12日午前、奈良県橿原市 飛鳥時代の女帝・推古天皇(554~628年)と息子の竹田皇子(生没年不詳)の合葬説が有力な奈良県橿原市の植山古墳を調査していた同市教育委員会は12日、2基の横穴式石室の入り口がそれぞれ土でふさがれ、固められていたと発表した。
 横穴式石室の入り口は石を積んでふさぐ方式が一般的で、土で固めた古墳は非常に珍しいという。市教委は「ここまで徹底して封印するのは特殊な古墳。丁寧に封をして人が入らないようにしており、位の高い人が葬られたのは確か」と分析。推古天皇母子の合葬説を補強する発見としている。
 植山古墳は2000年の調査で、二つの石室が東西に並ぶ「双室墳」と判明。東石室は6世紀末、西石室は7世紀前半に造られたと推定され、東に竹田皇子、西に推古天皇が葬られたとみられる。(2012/12/12-20:27)
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201212/2012121201018&rel=&g=

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東石室とからっぽ新品の竹田皇子の阿蘇ピンク石石棺

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推古遺骸が見つからない西石室


●中身の遺骸が出てこない
 東石室の規模は全長約 13.0m、玄室長約 6.5m、玄室幅約 3.1m、羨道長約 6.5m、羨道幅約 1.9m、石室残存高最大約 3.1m。床面には石組みの排水溝が構築されています。玄室には熊本県宇土半島産の阿蘇溶結凝灰岩(阿蘇ピンク石)製の家形石棺が遺存しています。石棺の蓋は身から外され、割れた状態で発見されています。 西石室の規模は全長約 13.0m、玄室長約 5.2m、玄室幅約 2.5m、羨道長約 7.8m、羨道幅約 2.2m、石室残存高最大約 4.5m。羨道床面には石組みの排水溝が構築されています。玄室と羨道の境界部分(玄門部)には、兵庫県高砂市所在の揖保山周辺で産出する凝灰岩(竜山石)製の閾石が置かれています。閾石は石製の扉の底板であると考えられ、扉の軸受け穴と方立をはめ込む溝が掘られています。閾石は全長約 2.5m、幅約 1.3m、厚さ約 0.5mを測ります。この扉材の一部と考えられる石材が、植山古墳の周辺に所在する春日神社・素盞鳴命神社・八咫烏神社の境内に踏石の一部として転用されています。石室内に棺は残されていませんでした。 墳丘の背後(北側)の丘陵上には新・旧2時期の柱列が存在します。これらの柱列は墓の内外を隔て墓域を明示するための塀のような施設であったと考えられます。新しい時期の柱列は、古墳築造から約 100 年後の藤原京の時代頃に立てられたと考えられます。その間、植山古墳が特別な場所として維持管理され続けていたということになります。
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=E8GswM0JmHMJ&p=%E6%A4%8D%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3+%E6%9D%B1%E7%9F%B3%E5%AE%A4+%E9%98%BF%E8%98%87%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%AF&u=https%3A%2F%2Fwww.city.kashihara.nara.jp%2Fbunkazai%2Fdocuments%2Fueyamakohunsiryou.pdf#search='%E6%A4%8D%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3+%E6%9D%B1%E7%9F%B3%E5%AE%A4+%E9%98%BF%E8%98%87%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%AF'



イメージ 3


上空から見た植山古墳 


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未使用阿蘇ピンク石石棺が出た植山古墳。
今回は推古の息子だった竹田皇子の東石室が土で厳重に密封されていたことがわかった。
「有力時期天皇候補」であったはずの竹田皇子であるが、かの守屋の乱で流れ矢に当たり、あえなく「抹殺」された人である。
案の定、想定した通り、土壁で念入りに密封されていた。
なぜそうだろうと思っていたかというと、西石室の推古本人の石棺が存在しなかったからだ。
竹田の東石室の石棺は九州からとりよせた「祟り封じ」の石棺だったと言える。しかも中身はからっぽで未使用の新品であった。推古の西石室内にも阿蘇ピンクの破片があった。

