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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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貝と春の歴史

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貝は春に最もうまくなる。
だから貝には春=「張る」、英語ならバネ(スプリング)の生命力がある。そのバネの形はやはり春の山菜の蕨(わらび)やゼンマイが持っている。いわゆる蕨手文はそういう形状である。

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そこに古代の人々も永遠の生命力を見ていたようだ。


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王塚古墳装飾


縄文時代には、採集食料の主力が貝で、山ほどの貝殻が見つかる。
中心はアサリやハマグリやシジミやらの二枚貝だ。
今ならムール貝に相当するイガイ類もよく食べている。


ただ貝には貝毒があり、食べ過ぎるのは危険だ。
フグは貝を食べることで胎内に貝毒を取り込み、それがフグの猛毒テトロドキシンを作ってしまう。長崎県や佐賀県では、じゃあ、フグに貝を食べさせなければどうなるかとやってみて、毒がない養殖フグを作り出したりしている。


縄文人も、貝塚を作ってしまうほど貝を食べていて、きっと貝の毒にも苦しんだはずである。


縄文後期から弥生時代になると、貝は装身具になった。
その貝殻は二枚貝よりも巻貝である。
巻貝が持っている渦巻き模様が、不老長生をイメージさせたのだろう。

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渦巻きはすなわち永遠の円の連続である。
むかし、海外テレビ番組でタイムトンネルというのがあったが、タイムトンネルの形状がまさに巻貝の渦巻きだった。人はその中心へ向って細く続く渦巻きに、時空を越える何か時間の超越を感じたことで今も昔も同じであるようだ。



それをブレスレットにして身につけることを許される人は限られていた。シャーマンや王族である。そういうところから、倭人の最初が海の民であったことは感じ取らねばならないだろう。


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サクラやバラの花びらにもやはり似たような渦巻きは見られる。


そうした目で、地球を歩いていると、意外に地形や地層にも、永遠がちゃんと刻み込まれているのに気がつく。


ぼくは、地形、地層、自然の造形が持っている永遠に、歴史家はもっと敏感になるべきだと思っている。シャーマニズムだろうがアニミズムだろうが、人間は原初的に、そうした大自然のたくまぬ造形に往古から鳥肌が立つような官能を見出してきたのだ。



そういう意味で、あらゆる歴史のヒントをまさぐってきて、やはり大地、宇宙の、何を求めてそうした形状を作るのかが、最も大事な人類の内的歴史の肝にあるように思えてならない。


修験道だろうが道教だろうが、仏教だろうが、およそ、狭小な処世術を大きく超越した信仰の真奥に、どうも「道」があるように思うのである。


柱状節理と貝殻に、同じ何かをぼくは感じてしまう。



そこにディフォルメという真理を見るのだ。


そこがあの昨夜の教育放送の若い俳優とは一段違う、道がぼくには見えるように思う。













新物タケノコの握り寿司とソラマメ 春最高の贅沢

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この春最高の贅沢をした。


街で売っていた小さな新タケノコ。
一本がたったの110円。
安いということはそのお店の人が朝、掘ってきた新物ということで間違いなし。

こういう小さい小さいのがやわらかいということを知らない人が多いから、あまり売れない。田舎の人はタケノコはでっかいものがいいと思い込んでいるから。


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てっぺんに青いところのない、正真正銘、さっきまで土の中にあった奴だ。



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上から下までが穂先と言っていい。



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この時期しか味わえない新物タケノコだ。





そして、これは初夏の味覚。

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ソラマメ新物。



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じゅんとしみこんだ出汁に摘みたての木の芽をどっさり。



これで一杯やったら、〆は握りだ。




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タケノコをそっと寿司めしにのせて握って。






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アサリの味噌汁とともに春をすっかりいただこう。








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贅沢すぎて罰が当たるわい。















新しいスサノオ学 風土記と国史の素描の食い違い 出雲族とか葛城族とかではない渡来・敗者・先住民・民衆の代表という捉えかた

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●『出雲國風土記』でのスサノヲのエピソード
1朝酌(あさくみ)熊野大神命が五つ贄を奉仕する集団の居所を定めた。
2意宇郡安来郷 「生け垣を立てめぐらして「これで私の気持ちも安らかになった」と言ったので「安来」という地名がついた。」
3飯石郡須佐郷 「この地はよいところなので、名には自分の名前をつけよう」自身の御霊をこの地に鎮め、大須佐田・小須佐田を定めた。
4大原郡佐世郷 「佐世の木の葉を頭に刺して踊った」
5大原郡条御室山 「御室をつくった」
6出雲神戸(いずもかんべ)「スサノヲとオオナムチの二神を祭祀する民戸が置かれた」
7山口郷(やまぐち)「 郡家の正南四里二百九十八歩の所にある。須佐能袁命(すさのお)の御子、都留支日子命(つるぎひこ)がおっしゃられたことには、「わたしが治める山口のところである。」とおっしゃられて、だから、山口という名を負わせなさった。」
9ゆかりの郷(飯石郡など三箇所で)記事に鉄記述が同居
スサノヲの子神七神 ツルギヒコ・ツキホコトオヨルヒコなど剣や矛を名にする武神イメージ
10 ヤマタノオロチと戦っていない。気のいい小国家の長としての素描法である。
11 出雲と言うよりも石見的。


