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再掲載海の正倉院3 宮地嶽古墳と宗像君

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宗像市津屋崎町(現・福津市)の宮地嶽神社裏にある、日本第二の長大な石室(22m)を持つ宮地嶽古墳(大塚古墳)からは最古のと言ってもよい青色鉛ガラスの一枚板が出ている。
このような板ガラスが出土するのは極めて異例である。
このガラス板は、使われたとすればまず窓ガラスかテーブルかといったところしか考えられず、日本最古の窓ガラスだった可能性なきにしもあらずである。
時代は6世紀。
まずそのような住居を持った氏族などヤマトでさえ誰一人いなかっただろう。

胸肩君徳善の財力がしのばれる遺物である。
日本最大最長の石室→http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51670164.html

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ところで宗像と壱岐は玄界灘勢力の中で、古墳時代終末期、ちょうど筑紫君磐井の反乱が起こった継体から欽明への移行期にどちらも強力な勢力を持つ。

かわかつワールドに書いたように、壱岐氏は中央の武内宿禰系譜として、彼の勢力圏である。
筆者は武内宿禰が非常に不思議なのは、『新撰姓氏録』が書いた系譜の子孫の中で、葛城襲津彦だけがフルネームで紹介されていることである。

『新撰姓氏録』はなぜ葛城氏についてこの人物を特定したのだろう?
その答えを想像すると、おそらく葛城襲津彦は武内宿禰その人だったのではないか?と思いつくのである。この人物は新羅と結んで加耶(『日本書紀』が言う任那)を滅ぼしている。武内宿禰も神功皇后とともに新羅へ行こうとし、仲哀を殺してまで強行し、結果三韓征伐したと「言い立てている」。

どちらも非常に語学に堪能な通訳、海導者としてよく似ている。
筆者は蘇我氏も葛城氏も半島に非常に精通した氏族で、「内系」系譜の主導者だと思うし、もっと深読みすれば、葛城氏は河内王朝の雄略大王によって滅ぼされた理由は、ヤマトの旧王家の中心氏族だったからではないかとさえ考えている。つまり葛城氏とは景行・ヤマトタケル・仲哀という三輪王家と河内王家の中間にある王家・・・海人系・・・ではないか?と深読みしている。

すると同じ海人系だった倭直(やまとの・あたい。祖先は椎根津彦)とも関わる古い海導者で、倭直氏から出てくるだろう若狭の日下部氏(旧字は日の下に下)などとも深い関わりを持っていた。それを河内王家・・・倭五王が配下に治めた・・・と考えている。

宗像氏のように河内王朝の終盤に頭角を現す氏族は、一見して継体あるいは欽明の新しい系譜についた氏族なので、あきらかに伊吉氏や内氏とは切れているが、壱岐や葛城氏たちはもっと古くからヤマトにいた氏族だと考えられる。

葛城氏は吉備王氏や出雲氏とともに出雲の宍道湖の津を持っていた前王家だったと見れば、それを天孫に奪われてヤマトへ入るという構図よりも、先にすでにヤマトに住んでいたのが、ヤマトでやられたという構図だったことも想定できよう。

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欝期ゆえコメント無用

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現在躁鬱病の欝期である。はっきり申してこれまでで最大の不機嫌に落ち込んでいる。最悪の時期。
一切コメントご無用に願いたい。
 
森博達の『日本書記』成立区分論をこれよりわかりやすく図解するので、お待ちあれ。
 
コメントは思考の邪魔になるので、当分差し控えられたし。またいずれQを出すので待っておられよ。また質問は常から受け付けていない。答える義務などない。一切無用。邪魔。何度も書かせるな。
 
 
 
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図解・森博達『日本書記』成立区分論

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参考 
森博達『日本書紀成立の真実 書き換えの主導者は誰か』中央公論社 2011
森博達『日本書紀の謎を解く』中公新書 1999
反対意見参考「『日本書記の謎を解く』の誤り」http://www.geocities.jp/yasuko8787/0x-6.htm
 
 
森博達の『日本書記』成立区分論は画期的で客観的な科学性による『日本書記』成立論考であることは間違いがない。もちろんいくらかの部分的反論の余地はのこされていることも否定できない。
 
たとえばその最たるものは、各論部分で、暦の使用例として「13巻安康即位前紀までは新しい儀鳳暦(ぎおうれき)を用い、安康紀以後は古い元嘉暦を使っている」のを、14巻雄略紀を含むα群がβ群に先行して書かれた、と言う理由にできるのか?という微妙な部分。
 
また、「巻14の「雄略即位前紀」の「直前の分注」には、「この話は、穴穂天皇紀(巻13)にある」と記してあり、巻14の述作が巻13に先行したのであれば、このような注が施されることはありえないのでは?という反対意見も存在する。
 
筆者なりにとりまとめてしまうなら、森の区分論は概して天才的に正しいが、13~14にかけての部分は、13巻安康紀もまた当初α群として書かれていたものをあとから日本人が書き直したとする考え方もあり得ると見ている。
 
さて、各論を言い始めると長くなる。まずは森の区分論を図解してみよう。
なにしろ素人には図解が一番である。文献学者はこの図解がまずもって苦手な人が多く、森先生もその例に漏れず、文章読解力の低い人々には、こうしたビジュアル化の努力が足りない。多くの人に読ませるには画像が一番である。
 
 


 
 
森博達の『日本書記』成立区分論図説
 
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図説化しようと思ったきっかけはNHKの伊勢神宮式年遷宮、出雲大社を見たからだ。
 
 
 
 
さて、ここから次回、筆者の考えを書いてゆきたい。
不比等と元明女帝が、持統~文武へとつながる「天智系王家」の正統性を、持統期にすでに成立してしまっていた『原・日本書記』(森の言うα群+安康即位前紀)をどう改ざんし、あとから神話部分と神武東征、あるいは安康より前の空想王家をくっつけていったかの分析である。
 
先に結論を言ってしまえば、藤原不比等が台頭してきた元正~文武の間に、『原・日本書記』は、女帝を中心とした天智系後裔王権がいかに正統かを言うがために、日本人記述者を駆使して、『日本書記』を天武生存中に書かれた『古事記』から、いかに正史として認めさせるかに奔走したと言える。そのために、不比等死後、翌年からは『日本書記』読解講座がすぐ開かれた。不比等の子孫は、彼の意思を受け継ぎ、日本史を『日本書記』記述にあわせて理解させる努力をしてゆくのである。それはそのまま藤原氏正統摂政家柄という政治的イデオロギーへの近道でもあった。
 
天武が逝き、持統が逝ったことで、元正、元明は不比等と深く結びつき、今はなき父・天智と大友の正統だったことを声を大にして言い始める、聖徳太子、蘇我氏天罰などの書き方は、すべてβ群にあって改ざんであっただろう。それは光明皇后が天智の聖徳太子国家神格化への意思を受け継いでいったからである。
 
さらに大山誠一の聖徳太子不在論の各論にある「聖徳太子道慈捏造論」の誤りにも森は触れているが、大山の聖徳太子不在論の主体部の概略に異論を挟んではいない。時代時間論として道慈ではおかしいと言っているだけであることも書き添えておく。また不比等が不在だったのではないか?という質問も受けたが、論外である。むしろ藤原氏祖人である鎌足不在論なら受け付けてもよい。天智が太子を美化したように、不比等も鎌足を美化したことは間違いない。もちろん光明子以下の不比等の子孫たちが不比等を美化したのも間違いないだろう。それが人間というものである。不比等が歴史の真ん中に台頭できた時代は元正~元明時代であって、持統は先に死んでしまっている。要するに天皇家にとって、持統こそは女帝時代=天皇家開闢の祖のまた祖人なのである。天智は神なのだ。だからこそ藤原京の真北に天智天皇陵は藤原京時代に再建されたと言ってよい。持統以下の天皇にとって天智こそは王の王、天子の位置に置かれたのである。この時点で天武は、継体のようなただの種馬に降格されているのである。
 
 
次回から各論
 
 
 
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 Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
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『日本書記』区分成立論から見えてくる疑問点

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Kawakatuの独自解釈と新たな疑問点
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まだまだあるが妄想はこれぐらいにしておく。
 
 
森博達氏の手法は正しい。
文献も科学で分化分析する方向性を指し示した。
もちろんヒントにすべき先達がいたことを添えたことで、過去の画期的だった推論にも光明をあてた功績も大きい。
 
一方で、さらなる疑問を好事家に与えてくれたことも間違いない。
 
このように、文献の書かれている内容・・・主観性を無視した分析こそがこれまでなかった視点であり、多くの研究者が真に欲してきた客観的切りわけ法であろう。
 
 
文科系学問が科学になるためには、こうした手法がこれからも不可欠である。
文献は人によって書かれるものである限り、どうしても主観的分析になりがちで、進展が遅く、わかりづらい面が多すぎた。これでは科学の中心にある理科系分化学問には相手にされない。そういう意味で重要な発見だった。
 
 
『日本書記』のどこが正確で、どこが改ざん、捏造かが一番重要なのである。なぜならそれがわからなければ、考古学の資料は本当に生きてこないからなのである。
全部が嘘だったなら『日本書記』など無視すればいい。しかしそうではない。
全部ではなく、虚実ないまぜなのである。それを仕分けできる審美眼は、実は文科系よりも理科系の視点、言語学、音韻学の視点によるのである。
 
 
森氏が史学界に与えた天啓は大きい。
 
 
歴史はもっと科学されなければならない。
 
 
そしてこの森説の間違いもまたもっと論じられねばならない。
 
 
 
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宗像三女神と女帝三代と藤原不比等の策謀

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宗像三女神とはスサノヲとアマテラスの誓約(うけい)で生まれてきた八王子のうちの女神である。
 
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宗像三女神が記紀に於いてスサノヲとアマテラスの娘とされた所以は、天武天皇の妃として宗形君徳善(むなかたのきみ・とくぜん)が娘・尼子娘(あまこのいらつめ)を差し出す海運豪族だったからであろう。
 
三女神祭祀の形態はつまり天皇家の天孫降臨思想よりも先んじていたと考えられる。
 
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さて、『古事記』に三女神が取り込まれた理由は宗像氏の繁栄のせいではあろうが、ではなぜ天武よりも天智を重んじたはずの『日本書記』神代紀までがそれを踏襲したのか?その理由は以下の分析を読まれたい。
 


 
 
まず、藤原不比等が編者の中心にいたその時代の天皇とは誰だったか?なのである。
 
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藤原 不比等(ふじわら の ふひと、 斉明天皇5年(659年)- 養老4年8月3日(720年9月9日))は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の御落胤と書かれる。諡号は文忠公、国公は淡海公。

11歳の時、父鎌足が死去。父の生前の関係から、近江朝に近い立場にいたが、壬申の乱の時は、数えで13歳であったために何の関与もせず、近江朝に対する処罰の対象にも天武朝に対する功績の対象にも入らなかった。だが、中臣金をはじめとする鎌足の同族(中臣氏)の有力者が近江朝の要人として処罰を受けたこともあって、天武朝の時代には中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された形となっており、有力な後ろ盾を持たない不比等は下級官人からの立身を余儀なくされたと考えられている。
 
草壁皇子の息子、文武天皇元年(697年)には持統天皇の譲位により即位した軽皇子(文武天皇)の擁立に功績があり、その後見として政治の表舞台に出てくる
 
また、阿閉皇女(元明天皇)付き女官で持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられている橘三千代の力添えにより皇室との関係を深め文武の即位直後には娘の藤原宮子が文武の夫人となり、藤原朝臣姓の名乗りが不比等の子孫に限定され、藤原氏=不比等家が成立している。
 
文武・宮子の間には首皇子(聖武天皇)が生まれ、さらに橘三千代との間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせたが、光明子は不比等の死後、不比等の息子の藤原四兄弟の力によって光明皇后となり初の非皇族の人臣皇后の例となった。
不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めた。また、大宝律令の編纂にも関与、その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが720年に施行を前に病死した。養老律令を実施したのは孫の仲麻呂の時である。
不比等とその息子の藤原四兄弟によって、藤原氏の繁栄の基礎が固められるとともに最初の黄金時代が作り上げられた。
 
 
持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) - 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある
(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという
 
 
元明天皇(げんめいてんのう、斉明天皇7年(661年) - 養老5年12月7日(721年12月29 日))は、日本(飛鳥時代 - 奈良時代)の第43代天皇。女帝(在位:慶雲4年7月17日( 707年8月18日) - 和銅8年9月2日(715年10月3日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ )和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと
 
