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アレロパシー/フィトンチッド/コンパニオン・プランツ 秘伝か共有か

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前のヒガンバナのアレロパシー効果ついでにその他の植物のアレロパシー成分について豆知識を書いておきたい。



アレロパシー(英語: Allelopathy)とは、ある植物が他の植物の生長を抑える物質(アレロケミカル)を放出したり、あるいは動物や微生物を防いだり、あるいは引き寄せたりする効果の総称。邦訳では「他感作用」という。ギリシア語の αλληλων (allēlōn 互いに) + παθος (pathos 感受) からなる合成語である。1937年にドイツの植物学者であるハンス・モーリッシュにより提唱された。

アレロパシーを有する植物の例
アレロパシーは、連作障害の原因の1つと考えられている。セイタカアワダチソウなどの帰化植物が勢力を拡大する要因の1つでもある。
また、特定の植物により雑草害虫防除する生物農薬としての利用が注目されている。




●セイタカアワダチソウのDME(2-シス型デヒドロマトリカリア・エステル)
セイタカアワダチソウの他感作用物質はポリアセチレン化合物のひとつ,DME(2-シス型デヒドロマトリカリア・エステル)とされ,遷移の前段階の優占種ブタクサにも,次の段階のススキにも阻害的に働くばかりでなく,自らの発芽にも阻害的であった。
 多くの植物で他感作用を示す化学物質が発見されている。それらの一部をあげる。
① 降水による溶出の例:セイヨウナシやナガバユキノシタの葉からアルブチン。ナナカマドの実や種子からも。
② 大気を介して伝播する例:サルビア属の植物の葉からテルペン類。ヨモギ属の葉からも。
③ 土壌を介して伝播する例:モモの根からアミグダリン,リンゴの根からフロリジン,麦類の根からスコポレチンやクマリン,シバムギの枯死した根からフェノール酸など。
【帰化植物の侵入】 セイタカアワダチソウは明治末期に北アメリカから日本に侵入したと考えられる。アメリカでは花の少ない時期に蜜蜂の蜜源として重要な植物であった。日本で分布が急激に拡大したのは第二次世界大戦後である。虫媒花なので花粉症を起こす植物ではない。
【参考文献】 『環境植物学』 田崎忠良(編著) 朝倉書店 1978,『種子生物学』 鈴木善弘 東北大学出版会 2003



胡桃の木のユグロン(juglone、ジュグロン)または5-ヒドロキシ-1,4-ナフタレンジオン(5-hydroxy-1,4-naphthalenedione)、5-ヒドロキシナフトキノン(5-hydroxynaphthoquinone)は、化学式がC10H6O3の有機化合物の一つ。食品産業では、C.I. Natural Brown 7、C.I. 75500とも呼ばれる。この他にもヌシン(nucin)、レジアニン(regianin)、NCI 2323、Oil Red BSという呼称がある。
ユグロンは、クルミ科植物、特にクロクルミ (Juglans nigra) の、殻および樹皮で生成し、多くの植物に対し有毒または成長阻害を及ぼす。ユグロンは、除草剤染料インク食品および化粧品のカラーリング剤としてよく使われる。

ユグロンはアレロパシー化合物の一つである。造園家は、クロクルミの木の下でのガーデニングは難しいということを長く知っていた。これはユグロンが代謝に必要な酵素を阻害する効果を有するためである。ユグロンに耐性を持つ植物および木には、カエデ (Acer)、カバノキ (Betula)、ブナ (Fagus)がある。
ユグロンは多くの植食昆虫に有毒である。しかし、ユグロンを1,4,5-トリヒドロキシナフタレンに無毒化するものもいる。






さくらのクマリン (coumarin) は化学式 C9H6O2 で表される有機化合物ラクトンの一種で、芳香族化合物である。常温では無色の結晶または薄片状の固体
の葉に代表される植物の芳香成分の一種。バニラに似た芳香があり、苦く、芳香性の刺激的な味がする。桜湯や天然のオオシマザクラ塩蔵葉を用いた桜餅の香りはこれらに含まれるクマリンなどによるものである。
生きている葉の中ではクマリン酸(o-クマル酸)配糖体の形で糖分子と結びついて液胞内に隔離されているので匂いはしないが、これを含むサクラヒヨドリバナなどの葉や花を半乾きにしたり破砕、塩蔵するなどすると、死んだ細胞の中で液胞内のクマリン酸配糖体と液胞外の酵素が接触し、加水分解によりクマリン酸が分離、さらに閉環反応が起こってクマリンが生成し、芳香を発するようになる。
抗酸化作用や抗菌作用があるが肝毒性もあるため、日常継続的に大量摂取することは好ましくない。食品添加物としては認められていないが、インターネットショッピングや業務用販売などで桜葉や桜葉パウダーが食品素材として流通している。






同様にヒガンバナはキク科植物を寄せ付けない成分を分泌する。
またここに書かれていないし、植物抑制効果ではないが、よく知られているのは、マリーゴールドが線虫( ネコブセンチュウ)やナメクジ等の害虫を寄せ付けない虫除け成分を根から分泌。またフレンチマリーゴールドや除虫菊には殺虫・除虫成分がある。これらの効果はフィトンチッド (phytoncide)(殺菌・揮発性化学物質)と呼んでいる。

また正反対に、ある種の植物と共生させると相乗効果でどちらにも有効なケースの植物をコンパニオン・プランツ(共栄作物)と呼ぶ。







このような効果を、園芸家やプロの農業従事者たちは経験や伝承である程度知っている。だから作物の栽培に素人ほどは失敗せずにすむ。ということは栽培する作物は、どんどんよい品物になるわけである。一代だけではなかなかそうはいかない。

またある果物や野菜同士にも相性があり、例えばリンゴとじゃがいもには、互いに相手を成熟過多にして腐らせるアンチ相乗効果があることを青果業者は知っている。


これらの多くは往古からの経験と、近代の科学によって知られることなり、すべては代々伝世される技術である。しかし農業などの技術の多くは、現代、家単位での継続が途切れ始めたために、技術も専門家に学ぶことになってしまっている。明治以前までは、それらのいくつかは常識であり、学ぶものではなかったはずである。

このように、古代から永続的に伝わってきた知識が、現代では途切れてしまっている。神社仏閣の建築技術などは式年遷宮によって歯止めされているが、一般的な家庭的科学は、代が変わるとたち切れになってしまうものである。例えば、古代から巫覡らがその薬効を祭祀に使用してきた植物群などもそのいい例で、中国の漢方のような科学的・非科学的双方面からの経験的記録などが日本ではあまり成文化されてこない傾向が強かった。言い換えれば、それらの効果を科学よりも、秘伝、丸秘の秘め事としてきた面のほうが強かった。このような一子相伝方式は、神秘性を強め、謎を見せることで自分のカリスマ性を民衆に見せ付けるための秘儀だったからだろう。要するに手品のトリックなのである。

たまさか、それらの秘伝をおしげもなく誰にも広めようとする人々が出たが、彼等は後世、偉人、立志伝中の人ともなった。

科学や食品合成成分に秘事があってはならない。しかし祭祀にはむしろ秘め事であることが最重要となったわけである。マツタケの自生地は誰も教えてくれない。魚釣りのポイントも教えてはくれない。それと同じである。

秘め事、相伝、世襲の時代を古代と呼ぶ。
そういう意味で職人世界は古代そのものを引き継いできたわけで、それはそれで貴重だったとも言えるだろう。なにもかもがガラス張りになってしまうと今度は味も素っ気もない世の中になってしまうからややこしい。




















炊いたか蒸したか 米

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「ご飯には、米を直接水にひたす「炊く」方法と、水蒸気を利用する「蒸す」方法がある。炊く方法は軟らかくできるから姫飯(ひめめし)、蒸す方法は硬めにできるから強飯(こわめし)という。強飯の言葉は、赤飯などの「おこわ」に残っていて、結婚式などの祝いの席で食べられる。

 古代日本人は、どちらでご飯を食べたのだろうか。私の学生時代は、「稲作が伝わったころから蒸す方法で食べた」と考えられていた。甑(こしき)とよぶ甕(かめ)の底に穴を開けた土器が見つかったからだった。甑には米をいれ、水を張った甕に重ねる。甕の周りで火をたくと、蒸気が甑の底の穴から吹き上がって、米を蒸す。つまり甑は蒸籠(せいろう)の役割を果たすと考えた。

 しかし、発掘調査が進んでも、甑の出土数は少なかった。一方、「おこげ」が着き、吹きこぼれがスス状になった甕の事例が増えてきた。「蒸す」よりも「炊く」方が主流だったことを示す“物的証拠”といえる。

 考古学者の間壁葭子さんの実験によると、蒸す方法は、できあがりまで100分かかるが、炊く方法なら30分ですむ。しかも炊く方法では五目飯や雑炊など米の量が調整できる。弥生人は今と同じように、炊いたご飯を食べたのであろう。

 弥生人が米を「炊く」には、一つ課題がある。米と水をいれた甕を、安定させなければならない。

 福岡市宝台遺跡の調査で、分厚く作られた土器を3個置いた遺構が検出された。この土器はそれまで、甕などの器を安定させる置き台(器台)と考えられていたが、等間隔に3つ置く方法と、支座とよばれる良く似た土器が中国にあることから、器台ではなく支脚とわかった。長崎・壱岐の原ノ辻遺跡などには口縁部をくちばし状に引き出した安定感のある支脚があるが、これは形態的にも支座である。