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●これに対して国史である『古事記』では
・イザナギが黄泉の国の穢れを禊いだ際、三貴子の一柱としてイザナギの鼻から誕生(『古事記』『日本書紀』本文では無性交誕生、『日本書紀』一書ではイザナミとの間の子)
・イザナギに「海原」の統治を命じられたが髭がはえる年になっても泣き喚いて(記紀では泣き喚き従わないは王のイニシエーション(通過儀礼))、従わなかったために「根の国」へと追放された
・「根の国」へ行く前にアマテラスに挨拶しようと高天原へ立ちよるが、奪いに来たと思われ矢を向けられる
・スサノオは自身の潔白を証明するためにアマテラスと誓約を行い、男神5柱を儲ける
・誓約の後、そのまま高天原に居ついて粗暴を働き、天の斑馬の生皮を投げ入れて機織り女を事故死させる(アマテラス・大日孁貴尊のもうひとつの神格が機織女とされる。つむぐ者=シャーマンは中国西王母の枷(かせ=糸巻き棒)を持つ姿と類似。つまり共に大地母信仰で、中国神仙思想が大元)
・そのことでアマテラスが岩戸に隠れ、高天原で騒ぎとなる(コンピュータシュミレーションで3世紀末に実際に起きた日食現象がこれだとすればアマテラス=卑弥呼(=持統天皇)を意識?)
・高天原の神々が協力してアマテラスを岩戸から引っ張り出した後、スサノオはその罰で地上に追放される(『日本書紀』一書では新羅を経由して出雲降臨)
・スサノオは食糧を求めてオオゲツヒメの元へ訪れたが、身体から出した食材で持て成されたことに怒って斬り殺す(『日本書紀』一書ではこれは月読が行っている)
・その後、出雲に天降って川を流れてきた箸を追いかけ、老夫婦(テナヅチ・アシナヅチ)の家を見つけ、そこでクシナダヒメと出会う
・ヤマタノオロチへの生贄に悩む老夫婦にクシナダヒメを妻に要求する
・縁談が成立した後、策を練ってヤマタノオロチを退治する(『日本書紀』本文及び一書、『先代旧事本紀』も)
・ヤマタノオロチの尾から出た神剣(草薙剣)を高天原に献上する
・出雲の須賀を拠点に定め、そこに宮殿を建てて(伝・八重垣神社)老夫婦をその宮殿の宮主に任命し、和歌を詠む 出雲八重垣・・・
・根の国に訪問してきたオオナムチと娘のスセリヒメが出会ってすぐに結婚したゆえ、オオナムチを御殿に招き入れ、様々な試練を与える(オオナムチはスセリヒメの八種の神宝(やくさのかむだから)で危機を脱する)
・オオナムチが火計の試練から生還した際には一目置き、頭のシラミを取らせている間に油断して眠る
・オオナムチは寝ているスサノオを拘束し、宝物を奪ってスセリヒメとともに地上へ逃げ出した
・スサノオが目を覚ました時には宝物と娘が消えていたので、焦って後を追ったが追いつくことはできなかった
・そこで、遠くからオオナムチに助言と「大国主」の名を与え、「この野郎め」と捨て台詞を吐いた
参考と画像http://izumonokunifudoki.blogspot.jp/2015/09/blog-post_31.html

※鬼退治として描かれる吉備の百済王子・温羅に近く描かれる。敗北王としてのスサノヲ。



●名前表記
出雲國風土記
・須佐能袁命(すさのおのみこと)
・神須佐能袁命(かんすさのお)
・熊野加武呂乃命(くまのかむろ=熊野大社主祭神の意)
・熊野大神命(くまのおおかみ=天神=出雲最高神格)

記紀

日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、
古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと、たてはやすさのおのみこと)、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命などと表記する。



●『出雲國風土記』におけるスサノヲの系譜
・父=伊弉奈枳(いざなき)
・后=久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)
・子=1和加須世理比売命(わかすせりひめ)・2都留支日子命(つるぎひこ)・3国忍別命(くにおしわけ)・4磐坂日子命(いわさかひこ)・5衝桙等番留比古命(つきほことおるひこ)・6八野若日女命(やのわかひめ)・7青幡佐草日古命(あおはたさくさひこ・ 青幡佐久佐丁壮命とも。 佐久佐社祭神、麻の神?)