元正天皇(げんしょうてんのう、天武天皇9年(680年) - 天平20年4月21日(748年5月 22日))は日本(奈良時代)の第44代天皇。女帝(在位:霊亀元年9月2日(715年10月3 日) - 養老8年2月4日(724年3月3日))。日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみこと)
 
 
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不比等の天皇大納言=宰相としての期間701年3月21日~720年10月23日
持統在位期間690年2月14日~697年8月22日
元明在位期間707年8月18日~715年10月3日
元正在位期間715年10月3日~724年3月3日
 
 
不比等の大納言在位期間の天皇は三人の女帝と文武である。
そして『日本書記』の中枢部分が成立したのは元明女帝の頃であると考えられる。
だから『日本書記』のイデオロギーを作り上げたのも、不比等と元明の連携であろう。元正は不比等の死の五年前に即位。五年間不比等とともに執政したことになる。持統は不比等をただの史官=フヒトだったのを中納言から大納言へと持ち上げていった女帝である。そして元明はまさに文武とともに不比等が全時代にわたり宰相としてそばにいた女帝になる。
 
持統天皇の諡号の高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと とは、あきらかに天孫、皇祖アマテラスの居る場所を名前にしている。これは『日本書記』だけがそうしてあり、『古事記』にはない諡号であるから、『日本書記』思想は明白に持統をアマテラス、皇祖としていこうとしているのである。
 
そして彼女は、同時に三女神の長女でもあった。
 
 
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系図を比較してみると、不比等と元明はあきらかに天智=イザナギ、持統=アマテラス同時に三女神長女、元明=三女神の中心神である市杵島姫、元正=タキリヒメに相当させ、天武をスサノヲの位置に置こうとしていたのであろう。
 
つまり深読みすれば、意外な逆転人事だと思われてきた光仁~桓武の即位までの道は、橘氏つまり諸兄らの勢力の反駁さえなければ、もっと早く順当に決まっており、前もって用意されていたものだったろうことに気がつくのである。
 
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このように宗像三女神をイメージして不比等がイデオロギー操作してきた女帝三代を中央では指していた。宗像氏もそれを意識したことであろう。もちろん三女の形式はそれ以前から宗像氏にはあっただろうし、そもそも太陽神アマテラスこそは、海人族である宗像氏のものであったはずである。もっと言うなら天智母方である息長氏もまた宗形の海人族から分かれた氏族だった可能性は高い。
 
そしてのちに宗像三女神が宇佐に降臨したと書かれた理由も、渡来系八幡信仰に対するアマテラス信仰の割り込みを明示していると言えるだろう。
 
三女神を持ち上げれば死した天武を一見持ち上げているようにも見える。しかし内実は天智=息長の正統を『日本書記』は堂々と書き記した。おそらく宗像徳善も気がつかないイデオロギー操作である。その証拠に宗像氏の外戚関係は徳善一代限りで終わり、しかしその後も宗像大社は大和朝廷のアマテラス信仰を継承し続け、太陽神祭祀を続けたのだった。この構図はまさに出雲大社の「ヤマトの国魂を守護する」という構図、宣言に等しい敗者の歴史構造だと言える。
 
海人族は利用され続ける、大和の外来為政者たちによって。縄文は弥生によって源平のような武家や助言者の立場に置かれたのであろう。もう一度上の並立系図を観れば、天武=スサノヲ=出雲・海人族が見えてくる。その海人族の代表には息長氏よりも葛城の武内宿禰系譜・・・つまり「内(有智)の系譜」が見え隠れするはずである。祖の中には葛城氏、紀氏(木氏)とともに蘇我氏もいたのである。すべて海人族管理者の系譜である。
 
 
 
 
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ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
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菊池山哉 『別所と特殊部落の研究』転載

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菊池山哉の民俗学的視点からの古代~中世史を再分析したい。
その前に以前の記事をいくつかWin7文章に変換して転載しておこう。
 
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菊池山哉 きくち・さんさい
被差別部落史研究家
民俗学研究家
元東京市役所土木技師
被差別部落に濃厚な白山信仰の存在あるを通じて、歴史・民俗の闇を透視した。当ブログ管理者かわかつの手本。
著作『多摩史談』(戦後は『東京史談』と改題)
   『別所と特殊部落の研究』(東京史談会 昭和41年)など

 
「もう十五年ほど前のことになるが、私(前田速夫)は勤務先の出版社の先輩に教えられて、山哉の『別所と特殊部落の研究』を読んだときの興奮を、今に忘れない。そこには正史が黙殺してきた(故意に隠蔽した面もある)民俗の暗部が、しごく平然と語られていたのである。(中略)
生家にごく近い府中の大国魂神社境内にある市立中央図書館に通って、彼が編集・寄稿した「多摩史談」の全バックナンバーをコピーして、隅々まで読んだ。(中略)
私はむしろ山哉を被差別部落史研究家と狭く括るよりも、彼がその晩年、一国一郡の歴史が明らかになれば、日本全土の歴史も明らかになるだろうと、点から線へ、線から面へと研究の対象を広げて、『府中市史』の編纂に心血をそそいだことを重く見る」

 
「一九七〇年を境に、民俗学・宗教学・文化人類学は著しく活況を呈した。クロード・レヴィ=ストロースやミシェル・フーコーの刺激のもとに、従来の柳田國男説・折口信夫説も見直された。反面、フィールドワークがなおざりにされ、直輸入の理論の押し売りやパソコン画面上の情報蒐集(しゅうしゅう)と分析で事足れりとする横着でオタク的な傾向も現れはじめている。」

 
出典はいずれも前田速夫『異界歴程』晶文社 2003

 
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他人のサイトをのぞき、学問を知ったような気になって、部屋から出ず、金を惜しみ、歩かない・・・そいうやからを「オタク的」だと前田は痛烈に批判している。そのとおり、私もそういう人物はつきあうに足るとは思えない人種である。学生の中に近年そういう人種が増えているとある教授から聞いた。論文やレポートを、ネット上から切り取って丸写しするような輩も多いそうだ。ほんまかいな?そいういう学生は卒業しても就職口に困ることになるだろう。なるほど、今の社会現象もどうやら本人達の努力不足に原因もあるのか。それなら失業者を応援する必要もないなと思ってしまう。因果応報である。

 
人生は実像。学問は実像の基盤に成り立つ虚像である。まっとうな人生観を育てずしてまっとうな学問は成り立たない。こら!おれの記事を写すな、ぼうや!
坊や、ぼやぼやするなってか。

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豊後のシャア・豊後のイワムロ過去記事転載

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引用文献 菊池山哉『先住民族・賤民族の研究(昭和初期著作集の改訂編纂版)』批評社 1992

豊後国風土記網磯野(あみしぬ)の条
「纒向日代宮御宇天皇(景行)(豊後国)行幸の時、此に土蜘蛛ある、名を小竹鹿奥(しぬかをく)。小竹鹿臣と曰ふ。此の二人の土蜘蛛、御膳を為りにあたりて田獲(かり)をなせり。其の獲人の聲甚かまびすし。天皇大囂(あなみす)と勅り玉ふ。斯に因って大囂斯(あなみすね)と曰ふ。今網磯野と謂ふは訛なり。」
同海部郡の条
「此郡の百姓は 並海濱(なみうなま)の白水郎也。因って海部郡と曰ふ。」

”この白水郎は即ち?(新字源になし)言ふた豊後のシャアである。そしてここの海部の蛋(タン)もその昔し(ママ)皇命に反したものであることは左の記事によって明らかである。”(菊池山哉)
 
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菊池は貝塚民族(今で言う縄文人)のことを土蜘蛛であると断言している。
そして特殊民部族(今で言う被差別部民のことか?)の祖先は土蜘蛛族であるとも断言している。
その断言が言えて、初めて古代の敗北氏族と現代の被差別民の間に「つながり」の発想が生まれ出るのである。この着想なしには柳田国男にはじまる日本の民俗学、部民常民分析はないことになるのであろう。
 
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例証の文脈と脈絡なしに菊池の口からいきなり発せられた「シャア」とはなにか?
大分県海部郡地域における戦後の言葉で「おシャアさん」がある。

 このサイトの第三章交易を参照のこと http://www.geocities.jp/fumiyjt/12banme.html

これは「行商のおばちゃん」のことを意味する愛称である。
つまり平安から中世、近世、近現代を通して存続した漂泊の物売りのことが臼杵、佐賀関、佐伯あたりの東九州太平洋岸海の民の間で「シャア」と呼ばれていたと考えられる。
江戸時代の言葉で言えばひにんである。
英語ならばドロップ・アウターとでも言おうか。
 
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海部地名、豊地名は今でもリンクしており、そこには必ず中央からの干渉と差別が入り込む。そしてそうした菊池の言う「賤民」たちの存在がある。すなわちそこが「簒奪され、敗北し、漂泊し、逃げ込んだ場所」だったからである。
これに対し松田修は日本の天皇は「もうひとつの賤民」であると書いている。(『異形者の力』青玄社1994「芸能と差別」)
 
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イワムロとはなにか?
おそらく「岩室」とでも書くか?
「いわい」というめでたい言葉のうしろには「磐」という隠語が隠されている。
「いわい」「いわき」「いわた」・・・・その地域の歴史になにかひた隠しにせねばならぬ陰部があったのだろうか。
「いわむろ」は古墳の玄室のことである。
豊後国風土記石井郷の条に
この村には土蜘蛛の室があって、石を使わないで土だけで築いたとある。(おそらく石垣小学校そばの古墳であろう)
また禰疑野(ねぎの・竹田市ねぎの。七つ森古墳)に「打猿」という土蜘蛛がいて、ほかに八田(やた)、國麻呂という三名がいた。景行天皇は彼らも征伐したとある。
また同じく豊後国風土記 海石榴(つばきいち)の条にもくたみ(久住周辺)にも「鼠の石窟」という土蜘蛛がいたとある。「つばいち」地名は大和にもある。近つ飛鳥から武内宿禰と聖徳太子に関わるが、実際にはそこは羽曳野という「石を引いた」地名の古墳造営道路である。
つまり。
菊池によれば、土蜘蛛とやたとえたと古墳造営氏族と鉱物採集民と鍛冶は帰順させられた先住氏族であり、漂泊していたのは帰順に追従しなかった誇り高き分派であったと想像できることになる。
 
 
 

ケガレから生まれ清まりへ/なぜ被差別部落に白山信仰が多いのか? 菊池山哉はなぜ大事か

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ケガレから生まれ清まりへ/なぜ被差別部落に白山信仰が多いのか?
 