 弥生時代には、炊いたご飯を食べていたと考えるのが自然だし、通説となった。

 ところが不思議なことに、弥生に続く古墳時代は、蒸したご飯を食べたと今でも考えられる傾向にある。理由はよくわからないが、竈・甕・甑をセットにした土器や、そのミニチュア土器がかなり出土していることも大きな要因と思う。

 有名な山上憶良(やまのうえのおくら)の『貧窮問答歌』は、憶良が国守として筑前国に在任中、租税徴集の過酷さを詠んだものだが、「竈には、火気ふき立てず、甑には、蜘蛛(くも)の巣懸けきて、飯炊くことも忘れて」という部分がある。

 これを読めば、甑で飯を蒸して食べるが、忘れるほどの長きにわたって蒸すこともないということになりそうだ。しかし、この解釈は違うだろう。

 食事ができなければ、農民は飢え死にするしかないのだ。生産者である農民を飢え死にさせては、政治はできない。

 私が小学生になる前、戦後の食糧難に窮した経験があるが、サツマイモばかりの芋飯や芋粥(いもがゆ)、わずかに米の見える雑炊で飢えをしのいだものだった。これは、蒸す方法ではできない。

 現代の赤飯に残るように、米を蒸す調理は祝祭の日用で、日常の生活では雑炊や芋粥などが可能な炊く方法だったに違いない。

 貧窮問答歌の光景は、ごちそうを食べるような祝い事もないと言っているのだ。」
                 

高倉洋彰 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150925-00000046-san-l40






「弥生時代後期の典型的な環濠集落(稲作と防衛の共同体)を示すものとして、佐賀県の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)があります。周囲を防衛のための“二重の濠(ほり)”で囲んだ吉野ヶ里遺跡には、竪穴住居(たてあなじゅうきょ)以外にも、コメ・麦・粟・稗などの穀物を貯蔵しておくための高床式倉庫(たかゆかしきそうこ)や敵の襲来を監視するための物見櫓(ものみやぐら)がありました。
縄文時代後期に米(コメ)を作っていたと見られる岡山県の南溝手遺跡(みなみみぞていせき)や福岡県の縄文時代後期の遺跡もありますが、これらの遺跡で作られていたのは水田で作る『温帯ジャポニカ米』ではなく、湿地・焼畑農業で作る『熱帯ジャポニカ米(米の野生種に近いもの)』で育て方も味の質も全く異なります。
弥生時代には米(コメ)をどのような調理法で食べていたのでしょうか。現在のようなコメを密閉した釜の中で炊いて蒸らして食べる調理法が『最も美味しくコメを食べられる方法』ですが、コメを密閉した釜で炊いてから蒸らすという調理法が発明されたのは平安時代だとされています。弥生時代の古代社会では、コメは支配階級にとっての主食・常食ではあっても一般庶民の常食ではなく、まだコメは贅沢品の位置づけだったと考えられています。
日本人一般にとってコメが常食になってくるのは、室町時代以降であり、それ以前の一般庶民は作るのに手間がかかるコメ(水稲)ではなく、粟・稗(あわ・ひえ)を常食にしていました。粟や稗に山菜・菜っ葉などを混ぜて煮立てた『糅飯(かてめし)』というのが庶民の主食でしたが、コメも平安時代以前には脱穀してからお粥(おかゆ)のように煮炊きして食べる食べ方が一般的だったのです。
水分が多いものを『汁粥(しるがゆ)』、水分が少ないものを『固粥(かたかゆ)』として区別していましたが、固粥のほうが現在の米飯(べちゃべちゃしていない粒がしっかりした炊いたコメ)になっていきました。」





まずはコメを食べたかが実は問題になるのが室町以前の炊飯。
最初はお粥のような単純なやり方だっただろう。土器のおこげ具合を見ても、深い鉢でお湯をたっぷりで「茹でた」ような痕跡が多いのだ。

雑炊やお粥のようにして炊く方法は、実は今でもインドシナ半島には多い。たっぷりと水を入れたふたつきの鍋で、ぐつぐつやり、何度か茹で汁を捨てて最後は蒸す。しかし日本の縄文土器や弥生土器には、どうも蓋が見つからない。何かほかのもの・・・木の板などを置いて石を乗せたか?


どっちにせよ、古代人はコメを茹でて食べたようである。ミャオ族たちもまずはそういう煮炊きする造り方をするから、その子孫である倭人もそうしたはずである。煮こぼし方式=姫飯であろう。ちなみにミャオはもち米も作る。これは餅にして食べる。日本人は食文化も三苗のやり方を受け継いでいるのである。

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世界のコメ調理では湯たて法が圧倒的に多い


以前、HPでは、筆者はこう書いた。

「故・中尾佐助は『料理の起源』の中で、「湯立て法」という米の炊き方を紹介している。
http://www.harc.or.jp/mukashi/11_p01.htm
http://ameblo.jp/scckenya/entry-10180426926.html

これは最初に熱い湯に米を放り込んで半煮え状態にしたものを、ザルに上げ、水で洗ってオネバを洗い流してから蒸すという、大概の日本人なら「なにをする?!」と言いたくなるようなあこぎな調理法で、主として中国華北で今でも日常やられている炊飯方法だ。

 日本でこの方法で炊くのは越後などで最近までやられていたが、それは雑穀のヒエを炊く場合にしか用いられては来なかった。日本式の炊き方は「姫飯(ヒメイイ)法(炊き干し法とも言う)」と呼ばれる。日本ではこれが主流で、そのほかにはもち米を蒸して作る「強飯(コワイイ・オコワ)法」のみである。そしてヒメイイ方法でうるち米を炊く地域は、日本以外では、中国華南、華中といった黄河以南の地域や、
ボルネオ島、スラウエシ島、フィリピンミンドロ島、やや?ではあるがジャワ島などである。
つまり日本式炊飯法はあきらかに「南島風」「南方風」なのである。」



雑炊なら、しかし匙がなければならない。匙も発見例は少ない。

冷ましてから手で食べたのか?葉っぱに乗せたか?匙を木で作ったか?使い捨てか?



いやあ、気になる話である。
どっちにしてもじゅるじゅる啜ったんですなあ。
するとおにぎり文化はいつからか?


秋だけに食は気になる。




柿は木になる。



今宵は十三夜。









やはり100%が垂れ流された 福島原発

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想定どおりの結果が出た。


2号機の核燃料 70%~100%溶融か
9月26日 6時30分
「福島第一原発の事故で放射性物質の大量放出が起きたとされる2号機について、東京電力はこれまで、核燃料の一部は原子炉の中心部に残っていると推定していました。

これに対し、名古屋大学などの研究グループは去年4月以降、さまざまな物質を通り抜ける性質がある「ミューオン」と呼ばれる素粒子を使って2号機の原子炉を透視する調査を行いました。その結果を解析したところ、原子炉の中心部に核燃料が残っていれば赤や黄色で示されるはずが、ほとんど反応が見られませんでした。

比較のために調査した5号機では中心部の核燃料がはっきりと映っていて、研究グループは、2号機の核燃料の70%から100%が溶け落ちた可能性が高いとしています。

名古屋大学高等研究院の森島邦博特任助教は、「2号機の原子炉には核燃料も水もほとんど残っていない可能性がある。今後の廃炉に向けて役立てて欲しい」と話しています。
この調査結果は、26日、大阪で開かれる日本物理学会の大会で発表されます。 」
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150926/k10010248361000.html




福島第1 東電、津波対応を拒否 調書で判明、事故2年前
産経新聞 9月26日(土)7時55分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150926-00000092-san-soci





ハザードマップを過信しない/本当の日本人のふるさとは京都ではなく

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ハザードマップはあくまでも官憲からの危険地帯基礎知識でしかないと自覚し、居住地に住んだのは自己責任であると理解して、周辺の地形とその危険度、過去の記録などに当たっておくほうがいい。

たとえばこのサイトにいくと、全国各地の要所の縄文海進図を見ることができる。
これもおおまかに参考にはできるだろう。

温暖化で日本はこう沈没するhttp://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/special/267/

これらの低い場所は水没、洪水の危険地帯である。






九州の人にはかなりショッキングな画像がある。

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もちろんかなり空想過多な画像だが、これぐらいに思っているほうが確かに間違いは減る。

中央部を斜めに縦断する海は、かつてここが海であったこと、あとから隆起した土地であり、今も海抜が低い、水と溶岩流の通り道となりえる場所であることを示していることになる。つまりここには中央構造線という巨大なくぼみがあるのだ。この地図のような海進が今後もし起きれば、筆者の家などは、この巨大な「川」のど真ん中に取り残される台地の上にかろうじてひっかかるのである。



先日大洪水が起こった栃木県・茨城県の鬼怒川流域は、縄文時代はこうである。



もし先祖やあなたがこれを知っていたら、ここに住んだだろうか?