植山古墳は七世紀になってなんらかの理由で山田高塚古墳へと改葬されたあとの古墳であるので、遺体がなくても不思議ではないが、奇妙なのは竹田の石棺だけは残されたこと。しかもその石棺がどうもわざわざ新たに造られたものであること。そして母子なら同じ石室に合葬されるのが普通なのに、わざわざ西石室を増築していること。『日本書紀』にはちゃんと移築改葬の記録もある。
ということは推古と竹田の遺骸は山田高塚に移動されたのであろうが、「あるいは最初からなかった」のかも知れぬ。おそらく山田高塚からも遺体は消えているはずだ。

竹田は乱のどさくさで流れ矢で死んだ事になっているが、皇子がいくさに出るときは厳重なる神輿に乗り、三方ふさがった状態で、しかも矢が届くような危険なところまで出向くはずもない。だから彼の戦死は戦死でなく、どさくさまぎれの暗殺である。

阿蘇ピンク石も、畿内型石棺も、どちらも「祟り封じ」の密閉石棺なのだということがこれで一層はっきりした思いがする。


竹田は崇峻、推古、山背、古人大兄らとともに、孝徳(軽皇子)の蘇我氏滅亡計画の一環として殺されたのであろう。当然の結末である。もちろん推古も竹田も最初から創作された存在だったことも十二分に想定できる。

いずれにせよ、このように古墳には中身の遺体がない空虚な「にせもの」古墳もあることを知っておくべきだ。意外にそうしたにせ古墳はこの世に山のようにあり、畿内にはそちらのほうが多いことも想定しておいてもいいのでは?大古墳は地方以外はどうも空っぽ墳墓が多いのかも?日向西都原の大きいのも疑っておくべし。

巨大古墳は怪しい。
「見せる古墳」か?



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阿弖流為と坂上田村麻呂 1

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体調不備でしばしお休みしておりました。
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「阿弖流為(あてるい)は今から約1200年前、現在の奥州市水沢区付近で生活していた蝦夷の一人です。当時『水陸万頃(すいりくばんけい)』と言われていたこの胆沢地方と蝦夷たちを統治したい朝廷軍との戦いがありました。その中で阿弖流為は蝦夷のリーダーとして勇敢に立ち向かった人物です。
 阿弖流為という名は『続日本紀(しょくにほんぎ)』、『日本記略』という古い文献2冊にそれぞれ1回登場します。『続日本紀』では、延暦8(789)年、巣伏村(すぶせむら)での戦いで朝廷軍に大勝した時のリーダーとして書かれています。
 しかし、この戦いを含めた幾度もの戦いで蝦夷側でも多くの犠牲を強いられていました。『日本記略』には延暦21(802)年、阿弖流為は仲間の母礼(モレ)と共に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)だった坂上田村麻呂の下に降服し、都へと上ります。
 田村麻呂は朝廷に2人を故郷、胆沢へ返すよう進言(しんげん)しますが聞きえ入れてもらえず、旧暦8月13日阿弖流為と母礼は河内国(かわちのくに)椙山(すぎやま)〔現在の大阪府枚方市〕で処刑された、と記されています。 このように阿弖流為については彼の最期こそ分かるものの、いつ生まれたのか?どのように育ち、どんな人物だったか?という詳しいことについては蝦夷たちが書いた文字資料がなく、また朝廷側が書いた資料で、現在残っている資料はとても少ないため、分からないことがまだまだ数多くあります。」