『白山信仰の謎と被差別部落』河出書房新社 2013  前田速夫 著
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白山神社はなぜ被差別部落に多いのか――永遠の疑問に答えようと書かれた本書。白山信仰の中心地であった北陸で、時宗、一向宗にいかに駆逐されていったか、歴史的な推移からもその信仰の実体を追う。目次 : 序章 白山信仰の謎と被差別/ 第1章 被差別部落が祀る白山神/ 第2章 悪所の白山信仰/ 第3章 神の子孫であることを主張する「河原巻物」/ 第4章 差別と暴力―菊池山哉の民俗世界にそって/ 第5章 白山信仰と柳田・折口/ 第6章 白山信仰と中世北陸の宗教風土/ 第7章 白山信仰と一向一揆/ 第8章 白山信仰と時宗系部落
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309226019/
http://www.hmv.co.jp/artist_%E5%89%8D%E7%94%B0%E9%80%9F%E5%A4%AB_000000000538376/item_%E7%99%BD%E5%B1%B1%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%81%A8%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E9%83%A8%E8%90%BD_5517805

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今週の本棚・新刊:『白山信仰の謎と被差別部落』=前田速夫・著
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 毎日新聞 2013年12月08日 東京朝刊 (河出書房新社・2100円)
 「白山神社は全国にある。奈良時代の僧、泰澄が加賀白山に登り、開眼したのが始まりとされる。
 白山信仰は謎が多いという。一地方神が全国に広がっているのはなぜか。主神が女神なのはなぜか。被差別の民に信じられたのはなぜか。
 『余多歩(よたある)き 菊池山哉(きくちさんさい)の人と学問』『白の民俗学へ』などで知られる民俗学者の著者は、白山信仰の謎を追い続けている。
 先達である在野の民俗学者、菊池山哉に倣って日本各地の白山神社を訪ね歩く。旅先の民家の祠(ほこら)に白山姫神が祀(まつ)られているのを見て背中がぞくぞくしたというほどの熱意。
 白山信仰は被差別民と縁が深い。柳田國男がつとにそれを指摘したが、その後、黙した。山哉が柳田の考えを受継いだ。
 いま著者は山哉の考えをさらに受継ぎ、各地の白山神社を調べ歩く。小さな神社まで訪ねるその意欲に感嘆する。健脚の研究者。
 白山信仰は、死、病い、ケガレを忌避しない。死からの再生を願う。だから権力に見捨てられ、既成の宗教からも落ちこぼれた人々が、白い神にすがったのではないか。筆は熱く、読者を白山神社へと誘う。(川)     --「今週の本棚・新刊:『白山信仰の謎と被差別部落』=前田速夫・著」、『毎日新聞』2013年12月08日(日)付。
[元記事http://mainichi.jp/shimen/news/20131208ddm015070128000c.html:title]
 
 
『余多步き菊池山哉の人と学問』前田速夫 晶文社, 2004 - 366 ページ
白山神こそ日本の原住民の信仰ではなかったか。被差別の地をくまなく歩き、前人未踏の学問をうちたてた知られざる民間学者をえがく初の本格評伝。
 
 
菊池山哉 きくちさんさい
菊池 山哉(きくち さんさい、1890年10月29日 - 1966年11月17日)は東京府出身の郷土史家、土木技師、政治家(東京市会議員)。本名、菊池武治。部落史研究としては被差別部落民を異民族起源とする説を唱え、賛否両論を呼んだが現在この説は退けられている。
1915年4月 - 『郷土研究』3巻6号に「平家の末と称する特殊部落」を初めて発表。
1920年8月 - 『武蔵野』3巻2号に「三股考」を発表。
1921年4月 - 『武蔵野』4巻1号に「牛島と庵崎に就いて」を発表。
1923年7月 - 『穢多族に関する研究』を自費出版。
1927年9月 - 『先住民族と賤民族の研究』を自費出版。
1930年12月 - 『旅と伝説』3巻12号に「甲州奈良田の人々」を発表。
1931年3月 - 『人類学雑誌』46巻5号に「岩手県二戸郡二戸町石器時代遺跡に付て」を発表。
1933年2月 - 『人情地理』1巻2号に「長吏に就て」を発表。
1935年8月 - 『沈み行く東京』を出版。
1946年4月~1947年10月 - 『多麻史談』13~16巻に「科野之長吏」、「甲駿豆之長吏」、「相模之長吏」、「武蔵之長吏」、「近畿之長吏」、「六十余州之長吏」、「別所と俘囚」、「長吏の研究」他を次々発表。
1953年 - 1月、『長吏と特殊部落』を出版。9月、『西郊文化』5輯に「乗潴駅所在考」を発表。
1956年 - 1月、『武蔵野』35巻1号に「白山神について」を発表。9月、『五百年前の東京』を出版。
1957年12月~1961年4月 - 『東京史談』25~29巻に「日本の特殊部落」を発表。
1961年1月~1962年2月 - 『信濃』13~14巻に「東国特殊部落の始源に就いて」を発表。
1962年6月 - 『日本上古史研究』6巻6号に「別所とエトリの問題」を発表。
1966年 - 9月、『天ノ朝と蝦夷』、11月『別所と特殊部落の研究』を出版。
1967年5月 - 遺著『東国の歴史と史跡』が没後出版。
Wikiより
 
 


 
さてようやく本論に入らせていただくわけだが、上記はそのための当座の資料である。
 
それにしても筆者はなぜ被差別を無謀にも扱って来たかを書いておかねばならない
。当然、正規の歴史学者たち、常識的な研究者はこの問題を避けて通ろうとする。そうしてきたために不明になり、解明できずに迷宮入りしている難問が学問には山積している。この問題を彼らはなぜ避けてきたのか?それは恐れと穢れをタブーとし、またタブーとさせたがってきた集団があったためであろう。いわゆる本末転倒と錯綜、と本人たち自身の中に内在し続ける矛盾、自己欺瞞が研究者の行く手をはばみ、かつ、自分たち自身の心の開放までもはばんでいる。
 
だからといって、永遠にそうした欺瞞の蜂蜜の沼の中で、傷つけあいを恐れていては、歴史の方程式は解けないことも事実である。たとえば朝鮮民族がなぜいつまでも慰安婦問題にこだわり、被害者意識の権化になりたがって前に進もうとしないかと同じ次元の大問題である。
 
心の中に国境がある。
越境せねばならんばい。いつかは。
 
会津がいつまでも薩長を憎む。越境せねばならんばい。超越せねば前は見えてこない。
 
だからでしかない。
 
幸い、同盟からも連盟からも今のところ筆者自身への「やめろ」の糾弾は及んでいない。これは古代史や歴史の宿命であり、邪馬台国の謎などもその奥に潜んでいる。
 


 
 
もうひとつのブログのほうに、今日、ざっとしたことは書いておいた。
菊池が言っている「長吏」とか「印地」とかいういわゆる俗称に、実は差別が潜んでいる。「別所」「院内」ももちろんそうである。
 
あっちのブログに筆者はこう書いた。
 
 
四国と言えばいまいましい原発のある伊方の方角。
原発だろうが、危険な施設、あるいは原発以外のエネルギー施設、さらには往古からの官幣農作物(たばこ・シットウイなどなど)の産地は地名では「印地」・・・つまり全国的には別所とか院内などと呼ばれてきた主として蝦夷俘囚らが入れられた別区地帯に置かれるのであるが、この説は古くは明治~昭和初期民俗学者・菊池山哉や南方熊楠なんぞが力説してきた。環境劣悪ゆえに、往古反駁を繰り返した民族がわざわざ連行され、そこに入れられ、「別所」とされて代々、鉱山開発(別所銅山は有名すぎるほど有名)蝦夷や渡来系職能の民、政治犯、犯罪者たちが、まるでちょっと前の東北の出稼ぎを排出した村々のごとき、飯場(はんば)の3K労働力として、政治的には骨抜きにされ、「もののけ姫」のたたら飯場の呈で、してやられてきたところを、戦後の社会主義的方向性が彼らにあらたな報酬をあたえんがために鉱山開発が鉱毒でだめになったり、たばこ有害説によるえせ健康ブームでだめになった官幣作物の代用品として超危険な原発や処理作業を与えたため、確かに出稼ぎはしなくてよくなって宮沢賢治の夢は達成したかもしれないが、その利権争いの結果が結局は放射性汚染物質をくまなく海に空に垂れ流してしまうという、前代未聞の国賊的大失態に至ったことは、諸氏ご納得のこととと思う。
 
わが豊の国がそう呼ばれてきた最大の所以は、そこ産物であった小麦やたばこや七島い(しっとうい、畳表=イグサ)の一大産地が国東半島やお隣熊本県南部や鹿児島県にあり続け、そこが熊襲・隼人・筑紫の540数名の記録にある俘囚たちの囲い込まれた「別所」であり、地名にその証拠である院内・湯布院・安心院などの「印地」地名が残存することで明白なのであり、「いんち」地名の出所が平安時代の京都北白川の「印地」であったことなどは前田速夫ら民俗学のあきらかにしているところなのである。
 
蝦夷俘囚は、そもそもは東北の縄文世界では頭目だったものどもで、実力者だったから、遠隔地に放り込み、残った地域には逆に西日本から農民やらが屯田開拓民として放り込まれたのが奈良時代である。つまり血脈をシャッフルすることで、原住民族の怒りや祟る思いを押さえつけ、首謀者は分断したわけである。その俘囚たちが実は技術もたいしたもので、もとよりリーダーだったから各地で逼塞などしておらず、どんどん開拓・開発・生産を始めたために、弥生文化は縄文の一万年以上の知恵に驚き、影響されていった。その結果が今の日本文化の大本であろう。
 
それは聖なる宗教者でさえもほとんどその多くがそうした聖なるひじりと呼ばれ、出身が正反対の「穢 え」の血脈のいるところから出てくることでも証明できる。世界中で、聖人はむしろ穢人部落で発生し、被差別こそが聖なる宗教・宗派・そのリーダーを生み出してきた。なぜなら圧迫されたからである。天草四郎を出す島原などその代表。一向宗、時宗の聖人たちもみな、被差別世界から飛び出してきた。
 
たいがいが鶴姫伝説だの、炭焼き伝承だの、長者伝説だの、白鳥伝説だの、貴種流離譚だののメッカで、戦国時代には信長当たりが危機感でもってそれらをぶっつぶそうとした地域である。足利将軍などはあほだったのか、これをとりこんで大事に扱い、観阿弥世阿弥や歌舞伎やが出てくるわけで、信長でも秀吉でもやはりもとはそうした「阿弥」のこせがれゆえに、千利休やら本阿弥光悦やらの穢人出身者を大事にしてしまったりした。秀吉が利休を殺した最大の理由は、おのれの出自が暴露するのをおそれたからなのである。
 
 
むしろいやしき出自こそが勝者が塗り固めてきたコモンセンスのうそを堂々と暴き、分解し、止揚してきた。聖なるとはつまり本性はこれなのだった。
きたなひとこそが審美眼を持つものになれた。官僚などではなく、底辺の技術者こそが真に世界を突き動かす。本当に役に立つものを、時の政治は奪いこそすれ、自分のものとして、発案者を闇に葬った。それが敗者の歴史学、いやさ歴史そのものだった。そして彼らは押し黙った。ここが日本人が朝鮮人などとまったく異なった美学を持つ世界に冠たる偉大さなのだった。文句もいわず、もくもくと、被差別は差別に耐え、新たな技術を作り出した。これが江戸時代に職人文化と花開いた。その源流は列島の南北縄文文化にこそある。
 
往古より、武家も平民も米は食わされず、貧しい麦や雑穀によって生きながらえ、子孫の細い糸をつなぐようい生き延びた。だから遺伝子から彼らの血潮はうすれていくしかなかった。少数派になっていった。しかし現代でも、3Kのうしろどを支え続けている縁の下の力持ちはこの遺伝子であり、そこから真のヒーローは生まれてくるのである。」
 
 
民俗学が柳田國男以来ずっと提示してきたのはここである。
これが日本人の人間行動学の原理である。
これが畏れや祟りを生み出す。それは防御策としての巫術(ふじゅつ)を生み出し、つまり遡っていけば卑弥呼や直弧文(ちょっこもん)にまでいきつくのである。
 
敗北の歴史学と言い換えてもよかろう。
 
政治は確かに形骸的な援助は、常に、営々と彼らに施してきた。けれどそれらはみな上から目線の福祉策だった。
文献には勝者の論理でしか歴史は描かれていない。だから勝者の視線でしか歴史はこれまで解明されては来なかった。だから何もわからないままでやってきた。
 
 
ところ『平家物語』のように平家という敗者の視点で描こうとした史書もある。いずれにせよどちらも主観的な歴史物語でしかなくなる宿命にある。軍記もそうである。すべての記録は、つきつめれば客観的ではなく、歴史物語にならざるをえない。人間が描くからだ。であるかぎりはいつまでたっても歴史学は文学でしかなくなる。
 
では冷徹な過去の事実はどうやれば表現できるのか?
考古学は真に科学的だったか。物証でありえたか?
いや、人間が判断する限り、どんな客観資料も絶対に客観資料にはなりえないのである。たとえば青谷の戦争遺跡をあなたはヤマトと出雲の争いと見るだろうか?筆者はそうは見ない。『日本書記』の国譲りだけが出雲・日本海を攻めたと書いたわけではない。アメノヒボコも出雲と争っている。また北部九州の甕棺からも戦争の痕跡のある遺骸は山ほど出ている。出雲とヤマトが喧嘩した痕跡などは証明できない。まして弥生時代のヤマトに実用鉄器の遺物はほとんど出てこない。戦争ができたはずがない。ならば代理戦争をよその人々にやらせたという選択肢もありえてしまう。
 