筆者が古代史を楽しむに当たっては、広く先史時代から視野に入れるのは、人々の生活や風習はそこまで遡ってみなければなかなかあとの時代のことが見えてこないということと、先史時代からの地形によって人々が受けてきた災害(つまりこれを古代人は災害神、地球大地の母神だと感じたわけである)の歴史、環境変動の歴史とそのメカニズムまで知らなければ何もわからないと感じたからだった。

その視野は、時には地球史、宇宙史まで広げてみる必要があった。そうやってはじめて、現代の日本人、江戸時代以前の日本人の特に民衆の生き様が見えてくる。記録にあるのは為政者・・・貴族や武家のためだけの歴史でしかない。学校ではそれしか教えてはくれない。しかしそれは正しい歴史とは言えまい。歪められた為政者にとって都合のよい記録だけ読んでいるのでは、肝心のわれわれの祖先の生き様はまったく感じることができない。

しかし、ここに考古学や地球環境学などの考察を加味することで、記録よりもかなり実際の古代像に迫れるようになる。

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ヤンガードリアス寒冷期に始まる急激な温度上昇は、海水面を今の水面より100mも高くしたと考えられる。その証拠に、この図が示すように縄文貝塚遺跡は、みな水色の海進部の真上の丘の上に集中する。そこが当時の海岸だったのである。

タモリはそういうことが大好きな人で、移住した土地の地形をかなり専門家並みに調べて知っていることが番組から見て取れる。筆者が視聴していて、「ほう!それを知っているか、この人は」と感じ入ることもたびたびである。

例えば短期出張であっても、あるいは仮の住まいと思っていても、引っ越せばその土地の地形や歴史には一度は当たっておくのは現代人の当然の危機管理の姿勢である。だから筆者がそれに気がつき始めた27歳頃、勤労生活の場とした大阪市の歴史文献には、まずすぎに当たってみた。あちこちを歴史探索しながら、もうひとつの目的はいつも、その土地の地形や過去の災害史である。するとそれが歴史につながる。なぜそこにそういう神社や祠があるのか?の答えは史書や神社伝承よりも、地形や環境史に横溢しているのだ。



環境考古学という研究が最近大流行し始めている。現代の環境変化が一般人にも「なぜ?」を提起し始めているからである。


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安斎正人『縄文人の生活世界』より
縄文人は賢い?いやそこが海岸線だったからそこに住んだだけだ。
稲作が日本になかなかやってこなかった理由のひとつに、縄文海進による台地が水耕稲作には不向きだったという見方があると思う。台地の上にはまず水がわかない。そして河岸段丘の地質は低湿地のように肥沃ではなく、酸性が強い傾向にある。
だから倭人は早くから鹿児島やらに来ていても、稲作は今の平野が出現する時期まで後回しになった。そこで仕方なく彼等は古式陸稲をするしかなかったと見る。
水耕稲作の渡来は、ちょうど地球史で4000年前の寒冷化、3500年前の寒冷化で長江から渡来がやってきてから下がって、温暖化によって海水面が今の平野を表す紀元前300年前後まで待つことになった。そこからちょうど弥生時代が始まるのである。
最も長江から近くて、早く海面が下がっていたのが佐賀県菜畑や有明海の筑後川河口部の吉野ヶ里周辺だったのである。だからここを水沼(みぬま)と言う。あらゆる現代日本人の生活に貫かれる江南的な生活感覚と文化形態、祭祀形態が、菜畑と水沼から始まったと言える。つまりそこが日本人の本当の源郷である。日本人のふるさととは、京都でも奈良でもなく、ここである。






それと生活の場と労働の場の問題も考えなければならない。
家にいつもいるのは老人、子ども、主婦だけで、男は外で働く。人生の大半、労働者は家よりも外で生きている。その労働環境についても知っておきたいはずである。外で営業などしていたら、どこでどんな災害にあうか知れたものじゃないが、常に動き回っているとその確率は確かに低くはなるだろう。動くか動かないかしか人間にはできない。地下にもぐって、地下要塞にでもこもって暮らすしかなくなる。それでは生きている意味がなくなるし、シェルターだって100%安全とは言えない。洪水では、土ごと流されるかも知れない。まして、このあいだの鬼怒川洪水では、福島の汚染物質の袋が土中から海へ流された。日本人はまるで上田正樹の歌のように「みんな海へ流してく」。それを不浄の清めと考えている限りは、東電もまた古代のままだと言うしかない。




家は安い買い物ではない。人生で一度か二度しか買えるものではない。だから自分でよく調べておくのは家族にとっては君の義務である。あなたが義務を怠れば、結局、家にいる家族が被災する確立が高い。

また人生の三分の一は人間は寝て過ごす。災害は夜中に起こることが多い。
そうなると夜も眠れなくなる。

60を過ぎると、老人はだいたい夜眠れない。せいぜい3時間くらいしか続けて睡眠できない人が多い。だから誰よりも外の物音について早く感じ取れる。ところが感じても体がいうことをきかない。なのに家族はおじいさん、おばあさんの部屋を二階にしてしまう。子どもも二階が多い。水難には二階は安全性が高くなる。しかし地震では最初に天井がぬけて落ちてくる。いざとなったら階段を下りねばならない。階下で寝ている主人夫婦には頭上からじじばば、がきが降ってくる危険がある。


いくら地形を調べても、地震だけはいつどこに起こるか知れたものではない。いくら構造線を避けたところで、プレートの淵で起きた揺れは、あらゆる場所に振動と波を伝える。


じゃあ、いったいどうすればいいんだ??



なにもありませんようにと、毎日祈るしかないのが実情でしょう?
じゃあ、古代人とどう違うの?でしょう?



神の前で、人間なんかそんなところでしょう?



岩の様に泰然自若ではいられない。
だから古代人は巨石はえらいやっちゃと尊敬したのである。





心配ない、私たちがもし死んでも、種は生き残る。
人類はそうやって、災害や巨大な天敵から身を隠して生き残ってきた弱いねずみの子孫である。誰かは生き残るから安心しなさい。

と、仏陀もキリストも諭しているのですよ。
あなただけが生き残ろうなどは、人間最低の考え、強欲ですよ。


ハザードも みんなで死ねば怖くない



カタストロフィは近づいている。
2070年、それは起こる。
間氷期のミレニアムが満期を迎え、いきなり氷期が起こるとき、われわれは一旦死滅する。マンモスのように凍りつく。一瞬で。だが体表面積の小さい小動物であるねずみなどの脊椎動物の種は絶えることはない。そして100万年をかけてまた人類は違う姿でこの世に誕生する。

これが輪廻である。


なにも心配することなどない。



それが見たいけれど、ぼくはそのときもう死んでいる。
運がいいのか、悪いのか?
歴史だけが知っている。



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安斎正人『縄文人の生活世界』より




































わかりやすい「日本人史」まとめその1 旧石器~縄文中期

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今の日本人ができあがるまでの流れを簡単に。






1 今から約3万年~2万五千年ほど前までに、日本人の最初の祖先である先土器(旧石器時代)時代人が、つながった氷の道を南北から列島に訪問。


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2 1万6000年ほど前に※1ハインリッヒ・イベントによって起きた寒冷化(オールデスト・ドリアス期 古ドリアス期 18000年前から続く)によって、バイカル湖経由でシベリアから北海道に南下していた北方系の彼らが、これをきっかけに本州に南下し、在地先住民族と東北、関東の太平洋側で遭遇混血して縄文人へ。


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細石刃石器(さいせきじん・せっき)を持った北方系集団は、信濃川・利根川各水系以北の東日本に広く居住。先住民との緊張社会の中で混血し、神子柴(みこしば)型石斧(せきふ)、尖頭器(せんとうき)を特徴とする「長者久保・神子柴文化」を形成した。



この1500年間には、落葉広葉樹の拡散が起こり、縄文人という比較的安定した居住スタイルの定着が可能になり、縄文人は列島全体に広範囲に拡散した。その頃に登場したのが日本最初の土器である(青森県大平山元I遺跡出土無紋土器)で、これによって16000年前から縄文時代と呼ぶ説が現在最有力になっている。


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青森県大平山元I遺跡(外ケ浜町字蟹田大平山元 )の地形と遠望。河岸段丘上にある。



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日本最古(つまり世界最古でもある)とされる無紋土器破片http://www.aptinet.jp/Detail_display_00000391.html



3 12900年ほど前に、1300年間続く再寒冷期(ヤンガー・ドリアス期 新ドリアス期)が起こり、縄文人の人口は激減。以後、遊動的狩猟生活がはじまり、居住形態も後退する。

4 11600年前、気温が急上昇し始め、海面上昇(縄文海進={有楽町海進ともいう}の開始)。海進前期は海面上昇は平均2mほど。後半は8200年前の冷涼化によって平均1mとなり、上昇率が半減。以後、再び急上昇を開始。早期末にはすでに現在の海水準を3~4メートル越えて東京湾をはるかに越えて関東平野の低台地まで飲み込まれる。この状態を「奥東京湾」と呼ぶ。11500~7000年前。
現在の台地の淵に多くの貝塚が形成された。そこが当時の海岸である。東京の湾岸は、それが非常にわかりやすく感じることができる地形になっている。

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※1 ハインリッヒ・イベントが起きると氷期の寒冷状態からさらに3~6度気温が急下降する。これはグリーンランド氷床コア分析からほぼ間違いない。イベントそのものは過去七万年以上のあいだに六回確認されている。16000年前のイベントは最後のイベント(H1)である。





かくして現代日本人に直接つながる海の文化が始まった。
彼らの拡散は、他地域でも形を変えて起こり、日本全国で土器が作られ始めた。

南九州では鹿児島県霧島市の上野原遺跡に代表される貝殻文土器を伴う定住集落が。
北海道では帆立貝圧痕を持った暁式・テンネル式土器と竪穴住居が。
関東地方では早期末から前期前葉に関山・黒浜式土器と集落が。
それぞれ登場する。
内陸部でも諸磯式土器と環状集落が登場した。
東北では北緯40度線を境に、北に円筒式土器分布圏、南に大木式土器分布圏が形成。中期には約1500年間継続した三内丸山遺跡が登場。海を渡って黒曜石、ヒスイ、南海の貝殻などが情報と共に列島を縦横に往来するようになっていった。