「延暦8(789)年の「胆沢の合戦」に大敗した政府は翌9年、直ちに第2回胆沢遠征の準備をはじめました。
 第2回遠征軍の人事は、征夷大将軍大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)、副将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)らでした。田村麻呂がエミシ問題に関わって初めて登場してきます。このとき田村麻呂は天皇の側近として近衛少将(このえのしょうしょう)の位にありました。 
 延暦13(794)年正月、将軍弟麻呂は桓武(かんむ)天皇から節刀(せっとう)をたまわり、胆沢遠征に出発しました。今回の遠征軍の実戦部隊の総指揮官は田村麻呂でした。彼は6月、10万の遠征軍がエミシ軍に勝ったと京に報告しました。しかし、胆沢はまだ落ちません。
 延暦15(796)年、前回の余韻も冷めやまぬうちに、第3回胆沢遠征計画が始まりました。数年かけて、遠征の手はずを整えた田村麻呂は延暦20(801)年、征夷大将軍として胆沢の遠征に出発しました。陣容は軍士4万人、軍監(ぐんげん)5人、軍曹(ぐんそう)32人と前回の半分以下に縮小されています。」
http://www.oshu-bunka.or.jp/maibun/newpage4.htm
 

「アテルイ(阿弖流為)は8世紀末から9世紀初頭、今の東北への版図拡大を狙う大和の侵略と戦ったエミシのリーダーである。当時、アテルイらを倒すため、桓武天皇が第二次、第三次征討軍の大将に授けた官名が征夷大将軍であり、その称号は幕末に至るまで武家(徳川)の統領の称号として残った。征夷大将軍の由来となった人物―それほどの「重要」人物だが、1980年代まで、地元でさえ、その名を知る人は少なかったという。それは長らく、アテルイが「日本史」の表舞台に出ることがなかったからだ(2)。だが今や、アテルイの本拠地だった胆江地域(胆沢・江刺)では、おそらく知らない人はいないし、東北地方はおろか、その他の地域でも、その名を知る人は増えている。アテルイはなぜ長らく無視されてきたのか。その名がなぜ急速に広まったのか。1990年代以降のアテルイに関する言説を見ると、「復権」とか「顕彰」という言葉がしばしばセットになって出てくる。それは時として、「東北の復権」「エミシの復権」という言葉にも置き換えられる。」
アテルイ復権の軌跡とエミシ意識の覚醒
岡本雅享(福岡県立大学)
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=WYLRYOcNqHQJ&p=%E9%98%BF%E5%BC%96%E6%B5%81%E7%82%BA+%E7%B6%9A%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80++%E4%BB%A3%E5%8F%B2&u=www.keiho-u.ac.jp%2Fresearch%2Fasia-pacific%2Fpdf%2Freview_2011-01.pdf#search='%E9%98%BF%E5%BC%96%E6%B5%81%E7%82%BA+%E7%B6%9A%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80++%E4%BB%A3%E5%8F%B2'


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アテルイの記録は史料ではわずか二ヶ所だけである。
一、『続日本紀』巣伏の戦い
紀古佐美(きの・こさみ)の詳細な報告(下段に別記)

一、『日本紀略』
アテルイの降伏に関する記述。



「802年(延暦21年)の降伏時の記事で、『日本紀略』はアテルイを「大墓公」と呼ぶ。
「大墓」は地名である可能性が高いが、場所がどこなのかは不明で、読みも定まらない。「公」は尊称であり、朝廷が過去にアテルイに与えた地位だと解する人もいるが、推測の域を出ない。確かなのは、彼が蝦夷の軍事指導者であったという事だけである。

征東大使の藤原小黒麻呂は、781年(天応元年)5月24日の奏状で、一をもって千にあたる賊中の首として「伊佐西古」「諸絞」「八十島」「乙代」を挙げている。しかしここにアテルイの名はない。

≪巣伏(すぶせ)の戦い≫
この頃、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていた。アテルイについては、789年(延暦8年)、征東将軍紀古佐美遠征の際に初めて言及される。この時、胆沢に進軍した朝廷軍が通過した地が「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。紀古佐美はこの進軍まで、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。この主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村に至った。そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。5月末か6月初めに起こったこの戦いは、寡兵をもって大兵を破ること著しいもので、これほど鮮やかな例は日本古代史に類を見ない。