 
いつまでたっても答えなど絞り込めない文科系論理はここでは役に立たないのである。そんなものは学問ではない。科学ではない。
 
見極めるノウハウはいったいなんなのか?
その答えのひとつが実は、明治の民俗学者の偏見の中には満ちている。
 
 
別所が生まれ出る背景は差別と暴力による異民族排斥にある。それが白山信仰を生み出す。仏教はほとんどの地域では、ヤマトとは違ってただの外国からのまれびと、訪問客だったに過ぎない。日本に仏教など実は存在していない。それはインドで仏陀の死とともに終焉しているのである。キリスト教もそうである。イエスの磔刑とともに終わっていた。それが伝聞によって形を変えて広まって来たに過ぎない。変形仏教、変形キリスト教しか今この世界にはない。しかし白山信仰にはまれびと精霊信仰としての「多神教」ではない「多種信仰」(上田正昭)としての原始からの変わらない神として永続している。本当の信仰とは仏教でもキリスト教でも回教でもなく、これである。
 
それが唯一、中央の権威によって隔離されてきた別所の中にのみ培養されてきた国が日本である。この形態はインドの原始信仰ヒンドゥーに非常に近い。
 
 
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 国東仏教の根源には「豊国法師」たちが伝えてきた、日本最古の仏教の到来があった。それは中央の百済仏教よりもはるかに古い。信仰は教義や国家宗教のごとき政治的に利用され続けてきた形骸化された信仰などよりも実は真の仏教に近いものだっただろう。民衆と差別の民の中にこそ本物はありつづけた。
 
 
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花祭り、鬼会、白山信仰の原始信仰こそが日本の信仰

「水くくる」考/白山菊理姫/しらやまとはくさん/生まれ清まれるとは

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「くくる」考
 
 
 
 
千早(ちはや)ぶる 神代(かみよ)もきかず 龍田川(たつたがは)
   からくれなゐに 水くくるとは
         
              在原業平朝臣(17番) 『古今集』秋・294
 
 
●「水くくる」の解釈
 「定家はおそらくこう解していたであろう。『顕註密勘』に「水くぐるとは紅の木の葉の下を水のくぐりて流る」という顕昭の注をそのままにあげているとし「竜田川岩根のつつじ影見えて猶水くぐる春の紅」(拾遺愚草・下)などの歌が、その解釈の上に立って本歌取をしていることは、野中春水氏が指摘される通りである(「国文論叢」3)。ただ、この歌を作った業平にかえってよめば、賀茂真淵以下今日の通説の、下句を「こんなにまっ赤な色に水をくくり染めにするなどとは」といった解釈が正しいであろう。まことに奇抜な着想の才を見るべき歌であるが、定家らは「渡らば錦なかや絶えなむ」(古今集・秋下)の光景をこの歌に思いうかべていたのであった。」
新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による
http://sky.geocities.jp/okamepapa07/hyakuninisyu4.html
 


 
 
現代の多くの一般的解釈では上記引用解釈のように、「水くくる」を染め物の「括り染め(くくりぞめ)」した生地が、竜田川で晒されるさま、というのが定説になっている。括り染めとは布の部分を糸でしばって(くくって)おいて染付けると、絞ったところだけ白く元の生地が染め残るという技法で、よく「総絞り」とか耳にするあれである。ロウケツ染めなどでも絞り技法を使う。しかしこの和歌にはそれだけでない意味も存在するだろう。

「くくる」には結ぶ・縛る・ひとまとめに束ねるなどの意のほかに、くぐもった、かがんだ、そして潜る(くぐる・もぐる 古・泳る)がある。この和歌の切り取ったシーンは、赤く染まった生地が竜田川の水に浸され、水流を潜っている様をダイナミックに詠んである。たくさんの真っ赤な紅葉の落ち葉が水を潜り抜けるその様が、まるで赤い染物が水を潜っているようだ、と解釈するのが正解で、わざわざ括り染めなどを持ち出すシチュエーションなど無用である。そもそも唐紅(真っ赤に)「水くくる」のであるから、それは晒した染物の赤い布地に見えたわけであり、その模様に技法である括り染めが出てくるような幕ではない。そんな細かいデザインは和歌の大意のかえって邪魔になるし、ましてそこまで見えるはずもない。まことに誰が解釈したのか意味不明ではないか。
 
 
岐阜県可児市久々利地名由来
「南西部、久々利川が形成したごく小規模な扇状地の上に位置する小集落。久々利地区には応神天皇を主神として祭る「八幡神社」や、1800年前に景行天皇が美濃に行幸した折に設けた仮宮「泳宮(くくりのみや)」がある。
泳宮 池の中で水をくぐるように泳ぐ鯉に由来する久々利という地名」
http://4travel.jp/travelogue/10731216
 
そもそもくぐる行為には穢れをはらうという意味があった。
神社での茅の輪くぐりも、くぐれば穢れが払われる、聖なる生き返り、ヨミガエリ作法なのである。
 
 
白山の女神菊理姫は「きくりひめ」と読ませるがもとは「くくるひめ」である。
花祭りの、かつての行事に「シラヤマ」があったが、この秘事は、白装束、笠をつけた氏子たちが、シラヤマと呼ばれる小山に行って、戻ってきたらヨミガエリという、折口に言わせると胎内を経ない誕生儀式である。
 
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シラヤマ行事
 
 
 
「一方祈願を掛けた人たちは、用意した白装束・扇の笠・数珠に杖で、宮人や舞人の案内で日暮れ頃までに舞庭へ集まります。三途の川の橋のところには茶碗に飯を山盛りにして真ん中に箸を一本立てたのが幾杯となく置いてあります。これを枕飯といい、これを祈願者に食わせます。終わった者から順次太夫、舞人の案内で経文の橋を渡ります。どうしても渡れない者が十人中二、三人はあったといいます。渡れたものは後生がよい、渡れないものは後生が悪いことになります。そこで、今後善心になるようにくれぐれも勧告して、善心に立ち返れば次の神楽のとき極楽へ行けるようにしてやると言い聞かせて返します。
 
 渡れたものは極楽行きといって白山へ入ります。白山には悪神がいて、入ってきた善男善女を散々に苦しめますが、明け方になって山見鬼を大将に沢山の鬼が来て悪神を退治して助けます。
 こうして鬼は斧で白山を伐り開き、助けた人たちを連れて舞庭へ帰ってきます。この白山から助け出されるまでのことを、当時の人は、死んで白装束になり枕飯を食い、僧侶からお経を授けられ、三途の川を渡り極楽へ行ったのが、鬼の導きで再びこの世へ生まれ出るのだといって喜んだものであります。
生まれ清まり
 前述の生まれ変わった者を清める意味で産湯を使わせる式です。中央の釜に湯を沸かし、袮宜が笹の葉に湯を浸して、その者の全身に振り樹けます。全部が清まると、四日目の晩から花祭にかかります。」
 
 
 
奥三河地域の花祭は、愛知県三河北部から長野県南信地域まで、国境の奥地に伝わった追儺行事だが、大元は福井の白山信仰が広まったもので「はくさん」信仰と読むのが普通のところ、一部地域でのみ「シラヤマ」と呼んで、今はもうこの儀式を継続しているところがなくなろうとしている。白山をシラヤマと読むと各地の白山神社系のやしろ地区ではしかられるわけで、つまりシラヤマとは被差別の別所でのみ継続されていた秘事だったと考えてよいだろう。再生儀式である。
 
ククリという地名はしかしまだ各地にいくらか残っている。
 
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上記引用した岐阜県可児市久々利の標識。
 
くぐる。
一旦死の世界をくぐって、戻ってくればヨミガエリという地名で、菊理姫を祭る白山信仰があった証拠に成る。菊理姫は神話ではイザナギが黄泉の国へ入るときに、黄泉と現実世界の境界にいて、イザナギに黄泉に入る心得を説き、導く女神であるから、要するに「境界神」である。それもそんじょそこらの塞の神とは違い、黄泉へいざなう境界神であるから、シラヤマに入る儀式もヨミガエリ儀式ということになり、菊理姫に逢う為の秘儀だと考えられる。つまり「生まれ清まれる」儀式だということになる。いわゆる胎内めぐりの擬似行為と言える。各地にある胎内巡りそのものがつまり折口が言う、母体を通過しない誕生儀礼=再生による穢を払う行いになるだろう。
 
柳田は官僚だったゆえに、途中でこういう被差別に関わることをやめてしまうが、大阪生まれで自身ややあやしき身分の出自だった折口は、これを追求し続けた。そもそも自らも出自の卑しいことであることを知っていて、ルーツを探りたい衝動に取り憑かれていたのだろう。その神秘主義は泉鏡花などをはるかに上回り、虚実がないまぜになっていった感じがある。
 
先日なくなった俳優・三國連太郎にも、その出自を「白=古代の穢」と見た著作『親鸞 白い道』があり、自ら監督して映画化もされた。白、親鸞とくるのは、親鸞=浄土真宗=被差別という構造が彼の中にあったのだろう。比叡山は白山進行を迫害したが、彼らが移住したのは皮肉にもその比叡山信仰の末寺である地域だった(白山比神社 しらやまひめじんじゃ、加賀一ノ宮)。
 
 
筆者は日本の仏教は、そもそも聖徳太子がらい病患者を救ったと書かれたように、最初から被差別を救済するために輸入された、つまり煩悩とは国家の悩み=まつろわぬ賎民を救済、というよりも順応させ、馴致させ、鈍化させるための国策だったと思える。白はそもそも死の色であり続けた。白をハレの色彩と考えるのは西欧文化である。その思想を取り入れたのは明治天皇の皇后が最初である。その頃から葬式の衣装は黒になって、結婚式のドレスや誕生の腹帯は白になっていった。白とは穢者を覆い隠す死者の烙印の色だった。夢殿の中に眠っていた救世観音も白い布でぐるぐる巻きにされていた。救済とはつまり、このように穢者をおおい隠し、闇に葬ることだったのであろう。それは国家の宿命である、今も。
 
 
もう7年も前、筆者は白山神宮に詣で、大宮司と話を交わしている。久邇さんは言葉を選びながら賎民も被差別という言葉も、秦氏もすべて包み隠さず口に出した。
しかし地元民は神宮の女神の名前さえよく知らない人々が、ここを仏教の道場だと
思い込んで訪れている。
 
 
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 Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
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特集・海人と海部 その1  「耳」は朝鮮語訓で「クイ」耳部=木部、木部=紀氏配下 前方後円墳後円墳アイデアは木部氏

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以前当ブログ石棚のある石室と紀氏海民で奈良平群谷の紀氏分析を予定していてそのままになっていたので、今回改めて紀氏と石棚石室、海人族がいつから海部になっていったかなどを再調査した。主とする参考文献は理数系出身の歴史考証学者・中村修の最新作『海民と古代国家形成史論』日本史研究叢刊23 和泉書院 2013.
 