●スサノヲ=月読同一神説
上記『古事記』及び『日本書紀』一書にある食物神惨殺記事が二人の同一性格を示すことから出た仮説だが、三貴神をそれぞれどうとらえるかで、これは納得可能である。つまりアマテラスを天皇皇室の祖先氏族、月読は『姓氏録』の区分けした皇別・神別氏族と考えれば、月読は皇室を支えるその忠実な家臣団豪族となるのだから、ではスサノヲは?と考えてみる。

すると残るのは諸蕃氏族だとなる。諸蕃とは簡単に言うと渡来系氏族だが、それだけではなく、荒神としてのスサノヲの、民衆間で祭られた性格から見て、縄文系先住民蝦夷や海人族・海部氏族、また豪族の中の氏の下位にあった首・人・部たち手足になる家臣氏族も入るだろうか。

そして彼らもまた月読と同じく天皇家を支える人々なのである。だからスサノヲにも月読としての神格が与えられて当然だろう。ただ、そこに微妙な格差はある。譜代と外様の違いとも言えるか。



スサノヲが
1新羅を経由してとか、
2熊野に種子を持ち帰る、
3あるいはその子孫の神としてのウカノミタマ(稲荷)や弁財天(海の神)があること、
4さらには『日本書紀』巻第一・神代第八段一書に、スサノヲが新羅の曽尸茂梨(ソシモリ)という地に高天原から降臨したとの記述や、
5斉明天皇2年(656年)高句麗の使、「伊利之使主(イリシオミ)が来朝したとき新羅国の牛頭山のスサノヲを祭る」とある

ことなどからも、そもそもスサノヲを祖神とする氏族の多くに渡来系諸族がある理由が見えてくる。例えば秦氏支族とされる宇佐八幡神官の辛嶋勝(からしま・かつ)氏は辛嶋勝姓系図によればスサノヲを祖とし、「その子・イタケル命を奉斎して新羅より渡来し、筑紫国(福岡県筑紫野市付近)にイタケルを祀り(筑紫神社)、豊前国香春岳(福岡県唐香春町)に移って新羅神を祀り( 香春神社)、そののち豊国を経て宇佐に入った」 とある。

●スサノヲの子孫たち
■神
八島士奴美神やしまじぬみのかみ
・スサノヲ神・クシイナダヒメ神の御子
・大八島のすべてを知る神の意
 
木花知流比売命このはなちるひめのみこと
・大山津見神(前述)の娘
・八島士奴美神の妻
 
布波能母遅久奴須奴神ふはのもぢくぬすぬのかみ
・八島士奴美神と木花知流比売神の御子
 
日河比売神ひかわひめのみこと
・闇淤加美神(前述)の娘
・布波能母遅久奴須奴神の妻
・水の神
 
深淵之水夜礼花神ふかぶちのみずやれはなのかみ
・布波能母遅久奴須奴神と日河比売神の御子
・水の神
 
天之都度閇知泥神あめのつどへちぬのかみ
・深淵之水夜礼花神の妻
 
淤美豆奴神おみづぬのかみ
・深淵之水夜礼花神と天之都度閇知泥神の御子
 
布帝耳神ふてみみのかみ
・布怒豆怒神の子
・淤美豆奴神の妻
 
天之冬衣神あめのふゆぎぬのかみ
・淤美豆奴神と布帝耳神の御子
・大国主神の父神
 
刺国若比売命さしくにわかひめのみこと
・刺国大神の子
・天之冬衣神の妻
・大国主神の母神
 
大国主神(命)
 (大穴牟遅神・大己貴神)(葦原色許男神)
 (八千矛神)(宇都志国主神)
 (大物主命)他
 
おおくにぬしのかみ(みこと)
 (おおなむちのかみ)(あしわらのしこをのかみ)
 (やちほこのかみ)(うつしくにたまのかみ)
 (おおものぬしのみこと)他
 
・名には大国を治める強く偉い神、武威神、国の守護神の意
・古事記ではスサノヲ神六世の孫、書記ではスサノヲ神の御子
・国内平定、国土経営、農業、医薬温泉の神
・出雲大社の主祭神
・多くの神話を残し、また国譲りの主役でもある(後述)
・神仏習合により大黒天と模される
 ・大国主神として出雲大社(官大、島根)出雲大神宮(国中、京都亀山)
・大己貴神として氷川神社(埼玉大宮)札幌神社(官大、北海道)台湾神社(官大、台湾)樺太神社(官大、樺太)気多神社(国大、石川)大洗磯前神社(国中、茨城)酒列磯前神社(国中、茨城)伊和神社(国中、兵庫)新竹神社(国小、台湾)
・大物主神他として大神神社(官大、奈良桜井)金比羅宮(国中、香川)竜頭山神社(国小、朝鮮)
・その他全国の子神社、出雲神社、甲子碑等
 
神大市比売神かむおおいちひめのかみ
・大山津見神(前述)の娘
・スサノヲ神の妻
大年神おおとしがみ
 
スサノヲ神とカムイチヒメ神の御子(神統は後述)
・穀物、稲作の神
・大歳御祖神社(国小、静岡)飛騨一宮水無神社(国小、岐阜)ほか全国の大歳神社
 
宇迦之御魂神(倉稲魂命)(稲荷神)うかのみたまのかみ
(うがのみたまのみこと) (いなりのかみ)
・スサノヲ神とカムイチヒメ神の御子
・穀物神、稲の精霊神
・秦氏の氏神
・神仏習合によりダキニ天と同等とされ全国に稲荷社が広まる
 ・神道系総本山として伏見稲荷大社(官大、京都)仏教系総本山豊川稲荷(愛知)ほか笠間稲荷神社(茨城)をはじめ全国の稲荷神社
 