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参考文と一部画像 安斎正人『縄文人の生活世界』



その2に続く



コウケンテツが行く中国・雲南「生薬の里を訪ねて」に倭人の食を見る

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今朝のNHKBS1コウケンテツが行く中国・雲南「生薬の里を訪ねて」は倭人の食生活の参考として非常に示唆に富んでいたように思う。

雲南省の女性たちは「野菜を生で、花椒の実を炒めたドレッシングで食べていた」し「ごはんを湯立て法で作り、そこにトウモロコシの粉をまぜて蒸して食べていた」。

魏志倭人伝には「倭人は野菜を生食する」とあるから、まさに雲南の調理のままである。まさに思惑通りの画像だった。




コメにトウモロコシ粉を混ぜれば、増量できるし、満腹感も増す。日本の戦後に麦をまぜて炊いていたのと合い通じる。また野菜はドクダミやスダンの根っこなどの根菜を使っている。肉は雲南名産の雲南ハム(宣威火腿。浙江省では金華ハムという)だけで、それも主として出汁をとることに主眼が置かれ、もったいないから食べるといった風である。ハムの歴史は唐代~12世紀を遡らないので、当然、野菜主体だった倭族伝来の料理ではなく黄河文明の影響である。

スダンという植物については不明にしてわからない。






今の長江流域は、華北文化人の流入後は、かなり中華化していると思っていたが、少数民族だけでなく普通の家庭でもちゃんと倭族三苗の食生活の痕跡があることを再認識した。やはりうまいものや調理法はそうは簡単には激変しないのだ。むしろあとからきたものはいいところは取り込む傾向があるということである。



しかし・・・

ご先祖の雲南が薬膳・粗食に耐えているのに、「隣の日本ではすっきゃき(すき焼き)食てる」っちゅうのも、明暗なのか、食への感謝の希薄化なのか。なあ、塩爺さん。


あきれまっせ。






用語解説・氷河期・氷期・間氷期

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「氷河学的には、氷河期という言葉は、南半球と北半球に氷床がある時期を意味する
この定義によれば、グリーンランドと南極に氷床が存在する現代は未だ氷河期の中」
(Wiki氷河期)

であり、その中で過去、寒い時期=氷期と、暖かい時期=暖期を繰り返す。
よく、「また氷河期はくるか?」という質問がネット上に見られるが、これは長いスパンの地球史的な質問となる。今の氷河期の中での質問なら正しくは「また氷期は来るか?」である。つまり氷河期とは地球史上の言葉で、氷期・間氷期・後氷期などは現氷河期史上の言葉だとなる。単位がひとつ違うのである。

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現在はたまたま氷期と氷期の間の長い温暖期=後氷期であると考えられ、過去のデータからその期間は、氷期10万年単位に対して間氷期1万年単位であろうと考えられている。ちなみに後氷期とは間氷期とほぼ同意なのだが、これまでの間氷期と区別する意味で便宜的にそう言われており、かつては第三間氷期と言われていた。間氷期は古いほうからドナウ・ギュンツ、ギュンツ・ミンデル(第1)、ミンデル・リス(第2)、リス・ウルム(第3間氷期と呼ばれる。



ただし、年縞によって過去は決定できても、必ずしも未来もそれを繰り返すとは言えない。今の間氷期もすでに1万年の基準値を超えて続いてしまっており、実際には、すでに終わっているものを人為的温暖化が阻止している状態。だから近年の異常気象の頻発する理由も、摂理と人為の相克のせいと見ることが可能である。言い換えれば今後何が起こるかわからないし、想定外の何が起きてもおかしくないことになるのである。

「人類による自然摂理の歪曲状況が現在」という説や、「間氷期はあと1万年ほど続くだろう」という説、いや「このまま人的温暖化が続けば氷期はこない」という説、あるいは「いつ氷期に切り替わってもおかしくない時期」説、極端なものでは「この温暖化は加速して進み、200年後に平均気温100度になり、南極大陸で4、50度で、人類は死滅する。」説など、学者にすら未来予想図はさまざまである。


過去数百万年に関して言えば、氷河期という言葉は一般的に、北アメリカとヨーロッパ大陸に氷床が拡大した寒冷期について用いられる(アジア地域は氷床が発達せず寒冷な地帯であったらしい)。この意味で言えば、最後の氷河期は1万年前に終了したということになる。この約1万年前に終わった出来事を、文献によっては「最後の氷河期」と記載していることもあるが、科学者の多くは氷河期が終わったのではなく、氷河期の寒い時期「氷期」が終わったとし、現在を氷期と氷期の間の「間氷期」と考えている。そのため、最終氷期終了後から現在までの期間を後氷期と呼ぶこともある。


ミランコビッチ・サイクルMilankovitch cycle説の批判
地球歳差運動による寒暖差=地球軌道説が有力か?

「ミランコビッチ周期は、地球軌道パラメーターの周期的な変化が氷河作用の記録に表現されているであろうと予言したが、氷期/間氷期の交代にどのサイクルがもっとも重要であるのかについては更なる説明が求められている。特に過去80万年の間、氷期/間氷期が繰り返す周期は10万年が支配的であり、これは地球軌道要素の離心率と軌道傾斜角の変化に対応しているが、ミランコビッチに予言された3つの周期の中でははるかにもっとも弱いものである。

300万年前~80万年前までの間、氷河作用の支配的なパターンは、地軸の傾き(傾斜角)の変動の4万1000年周期に対応していた。一つの周期が他のものより卓越する理由はまだ理解されておらず、現在重点的に研究が行われている分野であるが、その回答は、おそらく地球の気候システムの中で起こる共鳴現象と関係すると予想される。」



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地球の共鳴現象のテクトニクス(上記共鳴現象のリンク先)






簡単な思想史で言うなら、ミランコビッチは地球の寒暖は一定周期で繰り返されるという考え方であるが、実際の宇宙や地球の将来は誰にもわからないのだというのが最新の見方になってきた。現在は歳差運動によって一旦引き起こされた気候変動は、地球を経巡る間にゆっくりと、津波のように共鳴しあい、まだこれから大きな時間単位で揺れ動くというのが今の見方である。つまり予測不能。

このように、いくら気象統計をとったところで、宇宙も地球環境も永遠に予測不能であることはあきらかで、過去のデータは地球自身の歴史でしかなく、当然地球も成長し、そして衰滅する物質でしかないのだ。成長によって当然、環境もどうなるかわかるはずがない。したがって人類ごときが、環境変動や大地震、火山爆発、台風などの大災害を事前に推測することなど、到底できるはずがないだろう。これまでの学説そのものが、せいぜい数万年単位のデータでしかなく、地球の45億年の歴史すべてがわかったわけでもない。そういった意味で、いまだに、これからも、地球も宇宙も「神」のままなのである。



次回、日本人史その2 縄文後期~弥生・古墳時代まで
いよいよ「倭人」の登場

わかりやすい「日本人史」まとめその2 縄文後期~古墳時代

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環境が歴史を作る。


その2

5 縄文草創期~早期にはすでに縄文人たちは果樹栽培を開始している。ウルシ、クリ、麻、ひょうたんなどの外来植物の種子は東北地方北部日本海側で当然のように出た。そして前期以降、その種は管理・栽培されている。なぜならこの温暖期には縄文人の定住生活の痕跡が出るからである。可能性としてもう豆類まで栽培していたという考えも出ている。こうして中期中葉~後葉(5500年前~4700年前にかけて)には広場を中心とする掘立柱建造物、竪穴住居、貯蔵穴が同心円状態で配置される環濠集落が日本各地に営まれ、さらにはエリート層、退役狩猟者長老を要とするネットワークさえ完成した。階層と情報網の誕生である。これらの環境を許容したのがこの時期であり、そのゆとりが生み出した「凝り」の意匠の代表が長野県の火焔土器や破壊されない大型土偶である。

6 しかし4700年前、気候の冷涼化はすでに始まっていた。三内丸山遺跡は終焉を迎え始める。各地で放置された貯蔵場が出土し始める。そして同時に、人々の切ない環境復活への願いを見るかのような環状列石集団墓、柄鏡型住居、そして夭折幼児の家屋内甕型土器での埋葬などが出現する。縄文人が呪術・祭祀に走るのはこの時期である。あまりにそうであったために、本末転倒的に火焔土器すら鍋カマとして実用された。ゆとりがあきらかに消えたのだ。


7 後期・晩期には、巨石、石のモニュメントは急増する。容易に変化しない石への憧憬、隕容物祭祀のよる生命誕生への祈願は根強いものとなっていった。
晩期を代表する遺跡、亀ヶ岡遺跡がこのとき登場する。
亀ヶ岡文化の標準遺跡は大洞貝塚(大船渡市)である。東北から関東までこの文化は広まる。3000年寒冷期。

西日本では、この二度の寒冷期に、黄河文明人が南下して長江文明をのみこみ、離散させ、長江河口部から列島へダイレクトの大移民が、内陸部からはインドシナ北部への移住が起こる。長江系遺伝子を持った稲や炊飯方法、高床式住居、祭祀様式などが一気に北西九州に流入。