 
 
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1 海部と海人 あまべとあま
 
 
「あま」は当初は海人と表記し、これは個人、集団である「人」であり、部ではなかった。海人が海部になるのは『日本書記』記述では5世紀を遡らない。ということはヤマト政権が海部を置いたのが5世紀以後だったわけで、それはヤマト政権が蝦夷と隼人を除く列島の大半を「朝廷の傘下に収めた時期」も5世紀を遡れないのだということになる。部は大和政権がまつろわぬ海人族や山岳部族などを治めるために置いた管理された政治的臣下集団であり、それに管理されたものどもが「人」である。これは山部と山人もまったく同様であるが、海人に比較して「山人」という言葉はほとんど歴史上使われない。一般的に「山の民」である。
 
であるから当然、ヤマト朝廷というものは5世紀以後に成立すると考えるべきなのであろう。森博達の『日本書記』分析でも、『日本書記』は雄略紀から書き始められたというのであり、五世紀後半の雄略からこそが大和朝廷の始まりという伝承が八世紀の朝廷には存在していたと言える。
 
では5世紀までまつろわなかった海人族の版図とは?
これは紀伊半島に入る海人以前の中国地方の吉備(岡山県)にあって、その版図も記紀記述から類推可能である。
 
筆者の個人的観測では、吉備以前は弥生時代の北部九州にその震源地があったと見るが、ここではひとまず中村の分析を書いておこう。
 
吉備海人族の版図類推可能な記事
 
1 記紀記述でのヤマト政権の津・水門(みなと)・浦の記載には備中・安芸・讃   岐・豊後の記載はない。
 
2 備前・備後・伊予の記載は敏達・斉明朝からである。
 
3 西播磨の記載がない。
 
よって、これらの地域は5世紀~斉明期までは、吉備(王国?)の版図だったと考えられる。瀬戸内、四国北部、そして東九州太平洋沿岸である。その構成人員のすべてが隼人系・安曇系などの海人族であろう。このつながりは考古学的にも、稲作伝播の上からも弥生時代以前にまで遡れる。米も鉄も吉備は弥生時代最古の遺跡を持っている。また前方後円墳の最初も吉備盾築に求められ、弧文を中心とする吉備型埴輪もそれを語っている。ヤマトも最初は吉備の海人族が首都としていたのであろう。
 
これが斉明天皇以後までに徐々に吉備から裂かれてヤマトの版図になってゆく。
全国に点在した海人族の「人」集団が、徐々にヤマトに取り込まれて部に変化してゆく。その最初は雄略大王の吉備王権簒奪から始まるが、飛鳥時代中盤までは、まだまだ吉備海人族はヤマトから独立した存在だったと思われる。
 
最初にヤマトに飲み込まれていったのは葛城政権の一派であった紀伊半島の紀氏、次いで東海の尾張氏、日本海の安曇氏、宗像氏らである。彼らから海部が選ばれ、地方海人族居住地からまずは吉備の版図が海部管理地へと飲み込まれていくのである。
 
 
この吉備勢力海人族の制圧にともなって広がったのが紀伊の古墳群に顕著な古墳石室構造の「石棚」だったと思われる。ただし、石棚の広がりは最初、それとは逆に九州から吉備を経て紀州北部に入っていた。各地の石棚石室の到達順序は古墳の成立年代によってそれは見極めねばならない。
 
ヤマトからは紀氏、安曇氏、尾張氏などが海部として送り込まれることで、各地に新しい紀州モデルの石棚が広がるが、それ以前から原初的な石棚風習はすでにあったと見なければならない。それは世紀を経た逆輸入であった。
 
 
例えば6世紀まで独立性を存続していた北部九州では紀州型の複数段の石棚はほとんど存在していない。逆に4~6世紀に北部九州で流行した装飾のある石室様式は、吉備まで到達したが、近畿を飛び越えて東海・東国・福島県まで広がっている。しかし同じ海人集団であった尾張地方に装飾古墳はない。こうしたことから同時代でも同じ海人族集団でも、ヤマトにまだ服属しない集団と服属した集団があったことがわかる。つまりそもそもの海人族とは、このように個の小集団であり、地域的に地縁的結合はして中集団へと発展して行くが、政権に加担する集団もあれば、独自のテリトリーを持つものも多かったということになり、結果的にそれらをすべてヤマトが治めることができたのは、実に平安末期の源平合戦以後のことになるわけである。それはつまり縄文的地縁集団の存続だったわけであろう。
 
山部と海部が置かれていくことは、大王・天皇にとって海山=国土の保有者=大王であることの証明でもあり、だからこそ天皇紀にはまず最初に天皇が狩猟や漁業を行う儀式として記録され、結果的にそれが税=ニエ=山海の産物の献上へと組織化されていくことになったわけだろう。
 
「あま」とはそもそも中国海岸部における白水郎を指す読み方だが、おそらく日本の海人族ははるか古代から彼らとも交流、混合していたのだと考えられる。
 
また彼らの首長をある地域で「耳」としたと考えられ、その信仰は海洋民族に多い太陽信仰、月神信仰であり、記紀の死生観や祭祀に多大な影響を与えたと思われる。この「耳」は朝鮮語で「クイ」と読む(中村)ので、各地の耳=首長だったであろう「クイ」がつく地主神・・・例えば大山クイ、摂津の三島溝クイ、あるいは百舌鳥耳原などの人名・地名は、海人族集団の長を示しており、それら地域に今も残るアマテル御霊信仰の神社も、海人たち個の信仰だったものが7~8世紀の「大和政権」により取り込まれたのがアマテラス信仰=国家信仰に発展したと断言してよいと筆者は考える。
 
耳を朝鮮語変換して音声表示させるとqwiで、qはほとんど発音しない「ウイ」と聞こえる。古代発音ではおそらくクイだったのだろう。『木簡研究』第20部では
、八世紀のものと思われる木簡に「耳中部百」の人名があるが、この読みは「きべの・ひゃく」であろうという。耳をクイと読み、クイのベの百=木部の百と読むということは、『続日本紀』宝亀四年条に「耳を紀(き)とし」とあってまず間違いない。これは吏読(りどく。朝鮮渡来系官吏独特の訓)という。耳原がそもそも墳墓のある場所と言う意味であるなら、それを作った住民が紀氏あるいはその配下となった海人族・木部氏だった可能性が高まり、ひいては古墳とは(前方後円墳と言い換えてもよい)海人族の吉備から直接持ち込んだ様式だった可能性が出てくるのかも知れない。いずれにせよ木部は耳部であり、弥生時代の投馬国などの首長であるミミも、吉備=投馬国には有力な証拠であろう。(ただし朝鮮の木氏(もくうじ)と木部が同じとは言えない(辰巳和弘など)。)
 
なお「中」が「~に」「~の」であることは稲荷山鉄剣にある「辛亥年七月中」が「七月に」と読まれることからも間違いない。中=助詞「に」「の」である。(石和田秀行)
 
 
なぜ海人を取り込む必要があったか?
当然、海外貿易などの産業・国力のためと、租庸調のためであろう。
 
 
 
つづく
 
 
次回、石棚の全国分布と年代別移動。
平群紀氏と古墳と竜田川
全国「木部」と紀氏
などの予定
 
 
 
 
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木部と礒部と紀氏の相関関係

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紀氏の紀ノ川沿岸、近畿における居住地について、栄原永遠男(さかえはら・とわお)は以下のように五ヶ所に分けて考察している。
 
①和泉国南部の淡輪(たんのわ)地域
②紀ノ川下流北岸側・・・大谷古墳群周辺
③紀ノ川下流南岸側・・・岩橋千塚古墳群周辺
④大阪湾沿岸部
⑤紀ノ川中流域
 
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これをもっと広範囲に地名と平城京木簡などから調査したのが中村修である。
 
 
中村が考証した地域をかいつまんで拾い上げ地図にばらまいてみた。
 
●推定される紀氏及びその部民と海部の居住地
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かなり広範囲である。
ここに木部と礒部があげられた理由は、以下のような理由であるらしい。
 
木部は「キノヘ」と読まれてきたけれど、「キベ」「キノベ」と濁るのであろう。
全国にある「きのべ」「きのうえ」地名は紀氏の部としての「キノ部」=木部が居住したからだろう。表記は木上、木部、城部、城戸、城上、
万葉文字として「き」には「城、紀、木、帰」が、「べ」には「部、上、戸、於、瓶(偏は缶)」が使われている。
 
礒部は海の民の居住地地名で、紀氏が中心的管理者だった海部集団地名である。
(ちなみに磯・礒の音読みも「き」である。Kawakatu)
 
 
 
礒部に関してはやや強引な気もするが、石部、石上(いそのかみ)などの地名にも海人族が関わったというのは、物部氏・石上が海人から出てくるという筆者の推理に見合ってくる。物部氏も紀氏とは大阪湾の南北に隣り合って入った海人族なのだろう。
 
葛城氏をはじめとするヤマトの盆地の南西部から和泉、河内、摂津、播磨といった瀬戸内東端にあたる沿岸部の氏族や部民が、瀬戸内海ルートで西の九州から大阪湾に入り、天皇氏よりもいち早くヤマトにはいっていたことが推測される。
 
木部については、筆者近隣では大分市に「木の上」地名があり、「きのうえ」とは「きのへ」きのべ」の音訓変化ではないかと思われる。ここには大分君の大古墳だったと思われる御陵古墳があった(今はない)。
 
また国東半島に岐部地域があり、ペドロ・カスイ・岐部を輩出した岐部一族が今日も居住する(ケベス祭りが有名)。ここには線刻画を持った伊美鬼塚古墳や三世紀後半築造と見直された下原(しもばる)古墳がある。宇佐~国東地域は鴨系・三島系の闇おかみ神を祭る神社が多いがこれは大和直系ではないかと思え、出雲系だと言えるのだが、紀氏海人族が海部として入る前からどうも木部がいたようである。
 
また北部九州の4~6世紀に集中する装飾古墳の絵柄から見ても、あるいは門脇貞二の考証からも、玄界灘~有明海熊本北部の古墳群も、その多くは海人系だと思われる。さらに紀氏同族とされる葛城氏、平群氏、大伴氏同属とされる佐伯氏なども紀氏の下で海部になっていくようである。
 
河内凡河内(おほしこうち)氏もまた海部の一角であろうから、紀氏の武内宿禰系譜には『新撰姓氏録』の記載にある葛城、平群、蘇我、木国造、波多宿禰、巨勢のほかに凡河内、平安時代の橘の一部、木臣、海部の一部などなどが追加されてしかるべきかと思える。同族としての石上氏、物部氏、佐伯氏、尾張氏、穂積氏など海に関わっての系譜もあったであろう。
 
 
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ただ木部に関して従来は、「木工匠」としての名乗りという見方もあり、京都の木津川周辺地域には息長系譜が見えるが、木必ずしもそうとは見ずに、木津地名も紀氏木部がいたと中村は見ておるようである。
 
例の三角縁神獣鏡のさまざまの絵柄の中で、ある種の鏡が、椿井大塚山古墳出土品と兄弟鏡として各地の木部関連古墳から出てくる。(別記する予定)
 
「部」とは氏族の部隊として5世紀後半以後ヤマトの王権が掌握しようとした技能部民集団であるが、紀氏や葛城氏や尾張氏や安曇氏などの海系氏族がヤマト命を受けて各地に海部となって派遣されるわけである。そこから海部氏も一部紀氏関係者が出ているのだと思われる。
 
 
 
 
ちょっと飛躍するが、三世紀後半の古墳が九州でもかなり再認識されはじめており、吉備と豊後の関係などからも、最初ヤマトよりも吉備瀬戸内王権と北部九州海人族との間に並立した王権があって、それが邪馬台国になると見てもよいかもしれない。そうなるとヤマトのほうが狗奴国であるという逆転の発想もにわかに現実味を帯びてくる気がする。
 
 
宇佐を中心とした豊と海部郡地域がかつての吉備王権の重要な拠点だったことは確かであろう。そして豊の大分君勢力がかつて吉備に関与する紀氏の氏族であったことも考えねばなるまい。なぜなら豊は火とともに筑紫国造家同族を名乗る多氏の系譜であるはずなので、では多氏と紀氏・吉備氏はどんな関係かを探る必要が出てくる。5世紀以前に彼らは九州で出会い同族であったはずだ。それが東へ移動したのである。どうもそれが飛鳥・ヤマト朝廷に先駆けた河内王権の正体なのかも知れない。その伝承は物部氏のニギハヤヒ東征として残された部族伝承にヒントがあるかも知れない。いわゆる半島と筑紫を経由して伝播する江南文化の持ち主はこれだったか?
 