≪朝廷軍の侵攻とアテルイの降伏≫
その後に編成された大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍との交戦については詳細が伝わらないが、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と志波(後の胆沢郡、紫波郡の周辺)の地から一掃されたらしい。田村麻呂は、802年(延暦21年)に、胆沢の地に胆沢城を築いた。

『日本紀略』は、同年の4月15日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことを記す。2人は田村麻呂に従って7月10日に平安京に入った。田村麻呂は、願いに任せて2人を返し、仲間を降伏させるようと提言した。しかし、平安京の貴族は「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、処刑を決めた。アテルイとモレは、8月13日に河内国で処刑された。処刑された地は、この記述のある日本紀略の写本によって「植山」「椙山」「杜山」の3通りの記述があるが、どの地名も現在の旧河内国内には存在しない。「植山」について、枚方市宇山が江戸時代初期に「上山」から改称したものであり、比定地とみなす説があった。しかし発掘調査の結果、宇山にあったマウンドは古墳であったことが判明し、「植山」=宇山説はなくなった。」
http://49656030.at.webry.info/201111/article_16.html

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筆者は蝦夷族長アテルイおよび、北海道アイヌ族長らの「反乱」について門外漢で、詳細は上記の各資料に拠るしかない程度の知識しか持たない。ゆえに民族の怨恨に関わるこれらの人々の戦いについて多くを語る権利を持たない。無責任な表現は避けたい。

ただ、蝦夷たちがすでに騎馬と蕨手刀と弓矢による騎馬戦のスペシャリストとしての蝦夷と、先史時代からの南下、北上を繰り返した北方民族の動向は多く、東北アジアのそのほかの遊牧民族との習性の類似や、狩猟民族として、また縄文時代東北・北海道人として、もうひとつの日本人であり、縄文から弥生・古墳時代からすでに、太平洋・日本海を往来した九州以南の島人との交流がすでにあったことだけは書いておきたい。また蕨手刀を産出する阿武隈山地の砂鉄と蝦夷の製鉄問題は、アテルイの武力の背景として重要であるし、その製鉄技術の早い時期での東北到来は、大和・北部九州中心主義の日本古代史に、別の視点を要求していると言える。これは言うならば「日本人が倭人や海人族だけではない」という「複数の民族国家」を示唆していると言うほかはない。





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阿弖流為と坂上田村麻呂 2

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「参考文献 日本後紀巻第十  延暦二十年より 801年
  802年 延暦二十一年
春正月丙寅(ひのえとら11日)
従三位坂上大(おお)宿禰(すくね)田村麻呂を遣わして陸奥国の胆沢城を造らしむ。
岩手の胆沢に諸国(駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野等)
の浪人4千人を配置して柵(城)を造らせた。この時には、すでに出羽国の雄勝城が出来ていた。。
802年 延暦二十一年
夏4月庚子(かのえね15日)
 造陸奥国胆沢城使陸奥出羽按察使従三位坂上大(おお)宿禰(すくね)田村麻呂等言さく、「夷(えみし)、大(おお)墓公(ものきみ)阿(あ「)弖(て)利為(りい)・(・)盤(いわ)具公(ぐのきみ)母(もれ)礼(れ)等、種類五百余人を率いて降る」と。
 .802年 延暦二十一年
秋、八月丁酉(ひのととり13日)
 夷(えみし)、大(おお)墓公(ものきみ)阿(あ「)弖(て)利為(りい)・(・)盤(いわ)具公(ぐのきみ)母(もれ)礼(れ)等を斬す。此の二虜は、並びに奥地の賊首なり。二慮を斬する時、将軍(田村麻呂)等申して云う、「この度は願いに任せて返入せしめ、其の賊類を招かん」と。而るに公卿執論して云う、「野生獣心にして、反復(うらぎる)定无(な)し。儻(たまたま)ま朝威に縁りてこの今日梟(きょう)帥(すい)を獲(とら)う。もし申請に依りて奥地に放還すれば、、所謂虎を養いて患いを残すならん。」と即ち、両虜を捉えて、河内国のた∋海忙造后
ァ803年 延暦二十二年
二月癸巳(みずのと・み12日)  
 越後国をして米三十斛(こく)・塩三十斛造志波城所に送らしむ。
造作の任務を田村麻呂に命ずる。」
http://blogs.yahoo.co.jp/manase8775/39602442.html