※ウカノミタマは深草秦氏の神。松尾秦氏は大山祇(積)神であるが、この神は瀬戸内海人族村上水軍が宇佐八幡神を一時期ここに移したこともあり、八幡神と大三島の三島大山積の縁故が見える。また松尾秦氏は大山積を、筑紫の宗像大社が祭る三女神の一、その父とも書く(『秦氏本系帳』逸文)。つまりそれは宇佐の比売神のことゆえ、稲荷ウカノミタマ・『古事記』大月姫・八幡比売神・宗像三女神の市来嶋姫・三島大山積・大山祇・伊勢豊受女神・八坂祇園神などがみな、渡来人とそのナビゲーターだった玄界灘海人族の間で共通して祭られてきた船霊、祖霊であったのではないかという結論が導き出されるのである。それらすべての祖神として記紀はスサノヲを捉えていると考えられないか?(三輪山大物主や高良大社武内宿禰も含むか?)

月読命がスサノヲと似ているのは当然で、どちらも皇室を支える影の存在だからだ。皇室=アマテラス以外の神はおおむね月=影の神なのであり、その月読信仰の最初もまた半島と筑紫を船でつないでいた海人族・壱岐嶋の月神なのである。だから松尾秦氏が、かつて壱岐氏が住まっていた松尾南部の土地に、聖徳太子とともに月読神を祭ったのもうなづける話だろう。

物部氏がスサノヲを祖神とするのも、三輪山大物主という大和の地主神=先住民の原始蛇信仰もつ人々の管理者だったからであろうし、それを大三輪氏という葛城鴨の支族が鎮守するのも、鴨・秦・葛城の大和における3~4世紀の出会いと婚姻がなせるものであろう。また物部氏の先祖であるニギハヤヒとその舅であるナガスネ彦にも敗者としての共通点がある。

蘇我氏はやはり歴史の敗者となった氏族で、王家の宰相でありつつ、実は実態は正真正銘の大和の王でもあって、たたり神にされた人々。

そしてスサノヲの子孫たちが、これまで出雲族とか葛城族という呼ばれ方、くくり方をされてきた理由もそこになるだろう。彼らはいわゆる天皇家の前から日本に存在した先住民であり、それら全国のすべての先住者とそれぞれの祖霊神を、天武以後の中央集権国家としての大和天皇家は平定、乃至は和合する存在であらねばならない、という思想が記紀国家統一観念(皇国史観)の建前としての真柱・肝なのである。

ゆえにスサノヲも出雲も大国主も、ほかの海人族諸国も、筑紫全体も、丹後も若狭も越も、みな、そうしたアマテラスの「末の弟」神として記紀以後は一括されてしまっているのである。記紀以前、つまり天武から女帝の律令体制時代以前には、まだそのような祭神・祖神イデオロギーの統一はなく、スサノヲもまた単なる日本海の、民衆と共にうかれて踊っていたような牧歌的な「王」でしかなかった。「出雲國風土記」はそう表現している。ところが、銅の王国だった日本海側は、渡来する鉄の外国国家によって過渡期を向かえ、結果的にその仕事を記紀の国家ヒエラルキーイデオロギーによって簒奪され、あたかも大和王家が日本海も、渡来氏族も、先住縄文系氏族もおしなべて統一したのだと描かれてしまうのである。それが記紀である。

およそアマテラスは女神なのであり、海の民や中国江南農耕民族(今の中国少数民族)の持っていたプレ道教的な大地母神でしかなかった。そして女神の子孫が天皇であるとすることこそが、月神子孫も、荒ぶる災害神子孫も、すべて統一したと文字にする、言葉にするということこそが、持統以降の女帝時代の正統化であると藤原不比等は「統一の最重要のポイント」と考えた。ところがその時代、中国~百済を経て儒教が入り、男尊女卑という儒教最大の災厄があったために、表立って王が女性であるとは言えなかった。それで推古時代に前倒し記事として、煬帝の使者の前には男王しか顔を見せなかった(とした)のである。蘇我氏の頃からそうなのだとすることで、不比等の時代の女帝も外交の表面に出さずにすむ。ということは外交を王家から隔絶できる。既得権益も大臣でまるっと手にできるわけである。

先の大戦を見るまでもなく、この国の皇室は、そのように何も知らぬうちに海外との争いを犯した国家の代表にされてしまってきたのだ。傀儡天皇であった。彼らは何も知らされなかった。すべては宰相たちが意のままにできた。それに安穏としなかった大王は、孝徳や天智や白河法皇だけであった。ただ、白河以前の天皇が確実に存在したかどうか筆者はわからない。彼らも蘇我氏やその前の武内宿禰氏族や、葛城・吉備氏らによって消されたり、譲位させられたり、遭難したりしたとも考えうる。それは革命児・天武でさえ同じだろう。明治天皇・大正天皇・昭和天皇のごとくに時の権力者によって意思を剥奪されていたのかも知れない。その証拠に、天武天皇の政治はわれわれの学校の歴史の中でほとんど教えられない。それほど重大な仕事をしたのだという認識がいまひとつはっきりしていないのではあるまいか?それもそのはずだ。天武死後、持統女帝以後、政局を牛耳ったのはまさに影のフィクサーだった藤原不比等だったのだから。