 
次回考古学的考証。
 
 
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天王日月獣文帯三神三獣鏡分布から見た吉備王権と紀氏

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三重県嬉野町一志筒野古墳出土 三角縁天王日月獣文帯三神三獣鏡
 
 
三角縁神獣鏡と言っても絵柄はさまざまある。
この三角縁鏡は
 
大分県宇佐市免田古墳群の赤塚古墳(4世紀)
福岡県福岡市の天神森古墳
同じく行橋市に近い苅田町の豊前石塚古墳(二面)
同じく筑紫野市原口古墳
京都府山城町椿井大塚山古墳(二面)
 
の合計六枚が出ており、
京都府の椿井大塚山古墳から出た神獣鏡の中にはこれが二面あった。そのうちの一面が上記九州の古墳の鏡と兄弟鏡(同笵鏡)である。つまり鋳型が同じ複製品である。
 
宇佐市の赤塚古墳は4世紀の古墳で、国東の下原古墳(3世紀後半)と並んで九州最古級の前方後円墳であるから、3世紀中ごろ築造の京都の木津川沿線にある椿井大塚山の被葬者とここの被葬者には、北部九州や近畿地方よりも深い、古いえにしがあったということになる。ところがこの鏡は奈良の黒塚古墳の大量の神獣鏡には含まれていなかった。同じ三角縁仲間でも氏族関係が違うようなのである。
 
京都大学の小林行雄は、椿井大塚の神獣鏡をそこまで細かには分析しなかったようである。ざっと三角縁神獣鏡が全国に分配された証拠品とおおまかにくくってしまった。これはヤマトが九州よりも先だという、先入観の時代だったからで、当然多くの疑問点が今になって噴出していることは邪馬台国ファンなら誰でも知っている。
 
あくまでもほとんど同時代に、木津川から豊の宇佐や筑紫の各地首長に贈られた鏡があったということなのである。これは椿井大塚が豊や筑紫の海人系氏族と同族であることを物語っている証拠品である。決してヤマトなのではなく、京都の木津川沿線であることが重要なのだ。
 
赤塚古墳からはほかに
 
別の同笵鏡である天王日月獣文帯三神三獣鏡と
唐草文帯二神二獣鏡
天王日月・鋸歯文(きょしもん)帯四神四獣鏡
波文帯盤龍鏡(はもんたい・ばんりゅうきょう)の全部で五枚が出ている。すべて漢鏡である。
 
このもう一枚の天王日月獣文帯三神三獣鏡の同笵鏡は画像で示した
三重県嬉野町の筒野古墳と
伝・京都府向日市の物集女(もずめ=桂地域)付近
滋賀県栗東市の岡山古墳
で出ており、全国で合計四面。
 
波文帯盤龍鏡は京都府長岡京市長法寺南原古墳
同じく山城町の椿井大塚山古墳
奈良県桜井市茶臼山古墳
 
で合計四枚。
 
唐草文帯二神二獣鏡は
 
赤塚以外では岡山県備前市の丸山古墳でしか見つかっていないので合計二枚である。
 
 
これらの鏡の相関関係は、地図に置いてみると前の記事に載せた紀氏らの分布域にそっくりそのまま合致してしまうのである。
 
つまり椿井が紀氏の古墳であることを物語っているのがこれらの宇佐の鏡なのである。(中村修)
 
 
 
奈良の茶臼山古墳はいわゆる記紀に乗っている「イワレ」という地域のすぐそばで、葛城山の東側にあたる。
伊勢湾の嬉野町から伊賀を抜けて木津川へ出られる。
いわゆる「海人の陸行ライン」である。
 
 
まず言える事は、小林の分配説のようなヤマト=邪馬台国とはこの鏡はまったく無関係だとわかるのである。これは紀氏らの古い九州とのえにしを語る鏡であって、それが3~4世紀に遡れるのである。つまり邪馬台国滅亡への時代に、紀氏たちは西日本に大豪族として登場した。おわかりでしょうか?海人族とは魏志によればどうもその風習が「倭人」であり邪馬台国と同時代人である人たちの風俗だと書かれた人々なのだ。そして倭人伝の倭人風習記事は狗奴国紹介記事の直後に置かれてあるのだ。
 
 
 
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石棚構造を持つ石室と紀氏と海の民木部

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長文引用
 

奈良県立橿原考古学研究所友史会2010年2月例会
「平群へぐり谷の古墳」
 案内 村社仁史氏(平群町教育委員会) 千賀 久氏 集合近鉄生駒線平群駅
 三里古墳 →現・長屋王墓(梨本南2号墳)→現・吉備内親王墓→ツボリ山古墳→あすのす平群→西宮古墳
→ 剣上塚古墳→石床神社旧社地→柿塚古墳→烏土塚古墳→宮山塚古墳→宮裏山古墳→竜田川駅
 
  
 
  「平群谷には、北から竜田川がその中央を南流していて、その両岸の丘陵地帯に70基ほどの古墳が確認されている。
それらの分布状況をみると、比較的広い平坦地が広がる右岸に、甲胃をもつ剣上塚古墳、初期横穴式石室の大塚山古墳、そして、前方後円墳の烏土塚古墳、方墳のツボリ山古墳、西宮古墳などの主要古墳が集中する。後者の3基は、特に目立った所を選んで築いていることに注目できる。
それに関連して、平群谷の横穴式石室の変遷をみると、まず、玄室の上部をドーム状に積み上げる構造の石室が、最初の宮山塚古墳から三郷町勢野茶臼山古墳、柿塚古墳と続く。そして6世紀後半に、畿内型大型横穴式石室が採用される。それは、玄室の天井が平天井で、大和や河内の主な大型横穴式石室と共通の特徴をそなえた石室構造であり、烏土塚古墳、ツボリ山古墳、西宮古墳の3基がそれにあたる。つまり、烏土塚古墳の段階に畿内型大型横穴式石室を採用した背景に、その被葬者(平群氏)が中央政権の構成メンバlとしての地位を確立したことが想定でき、同時に、地元での勢力基盤も安定したものになったとみられる。左岸地域でも、梨本南2号墳が6世紀前半の前方後円墳と確認され、可能性のある三里古墳とともに、梨本地区周辺での今後の調査に注目できる。」
 
竜田川左岸の三里・梨本地区に、三里古墳がある。
墳丘の周囲は大きく削られていて、その墳形は、円墳と前方後円墳の両方の可能性が考えられ、円墳では径24m、前方後円墳の場合は長さ約35mになる。
石室は、上部の石が抜き取られていたが、その床面はよくのこっていた。両袖式の石室で、玄室の幅は2.4m、長さ約4.9m、羨道の幅1.5m、長さ7.1mで、玄室の奥壁に床面の上40cmのところに低い石棚を造り出している。

石室内には組合式家形石棺(二上山の凝灰岩製)が中心の棺で、馬具や鉄刀・須恵器・土師器の多くはこの棺に伴う。羨道にも花山岩の組合式石棺があり、このほかに、玄室と羨道の各1か所と、石棚の上下の空間にも埋葬された可能性はある。

副葬品は、鐘形の鏡板と杏葉がセットの飾り馬具と、心葉形鏡板をともなうもう一つの馬具セット、150点ほどの須恵器と土師器、各種の玉や鉄刀などがある。須恵器や馬具の特徴から、六世紀中葉から後半に埋葬が続けられたことがわかる。
ところで、石棚をもつ横穴式石室は、和歌山市岩橋千塚古墳群をはじめとする紀伊地域を中心に、近畿の北部と瀬戸内から九州の一部にまで分布する。これらは、文献史料で想定される紀氏一族の分布に重複する地域が多く、石棚のある横穴式石室は紀氏とその同族が造った墓と考えられ、三里古墳も同様な性格づけができると、河上邦彦さんが報告書で指摘している。
これに対して辰巳和弘さんは、岩橋千塚などの石棚は高い位置にあり、石室の構造材としても機能していて、三里古墳の低い石棚はそれらとは同列に扱えないこと、さらに、平群谷に紀氏が居住したのは奈良時代以降として、否定的な見解を示している。」
 
 
 
実はこの平群谷にはすぐそばに吉備内親王の墓もあるのだ。古くから吉備王家ゆかりの地でもあるのだろう。
 
 
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石棚とは古墳石室の一番奥の壁面に、壁に溝をほってはめこんだ屍床(ししょう)状の棚である。屍床とは九州北部から熊本に多い石屋形(いしやがた)と呼ばれる開放型石棺に付随した遺体を直接置く空間のこと。古い古墳ではさらにその上部に石棚も同居することがある。
 
時代的に、屋根である石棚と床段の形式が古く、やがて床の両側に化粧板が全面を除く三方を囲むように置かれ始め、さらにはその上に唐様式のような屋根が置かれた。それとともに石棚は役目を終えたが、かなりあとまで形式的に残される古墳がある。結局この死床、石屋形が九州式横穴古墳の様式とともに畿内へと持ち込まれたのが紀ノ川沿線から平群の二段式石棚石室ではないかと思われ、ヤマトではこれがよりシンプルで密閉性の高い「石棺」へと変化した。
 
最初に持ち込むのは九州の海人族木部である。これが紀氏(木氏)の祖先であろう。
 
 
ただいま全国分布図作成中。
 
 
和歌山県紀ノ川南岸の岩橋千塚古墳の石棚
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ちなみに筆者近隣には石棚を持つ千代丸古墳があるが、ここには線刻画が刻まれており、木部首長の墓だったと考えられる。国東の伊美鬼塚や下原と同系統の種族であろう。
 
 
いずれにせよ紀ノ川海部といい、国東といい、宇佐といい、また東国茨城県にまで装飾と石棚を運んだ氏族は彼らである。
 
 
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屍床→石屋形→石棚へ 時代・地域移動拡散とその変遷

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というわけで、前の記事で書いた横穴式石室の西から東への伝播とともに移動拡散してゆく石棚石室の変遷を時代を経て一目瞭然にしてみた。
 
 
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最初は屍床だけだったものが5世紀後半の古墳初期には隔壁を両側に置き、さらに6世紀までに上部に石屋根が置かれていく。このセットが「石屋形」である。前方は開放されていて遺骸は見える。これは追葬や墓参りを念頭に置いた構造で、死者の腐ってゆくさまが参拝者に丸見えになる。しかし横穴式以前の畿内型竪穴式石室や石棺では密封されるためそれが見えない。つまり横穴式は家族葬のための古墳であり、何代も追葬可能。
 
要するに記紀神話にあるイザナギの黄泉巡りの着想は畿内型竪穴式石室では生まれえず、九州型横穴式石室が畿内に導入されてからの着想である。ということは海人族が伝えてきたのが神話の根幹だということになる。
 
九州式横穴石室構造図と屍床
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大分市歴史資料館
 
 
 
終末期までに、氏族の末端である部民たちがこれをシンプルにした複数石棚と近畿考古学が呼んでいる紀ノ川・平群のものに簡略化してゆく。このころ、薄葬令が出されているので終末期古墳はぐっと小さくなる。それにともなって部の首長たちの墓も縮小・簡略化されたと考えられる。それは大分の千代丸古墳を見ればわかるように九州などの地方でも同様であった。
 
ところがその頃ようやくこれらの古墳様式が届いていた東国・北関東ではここから古墳繁栄期が始まっているのである。ゆえに古墳後期~終末期であるはずのときに、茨城や福島には豪華な装飾古墳や大前方後円墳が作られたわけである。
 
このように文献だけでなく考古資料からも筑紫そして吉備、最後に葛城と、政権がヤマトに平定されてゆく歴史がしのばれる。記紀は最初に出雲、次に南九州、やがて吉備を順番に帰順させていったと書いている。まさにその通りの順番で古墳は変化して行く。なぜ出雲や筑紫や吉備を雄略以後のヤマト王家が滅ぼすのか?それは当然、大陸交通の要衝港だからである。最後に6世紀中盤に筑紫国造家が継体大王によって滅ぼされると一気にヤマトは飛鳥時代が開花し、蘇我王権が樹立された。これを再び転覆したのが吉備王家と葛城残党と九州多氏系譜と東海・東国を味方にした天武天皇なのである。ようやく天下は元の鞘に収まった。大海人皇子の名はまさに縄文から弥生の海人政権の復活だった。しかし天武死後、再び藤原氏によって政権は静かに転覆してゆく。
 
邪馬台国~狗奴国、狗奴国からまた邪馬台国へ、その後も日本の政権は何度も何度も交代劇を繰り返すのである。
 
これが木部海人の古墳様式伝播の歴史である。わかりやすいと思ったら下のタグをクリックしてください。
 
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紀氏系海部と石棚石室分布図など図解資料

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紀州式石棚石室と肥後式石屋形横穴式石室の分布
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双鳳文鏡分布図
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この鏡については別記で解説
 

 
 
全国海部の分布
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関連資料
 
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3世紀後期出現期の古墳一覧はいずれ作成します。
全国的に箸墓と同時代、あるいはそれ以前の前方後円墳はかなりの数再認識されており、今後もさらに増える傾向。
これまでの纏向古墳群最古という、近畿に偏った考え方はすでに古いということでしょう。近畿考古学の邪馬台国是が非でも畿内説は、全国認知度をかてにしたマスコミが作った話(恣意的捏造説)になりつつあるのが現状です。
 
実際、纏向遺跡からは昨今、邪馬台国を証明できる証拠品の発掘は皆無で、むしろ唐古・鍵遺跡の見直しがよく聞こえています。纏向は狗奴国というのが今はいいように感じます。むしろヤマト説で言うなら紀ノ川~葛城地域のほう、あるいは淀川水系の調査がこれから重要でしょう。
 
 
九州の南北や東九州からやってくる紫金山古墳や葛城の古墳群から出る直弧文や貝輪と紀氏の関係がわかれば、邪馬台国と狗奴国の相関関係や位置関係は必ず見えてくるはずでしょう。
 