8 しかし、冷涼化をさらに後押しするかのように2800年前、さらなる寒冷化の波が押し寄せる(2.8Kaイベント)。

※Ka=kiloannum=地質学などの単位。千年

これによって縄文人はさらに列島内を南下し、同じように寒冷化で南下してきた遠賀川系半島渡来人と遭遇する。これが異民族との第二次遭遇である。

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しかし北海道ではすでに津軽海峡は分断されており、アイヌが残存。往古のままの縄文生活が存続した(続縄文時代~擦文時代=オホーツク文化記)。

9 水耕稲作を生業とする渡来人と、古式陸稲・焼畑農耕の縄文人とが出雲・美作・吉備などで出会うことでついに弥生水耕漁労文化のめばえが開始された。それが2500年前・・・つまり西暦500年の直前である。ここからを弥生時代と呼ぶ。

10 1世紀再び寒冷化。128年の寒冷化で前漢が北方民族の南下を契機に滅亡し、華北・華南の民族が九州へ移住してくる。中国は動乱期を迎え劉邦が後漢を建てたが、さらに後漢も滅亡し、また移住者が。九州西北部や日本海に入り、先住する長江子孫と縄文の混血子孫=倭人との間で大乱起こる。



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これらの相克の結果、倭人は和合の文化を会得。一気に大和朝廷への道を歩み始めた。王には倭族、大臣に黄河系、伽耶系。用心棒に百済系などを擁してようやく朝廷ができはじめる。これが5~6世紀。







11 2世紀、繁栄していた北部九州から倭国大乱による民族大移動が起きる。遠賀川系はいち早く日本海を北上。菜畑系は南九州周りで瀬戸内を大阪湾へ移住。大和地方ににわかに一大文化圏を形成する。倭族的な巫女王を立てて、黄河文化人と来社捕虜をつてに、北魏とえにしを結び、一方で呉の南朝とのつきあいも継続しつつも、魏の勝利によって北朝へ初めて朝貢を果たす。これによって九州王朝は有名無実となり、文化は一気に近畿地方へ傾いた。

12 4~5世紀、繁栄する大和に侵入者。河内王朝を大阪湾に建て、大和をうかがう。宋へ朝貢することで既成の大和社会に脅威。彼等は黄河系北朝再興を狙う遊牧民子孫である。

13 大和は出雲、吉備、葛城、九州王家を懐柔してこれに対抗。継体大王によって河内王家滅亡。古墳時代から飛鳥時代へ。





海進で覆われていた平野が現れたからといってすぐには耕作できない

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今から2800年前ほどに、縄文海進が数度の冷涼化を経て後退すると、次第に今の平野が現れる。台地や内陸で展開されて来た貝塚遺跡や環状集落の人々が、その湿地平野に降りてくる。大陸でも民族大移動が世界中で起こり、東アジアでは前漢・後漢から三国志への動乱期。大陸から日本列島に逃避してくる渡来はどんどん増えた。

しかし、だからといって平野ですぐに水耕稲作は始まらない。なぜなら、その平野はそれまで長きに渡って海水の下にあったために、塩分が溜まっており、とても稲や作物には生長できる状態ではないからだ。

4500年前~2800年前の間に、九州でも東北でも日本海側でも、寒冷化による渡来と移住が起こっているが、水耕稲作はそこからさらに300年以上遅れるのは。そのためであろう。

だから最初の水田はどうしても河川に沿った少し高い場所、扇状地などから始まる。現代のように海岸線に水田や都市が広がる景色ができあがるのは、なんと、江戸時代の秀吉の干拓まで待つことになるのだ。

この夏の冷夏・台風による山間部河川沿いの洪水を見ても、河川沿線こそが水田の集中地である。それらはかなり古い時代から続いた穀倉地帯だということに気がつく。
平野の大水田地帯の完成はほとんどが地名「新田」・・・つまり埋立地から始まるのである。ということは、いくら稲作が弥生時代を始めさせたきっかけだと言っても、米の収穫量など江戸~現代に比べれば微々たるものだったはずで、米を民衆に至るまで全国民が食べ始めたのも弥生時代だったのではないのである。民衆の主食は山間や台地で畑作でとれる粟・稗の時代が相当長く続いた。

では米は誰が食べたのか?
もちろん一部豪族、王族、そしてほとんどは神への捧げものと物々交換の産物として使われたのである。平安時代、奥州藤原氏の繁栄は米と砂金である。すでに弥生時代から、日本の米は東アジア諸国には十分に認知されるブランドだったということだろう。



棚田の始まりと寒冷化

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倭族の水田の特徴のひとつが棚田である。
その始まりも寒冷化にある。
漢民族によって四散させられた倭種・倭族たちの一部は山間僻地へ追いやられ、山・谷での隠棲生活をするようになった。そこで平地。河川沿いでやっていた水田稲作をする場所は山を削るしかなかったのだ。

この事情は日本でも時代時代に追いやられた「敗者」による棚田開発として同じである。多くの扇状地近くや山奥の谷あいには、そうした敗者の子孫たちが代々移り住んだたとえば平家落人伝説や貴種流離譚が必ずともなうのである。





紀元100~350年の寒冷と旱魃による大事件

チワン族とウイグル族イスラム教徒と中国脱出者

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チワン族(壮族)(チワンぞく、チワン語: Bouxcuengh, 旧表記 Bouчcueŋь, ポウシューン)は、主に中国南部やベトナム北部に住居する原住民族である。中国では広西チワン族自治区中西部や雲南省南西部、広東省東部、貴州省南部、湖南省南部などの山間部に約1,854万人(2010年の第6回全国人口調査統計による)が住み、中国最大の少数民族となっている。言語はタイ・カダイ語族に属するチワン語を話す。チュアン族と言う日本語表現もある。

百越(ひゃくえつ)または越族(えつぞく)は、古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称。越、越人、粤(えつ)とも呼ぶ。
非漢民族および半漢民族化した人々を含む。日本の現代の書物において「越人」「越の人」と表される場合、現在のベトナムの主要民族であるベト人(越人)、キン族(京人)とは同義ではない。

百越とよばれる人々はY染色体ハプログループO2(O2a/O2b)系統に属していたとされる[3][4]。O2a/O2bは長江文明の担い手であったが、長江文明の衰退に伴い、O2aおよび一部のO2bは南下し百越と呼ばれ、残りのO2bは西方及び北方へと渡り、山東省、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとされ[5]、このO2b系統が呉や越に関連する倭人と考えられる。O2a系統はオーストロアジア語族と関連していることから、百越はオーストロアジア語に近い言語(群)を話していたと考えられる。O2aと姉妹関係のO2b系統(倭人)が日本に多く見られることは、日本語とオーストロアジア系カンボジア語の語彙類似性が高いとするデータ[6][7]とも符合する。

嶺南地区(ほぼ現在の広東・広西)の原住民族として長い歴史を持っている。数万年前の頃から、チワン族の祖先たちはすでに中国の南方で生活していた。周代(春秋戦国)の頃は百越と呼ばれる諸民族の一派で、駱越、西甌などの国家を築いた。漢代に南越国の支配下に入り中華文明の一部となったが、隋代までは、部落制社会が続いた[1]。唐代に封建制度社会に移行し、明代には少数民族首長の世襲支配を認める土司制度が行われた。勇猛なチワン族の兵士は「兵」(「狼兵」)と呼ばれ、瓦氏夫人に率いられた田州兵が倭寇鎮圧に動員されたこともある。清代になって改土帰流が行われ、直接支配地域になった。漢民族との接触の歴史が長く、経済活動に必要性があるため、漢語も広く浸透した。
近代には1850年に太平天国の乱が広西の金田村で始まったため、チワン族も多数参加した。1929年から1932年にかけて小平が広西で指導した右江革命根拠地にも多くが参加し、中国では革命的伝統が称えられる。日中戦争時には日本軍との戦いに参加する者もいた。

チワン族のいる自治区はアジアのイスラム教徒たちの移動ルートにあり、ウイグル族などのイスラム教徒とイスラム過激派の中継地でもあり、民衆が感化される可能性はないとは言えない。同時にウイグル族の中国脱出の中継地でもある。また広西チワン族の組織は不法出国者を車でベトナム国境に送り込んでおり、既に昨年 1~4月の3ヶ月だけで3000人以上を出国させている。


エジプトの死生観では海は彼岸ではない/気候変動期は思想・死生観転換期・死者の書・死者への手紙

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大城道則は『古代エジプト死者からの声』河出ブックス 2015
の中で、エジプト人にとって彼岸は地中海ではなくナイル川だったと書いている。
死者はナイルを渡ってやってくると考えられた。
日本でならそれは海の彼方、ニライカナイ、補陀落渡海などと、多く海の向こう側にあると信じられていたわけだが、なぜエジプト人たちは河の向こう側を彼岸だと思ったのか?

