◆京都の要石「六角堂へそ石」
「多くの人や車が行き交う烏丸通から六角通を東に入る。間もなく現れる山門の奥に、静かな境内が広がる。ハトが群れをなし、せせらぎの音が心地よく響く。中央に建つ重厚な六角形の本堂が六角堂で、そのまま寺の愛称になった。
正式な名称は紫雲山頂法寺という。五八七年に聖徳太子が開いたと伝わる。本尊には聖徳太子の護持仏だったという如意輪観世音菩薩(ぼさつ)像をまつる。
創建当初、境内北側の池のほとりに小野妹子を始祖とする塔頭(たっちゅう)「池坊」があった。妹子が太子の霊を慰めるために仏前に花を供えた。これがわが国の生け花の始まりとなったという。
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「多くの人や車が行き交う烏丸通から六角通を東に入る。間もなく現れる山門の奥に、静かな境内が広がる。ハトが群れをなし、せせらぎの音が心地よく響く。中央に建つ重厚な六角形の本堂が六角堂で、そのまま寺の愛称になった。
正式な名称は紫雲山頂法寺という。五八七年に聖徳太子が開いたと伝わる。本尊には聖徳太子の護持仏だったという如意輪観世音菩薩(ぼさつ)像をまつる。
創建当初、境内北側の池のほとりに小野妹子を始祖とする塔頭(たっちゅう)「池坊」があった。妹子が太子の霊を慰めるために仏前に花を供えた。これがわが国の生け花の始まりとなったという。
由緒ある六角堂には不思議な言い伝えがある。平安京造営の際、新たに造る道路の計画路線に六角堂が重なってしまった。役人たちは太子ゆかりの大切な堂の扱いに困り、桓武天皇の使いを呼んで本尊に祈った。すると一夜にして六角堂全体が北に約十五メートル移動し、問題が解決したという。
ところがこの時、六角堂を支えていた礎石だけが動かずに残ってしまった。これが今も境内にある「へそ石」という。やや盛り上がった白っぽい石は本堂と同じ六角形で、幅約四十五センチある。中央に開いた直径約十三センチの穴には水がたまり、中にはさい銭の硬貨が数枚見える。へそは中心の意味で、中世には町衆の間で京都のちょうど真ん中を指す目印となった。
(中略)
(中略)
へそ石は江戸時代まで六角通の中央にあったが、交通の障害になるため一八七七(明治十)年に境内に移り、近年さらに境内の中で場所を変えた。だが売店前に展示している一七八〇(安永九)年刊の「都名所図会」で、六角通の中央にぽつんと残るへそ石の当時の姿を知ることができる。
へそ石の正体をめぐっては、石灯籠(とうろう)や水位計の跡とする説が有力になっている。だが、現在も周辺には金融機関やオフィスビルが立ち並び、京都の中心地としてにぎわう。今も京都の「へそ」であることは確かなようだ。」
http://www.kyoto-np.co.jp/info/sightseeing/mukasikatari/080313.html
http://www.kyoto-np.co.jp/info/sightseeing/mukasikatari/080313.html
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さて、「平安京造営の際、新たに造る道路の計画路線に六角堂が重なってしまった。」という言い伝えが正しいかどうかはともかくも、平安京造営前から六角を礎石とするなんらかの建造物が京都北西部にはあったのだろうということを、京の人々は語り継いできたことになる。
千本六角の今の通りから真北に行けば平安宮大内裏に行き着く。
その途中に千本六角があって、平安時代にはここに朱雀殿が建っていた。
となると六角へそ石は朱雀殿に伴うなにかの建造物かとなるが・・・。
しかしそれならば六角堂が現在地に移動しているのもおかしな話になる。
朱雀殿の一部がのちに邪魔になったということだろうか?
江戸時代内裏の移動とともに移転されたか。
千本通りのど真ん中にへそ石・礎石のひとつが残され、邪魔だから同じ六角通りの東にある現在地にスライドした。
ならばなぜ一個しか残っていないのか?それが建造物なら少なくともあと五つかそこら礎石はあったのではないか?