●坂上田村麻呂と坂上氏・大蔵氏
「坂上氏(さかのうえ・うじ)は日本の氏のひとつ。代表的な人物に征夷大将軍坂上田村麻呂がいる。後に清水寺別当、鎮守府将軍、右兵衛督、大和守、明法博士、左衛門大尉、検非違使大尉等を世襲した。

後漢霊帝の後裔と言われ、応神天皇の時代に日本に帰化した阿智王(阿知使主)を祖とすると伝わるが実際にそれを示す一次資料は全く存在しない、また中国に居られなくなった阿智王が天皇に忠誠を誓い天皇の使者として呉に派遣された(と)あるが、これも呉に到着したのが308年(280年に呉は滅亡後)の為、阿智王が始祖であるという説は信憑性に欠ける。詳しくは、後漢の最後の皇帝、献帝の子といわれる石秋王の子が阿智王(阿智使主)であるとするという説であり、その後、「高尊王―都賀直―阿多倍王」と続き、阿多倍王の孫が、坂上氏初代の志努であるという(別説では「阿智使主―都加使主」の子ともされる)がこれは後に権威付けで用いられた可能性が高い。坂上志努には志多、刀禰、鳥、駒子らの子があった。その子孫が坂上田村麻呂である。大蔵氏と同族。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8A%E6%B0%8F#.E5.9D.82.E4.B8.8A.E6.B0.8F.E3.81.AE.E7.B3.BB.E8.AD.9C.E3.81.A8.E5.AD.90.E5.AD.AB

「大蔵氏(おおくらし)は、「大蔵」を氏・本姓とする氏族。渡来氏族の東漢氏・秦氏の内、国庫である「大蔵」の管理・出納を務めた者がその職名を氏の名として称したという。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%94%B5%E6%B0%8F

このように坂上氏の出自にはなぜか新羅系秦氏枝族である大蔵氏と、百済系東漢氏の両方があって、あきらかではない。
一般的に東漢氏の傍系であれば内蔵氏を名乗るだろうが、秦氏系が多かった大蔵氏子孫となっている。
これは大蔵・内蔵内部に後世両氏族の混在が起きたためだろうかと思える。
あるいは東漢氏のパトロンでもあった蘇我本宗家滅亡後に、内蔵が大蔵に一本化されたせいなのかもしれない。
ただ田村麻呂の名からは済州島の旧島名タモラを思い起こすことは可能であるか?