その理由の一番は、エジプトの前の海、すなわち地中海では、対岸にはギリシアなどの、ちゃんと人がたくさん住む南欧があったからだと言う。

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世界の大きな気候変動は、かつての(西欧・アフリカ世界の中心であった)エジプトにとっても、例外なく訪れている。今から4000年ほど前、つまり紀元前3000年くらいのエジプトは「緑のサハラ」がまだ展開しており、アフリカ北部は森林に覆われた肥沃な土地だった。しかし4000年ほど前の寒冷化(Hイベント)によって、偏西風はアジアのヒマラヤ山脈に熱風を送りはじめ、それが山脈に跳ね返されて、西へ押し寄せる。これによってまともにその乾燥した熱風を受けるサハラ緑地はどんどん乾燥化していった。

この状況は、ちょうど人類の祖先である猿人が森林を出て北へむかわねばならなかった太古の様相H1に似ている。

この乾燥がエジプト人に大きな死生観の変化をもたらしたという証拠がピラミッドなのである。ギザのピラミッドは、ちょうどその乾燥初期に造られた遺跡である。それは中国や朝鮮や日本にも新しい動乱期と墓制が始まった大きな動き=長江文明の黄河文明人南下による滅亡期に当たることになる。4200年前から3800年までの二回の寒冷化や旱魃が、東アジアの政治状況や死生観に多大な影響を与えたのと同じことが、エジプト周辺、アフリカ北部で起きたのであろう。

植物相が一変し、砂漠化が始まると、当然、動物も移住を余儀なくされ、サハラからキリンやサイなどが南へ移動し始めた。突然のように、あれよというまに、サハラは砂漠へと変化していった。乾燥と旱魃は弱い人類と文明をあっというまに変えてしまう。人口は、旱魃による不作、それによる民族侵入、大乱、動乱、それらが持ち込んでくる疫病などによって滅び行く。たわないものである。

当然、死生観も大転換した。それは日本の縄文時代に、中期以降、環状列石という死者復活、再生の呪の機能を持った墓設備が登場したのと同じである。アジアは寒冷によって、西アジアからアフリカ・地中海では灼熱の乾燥によって、それぞれ大きな生き方の変化、大移動、戦乱が起こったのである。

人が若くして死ぬ、夭折する。幼児期に死ぬようになると、豊かだった時代にある程度長く生きられていた時代とは、当然、生きること、死ぬことへの願いのスパンが極端に短縮されるのである。

つまりピラミッド内部の王の間などの空間施設や、あるいはミイラ技術もまた、王族たちの再生のための復活機能を持ったモジュラー、ユニット(専用機器・機能)だったことになる。それは共通して、個人の墓でもありながら、ある種の呪や魔術、儀式の舞台である。すなわちそれらの巨大な設備は、祖霊復活のための集団儀式のためという、ただの個人墓とは意味合いの違うものへ大変化する。その根幹にあるコンセプトは、一族はらから全体のための祖霊としての降臨に価する巨大な設備でなければならない。規模と底辺死生観が大自然・地球の環境変化によって始まったのである。それが巨大なプロジェクト化して新しい文明が脱皮してできあがる。アウフヘーベンされるのである。ちょうどあ昆虫や蛇が脱皮して、大きくなったり、まったく別の形態と機能を持った(成虫は全体として生殖する体へ変化する。成長とはいかなる動物においても子孫を残す生殖機能を手にするためにある)変態のような事件である。


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図1 シリア・トルコの位置図と同緯度・同縮尺での日本列島
 日本とほぼ同緯度に位置している。ジェット気流の移動などが気候に大きな影響を与えており、日本における気候変動と同じセンスで、気候変動が発生していることが分かってきた。
九州とエジプト・中近東・地中海沿岸地域の緯度は近い。基本的に豊かなところである。




このように、世界の人類はみな同じような環境変化によって、ある地域では男王から女王へ、政治王から巫覡王へと、逆戻りを余儀なくされる時期がある。だから、その時期の死生観や呪術には、ある共通点が生まれてくるのである。


エジプト人にとって、地中海が彼岸ではなということは、日本で考えれば、それは日本海側がそうなったのではないか?という着想を生む。そして太平洋側や瀬戸内の死生観と日本海側の死生観にギャップが生まれたならば、王としては国家的な統一は非常に困難になってしまうだろうということも。だから大乱は起こるのであろう。



このような状況下で、エジプトでは「死者への手紙」「死者の書」などが書かれてゆくようになった。

ギリシアでは呪いの札カタデスモイ Katadesumoi が墓所敵対した死者や族長、異民族墓などに置かれ始める。呪いの場所を代表するのはギリシア人にとっても河であった。やはり対岸がエジプトだったからだろう。

カタデスモイは鉛の札で折りたたんで呪の言葉や形象を描いてある。
そこに釘や矢のようなものを突き刺す場合もあり、日本のわら人形のような呪符である。地中海では共通してそれを河の岸部におき、呪うべき死者の再生をくいとめようとする。つまり日本の古墳時代の直弧文である。再生禁忌の印。



つまり両者は当時から対面する異民族のことを知っており、たがいの交流があったということになる。だから太陽の船のような構図は、本来、環境変化前までは互いに彼岸が海であり、船で交流がはじまってからは、地中海はむしろ観念よりも貿易など実業のための現実世界になったのである。すると彼岸は河へと変化した。そこが日本人と少し違う太陽神の性格を生み出すことになったはずである。川幅の狭い日本では、河川流域の氾濫する場所では、彼岸というよりも河童などの妖怪がすむ場所となる。
それも人を食う神=魔物の地域的なとらえかたに影響する。




 

マゲイア カタデスモイ 魔術と呪いの符

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 マゲイアMageiaとも。古代ギリシャ(ヘレネス)の伝承で魔術のこと。

マゲイアはヘレニズム時代に人気があり、オリエントの、東洋の要素が豊富だったようだ。 誰かの愛情を得る、敵に危害を加える、といったことで使われた。

 方法にはエポダイEpodai(呪文)、カタデセイスKatadeseis、カタデスモイKatadesmoi(呪い)などがあった。 平たい板に刻み、望ましいのは墓場に埋めるというものだった。
また、ロウ人形を作って融かす、針を刺す、鉛の人形を縛って墓場に置く、などの方法もあった。

グリモアのレメゲトンの一章「ゴエティア」(ゲーティア)の語の元のようだ。
http://www.jiten.info/dic/europa/geteia.html



日本人と一緒。
世界中やることは同じ。
それが世界中で始まる時期は気候悪化したボンドイベントなどにぴったり符合する。

温暖期には一神教が生まれ、寒冷期・乾燥期には太古からの呪文と魔術と巫覡王が復活する。このように騒乱・侵入・殺戮・暴行・放火・殺人・戦争・動乱は気候変動によって起こりはじめ、ピークは人的な怨念や植民地主義や帝国主義として顕現する。

異民族フンは動き西欧を混乱させ、民族の移住によって混血が起きる。匈奴やウイグルは侵略し、Isによってアフリカから民族が海をわたる。血は混じり、世界は混乱する。しかし、長い眼で見れば、それこそがダイナミックな人類血脈の単一化・平均化を引き起こし、やがて世界は温暖期の到来で平穏を取り戻す。

この繰り返しこそが人類史である。

どんなにあがいたところで、われわれは宇宙・地球・大自然の神のゲームから逃げることはできない。世界平和は念じるものであり、実現する場所に今後も当分ない。それは神々の淘汰と選別である。人類全体が淘汰されてしまわぬためには、われわれはできるだけ子孫を多く残すしかすべはない。それは科学ではなく、万能の現代死生観である。科学はそこに気づくためのノウハウは提供するが、ではどうすればよいかなどは教える力はない。教えてくれるのは哲学と宇宙観だが、知ったところでどうしようもない。それを運命と呼ぶのである。





この故に易に太極あり。これ両儀を生ず。両儀は四象を生じ、四
      象は八卦を生ず。八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず。
                                    『易経』「周易繋辞上伝」P243



子の曰わく、天、徳を予れに生せり。桓タイ(鬼にょうに隹)其
      れ予れを如何。                           [述而第七 二二]



亢竜悔あり。                 『易経』「周易上経 乾」



道行われず、イカダ(浮のサンズイでなく木ヘン)に乗りて海に浮
      かばん。                                  [公治長第五 七]




彗星東方にいづ。蚩尤気( しゆうき)とも申す。又-共申す/平家 3



革おこりて慈気滅す 滅して無 無 有を生ず 有生じて天人合一す




鳳凰麒麟出ず 玄武北を守らず 指南車南をささずして 赤気出ず




すべてが天命=宇宙理論に沿って起こり、人はあがらえない。
『論語』も『易経』も『老子』もそう言っている。
神とは宇宙の摂理。
摂理によって宇宙は星星を生み、星星は摂理によって生命を生み出し、そして滅びる。生物も天体も同じ星の元に摂理の子である。
したがって人類もまた天命には逆らえない。そしていずれは滅びるもの。

呪はかなえられぬもの。
かなわぬからこそ人は人を、運命を、天命を呪う。

摂理がいくさを引き起こし、神は多くの生贄を欲するもの。

これから先も人は摂理によって生かされ、盛衰し、そして死滅する。

すると摂理はまた新たないのちを創り出す。

地球が滅びるまでそれは営々と続く。

人類がいるとかいないとかは関係なく。

誰一人、宇宙の死滅や地球の死滅は見ることができない。

57億年先にたったひとり選ばれたものだけが、人類の死滅を見ながら死んでゆく。

それを真理、涅槃と仏陀は言った。

決してとどかない願い。
























Hierakonpolis, tomb 100

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エジプト ヒエラコンポリス第100号墓 彩色壁画

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ヒエラコンポリス Hierakonpolis

エジプトのルクソールの南方 80kmのナイル川西岸にあった古代都市。現コムエルアハマル。ヒエラコンポリスギリシア名で,古代エジプトではネケヘンと呼ばれた。先史時代から先王朝時代にかけての重要な都市で,その遺跡はエジプトの歴史時代初期を知るうえで重要。