その途中に千本六角があって、平安時代にはここに朱雀殿が建っていた。
となると六角へそ石は朱雀殿に伴うなにかの建造物かとなるが・・・。
しかしそれならば六角堂が現在地に移動しているのもおかしな話になる。
朱雀殿の一部がのちに邪魔になったということだろうか?
江戸時代内裏の移動とともに移転されたか。
千本通りのど真ん中にへそ石・礎石のひとつが残され、邪魔だから同じ六角通りの東にある現在地にスライドした。
ならばなぜ一個しか残っていないのか?それが建造物なら少なくともあと五つかそこら礎石はあったのではないか?
秦河勝の屋敷は旧大内裏にあったと言われている。
それを平安京建都の際に桓武天皇に譲った、献上したことになっている。
その証拠が内裏の前に左右に植えられていた橘と梅の木であったと言う。
さて・・・もしや千本六角にこそ河勝の住居があったのではないか?
それを平安京建都の際に桓武天皇に譲った、献上したことになっている。
その証拠が内裏の前に左右に植えられていた橘と梅の木であったと言う。
さて・・・もしや千本六角にこそ河勝の住居があったのではないか?
千本六角から西へ、三条通を進めば葛野の太秦に至る。まっすぐな一本道である。最終的に松尾に至る。
これが太秦から河勝邸宅への「参道」だったのではなかろうか?実は「六角堂縁起」には「聖徳太子」建立という設定がほどこされている。聖徳太子にまつわるとなると、これは「隠し蓑」であろうから、河勝の関係であろう。
これが太秦から河勝邸宅への「参道」だったのではなかろうか?実は「六角堂縁起」には「聖徳太子」建立という設定がほどこされている。聖徳太子にまつわるとなると、これは「隠し蓑」であろうから、河勝の関係であろう。
六角堂を京都の民衆は「京都の中心」「へそ」「かなめ」だと認識してきた。
中世の戦乱時代の談合、江戸時代の一揆での集会所として六角堂が選ばれてきた。(『京都坊目誌』堂之前町由来)
中世の戦乱時代の談合、江戸時代の一揆での集会所として六角堂が選ばれてきた。(『京都坊目誌』堂之前町由来)
ただ残念なことに、発掘では飛鳥時代の遺構・遺物が出てこなかった(古代学協会調査・旧平安博物館)。
完璧に撤去した?それは宮が建つのである。それもありえる。土器の破片すら一片残さずに・・・。
わからない。
完璧に撤去した?それは宮が建つのである。それもありえる。土器の破片すら一片残さずに・・・。
わからない。
いずれにせよ六角の礎石の上に建っていた建造物、ないしは何かの構造物は、朱雀大路造営のために邪魔になり、どかすことになったと『元亨釈書』は伝える。桓武の官人たちを大いに悩ませ、黒雲まで発生したとある。大げさであるが、それが六角堂という建造物だったのか、礎石だったのかは書いていない。
現在、千本通りは北野白梅町からなぜか南東へ急に折れ曲がっており、大宮通の龍谷大学前から東寺の真横を抜けて鳥羽街道へつながる。Kawakatuga大学時代に遊んだ通である。かつては朱雀門へ通じる何十メートルもの巾のある道だった。両側は、やがて右京が衰えると、民衆が好き勝手に畑を作り、掘っ立て小屋まで建てたスラムとなる。いわゆる「羅城門の鬼」が棲む異界となってしまうのである。果たしてその鬼たちの中にかつての河勝の手下たちも混ざりこんだのだろうか?
旧朱雀大路だったために多くの発掘が成され、北側は旧大内裏消失にともなってその跡地まで延長、鷹峰へと通じている。
南部から北を見ると正面に、平安京の基点となった船岡山が正面に見える。広大な真南北の道であった。往古は河原町をしのぐ大商店街があって、今は狭く閑散としているが、かつての繁栄を垣間見せる。
果たしてそこに朱雀殿が建つ前は、六角堂が建っていたのか?それとも別の何かが存在したのか?へそ石はただ沈黙したまま、現在の六角堂の門前にひっそりと展示保管されている。
参考文献中村修也『秦氏と鴨氏』