文化財保護課によると、昨年12月26日午前10時ごろ、館内を巡回していた職員が大珠の紛失に気付き、県警渋川署に通報した。同21日午後1時ごろまでは展示されていたのを確認していたという。大珠は縄文時代中期のもので、同県長野原町の八ツ場ダム建設に伴う発掘調査で出土した。(出土遺跡=横壁中村遺跡 遺跡所在地=吾妻郡長野原町 Kawakatu注)
これに先立って高崎市では去年10月に「公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団では、平成27年3月の北陸新幹線長野-金沢・富山間の開業を記念して、下記のとおり、企画展「ときめきの古代ぐんま発掘物語~北陸新幹線地域を掘る」を県庁31階の物産展示室で開催します。北陸新幹線建設に伴って実施された発掘調査の成果を、北陸地方とのつながりを示す出土品にも注目して、時代ごとに展示します。」としてこの翡翠大珠も展示していた経緯がある。
http://www.pref.gunma.jp/houdou/x4600102.html
実は常設展示の際の展示方法に重大な問題があったようだ。
アクリル製の透明ボックスに入れてある大珠を、ボックス横に開いた穴から、来場者には誰でも触ることができていたらしい。驚きである。
ヒスイの大珠の貨幣価値を考えれば、ちょっと考えられない展示方法である。
都会の人間から見れば、盗まれないほうが不思議である。
「ヒスイ製大珠に使用される原石はどこからくるのか、鉄器のない時代にどのような方法でかくも見事な孔をあけることができたのか、長い間謎とされてきたが、1939年に新潟県糸魚川市一帯(新潟・富山県境地方)でヒスイ原石が産出することが確認されて原産地の問題はかたづき、孔あけについては、研磨剤を使用する磨製石斧の製作技術がシベリアから伝わり、それを転用したと考えられるようになっている。なんと、縄文時代の人々は、細い竹管を使って、水晶よりも加工しにくいヒスイにスッパリとした孔をあけることができたのである。」
(p87『宝石の力・幸運は形に宿る』)
(※縄文時代の北陸に、果たして南方産の竹がどうやってとどいたのかも、実は謎である。おそらく笹ではないかと思う。 Kawa)
「硬玉製大珠は北海道から九州に至るまで、現在全国で二百数十個がみつかっています。そのなかで多いのが東日本で、北陸地方・中部山岳地帯で全体の40%、関東地方を含みますと、実に70%近くなります。時代は中期がもっとも多く75%、後期になりますと20%前後くらい、その後はポツポツという感じになります」『古代翡翠文化の謎』(森浩一編、新人物往来社、1988)所収「ヒスイの玉とヒスイ工房」(寺村光晴))
http://www.japanjade-center.jp/archaeology2.html
盗難事件は、一般展示会終了のすぐあとに起きており、展示会で目にした者の仕業である可能性もある。また翡翠を今でも宝物とする某国コレクターの犯行である可能性も考えておく必要もあるかも知れない。地方行政上の学術資料館などはとにかく、これまで日本人の善良さを信じてきた流れでセキュリティーが甘すぎる感がある。特に小さな地域の資料館。また産地ヒスイの管理体制も気になる。とにかむ昨今は、資源や金属製品、ヒスイなどの輝石、仏像等の盗難事件が頻繁に聞こえてくる。性善説に頼っていると、海外からの魔手がどんどん伸びてくるのでご注意。
がともあれ・・・。
弥生・古墳時代
図のように日本でヒスイ原石が出るのは、諸氏よくご存知のとおり糸魚川の支流姫川周辺を核とする北陸富山湾地域が中心地であり、そのほかはわずかしか存在しない(往古はビルマ産と考えられていた)。
日本では三種の神器のひとつ八尺瓊勾玉(記)(やさかにのまがたま 八坂瓊勾玉(紀))は糸魚川産ヒスイの勾玉を「御統 みすまる」につなげたものだったと考えられ、『日本書記』はそれが石上に納められたとある。奈良の石上神宮のことである。また、この八坂瓊勾玉はアマテラスとスサノヲの「ウケイ 誓約」のさい、アマテラスがこれを噛み砕いて胸肩(むなかた)三女神となったとある。この神話はまずは天武時代にはじまったアマテラス=皇祖信仰の一端であるので、天武に妃を差し出して隆盛を極めた九州の宗像(胸肩君徳善 むなかたのきみ・とくぜん)一族の女神が登場したのであり、8世紀の着想であろうが、三種の神器もまたその頃から生まれてきたものと考えてよいのである。
※みすまるとは、「身住まる」で、定着した安定を示し、首飾りの珠が糸でつながり動かない安定するさまを言う。スサノヲで言うならば「安来 やすぎ」と同義。Kawa
三種の神器はそれぞれ
八坂瓊勾玉=宗像氏、
草薙劔(くさなぎのつるぎ 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とも)=尾張氏、
八咫鏡(やたのかがみ)=物部氏あるいは息長氏
の、そもそも天皇外戚氏族の呪器でシンボルだったと考えられ、いずれも天武に妃を差し出すや、軍事援助やをした氏族のものを皇室の神器として接収したものであろう。しかし記紀編纂の途中で、先に滅んだ物部氏では都合が悪く、八咫鏡はそもそも天祖アマテラスの持った呪具だったと変更したのであろう。しかし考えてみれば、一旦はすべてが宮中にあったものが、その後、各氏族の祀った神社へと返還されたのはいかなるわけだろう?