学校では、
1秦氏の様な渡来系氏族の役割は割愛されている。
2天皇が天武からだとははっきり言わない。
3藤原不比等の政策をクローズアップしない。
4海人族のナビゲーター、国家の影の実力者としての話題を語らず、かと言って彼らの多くが久しく漁師・海女として納税免除された代わりに一般民衆の認識はいつまでも古臭い被差別者、敗北者としてしか認識されないばかりか、そのことすらタブーとされてきた。
5歴史の中心にいたのは常に権力者たちであり、清盛以後、武士の時代になっても英雄だけがはなばなしく、いさましく語られ続けた。つまり記録の嘘によって、国民は正しい民衆の歴史と言うものを教えられてはこなかったのである。

スサノヲはその代表である。
それは敗者の代表だということである。
だから、朝廷内部でのスサノヲの評価は「反駁者」であり「悪」であり「迷惑な災害神」であり続けた。しかし一方で、大衆のスサノヲへの評価はどうだろう?神話の神でスサノヲはだんとつのトップに君臨してきた。石見地方の小さな小さな王でしかなかった彼が、中央によって反駁者・銅から鉄へと切り替えさせられた古き時代の魔王として中央が描いた反面で、スサノヲは民衆のヒーローであり、神楽の主役(スサノヲを最初からヒーローに描いてきたのは石見神楽、岩戸神楽だったのだ)であり続けたのである。それこそが記録のまやかしを語っていると見えてしまうのはひとり筆者だけではあるまい。

京都の祇園さん、八坂神社を創始したのも大阪海人族=魚売りたちである。牛頭信仰はもともと新羅の来訪神信仰で、荒ぶる荒神の祟る心を鎮撫するための信仰であった。新羅神なのである。それが記紀スサノヲの神格に習合して祇園信仰は生まれたのだ。職人や行商や技術者や歌舞音曲・演劇といった、いわゆる儒教が差別した下層民たちもまたスサノヲを愛し、わかっていながら皇室、権力者に擦り寄らねば生きて活けない存在だった。まるで現代の政治家や官僚や行政職に逆らえない民衆を見ているようではないか?われわれ平民の大半は、まことに今もなおスサノヲの子孫なのである。


敗者を見なければ歴史の真相にはたどり着けない。


日本の聖山ベスト30  修験道・山岳信仰のメッカと鉱物分布・忍術分布など比較して楽しむ 秦秦澄「飛び鉢」伝説

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森浩一『ぼくの考古古代学』第五章「山と古代人の信仰ーー越の大徳・秦澄をさぐる」より


日本の主な山岳信仰の聖山(北から順に)
参考上記森浩一著書及びWiki山岳信仰
上の分布図にない場所も含んでいます。

1 岩木山(コニーデ火山)青森県 おいわきやま・津軽富士、日本百名山の一つ
岩木山神社を中心とする修験道。独特の唱文を唱えながら登る
●開山不明

2 鳥海山(コニーデ)   秋田県・山形県 
本山派 : 天台宗系 (本山は聖護院)、熊野派、順峯
当山派 : 真言宗系 (本山は醍醐三宝院)、吉野派、逆峯の二派がある。
出羽三山とまたがるため出羽信仰の一部とも目されることがある。
●開山不明●修験道創始は役小角と言われている

※コニーデは火山活動によってできた山の形状のひとつ=成層火山。富士山型の円錐形をしており、日本のほぼすべてのコニーデには聖地的(山岳信仰・修験・密教などの)な扱いがされていると言ってもいい。それは山の高さではなく、美しい形状にあるらしい。そしてかつてそこが火山、あるいは火山の一部、あるいは新しい火口部であることが多い。火山であるならばその地層にはさまざまの鉱物と花崗岩のようなそれを含んだ岩石群が存在する。また聖地にふさわしい奇岩、奇地形があふれている。ゆえに山岳信仰の山にはコニーデ型が多い。



3 出羽三山=月山(コニーデ火山)・羽黒山(月山の丘陵部)・湯殿山(月山中腹新火口部)  山形県村山地方・庄内地方 ゆえに出羽三山と言っても中心は月山で、あとは月山の中腹一部と新火口部である。
月山・羽黒山・湯殿山の総称 修験道中心 
●開山 出羽三山神社社伝に崇峻天皇の皇子・蜂子皇子(能除太子)

崇峻天皇が蘇我氏に弑逆された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入った。そこで、3本足の霊烏の導きによって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・湯殿山も開いて3山の神を祀ったことに始まると伝える

蜂子神社・・・凝灰岩の多いところにあり、蜂=秦氏広隆寺(蜂岡寺)での聖徳太子が嵯峨野に楓を植えた逸話を感じさせる。蜂がいる、それは楓の蜜のせいであるが、楓は中国でも「ふうのき」は鉱山のある場所に生えるといわれ、日本のカエデも鉱山があったことを思わせる。思うに福岡の香春岳も秦氏部民によって龍骨を採集していた聖地であり、忍骨命の「おしほね」も恐竜化石の作る石灰岩採集の山であり、龍骨あるところ銅鉱脈などもあるとされる。香春古宮八幡社前に採銅所地名があって、秦氏祭祀者赤染氏らが銅鏡を作って宇佐へご神体として奉納する儀式が今もある。