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卑弥呼のクリスマスカード

食国(おすくに)の意味から蘇我氏台頭の謎を解く3 的臣・雀部朝臣・塩屋連 みささぎ語源

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1 的(いくはの)臣
●兵庫県淡路市育波(いく・は)
平城京跡出土木簡・・・「津名郡育播郷」「津名郡育波郷」
「和名抄」・・・「津名郡育波郷」読み方「以久波」
●兵庫県姫路市香寺町的部
「播磨国風土記」・・・「的部(いくは・べ)の里」
「和名抄」・・・播磨国的部(いくは・べ)郷
●福岡県浮羽市
「和名抄」・・・筑後国生葉(いく・は)郡
明治時代の市制町村名に生葉郡浮羽村・姫治村・大石村・山春村 (浮羽町 → うきは市)とある
姫路と同名の村があったことが知れる 月ノ岡あるいは日ノ岡古墳はその被葬者か?
●愛知県 稲沢市平和町下三宅郷内
「延喜式」・・・尾張国 海部郡鎮座伊久波神社(江戸期には生桑神社)
【祭神】的臣祖 (合祀)菊理姫命
       『考証』『特撰神名牒』葛城襲津彦
       『神社要録』的臣祖
       『大日本地名辞書』紀氏の祖
この地は「間敷屯倉」が置かれた地であり、すぐ北の伊久波瀬古から遷座と伝えている。
社名は的の古語をイクハと呼ぶことに由来する。
古代に三宅の地で百手神事が行われ豊作の豊凶を占ったといわれる。
●岡山県
『百済本記』吉備国・・・「加不至費直(かうち・河内直)・烏胡跛臣(うこは・的臣)」
●奈良県
『古事記』孝元段
建内宿禰を祖とする七系列の氏族、「葛城長江曽都毘古を祖として、玉手臣、的臣、生江臣、阿芸那臣」


 「いくは」は古語辞典によると「弓の的」、
古代には的臣(いくはの・おみ)という有力者がいて、的部(いくは・べ)といって弓矢の的を作ったり狩猟や軍事を担当したりした集団を従えていた。「日本書紀」には仁徳天皇のころの話として次のようなことが記されている。
中央では朝廷の宮城十二門のひとつ的門(のちに改名して郁芳門)を守護する氏族で、葛城氏傍系。

『日本書紀』仁徳紀 
「高麗国が鉄の盾と的を天皇に献上した。天皇は人々を集めて盾と的を射させたが、誰も射通すことが出来なかった。ただ的臣の祖である盾人宿禰(たて・ひとの・すく・ね)一人が鉄の的を射通したので、的(いくはの)戸田宿禰という名を賜った」

 淡路島も葛城県も大和政権にとって軍事上交通上の要所であり、また天皇の狩猟地であったことから、淡路の育波は的臣や的部と関係のある地名であると考えられる。淡路島は応神・履中・允恭紀に天皇狩猟記録あり。また尾張海部郡には海産物を納める間敷屯倉が、吉備国児島には塩や海産物のための児島屯倉があったゆえに的臣が葛城氏系では食膳氏族であったことが明白。筑後国浮羽も隣の朝倉に屯倉があって川魚などを贄としていたのだろう。

浮羽の有名な装飾古墳である日ノ岡古墳はいくつもの丹塗りの同心円文が描かれており、一見これが的臣を表すように見えるが、他地域に同種の装飾古墳はなく、むしろ対面する月ノ岡古墳の方が大和から派遣されてきた的臣の墓ではなかったかと考えられる。

また兵庫県の育波という地名が「的」に由来するとしても、この地の海岸には海人(あま)が住んでいた。平城京跡の木簡には「海」や「海部」、「調三斗」という記述がある。「海」は「あま」で海人を指し、「海部」は「あまべ」で海人の集団を指す。「調三斗」は調(ちょう)(税の一種)として物品三斗を貢納するという意味である。
参考 前之園亮一「蘇我氏の同族」



2 雀部(さざきべ)臣
巨勢臣傍系氏族
『新撰姓氏録』左京皇別・・・「雀部朝臣 巨勢臣と同祖。建内宿禰の後なり。星河建彦宿禰、応神の御世、皇太子大鷦鷯尊(おほさざきのみこと=仁徳)に代わり、木綿襷(ゆうだすき)をかけて御膳を掌監す。よりて名を賜いて大雀臣という」

「さざき」とはミソサザイのことである。仁徳の諱号ゆえに、同名をもらったということになる。ミソサザイとは味噌盗みという地方での異名があるように、台所と深く関わる鳥であると思われる。里の人家まで近寄る鳥で、しかも色が味噌に似ていると言う。
http://members.jcom.home.ne.jp/okamoto.n/tori/yachoma/misosazai/misosazai2.html