倭人伝や韓伝にある「倭韓」表現でも半島南端に倭人の韓の国があったと考えられ、その風習は海人族・海士のものでありましょう。
海人を中世の海賊とあなどっていてはなりますまい。彼らが日本人のDNAと日本独自の文化に与えた影響は、ほかの氏族の追随を許しません。源平の勝敗を分けたのも瀬戸内海の海賊たちでしたし、藤原純友も海人を使いました。遣唐使もまた海人ナビゲーターなしにはなしえず、空海も四国海人族の財力で入唐したわけです。
のちにキリシタンバサラ大名・豊後大友氏が海外貿易で繁栄した背景にも古代から豊後にあった海部があったと思えます。宇佐から豊前地域から遠賀川へつながる「豊」の文化圏に連なる古墳群の主たちは、渡来人秦氏と合体して八幡信仰の大本を作り出す。那賀郡でつながる全国海岸部は、遠く鹿嶋・香取へつながっております。そこから福島を経て東北宮城、岩手へと鉄の道も形成し、それがヤマトタケル神話、景行吉備王権に反映、吉備を中心とした紀氏たちの海人ラインは九州から東国・東北へ広がっています。日本海の安曇部、南九州の久米部・隼人らとともに彼ら海人族は、天皇家を動かします。さらにアマテラス信仰を天武・持統が生んでゆく背景もまた海人族の太陽信仰にあったのです。紀氏が佐伯氏と組んで、蝦夷を全国に運んでもいきました。日本の歴史はまさに彼らとともに動いた。これは西欧から中東においても海洋民族が海をつないで歴史を動かしたことに通じます。
 
昨今、沖縄のミナトガワ人や旧石器人の高度な文明がクローズアップしていますが、海人はそのDNAさえ受け継いでいた、縄文人よりも日本最古の日本人の祖先だった可能性があるのです。これが今も日本人が共通して持っている島人文化の根幹にあります。
 
歴史ブログを始めたときから海人族をテーマにやってきたことは、どうやら間違いではなかったようです。
 
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器台から特殊器台・東西流通の歴史変遷

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通常の器台・壺から特殊器台・特殊壺へ
「弥生時代最初期から壺形土器が、少し後に器台が現れる。器台はサイズが大きく、装飾性が強いことなどから日常的には使用されなかった道具と考えられる。器台は壺、甕、皿などさまざまな器物を載せるためのものであるが、壺に比し出土数はきわめて少ない。弥生時代中期頃になると壺とともに器台が各地で見つかるようになり、器台に壺などを載せて、祭祀に使われたのではないかと推測される。
収穫祭には、収穫された米で作った酒や新米で作った粥を壺に入れたり、さまざまな形の器台に収穫物を載せ、神を招き、神の前で、ともに飲食し、神に収穫の感謝や願いごとをしたのではないかと想像できる。そのような儀式を相嘗(あいなめ)、直会(なおらい)といった。
 
これらの儀式を、血縁があり、集落の人々と親しかった首長が取り仕切って、酒を飲み、食べ物を分け、また、穀霊や田の神、水の神、山の神、土地の神などさまざまな神に酒や食べ物を捧げたり、祈祷をしたのではないだろうか。
この祭祀の道具立てとして器台と壺が、弥生時代の中期に主に西日本で広く使われるようになった。
 
この頃の普通器台は器形が比較的長く細身だが、後期前葉には、次第に重量感のあるものに変化していく。 後期後葉になると、器台は非常に重量感を増して全体に文様(鋸歯文、沈潜文)が描かれるようになり、上部と裾の間が長い筒状になり、方形の透かし孔も見られるようになる。壺は、首の長いハの字の形になり、この要素は特殊壺に引き継がれる。 後期中葉から後期後葉に遷る頃の器台と壺の中から、特殊器台と特殊壺が生まれる。この二つは備中南部に現れ、吉備中に広がっていく。特殊器台と特殊壺が出現する頃になると、吉備では村々で普通の器台と壺はほとんど使われなくなる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%AE%8A%E5%99%A8%E5%8F%B0%E3%83%BB%E7%89%B9%E6%AE%8A%E5%A3%BA
 


 
 
器台とは弥生時代中期~古墳時代初期の祭祀や葬儀で使われた供物(くもつ)を皿に載せて置くための土器である。今で言うなら三宝にあたる。主として古墳での祖霊降臨による新しい子孫の生誕祈願祭祀に、古墳に置かれた器物。吉備形特殊器台はこれから発展したと考えられることが多い。普通器台とか筒状器台などと呼ばれて特殊器台と区別される。
 
その出土地はこれまでに、

1 大分県大分市 浜遺跡
2 山口県熊毛町 天王遺跡
3 山口県玖阿町 畑岡遺跡
4 愛媛県松山市上 土壇原(どたんばら)遺跡
5 愛媛県松山市小坂 釜の口遺跡
6 兵庫県赤穂市原 田中弥生墳丘墓

といった瀬戸内水系の遺跡や墓から出ており、淀川水系でも、大和川水系でも出土している。
7 大阪府高槻市古曾部 芝谷遺跡
8 大阪府八尾市 中田遺跡
9 奈良県田原本町 唐古・鍵遺跡
 
 
 
 
 
特殊器台が吉備地方より西に皆無であることから、それ以前の形式のものとして筒状器台による吉備同様の祭祀が行われ、それが瀬戸内を西から東へと移動して弥生時代終末期(3世紀後半、纏向遺跡の少し前頃)に特殊器台が生まれたと考えられる。特殊器台には独特の「弧文」が装飾されることが多く、この模様は弥生時代九州首長たちがステータスとした南海産貝殻を加工してできる渦巻きの幾何学化であろうと考えられるので、この弧文のデザインや弧帯文と呼ばれる渦巻き模様の発信源は吉備からで、それが纏向遺跡から特殊器台や木製円盤として出たということは、纏向遺跡とは最初、吉備勢力が入り先住者を平定、あるいは帰順させた遺跡だと考えられる。さらに東海系、四国、山陰・山陽系、九州系土器が纏向から出ているので、吉備勢力は西日本から東海までの広範囲な地域を祭祀や前方後円墳によって治めていたと考えられそうである。

その吉備型特殊器台や貝らせん模様のさらなる震源地は西の九州であることは出土品の原初形が東へ行くほどにほかの素材で作られ代用されたり、デザインの洗練・簡略化が見られるためまず間違いない。古墳時代に入るとこれらの吉備経由のデザインは大阪淀川水系の紫金山古墳、そして大和南西部の葛城地域へと伝播する。この持ち込んでいくラインはやはり瀬戸内海から淀川、大和川、紀ノ川を伝う海人ルートに合致している。もちろん材料である貝そのものを琉球などへ採りにいっていた士族も遠洋航海船と海中に水没する技術がなければなるまいので、九州の海人族であろうし、その歴史は古く、縄文時代後期からに及ぶ。また貝模様、らせん模様の呪性は遠く東北地方にまで及んでおり、これもまた稲作や鉄を古くから運んでいた海の航海者でなければ不可能である。
 
 
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このように日本列島の最新技術や流行が西から東へ海人族の手によって運ばれていたことは間違いがない。しかしある時代から、今度は吉備あるいは大和から逆コースで瀬戸内を遡る技術や加工品やが見えるようになる。この時代はつまりヤマト新政権による列島東西の平定・統一化の始まりであり、それはほぼ雄略大王の5世紀中盤前後に始まるのである。ヤマトタケルと祖父・景行や父・仲哀、あるいは神功皇后の東西を鉄によって平定していく物語は、まさに雄略時代の東西平定を3世紀~4世紀に置き換えたものであり、その雄略を倭王武と比定可能にするのが、同時代中国の史書に書かれてある倭王武の上奏文にある「祖は甲冑を貫いて」「西は●ヶ国、東は●ヶ国を平定し」「寧処にいとまもないほどだった」という祖先伝承に合致するのである。

その時代は雄略よりも百年ほど昔の四世紀のことになるだろう。古墳が全国的に広がり始める時代である。その頃の古墳、つまり纏向と同時代、纏向プレ古墳群と同時代・・・3世紀後半の全国分布を作っていかねばならない。再審考古学では、吉備の2世紀に作られた墳丘墓が纏向で前方後円墳になるとされ、それが最初に九州へと伝わる時代が3末期の豊や筑紫遠賀川からであろう。
 
しかしその古墳群は雄略たちのヤマト式なのではなく、あくまでも紀氏のような人々が瀬戸内海で播磨・安芸・長門・伊予・淡路島・讃岐を経てまず豊の周防灘沿岸から上陸しており、そこから南北へ海・川を伝って広がった。豊の国東から宇佐を経て豊前海岸、そして穴門・英彦山山系を越えてを抜けて遠賀川へである。この逆行コースこそが倭王以前に吉備、紀ノ川、葛城の海人族が雄略に先んじて日本の東西の統率者であったことを明らかにしている。
 
それが記紀の雄略大王の吉備・葛城殺しに記録されたわけである。ここで間違えてはならないのは、雄略大王の後半生を『日本書記』は決してよく描いていない、むしろ悪魔のようなと書いたことであろう。飛鳥~八世紀のヤマト朝廷は雄略を始祖と認めてはいたものの、それは建前であり、その政権は継体という緩衝材によって奪われてしかるべきもの、つまり自分たちとは縁遠い祖人扱いにしているわけである。つまり倭王政権は転覆されたことになろう。
 
その記録は雄略よりずいぶん前の神功皇后紀に忍熊王の反乱として描かれた。倭王の祖人である応神天皇と腹違いの息子が、新羅から戻った神功皇后と応神天皇のヤマト入りの邪魔をするのである。当時、大和には吉備残存勢力と葛城氏の反抗勢力があったと思われ、そこには紀氏や平群海人族らが加担していたのだろう。だから忍熊の反乱とは武内宿禰系九州海人族の倭王への反発なのであろう。
 
『日本書記』はこの事件を、当時の二大勢力による血脈争いとはしたくなかった。なぜなら『日本書記』思想は天皇は万世一系、血脈は神武から途切れないとしなければならないからである。だから直前の王権だった雄略よりもずいぶん前に話を置くことになったのだろう。これは歴史の捏造でもあるし、遠い昔のおろかないくさであると責任逃れしたともとれる。
 
実際、次の継体大王も、応神×忍熊と同じく淀川でヤマト方に邪魔されたわけで、これも責任逃れなのである。飛鳥王権は雄略でも継体でもなく欽明が「押し開く」。要するに雄略は建前上の祖人だが、事実上の祖人は欽明であるということになろう。
 
やがて蘇我氏が登場し、それらの創作された飛鳥建国「神話」は律令国家造営のためにくっきりと具体性を持った道筋を持ち始める。日本の信頼できる文献古代史とはここから始まるのである。その蘇我氏が果たしていかなる系譜から出たのかを『日本書記』はしかし明確にしない。葛城の血脈なのか、渡来なのか、紀氏なのか・・・いまだに明確な答えは出されてはいない。しかしいずれにせよ、藤原氏がつくりあげる律令国家の体制はすでに蘇我氏やのちに孝徳や天武が外郭をすでに作っていたものの受け売りと思想導入した皇国イデオロギーによる加工品なのであ
ろう。
 
 
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礒部と伊勢部/いせ・いざわの地名由来

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ランクリ!
 