その「はち」が秦澄伝承に最も多く見られる「飛び鉢」伝説に変化したのではないかと筆者はひそかに推測している。筆者近在にも「来鉢 くばち」地名があるが、ここでは秦澄が空海に変化して伝わっている。鉢は僧侶托鉢、修行時のかかせぬ相棒である。かつては須恵器、のちに鉄器になるが、そのわけは登山者がコッヘルという鍋を持つのと同じく、貴重な調理用具であり、托鉢の金を入れさせるうつわでもあり、これで湯も沸かせれば、水も汲める道具。中にものを入れて移動できる。ようは命の綱ともいえる貴重品だったといえよう。それで、食料がなくなった秦澄が、持っていた鉢を投げると、スポンサーなどが糧を入れて投げ戻したという伝説になったのだろう。中には断るものもいたらしく、船の積荷のコメを出し渋っていたら、鉢が飛んできて積荷のすべてを運んでしまったという笑い話のような伝承が『日本霊異記』にある。

故森浩一は『ぼくの考古古代学』の中で、日本の僧侶の中では空海・行基・秦澄の伝承が最も色濃く全国各地に広がっていると述べ、修験道の役行者を除けば空海は伝承ナンバーワンで、主として杖で水を湧かせ、行基は地図作成伝承、そして秦澄はこの飛び鉢伝承であると書いている。

筆者は子供の時分、白土三平の『甲賀忍法帳』だったか「サスケ」だったかに、主人公影丸(サスケでは彼の父親になっている)が、「一本しめじ」というテレポート秘術を、手持ちの笠を飛ばして移動するシーンを強烈に覚えたが、まさに秦澄の鉢などもそれに匹敵する物品テレポート秘術ではなかろうかと思う。



4 磐梯山(現在も活動中のコニーデ火山)   福島県
磐梯山の南西麓にあった慧日寺(現在の恵日寺)は北東に磐梯山、北に厩岳山、さらに磐梯山の北に吾妻山という山岳信仰の盛んな山を抱えており、その立地的な面から山岳信仰に大きな役割を果たしてきた。そもそも慧日寺の開基は806年に磐梯山が噴火した翌年のことであり、噴火と慧日寺開基との間に山岳信仰上の関連があるのではないかとする見方もある。吾妻山神社への参拝ルートは慧日寺門前町の本寺を始点としたいくつかのルートが開拓されている。
●開祖 役小角



5 日光男体山(コニーデ・火山) 栃木県
日光山=二荒山(「ふたら・さん」を音読して「にこう」が関東風に跳ねて「にっこう」)日光修験道 
●開山 勝道上人●開祖役小角(役行者)

日光山(にっこうさん)は、栃木県日光市にある輪王寺の山号である。江戸時代には日光寺社群を総称して日光山と呼んだが、明治時代の神仏分離令により輪王寺の山号となった。

日光山という単独山はなく複数ある火山塊全域の総称。栃木県北西部にある男体山(2,486m)、女峰山(2,464m)、太郎山(2,368m)の三山を中心とする山岳の総称としても用いられる。近年大噴火した日光白根山も含まれる。日光山系のほとんどの峯は火山である。

男体山(火山)日本百名山 二荒山神社の境内地で冬季入山禁止。
●男体山の初登頂は782年(天応2年)に僧勝道上人によって成し遂げられた。この登山については僧空海の記した『性霊集』に詳細が述べられている。この時期の初登頂記録としては最も実証性があるものといわれる。


6 筑波山(コニーデ)   茨城県
西側の男体山(標高871m)と東側の女体山(標高877m)からなる。雅称は紫峰(しほう)。筑波嶺(つくばね)とも言い、茨城県のシンボル

平安時代から有名で
筑波嶺(つくばね)の峰より落つるみなの川恋ぞ積もりて淵(ふち)となりぬる
出典後撰集 恋三・陽成院(やうぜいゐん)
は百人一首でも著名。
●開山不明


7 大山 (コニーデ)   神奈川県
別名を「阿夫利(あふり)山」、「雨降(あふ)り山」ともいい、大山および阿夫利神社は雨乞いの神ともされ、農民の信仰を集めた。江戸時代には大山詣が大流行し、富士山に登るやら伊勢神宮に参るなどの前に、江戸っ子は必ずここに詣でたという。丹沢水源の湧き水とあいまって、低いけれど聖山だと言える。
●開山不明



8 木曽御嶽山(コニーデ火山) 長野県 
最初は「王御嶽」(おんみたけ)と呼ばれ、古くは坐す神を王嶽蔵王権現とされ、修験者がこの山に対する尊称として「王の御嶽」(おうのみたけ)称して、「王嶽」(おうたけ)となった。その後「御嶽」に変わった。修験者の総本山の金峯山は「金の御嶽」(かねのみたけ)と尊称 
●開山・開基不明 無名の修験者集団の峰入りから始まる