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仁徳天皇にも、秦氏の入った山背を見聞して、家々から煙の立つ夕餉の様子をいたく褒めるシーンがある。また建内宿禰との逸話でも、応神と宿禰の子供が産まれたときに宿禰の産屋にはミソサザイが、仁徳の産屋にはフクロウが飛び込むと言う逸話がある。これなどはまさに名前の交換であって、互いに親交を深くし、臣下の礼を例えた話と考えられるので、仁徳と建内宿禰子孫の食膳奉仕でのつきあいを暗に示していると考えられる。

ミソサザイの「さざい」はもとは「さざき」が訛ったものであろう。かつ「ささき」「ささぎ」が陵の意味にもなるので、大きな墓の持ち主とかけてもいるか?確かに仁徳天皇陵は巨大である。「みささぎ」はもと「みさざき」だったと辞書にある。http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/211356/m0u/
この「ささき」は後に近江・四国の「佐々木氏」と関係するか?筆者先祖は四国の佐々木氏から豊後に入って今の姓を継いだと聞くが、なにやら料理愛好家として個人的なえにしを感じている。
陵の語原をカササギに求め、さらに仁徳に求める説がある。http://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/82520c3488ff2ff1dbf778e1d611ec56
これによればミソサザイはそもそも小鳥一般に使われていた呼称らしく、カササギの住む森のある古墳も「ささぎ」に神の「か」がついたという。またミサンザイなど古墳に見られる名前もミソサザイあるいはみささぎのことかとも。http://www.dai3gen.net/sasaki.htm
みそさざき→みそさざい→みささぎ→みさんざき→みさんざい

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いずれにせよ聖なるものとしての鳥は霊魂を運ぶものゆえに、祖霊の霊廟である古墳にふさわしい名前である。なお、巨勢氏同族の食膳氏族には先に書いた大炊朝臣氏がいる。「みかしき」は「御かしぎ」で「かしぎ」は炊飯のこと。ちなみに鉱山では、飯炊きや飯炊き小屋のことを最近まで「かしき」「かしぎ」と言ったと宇江敏勝の『炭焼日記』にある。
ついでに推古天皇の諱号である「とよみけ・かしぎや・ひめ」の「とよ」とは豊かな食材、「みけ」は御食である。饗宴のことを「豊楽=とよのあかり」と『古事記』が書く。葛城襲津彦の娘・磐之媛はよく紀伊やらの柏の葉を求めて酒を供したとあり、
この柏の葉こそが贄を盛る食器=膳の語源であろうかとも思える。神社の柏手は拍手であるが、あれももしや神への贄を持って参じたことを知らせるものか?
襲津彦が連れ帰った秦氏の酒君は鷹狩を本邦に伝えたともある。『古事記』は襲津彦を「さちひこ」と書くが、この「さち」とは海の幸・山の幸のさち、すなわち食材ではないかと前之園は書いている(2012)。さちは狩猟に関わる贄であろうから、葛城氏はみな最古の天皇の食膳奉仕氏族=臣であることになる。


2 塩屋連
『新撰姓氏録』は河内皇別、襲津彦の後なりとするが、連姓は血族ではないと前之園は書いている。つまり血縁ではなく婚姻などの系譜上の同族であろう。名の通り、伊勢国奄芸(あむき)郡塩屋郷を本拠とする海士の製塩による食膳氏族であろう。瀬戸内海のしまなみ海道にも塩の産地があって伯方島というが、清盛でも出てきたから覚えている人も多かろう。伯方の塩で有名。

このように塩、海産物、海草、川魚などは今でも神社の贄に多い。また地名でも淡路島や阿波国、安房国などはもともとアワビ産地ゆえの国名であろう。なんとなれば全国に「あわ」の国が二ヶ所もあること自体不思議であるし、確かに記録上も徳島も千葉房総南部もアワビを大量に献上しているのである。ただ吉備国がキビの産地かどうかはやや疑わしく、あそこは塩と鉄の産地であった。そのあたりは地名の「機微」に詳しい方に聞いておきたい。

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