 
『古事記』
「此の御世に、海部、山部、山守部、伊勢部を定め賜うなり」(応神天皇紀)
 
 
 


 
ここにある「伊勢部」とは文脈から察するに西田長男や水野祐は「伊勢の海部」と解釈している。しかし南伊勢地方に海部地名はなく礒部(いそべ)地名だけがある。だから伊勢部とは礒部のことかと中村修は推定している。(ただし、伊勢国河曲郡に海部郷があったという説もある。)
 
イセベはかつては伊勢神宮に所属する部と考えられてきた。
 
太田亮はこれを礒部説として発表して以来、イセベ=礒部が定着している。
しかし礒部が果たしてどういう部民なのか、まったく不明なままである。
礒部は誰が見ても海岸地名だという先入観があったからだと中村は言う。それで礒部を『和名抄』に探してみると、東海~山陰地方に限ると
 
三河国渥美郡礒部
下総国香取郡礒部
美濃国席田(むしろだ)郡礒部
信濃国埴科(はにしな)郡礒部
上野国碓氷郡礒部
越前国坂井郡礒部
但馬国朝来(あさく)郡礒部
 
があり、このうち三河の渥美郡礒部だけだった。あとは内陸部にある地名である。なぜ内陸部に海岸地名が残ったのか?おそらく川を遡上して内陸部へ海人族が入り込むためであろう。もちろん船材と船くぎの鉄採集のために相違ない。
 
全国で探せばこれ以外に
 
神奈川県相模原礒部
東京都中央区伊雑太神宮(三重県伊雑宮の「いざわ=いぞう」もここも伊雑とは「いそ」である。井沢は磯の訛りであることがある)
茨城県古河市礒部
茨城県桜川市(旧岩瀬町)礒部
石川県金沢市礒部町
富山県富山市礒部村
などがあり、全国礒部神社となると数限りない。
 
 
 
 
 
 
 
礒部が集中する中心地は南伊勢地方である。特に伊勢の摂社である伊雑宮(いさわのみや)は地元でイソベさんと愛称され、「いぞうのみや」で、いぞう、いざわ、いそうは磯由来である。つまり伊勢神宮に奉仕した礒部のための社。神宮に毎年米を奉納してきた。
 
 
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伊勢・志摩と言えば海女である。持統天皇紀に天皇が尾張から信濃へゆくのにわざわざ伊賀から名張を抜けて鈴鹿峠を越えて伊勢に出て、志摩から船で尾張へ向かうという記事がある。以前も書いたが伊勢志摩には海人先住民の弥生時代の遺跡が埋もれている。
 
「イソ」という言葉は往古は海岸の磯辺というよりも、岩石がごろごろした場所ならどこもイソだったらしい。『時代別国語辞典』にはイソ=②石、巌とある。
だから石のある場所がイソ。だから石もイソ。だから石上を「いそのかみ」と読むのだとわかる。天理市の石上は、つまり「磯の神」という名前である。ならばそこを本拠とした物部氏も石上氏も海人である。
 
 
磯辺が伊勢神宮に直属して奉仕した部民であることは、伊勢の『皇太神宮儀式帳』や『止由気宮儀式帳』に神職としての礒部氏が山ほど出てくるから、つまり海人でありつつ伊勢部でもある。伊勢部には礒部から選ばれたと言えようか。その礒部氏から分かれたのが度会氏(わたらい・うじ)であることは意外と知られていない。
 
志摩の海人族はいわゆる「渡し」でもあり、知多半島などへ人を伊勢から運んでいた。「渡し」は大阪住之江の渡辺の大本の「渡部わたしべ」から出るので海人族の中でも、低い身分だった。渡し守とも。度会も当然、渡すのが仕事であり、そこから聖なる方向へ向かい神と人を渡す=つなぐ=結ぶのが神職の役目である。わたらせ会わせる職称だと言える。橋渡し役は、神職・カンナギ・修験者などはみなそういうことを生業とした。要するに日本の神職とは古代から変わらないシャーマンであるということになろう。
 
なぜシャーマンは海人族から多く出たのか?
 
当然、代々海にもぐったり、「板子一枚下は地獄」と言われる船に乗っていて、危険な行為=憑依を要するからであろうし、広く世界とつながって知識も豊富だったからシャーマニズムの本意を手中に収めることができただろう。まずもって伊勢志摩の海女もまたシャーマンの証である魔よけを身に着けて海中に水没する毎日。
 
憑依がたやすい理由を科学すると耳の中にできる骨にあるかも知れない。
全国の海の氏族たちは古墳時代、中央では大古墳を作れなかったが、地方では初代や中興の祖らは大前方後円墳を持つことができた。兵庫県灘の首長は五色塚、豊後の海部直は亀塚・築山・大在古墳という大古墳を持っていた。その大分県の海部郡にある築山古墳には耳に海士特有の耳小骨の隆起(外耳道の外骨腫と呼ばれる骨性の隆起)があった。
 
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         Wiki「耳小骨」より 赤い部分が異常に隆起する
 
 
 
 
さて地名由来を続けるならば、伊勢の五十鈴川もいろいろと諸説言われるが、おそらく「いそづ」であろう。「いそづ」→「いしづ」→「いせづ」→「いすず」。石津。
伊勢地名そのものも「いそ」が訛ったと考えられる。
ならば奈良の石上も伊勢の神宮も同じになる。同じ海の神である。
そもそも往古、海は山と同根である。大山積(おおやまつみ)も大海神(おおわだつみ)も海人族は同等に信奉する。礒部と木部がある福井県気比周辺に大和田という人名はかなりあるが、つまり「大和田積み」で海人族の末裔である。大和田信也・獏兄弟。
 
「わだ」は海人族であることは間違いない。「わだ」とは朝鮮語のPada=波であるからだ。
 
和田姓や地名と志賀姓・地名の同居は多い。
 
 わたのはらふりさけみれば・・・
 
 
次回、大阪の凡河内氏、丹後・豊後・尾張の凡海直について。
 
 
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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
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凡河内・凡海氏

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おほしこうち、おほしあま
 
これらの海人氏族の分析はたくさんある。
しかし一番重要な問題は「凡」の意味である。
 
凡は「おほし」と読ませる。
現代表記では「おおし」である。
 
凡の字義は多い。
 
角川新字源で調べると
 
土を盛りつき固めるのに使う板組みの形にかたどる(漢字)。
借りてすべての形にかたどる。
形声字の音符になると、かぜ。
1 すべて ア、みな イ、あわせて
2 およそ、おおよそ ア、あらまし しめくくっていう イ、おしなべて、たいてい
3 つね。通例
4 数
5 なみ。ありふれた。つまらない。
国 おそよ、まったく
 
 
さて?
 
 
河内は「かわち」で地名である。大阪淀川東岸の南部、北部を指す。
「かわちのあたい」かどうか不明。
 
海は「あま」で「うみ」ではない。
 
ちなみに天武天皇の幼名も大海人と書いて「おほしあま」である。
つまり「大」なら大きいで間違いない。
しかし凡には大きいと言う意味はない。
つまらない海の氏族?ということはあるまいからやはり大海原の首長という意味であろうか?
 
 
 
不明。
 
 
凡海氏については国東地域の姓名で「忍海 おしうみ」があるが、これはヤマトでは「おしみ」と読ませる。居住地は瀬戸内海と伊勢湾である。
『続日本紀』に「凡海宿祢麁鎌(あらかま)を陸奥に遣わして金を冶たしむ」とあって、この人は「大海宿祢」とも書かれているから「凡」はやはり「大」でよいだろう。
 
国東の先端、伊美から吉備にかけた瀬戸内海で特徴的な考古遺物に平形銅剣がある。ここだけしか出てこない剣である。この範囲はつまり弥生~古墳初期の吉備政権の範囲になる。
 
国東にはウナデという祖人がやってきたという伝承が記録されている。この「う」とは宇佐津彦の祖先かと思える。ここまでは別途分析する。
 
 
凡河内も大河内とも書かれる。やはり「大きい」でよかろう。
 
 
凡氏族はその地域の下に配置された軍事的対外交渉に従事したものという説もある。つまり各地の海部の統率者が用いた軍事集団。(吉田晶)
 
 
記紀双方に「尾張連等之祖、凡連の妹、目子郎女」とある。これは継体大王の妃になった尾張目子媛のことであるが、尾張氏が凡連(おほしのむらじ)の子孫だと書いている。当時の連は尾張氏のほうで、凡直であるならば伊勢湾の兵器庫の管理者である。しかし凡連についてはほかに記載もなく不明氏族。
 
おそらく伊勢湾から三河湾を管理した海部である尾張連氏を天武を援助した勲功でもって尾張海部の正当性を書いてあげるなかで、凡連という祖先が作られたのではなかろうか?
 
 
このように凡は海に関わる海部氏族の下にいた実務者=「人」ではないかと思われる。大きなは美称であろう。
 
 
次回国東から豊の海部
 
 
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三角縁神獣鏡は吉備王権のシンボル・笠松文と吉備共栄圏と国東木部氏

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筆者は国東の岐部地名は紀氏臣下の木部だと考えている。
3~5初期まで、瀬戸内共栄圏が吉備を中心に東は椿井大塚山古墳から尾張東海地域、西は豊後・豊前の海岸部~海部郡まで広がっていたと見ている。
その範囲は昨日書いた平形銅剣の出土地から伺うことができる。
 
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「平形銅剣は香川、愛媛の両県を中心に分布し県内では15か所をこえる遺跡から約50口ほど発見されている。平形銅剣の分布は、この地域の弥生文化の特色として知られている。」
 ~ 高松市歴史民俗協会・高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』より抜粋 ~http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/5798.html
 
 
平形銅剣共栄圏

 
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この銅剣には鋸歯文が刻まれているものもあり、あきらかに海人系好みの、船上で使用しやすい剣のようである。
 
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もちろん分布の中心地は四国北部であるので、これをもって吉備王権のしるしとはまだ言うことはできないが、高知県などあらたな発見の報告もあり今後が期待される。
 
 
 
また椿井大塚山から出ている三角縁神獣鏡からも宇佐と吉備が深い関係にあったことが見えてくる。
 
三角縁神獣鏡の笠松文から推定できる吉備王権の共栄圏
 
京都府山城町椿井大塚山古墳の笠松文
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共栄圏各地の笠松文
 
▲福岡県
香住ケ丘古
墳出土獣帯
二神二獣鏡
▲京都府
椿井大塚
山古墳
獣帯二神
二獣鏡
▲山口県
宮ノ州古
墳半円方
形帯同向
式神獣鏡
▲静岡県
上平川大塚
古墳 獣帯同
向式神獣鏡
▲愛知県
東之宮古墳
唐草文帯
三神二獣鏡
▲静岡県
新豊院山
2号墳
銘帯四神
四獣鏡
▲伝岡
山県丸
山古墳
唐草文
ここに大分県宇佐赤塚の唐草文帯二神二獣鏡も加えられる。
 
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同じような模様が朝鮮の王墓にも描かれている。
 

▲朝鮮・安岳3号墳主壁画
奥野正男『考古学から見た邪馬台国の東遷』
(毎日新聞社1982年)より引用
 
 
 
この笠松文は節であるなどという説もあるが、河南省洛陽北方の前漢時代の卜千秋墓の墓室の主室天井の壁画に人物が手に持っている絵画も存在するので、筆者は魏志倭人伝にある中国が卑弥呼に与えた黄幢(こうどう=軍旗)の可能性があると見ている。
 
 
 
 
 
黄幢
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吉備とはもしや「きべ」ではあるまいか?
そして紀氏の「き」も往古の表記に「木氏」とあることからも、木部の中から管理者海部としての紀氏が登場したのは吉備王の時代であると考えたい。その時代は5世紀後半の雄略登場以前の吉備王家の存在を充分に証明している。
 
つまり邪馬台国=吉備・瀬戸内・東海王権そして日本海ということになり、唐古・鍵~纏向から出る九州器台、特殊器台・特殊壺、東海・丹後系土器、弧文などなどすべてがこれにマッチする遺物だと言えるとも思うのである。
 
記紀で吉備王権・葛城王権という海人王国を倒してヤマトを手に入れるのは雄略大王である。ということは吉備瀬戸内王権が邪馬台国ならば、雄略の倭五王政権が狗奴国であるということではないのか?
 
その狗奴国も、実は「きの」国と読めるならば吉備から出た別の王権だったとも考えうるのである。
 
景行天皇紀は吉備の船頭を使って熊襲征伐にゆく。そして火の葦北国造もまた吉備王の身内であるとある。さらに6世紀の江田船山古墳は九州式横穴古墳でなく竪穴式であることからこの頃から九州にはヤマト王権が派遣した国造がやってきたと考えられ、5世紀の雄略時代まで吉備派遣の国造がいたのが、突然王権が切り替わったとしてよいように見える。
 
宇佐神宮の伝承には宇佐は吉備の主ともあり、吉備津彦神社と宇佐神宮だけは二品の神格を与えられているのである。詳細は後述。
 
宇佐は国東の中心地として宇佐津彦王家があった。そこへあとから秦氏が八幡信仰を持ち込んだ。国東木部の太陽信仰に八幡神がのっかることで神功皇后と応神天皇が記録に登場してくるのである。ところが豊前秦氏本拠地である香春には現人神社があって秦氏・息長氏・宗像氏・紀氏ら共通の来訪渡来人ツヌガアラシトが祭られているのである。
 
 
次回、豊の海部についてさらに詳しく書く。
そして尾張・岐阜のあまべ。
 
 
 
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