エジプトに興った文明は、紀元前3500年ごろに上エジプトと下エジプトの二つの王朝にまとまり、紀元前3150年ごろに上エジプトのナルメル王が下エジプトを押さえてエジプト最古の統一王朝であるエジプト第1王朝を建設した。当時の上エジプトの中心はヒエラコンポリス英語版であり、ヒエラコンポリスの守護神であったネクベトはやがて上エジプト全体の守護神となっていった。上エジプトの王冠は白色、植物は睡蓮(ロータス)が象徴とされた。




船に乗る霊魂の死生観 そのもがり船はナイル川を航行している。
この時期のエジプト人の死後の世界はナイルの川上にあった。

やがてそれは天空に近いところにあると変化した結果、ピラミッドが造られる。


ここにもまた日本人の縄文~弥生~古墳へのヘテラルキーからヒエラルキーへの変化と同じ動きが見ることができる。












ノーベル街道に見る渡来・職人文化圏派生の謎

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このたびのノーベル賞、また日本人が二名が受賞という快挙。
それもどちらも理科系での受賞。



これに関連してニュースなどが北陸~岐阜にまたがる「ノーベル街道」をとりざたしている。

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Yahoo!ニュースより


いわゆる国道41号という「ぶり街道」に沿って、ノーベル賞受賞者が密集するということらしい。

国道41号は富山から岐阜飛騨・高山を経て愛知の名古屋へ至る国道で、国土交通省が「ぶり・ノーベル街道」として大いに全国に売り出した道路開発事業であったと聞いている。


むべなるかなと思うのは、古代から、日本海と東海地方を、急峻なアルプスを越えてつなぐ「技術・職人文化の道」は、例えば金沢のウルシ、福井の越前和紙、富山のヒスイ加工・表具、岐阜の杉加工・製鉄刀鍛冶・美濃和紙などと、往古から職人文化が根付いた地域であり、そうした技術文化の日本海集中が、高度成長期にはかなりの頻度で日本の技術の精密さを世界に知らしめてきたわけである。

こうした日本海側、北陸地方の職人文化の背景には、例えば福井を母方とした継体大王の庇護による、伽耶、百済を中心とする半島渡来職能民の招来もあっただろうし、単独の流民によった大陸事情による移民もあっただろう。

単に越前・越後・飛騨だけにとどまらず、この日本アルプスを経た職人文化は、諏訪や信濃川を経て馬籠・妻籠街道によって北関東へも流れ、江戸期に飛騨匠や製紙工業、養蚕、製鉄、活版などなど、さまざまの職人文化を広めてゆく始点でもあった。

この「ぶり街道」の始原的なものはすでに建築史の中で、飛騨匠を生み出すベースとしての寒冷期における縄文高層建築の南下によって始まっており、その道がやがて弥生・古墳時代には渡来文化のコースにもなったと考えられるのである。

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比較的温暖だった縄文中期の中部地方の人口比率は非常に高い。




この国道41号の行き着くところに名古屋があって、ここのノーベル賞受賞の数もまた特筆すべきものがある。

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愛知・静岡の東海地方も、弥生の渡来文化によった一大文化圏を形成した。それは近畿の大和主導による移民以外に、東国・関東にまで及ぶ半島からの暫時単独逃避の影響も否定できない。それが日本海からやってくるものであったことは否定できまい。
伽耶や高句麗や百済が、大陸東アジアで中華や蒙古によって圧迫された歴史が、彼らを日本海へ押し出す。記録で残っているのは大和主導型の公式の「渡来」であるが、それらは王族とその支族の帰化であって、部民クラスの職能民のすべてが彼らに従って渡来したわけではなかろう。あぶれたものは単独で海へ乗り出すしかない。


海流はおしなべて北部九州からの対馬海流が非常に激流で、めざすところは九州であっても流され、出雲半島や能登半島にひっかかるケースは多かった。


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いわゆる森浩一らが言ってきた「潟湖文化」である。
縄文海進時代にはまだあった日本海に面した潟は、いまや汽水湖や淡水湖となって内陸にあるから想像しにくいが、かつては海に面し、ラグーンを形成していて、そこは海をゆくものたちの大事な中継地となったのである。



ヒスイや黒曜石の流路から見ても、北陸は古くから加工業者がたくさん住み着く基盤がある。



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ヒスイは中国へも輸出された知名度の高い産地が越にはあった。そうなれば国際貿易港であったとしても不思議はない。文献では古志のヌナカワ姫とは姫川のヒスイの神格化であろう。出雲のオオクニヌシとの婚姻は、つまり出雲と古志の深いかかわりの象徴である。

その大いに繁栄する時代は、継体大王時代がメインであろう。



文化は大きくは北部九州から東へ流れたが、そうした大陸事情による職人の単独逃避行が、遅れていたはずの東海・関東・東北へ、中央とはまた違った職人文化を生む基礎をはぐくんで行ったことは、その地域の方言などに明らかに朝鮮語イントネーション、アクセントを残したり(北関東方言・東北弁)、職人文化を残したことからも間違いないだろうと考えている。



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列島を横断する渡来の道はまだまだ各地にあっただろう。出雲から美作・吉備へ抜ける街道からも今後の発掘が待たれる。


最新気になった考古学情報

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山陰で2例目の団扇形木製品が出土 鳥取・高住牛輪谷遺跡
産経新聞 10月10日(土)7時55分配信
  鳥取西道路の工事に伴い発掘調査している高住牛輪谷(たかずみうしわだに)遺跡(鳥取市高住)で、団扇(うちわ)形木製品や木製祭祀(さいし)具が出土したと、鳥取県教育文化財団が発表した。団扇形木製品の出土は山陰地方で2例目。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151010-00000048-san-l31

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画像は一例目の団扇形木製品が出ている滋賀県下長遺跡の威杖(いじょう=巫覡王、族長が持つ杖)。



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西都原古墳群101号墳は方墳 宮崎県教委確認
宮崎日日新聞 10月9日(金)19時37分配信  
西都原古墳群101号墳は方墳 宮崎県教委確認
 特別史跡「西都原古墳群」(西都市)の中心部・西都原台地上の「101号墳」を発掘調査している宮崎県教委は8日、同古墳が「方墳」で、墳丘から埴輪(はにわ)が多数見つかったと発表した。古墳群内でほかに確認されている方墳は、陵墓参考地「女狭穂塚(めさほづか)」と関係が深い「陪塚(ばいちょう)」の171号墳しかなく、同教委は「葬られた人物は、女狭穂塚の造営に功績があったなどの関わりを持っていた可能性がある」とみている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151009-00005991-miyazaki-l45




二足歩行や木登り…進化定説覆す 初期ヒト属新種、道具も使用か
SankeiBiz 2015/10/9 11:29
 南アフリカのヨハネスブルク郊外にある洞窟で先月、発見された約200万年前の初期ヒト(ホモ)属の新種「ホモ・ナレディ」が、直立で二足歩行したり、木に登ったり、道具を使ったりといった多様な能力を持っていたことが8日までに、2件の研究結果で判明した。研究者たちは、直立歩行と木登りの両方に適合しているホモ・ナレディは、類人猿とヒト属両方の特徴を併せ持つという興味深い存在であり、類人猿からヒトへという人類の進化の過程が一直線だったという従来の考え方が覆る可能性があるとみている。
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20151009-00000501-biz_fsi-nb

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ホモ・ナレディ(英語: Homo naledi)は、暫定的にヒト属に分類されたヒト族の絶滅種である。その化石骨格はユネスコの世界遺産に登録され、「人類のゆりかご」として知られる南アフリカの人類化石遺跡群(南アフリカ共和国ハウテン州)の一部、スワルトクランス(英語版)の南西およそ800m(0.50mi)に位置するライジングスター洞窟(英語版)で発見された
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%83%AC%E3%83%87%E3%82%A3








国内最古、正月祝う遺構か 京都・恭仁宮跡で旗の柱穴確認
京都新聞 10月8日(木)22時40分配信 
  奈良時代に造営された恭仁京の中心部、恭仁宮跡(京都府木津川市加茂町)で、新年を祝う儀式「元日朝賀」に用いる旗やのぼりを立てたとみられる柱穴の跡が見つかったと京都府教育委員会が8日、発表した。同様の遺構の発見は還都後の平城京や長岡京の遺跡に次いで3例目。府教委は「正月を祝う習俗の跡としては国内最古」としている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151008-00000030-kyt-l26




タブレットで大名館鑑賞 朝倉氏遺跡、実証実験開始
 福井市の一乗谷朝倉氏遺跡内で、かつての戦国大名の館などがタブレット端末の画面に登場するシステムの実証実験が3日、始まった。端末は11月29日までの土、日曜と祝日に観光客に無料で貸し出す。市は「遺跡の魅力を深く知ってもらい、リピーターを増やしたい」と期待している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151004-00000002-hokuriku-l18

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中世居館跡発見関連
大分「大友氏遺跡」、ヤギ6匹が除草作戦
 大分市は、戦国大名・大友宗麟(おおとも・そうりん)の屋敷跡で国指定史跡の「大友氏遺跡」に生い茂る雑草を除去しようと、ヤギを放牧して除草作戦を進めている。柵で囲まれた遺跡の一部、約1千平方メートルの作戦区域にはヤギの鳴き声と、ムシャムシャと草を食べる音が静かに響く。
http://www.sankei.com/region/news/150905/rgn1509050029-n1.html