それは天武死後の女帝時代を眺めればだいたいの想像はつく。持統以降、藤原氏の主導の下で編纂されなおした『日本書記』の書きようともそれは深く関連してくる。またアマテラスを祭る伊勢神宮が遠い伊勢に置かれ、そこに八咫鏡が置かれる理由も関わってくる。これは政治的理由によっているのだ。宗像氏も尾張氏も確かに天武の政権奪取に大いに貢献した氏族ではあるが、死後の扱いは決して最上のものではなかった。持統以降、天皇系譜は継体大王を排出した息長氏を中心とした構図を描き出す。平安時代の桓武に至るその流れは、あたかも天武直系を排除し、息長氏中心の女帝系譜に変化する。「たらし」を名に持つ皇極などの女帝が前例として置かれた。
あの源平の壇ノ浦決戦で、安徳帝とともに海に沈んだ草薙劔を探したら、海岸にぷかぷか浮かぶ木刀だったという記録があるが※、要するに三種の神器のすべては、天武治世のいっときだけは宮中に真物があっただけで、あとは氏族へ返還され、持統時代以後にはすべてが偽物=レプリカになっていたと考えられるからである。つまりこれはあきらかな天武系譜の抹消である。
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三種の神器みなレプリカの例証
※文治元年三月廿四日丁未。
・於長門國赤間関壇浦海上。源平相逢。各隔三町。漕艚向舟船。平家五百余艘分三手。以山峨兵藤次秀遠井松浦黨等為大将軍。挑戦于源氏之将帥。及午刻平氏終敗傾。二品禅尼持寶剣。按察局奉抱先帝。(春秋八歳)共以没海底。
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ところが、これはどうやら宮中用のレプリカらしい。
いわゆる三種の神器。鏡もまた宮中用に作成され、何度か火事に遭った。
同じく平家物語から引くと、
・第九代の御門開化天皇の御時までは、ひとつ殿におはしましけるを、第十代の御門崇神天皇御宇に及んで、霊威におそれて、天照大神を大和國笠ぬいの里、磯がきひろきにうつしたてまつり給ひし時、この剣をも天照大神の社壇にこめてまつらせ給ひけり。其時剣を作りかへて、御まもりとし給ふ。御霊威もとの剣にあひおとらず
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三種の神器はすでに宮中に本物は必要なくなっていた。
その証拠に、天武死後、アマテラスは伊勢に、スサノヲは出雲に、神器のすべてはまずは石上から各氏族の元へ戻されている。スサノヲの十種の神宝の中に、これら三種神器に相当する呪具の記述がすでに存在する。当時の武器庫であった石上神宮には、多くの剣も納められたし、七支刀も収まった。当然、鏡も珠も一度は納まるのであろう。「垂仁天皇39 年、瓊敷入彦皇子命(いにしきいりひこ 紀では五十瓊敷入彦命)、茅淳の菟砥川上宮にまして千口の神剣を作り石上に収める」と記録がある。この中にはあの出雲の神庭荒神谷に隠されたおびただしい銅剣の一部もあったのかも知れない。千本の剣をつくるなどすぐには不可能だろう。各地から接収した剣に違いない。
※この千口の剣には名があり、川上部、裸伴部というともあるが、熊襲や土蜘蛛たちの剣だったか?のちに瓊敷入彦皇子命は年老いて「もう高い倉庫には登れない」として妹の大中津姫に管理権を譲り、そこからまた物部十千根(とうちね)大連の手に渡る。五十瓊敷入彦命の母は丹波の日葉酢媛(ひばすひめ)で、日本海海部の一環氏族ゆえ、これは尾張氏と同族が集めた剣であろう。すなわち尾張氏の祖である高倉下が神武へ譲った剣・・・アマテラスと高木の神が受け渡した神剣を意味するか?
いったいどういうことだろう?