9 浅間山(コニーデ火山)   長野県
浅間山(あさまやま)は、長野県北佐久郡軽井沢町及び御代田町と群馬県吾妻郡嬬恋村との境にある安山岩質の標高2,568mの成層火山。山体は円錐形でカルデラも形成されており、活発な活火山として知られる。

「あさま」は火山を示す古語とされる。富士山の神を祀る神社が浅間神社(せんげんじんじゃ)と呼ばれるのも同様の理由であり、阿蘇山の「あそ」も同系のことばであると言われる。浅間山も多くの山々と同じく、古くから信仰の対象となっており、浅間神社(通常の浅間神社とは祭神が異なる)が鎮座している。浅間神社(せんげんじんじゃ/あさまじんじゃ)は、「浅間」を社名とする神社。主に富士山に対する信仰(富士信仰/浅間信仰)の神社である。大山積神の娘コノハナサクヤ姫。この姫は記紀神話では南九州の海人族が祭る山ノ神。

雪形浅間山の南斜面には春になると雪形が出現する。鯉の模様が出る頃に苗代の準備を行う風習がある

※あさ、あそ、あそうなどは山を意味する古語だと言われている。
●開山不明



10 富士山(コニーデ火山)   静岡県・山梨県
富士山に対する信仰の一形態。富士山をまつる浅間神社は,山麓の登山口にそれぞれまつられ,信仰の中心になっている。富士山神は女性で,コノハナノサクヤヒメ(木花開耶姫)である。都良香の『富士山記』にも,山頂で美姫が舞うことを記しており,古代から霊山として信仰の対象であった。浅間神社は里宮にあたり,中世にはここを通して,富士登拝を行なう富士道者が増加した。近世にそのなかから長谷川角行という者が現れ,浅間神社から独立した富士講をつくった。これはのちに江戸町人を基盤に大きな勢力をもつにいたる。近代にはさらに扶桑教,実行教,丸山教などの教派神道が成立した。
●開山不明

富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は、静岡県富士宮市にある神社。式内社(名神大社)、駿河国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。社家は富士氏。

富士山には、その美しい山容から女神と見る信仰が古くからあり、平安時代には都良香の「富士山記」(『本朝文粋』所収)に「浅間大神」として、『竹取物語』には「かぐや姫」の名でその表現がある。しかしながら、これに『古事記』『日本書紀』に見えるコノハナノサクヤヒメが当てられたのは近世に入ってからと見られ、それまでは一般に「浅間神」の名で信仰されていた。

「浅間」の古称「あさま」は、阿蘇山・浅間山・朝日岳等に見られるように「火山」を表す呼称と見られている。都良香の記述も延暦21年(802年)の噴火を取り上げており、この頃に「浅間神」の呼称が生まれたと考えられている。中世以後の神仏習合時代には「富士大菩薩」「浅間大菩薩」、さらに降ると「富士権現」とも称された。

富士山の神霊をコノハナノサクヤヒメに当てる起源は明らかでないが、文献の初見は江戸時代初期の『集雲和尚遺稿』である。「コノハナ(木花)」は桜の古名といわれ、祭神は富士山の美貌の形容に由来するとされる。また、神話にある「コノハナノサクヤヒメの火中での出産」も、火にまつわる事象として意識されたと見られる。また、三島神(三嶋大社)の祭神を大山祇神(おおうやまづみ・大山積神)と見て、富士と三島が父子とする伝説も江戸時代頃から散見されるようになる。

江戸時代の屋代弘賢による『古今要覧稿』には「二神を祭る」という表現もあるが、現在は上記のように「浅間大神は木花之佐久夜毘売命の別称」としており、習合した1柱の神格を主祭神としている。また配祀神については、『富士本宮浅間社記』では太元尊神と大山祇神としている。太元尊神は国常立尊とされるが、明治初年以降から現在に至るまでは、太元尊神に代えて瓊々杵尊を配祀神の1柱としている。

※コノハナサクヤの前に浅間神があり、これは山の神。それを江戸時代までにおそらく修験者たちが権威付けとして記紀の女神を持ち込んだか?その女神が海人族が祭った山の神の娘であるところから、修験者の多くに、葛城系つまり南九州や瀬戸内系の海の民がいたことを思わせてくれる。



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11 七面山(身延山信仰)   山梨県
七面山(しちめんさん)は山梨県南巨摩郡にある1,989mの山。三角点は1,982.4m。日本二百名山の一つに選定されている。
●開山不明

東側は身延山、富士川を隔てて天子山地と対峙し、西側には笊ヶ岳、青薙山など、赤石山脈南部、白峰南嶺の山々が連なる。
山頂東北部の約73haが歴史的に久遠寺の寺領であり[1]、現在も周囲を早川町に囲まれた身延町の飛地である。Wiki七面山

「七面山が日蓮宗の法華霊山となったのは、日蓮聖人の身延入山に始まります。それ以前、はるか古代から里人にとっては七面山を神体山として、山の神が祀られてきたと思われます。まず、日蓮聖人入山以後の七面山の法華信仰を年表により確認してみます。 〇(民族信仰から山岳修験信仰の時代・修験道第一次成立期―山伏衆の結成). (平安~鎌倉~南北朝時代 七九四~一三九二年). 池大神・龍神の民族信仰がおきます. 雨畑村の人達が一の池に池大神の祠を建てます. 修験者が役行者を祀ります。」
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index177.htm