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この中世大名居館跡地遺跡については文化庁編『日本発掘! ここまでわかった日本の歴史』中世編(小野正敏著)で特記される重要遺跡である。いずれも遺跡公園として整備中。大友氏館跡は、特に同時に絵図の発見があって、発掘によった現実の府内市街の配置と図面が見事に一致する結果を出している。

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府内古図と遺跡の配置一致








アテン神・一神教の誕生と地球環境と多神教日本人の生きる道

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一神教の誕生
アメンホテプ4世
Imen hetep
生年紀元前1362年?~没年紀元前1333年?、在位期間は紀元前1353年?~紀元前1336年?
息子はツタンカーメン。
多神教であった従来のエジプトの宗教を廃し、「唯一神アテンのみを祭る世界初の一神教を始めた」事が挙げられる。ただし、著名な宗教学者のエリアーデは、アメンホテプ4世の宗教を評し、「実際には二神教であった」としている。 というのも彼の宗教ではアテンのみならず、伝統的なエジプト宗教と同じく王たるアメンホテプ4世自身も神であるとされたからである。

アテンは太陽円盤の形で数多くの手を持っており、通常のエジプト宗教においてこれは多くの民を救う為のものであると解釈されていたにも関わらず、アメンホテプ4世の宗教では、アテンはアメンホテプ4世だけの為の神であった。そしてその他の一般の民に対しては、アメンホテプ4世自身を神として崇拝するよう説いたのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%974%E4%B8%96









アテン神
もともとは夕日を神格化した神で、テーベで祀られていた[1]が、マイナーな地方神の一つにすぎず、これといった神像も神話もなく、どんな神なのか、はっきりした性質ももたなかった。そのため当初から人々の解釈としては、夕日の神であることから、太陽神ラーと同一視されたが、あまり信仰は盛り上がらず、後には神性が薄れて、天体としての太陽を表すようになっていった。
アメンホテプ4世の妃ネフェルティティはアテン神[2]を信仰していた。妃の影響もありアメンホテプ4世もアテン神を信仰していた。一方、当時エジプトで信仰を集めていたのはアテン神ではなく、旧来の太陽神アメンであった。アメンホテプ4世の治世に於いてアメン信仰は全盛期を迎え、アメンを讃えていたエジプトの神官たち(アメン神団)はファラオをも凌ぐ権勢を誇った。アメンホテプ4世は、アメン神団を抑圧し王権を強化する目的で、自分の名も『アクエン・アテン』に改め、アメン神の文字を削った。王家としてのアメン信仰を停止し、アテン信仰をもってこれに換えたのみならず、他の神々の祭祀を停止したため、多神教ではなく一神教の様相を呈するに至った。これを「アマルナ宗教改革」または「アマルナ革命」[3]という。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%B3
 
太陽神アメンがエジプト従来の多神教の太陽神であったのを、アクエン・アテン王と変名してまで唯一絶対神としてしまったのがアメンホテプ4世の時代である。アメンホテプのアメンは当然アメン神としてのエジプト王という意味だった。息子のツタンカーメンもエジプト語ではトゥト・アンク・アメン(Tutankhamun、Tutenkh-、-amen、)と、やはり「王杖であるアンク十字架を持ったアメン神の使い」のトトというネーミングになっている。
 
アメンとラーとアテンの違い
太陽神ラーとアメンが合体してアメン・ラーというのがこの時期までのエジプト王朝の太陽神であった。その中でアメンとは豊穣の神で、「隠されたる者」という意味があるものの、この時、この神は地方に散在するいわゆる「その他大勢の神」という位置づけである。それが本来の多神教の最高神だったラーと合体する時代がある。
ラーはエジプト神話における創世を行ったと言われる九柱神のうちの太陽の神であるから、ちょうど五柱の天地創造神から生まれたアマテラスのような存在。その後創造神アトムと融合してラー・アトムとなりエジプト神話における最重要神となった。古代エジプト末期までに様々な神と融合し続ける。
アテンはアメンホテプ4世の妃の地方神。


アメンホテプ4世はそのレリーフ像の様子から、生来突然変異による奇形だったとも言われる。これについては諸説は、血のつながっていない妃や家臣らも同様にされているから、古代~中世にはよくあった貴種生誕伝説の表現であり、実際は正常だったとしている。しかし息子のツタンカーメンの夭折もあり、全否定は難しいだろう。






確かに日本の豊臣秀吉の天才児・太陽の子としての表現にも、宣教師が書き残した六本指伝承があることは以前ここでも取り上げた。ただし、秀吉は確かにそれほど不世出で異形の天才交渉家ではあったが、子どもを作れない種なしだった可能性もある。秀頼が本当に秀吉の実子であったかも疑う余地があるのだ。すると一説として秀吉もアメンホテプ同様、同族結婚から生じやすい突然変異による奇形であった可能性も考えうるだろう。


「アメンホテプ4世の像は指が異常に長い、顎が尖る、脂肪の付き方が不自然であるなどマルファン症候群の特徴的な症状を持つように見受けられ、生前から奇形だったという説もあるが、王家の血筋ではない王妃ネフェルティティや家臣たちも同様の形式で描かれることから、これはアマルナ美術特有の高貴な人々の表現形態であったと見るのが妥当である。また、遺伝子調査による王族のミイラ特定に伴い、この表現は、王家の人々の容姿の特徴をかなり誇張したものであることも分かってきている。 病弱であったとする証拠は特に無く、かつては憶測のままだったが、2010年の本人のミイラ特定により、今後の研究が待たれる状態となっている。」上記Wikiアメンホテプ4世

真偽はともかくも、彼の時代に一神教が世界で始めて始まった理由には、やはり地球環境の大きな影響があったようである。アメンホテプの時代の紀元前1300年頃は、3200年前からの氷期を経て、サハラが乾燥化し始めたあと、文明が追い討ちを掛けて人為的森林破壊を推し進めたピークが、温暖化時代によって少しずつ回復しつつあった時代に栄えた文明が、せっかく回復しつつあった森林を破壊し、再び世界から多神教の背景となる深い森や陰影が消えた時代。ちょうど最後の安定期の小寒冷気であった。この消えてゆく森林が一神教が生まれた背景である。






それは・・・



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日本人は新羅系韓国からなにひとつ学ばなかった

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われわれが受け入れてきたのは多くは長江文明人、それを引き継いだ伽耶・百済文化人といういわゆる倭種倭族の文化だけである。わずかながら後世には黄河文明による漢民族文化も仏教とともに、天武持統期に国家統一のためにのみ受け入れては来たが、日本人の思想の根底に、縄文~現代まで一貫してあるのは、彼ら広葉樹林帯文化とも言うべきウエットな死生観や生活感と稲作漁労文化の生き方なのである。つまり統一新羅の畑作牧畜文化の受け入れなどはなかった。

したがって現在の統一新羅から存続してきた大韓民国という国家から文化を真似したという現韓国政府の主張は、まったく的を射ていない押し付け主張でしかない。

われわれが明治以後受け入れた畑作狩猟文化(自然科学と哲学と富国・殖産興業思想)とは、あくまでもただひとつ西欧のものである。

そして最も言うべきは、日本人が受け入れてきた、あるいは許容してきた渡来文化とは、既成の日本列島先住民たちが、彼ら亡国の逃亡者たちを同じ広葉樹林帯神秘主義を奉じてきた同族としての旧石器~縄文原日本人の彼らへの共感・優しさ・許容量の賜物であり、彼らとの弥生時代における短い軋轢の時期を乗り越えて和の文化としてハイブリッドしたものである。


私たちは、乾燥した、即物的な、現世利益的な漢民族や朝鮮・韓国の「砂漠の思想」は絶対受け入れない。なぜならわれわれの血の根源こそが稲作漁労・多神教崇拝・太陽神崇拝のあいまいな倭人であるからだ。
















筑紫君磐井と八女古墳群を敗者の考古学で切る・八女古墳群のグループ分け

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八女古墳群のグループ分けとその年代と氏族想定
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参考 柳沢一男『筑紫君磐井と「磐井の乱」岩戸山古墳』2014 新泉社




柳沢のこの最新著作から判断できるのは、この古墳群には時代別に複数氏族が混在して統率していたということだ。その氏族や部は、在地海人族系・吉備系・大和派遣靫負氏族・大和派遣為政者などが混在している。八女古墳群は筑紫君一族だけの居住地ではなかったことが考古学ではっきりしてきた。



1 八女・久留米にまたがる八女古墳群には、筑紫君以外の集団の墓もある
2 海人系装飾古墳と吉備系直弧文や円筒埴輪を持つ古墳、武装石人を持つ古墳、大和由来の地域首長墓に欠かせない河内系大型須恵器を持つ古墳が時代を追って混在する。
3 時代的に4世紀に遡る古墳から終末期7世紀まで、数グループが交替して勢力を持ってきた可能性が強い。


石人の一部に、吉備の盾築墳丘墓の弧帯文石の顔面とよく似た構図の破片が見られる。


こうしたことから考えられる結論は、


1 継体大王が筑紫君磐井を滅ぼして、高槻の今城塚古墳に磐井の裁判や別区を模した。つまり事跡を奪い取って創作された大王が継体ではないか?

2 継体=磐井(磐井反乱のでっちあげか、逆に継体のでっちあげ)

いずれにせよ、・・・















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