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瀬田唐橋の過去の記事
Wikiでは時代順に記事を拾ってある。
こうなっている。
3壬申の乱(671年)では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となった。大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んだ。御霊神社の主祭神は大友皇子である(『日本書紀』 天武天皇上 元年七月)。これが瀬田の唐橋の文献上の初見である。
4藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱、764年)では、宇治から近江を取ろうとした恵美押勝に対して、孝謙上皇方は田原道(関津遺跡)を通って瀬田の唐橋に先回り。これを焼く。押勝は高島郡に走り、滅びた(『続日本紀』 淳仁天皇天平宝字八年九月)。
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1「両岸に生えていた大きな藤の木を利用したつり橋で」「丸木舟を横に何艘も並べ、藤や葛のツタで絡めた搦橋」だった・・・
2「瀬田で自害した という」
1はまるで因幡の白兎のワニを転載禁止並べたような橋である。和邇氏的な。
2には橋の記録はない。
で、3の壬申の乱でやっと橋が出てくるのだが、これまでのすべては記紀が言っているだけである。転載禁止
『日本書紀』天武天皇即位前紀(壬申紀)
辛亥、男依等到瀬田。時、大友皇子及群臣等、共營於橋西而大成陣、不見其後。旗旘蔽野、埃塵連天。鉦皷之聲聞數十里、列弩亂發矢下如雨。其將智尊、率精兵、以先鋒距之。仍切斷橋中須容三丈、置一長板。転載禁止設有搨板度者、乃引板將墮。是以、不得進襲。於是、有勇敢士、曰大分君稚臣。則棄長矛・以重擐甲・拔刀急蹈板、度之。便斷着板綱、以被矢、入陣。衆悉亂而散走之、不可禁。時、將軍智尊、拔刀斬退者而不能止。因以、斬智尊於橋邊。則大友皇子・左右大臣等、僅身免以逃之。男依等、卽軍于粟津岡下。是日、羽田公矢國・出雲臣狛、合共攻三尾城、降之。
さて、唐橋とは書いていない。
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強引かも知れぬが、筆者は壬申の乱の頃に、瀬田に「橋」がかかっていたのかどうか、疑っている。そしてそれ以前の橋、その前の舟つなぎの椅、すべてに信憑性はないと考えている。
つまり、一言で言えば、壬申の乱そのものをあったんかどうか疑っている。
室町以前にはまず「唐橋」はありえない。
それ以前にもあの距離をつなぐ橋などありえない。
あなた、そういうこと考えたことがありますか?
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