持統以下の女帝時代を正当化するために、アマテラス=女帝をにおわせ、前例として息長帯姫=神功皇后伝承を大々的に挿入して、応神河内王朝=飛鳥政権継承を確固たる物にしてある『日本書記』。しかも後付記入でわざわざ「女王卑弥呼の魏志曰く記事」を神功皇后即位前紀に強引に挿入してまで、女帝の正統王統を言い立てる『日本書記』。これこそがのちの明治の「万世一系」の天皇系譜思想の原点・始まりだったことはあきらかである。息長氏が王家に嫁を出した(息長広姫・敏達皇后、舒明祖母)ことが最大の理由であるが、継体大王さえも息長系譜を父方としたと造るほどにまで、息長氏が皇室内で力を持ちえた最大の要因は、近江琵琶湖から越前福井コースで日本海交易を牛耳った海運氏族だったからにほかならず、その正体は安曇傍系だったからであろう。
福井三尾氏出身の継体系譜を応神河内王家の系譜につなぐためには、息長氏をどうしても皇祖の外戚に造る必要があった。しかし神武以来、安曇族はあくまでも天孫の忠臣であり、縄文時代からの先住氏族であり、皇室系譜には混じり得ない血脈だった。ゆえに息長氏の出自もあやふやにしてしまわねばならず、必然的に継体、三尾氏の系譜も実にあやふやになってしまわざるを得なかった。継体が応神の六世孫というのも、もちろん疑わしい。むしろ継体はただの日本海の海運氏族の子でしかなく河内王家を乗っ取ったのであり、それゆえにあっという間に、血脈はみな死に絶える。つまり種馬である。近江には記録に従っていくつかの伝承と遺物が造られたが、見てきた限りでは真物だとは思えなかった。
東国鹿島神宮摂社で東国三社のひとつに息栖(いきす)神社がある。もと「おきす」である。鹿島灘の海中に祭られたが縄文海進の終息で、今は内陸に鎮座する。鹿島神宮は藤原氏の東国総社である。息栖では海岸近くに真水がわく湧水池があり、この真水が湧く聖地ゆえに湧水=わきみずが転化した社名かとも言われるが、藤原氏が息長高祖を祭った可能性が高い。祭神は神功皇后にちなむ安曇族の神・住吉三神である。つまり海の神だ。住吉神は神功皇后三韓征伐に常に船を動かしてきた安曇族の神である。この三神の様式を、宗像氏では女神にしてある。そしてその三女神はすべてスサノヲの娘なのである。それがヒスイの勾玉から生まれてきたとしてあるのだ。
ヒスイの産地である糸魚川地方はかつての古志(高志)の国である。これをオオクニヌシ神話ではカムヌナカワヒメとしてある。ヌナとは沼地。出雲はつまり古志と深くつながった地域だが、同時に縄文世界の東北、弥生世界の北部九州玄界灘ともつながっている日本海海運の中継地であり、さらに東西の境目(異界)でもあり、交差点でもあった。
ヌナカワヒメの「ヌナ」を背負った天皇が三名いる。
神渟名川耳尊(かむ「ぬなかわ」みみのみこと)=第2代綏靖天皇、
訳語田渟中倉太珠敷尊(おさだの「ぬな」くらふとたましきのみこと)=第30代敏達天皇、
天渟中原瀛真人尊(あまの「ぬな」はらおきのまひとのみこと)=第40代天武天皇
である。
この三者はすべて息長系譜・日本海に極めて関係性が高いと筆者は考えている。まず天武は天皇系譜では兄・天智と同じく敏達直系で広媛を母方の祖としている。敏達は広媛を皇后にしているので二人の父方高祖に当たる。綏靖は九州多氏の神八井耳の弟であるが、「みみの氏族」多氏が九州だけでなく富山湾にもいたことを示している。ここには神功皇后が息長を父方に、葛城を母方にしたという出雲・古志・多氏・玄界灘海人族・そして南九州葛城族の四者の深いかかわりが表されている。息長氏とはこうした日本海と南海と縄文世界の地の交わりから作り出された想像上の氏族だったのではあるまいか?その実態は安曇族族長であろう。
と、ひさしぶりに盗まれたヒスイ大珠から、妄想を楽しんだ。
ヒスイ大珠には必ず穴がひとつ穿たれている。おそらくいくつかの大珠を往古は紐でつないで首にかけていたのであろう。
富山県上平村西原遺跡出土硬玉大珠(富山県埋蔵文化財センター)縄文
3世紀の魏志倭人伝には
「壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。」とあるが、この「青大勾珠」こそが姫川産ヒスイの勾玉原石だったのかも知れない。中国ではヒスイは碧玉と並ぶ貴重品である。
今後も、考古遺物や天然資源の民間単位での盗難・搾取は起こることだろう。行政研究機関におかれては気をつけられたい。
すでに姫川も、小笠原の紅サンゴ同様の簒奪を受けてしまっているのかも知れない。セコム、してますか?