12 立山(カルデラ活火山)    富山県 修験道 
●開山 開山縁起によれば奈良時代の佐伯有若・佐伯有頼親子
※立山は連峰であり複数の峯が連峰を形成する。中でも立山は二重火山。

13 白山(コニーデもある活火山連峰)    福井県・石川県・岐阜県 修験道 
白山比(ひめ)神社(祭神白山菊理姫くくりひめ)及び白山権現を祭神として、被差別「しらやま」信仰と一般民衆の「はくさん」信仰が同居。及び修験道と秦秦澄開山の仏教聖山、一向宗衆徒による寺院(永平寺・延暦寺・平泉寺などなど)が時代を経て複雑に同居するが
●開山は秦秦澄(はたの・たいちょう)の白山比神社が最古。
白山火山帯の中心的山。


14 越智山  福井県
15 伊吹山   滋賀県
16 鷲峯山(じゅうぶせん)京都府相楽郡和束町
17 三輪山(コニーデ型)奈良県桜井市
18 大峰山  奈良県
19 信貴山  奈良県
20 葛城山・吉野山・金峯山(きんぷざん) 奈良県
21 甲山 兵庫県西宮市 コニーデの低山。頂上に弥生時代の銅剣のきっさきが露出しているという(森浩一)。
22 熊野山 和歌山県 ご存知空海の聖山。開山する前に空海は地元神の秋葉さんやら丹生津姫さんやら金山彦さんにおことわりを入れたという。空海は水銀や金を捜し求め、その金で遣唐したらしい。蝦夷俘囚の連行された讃岐佐伯氏出身。
23 大山(単独峰・コニーデ火山)  鳥取県
24 高山 山口県・島根県
25 剣山 徳島県
26 石鎚山 愛媛県
ご自分で調べてね!


27 英彦山(コニーデ)  福岡県
英彦山神宮(ひこさんじんぐう)は、福岡県田川郡添田町の英彦山にある神社。旧社格は官幣中社。現在は神社本庁の別表神社。通称「彦山権現」。

日本三大修験の霊場(恐山・白山?出羽三山?その概念自体、調べても不明。英彦山の自称か?)として栄えた神社である。しつこく調べたらこうあったが・・・。

大峰山(山上ヶ岳)(奈良県)出羽三山(山形県)英彦山(ひこさん)(大分県・福岡県)を日本の三大修験道場というそうです。」https://ameblo.jp/masac2/entry-10700858558.html

Wikipediaでもやはり「 羽黒山(山形県)・熊野大峰山奈良県)とともに「日本三大修験山」となっている。へえ。ちなみに日本三霊場とは違うようだ。
いろいろあってよくわからない概念。




主祭神正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと) - 北岳。
配神伊耶那岐命(いざなぎのみこと) - 南岳。
伊耶那美命(いざなみのみこと) - 中岳。
たしか登ったときにニギハヤヒもどこかに祭られていたような記憶あり。

英彦山は古代より神体山として信仰されていたとみられる。当社の開基については次のような伝承がある。
●開山 秦秦澄か?よくわからない。
●開山神話
継体天皇25年(531年)、北魏の僧・善正(ぜんしょう)が英彦山山中で修行中に日田の猟師の●藤原(藤山)恒雄(こうゆう、のちの●忍辱〈にんにく〉)に会い、殺生の罪を説いた。しかしそれでも恒雄は猟を続け、1頭の白鹿を射た。その時、3羽の鷹が出現して白鹿に檜の葉に浸した水を与えると、白鹿は生き返った。それを見た●恒雄は、この白鹿は神の化身なのだと悟り、善正の弟子となって当社を建立したという。藤原恒雄は半島伝説の桓雄(かんゆう)の音読みだろから、この猟師も渡来人だろう。

また別の伝承では
●祭神・天忍骨命(あめのおしほねのみこと)の降臨した地とされて山上に一祠が建てられたのが起源とも云う。清和天皇代の貞観7年(865年)に従四位上を授けられたとあり、延喜式神名帳にも忍骨命神社として名を残す。この神は田川郡香春町の香春神社の祭神でもある。

「今の赤村と津野一帯を昔は吾勝野と呼んでいたという。その由来は、吾勝尊(天忍骨尊)が岩石山に天降ったことから、岩石山は吾勝野と呼ばれていたし、 その東側の今川流域は吾勝野の名であったという。それが、景行天皇が熊襲を討つときこの山頂に登り、神々を祭って東側を見下し、「この山麓は豊かな土地であるが、 南北に連なって細長いので二つの村にしたがよい」との言葉からアカツノが分かれてアカ村とツノ村になったという。」http://tokyox.matrix.jp/wordpress/%E8%8B%B1%E5%BD%A6%E5%B1%B1%E3%80%81%E5%A4%A9%E5%BF%8D%E7%A9%82%E8%80%B3/

筆者著書で、忍骨はオシホミミのことだろうと推測したが、記紀には出てこない在地だけの神。名前は香春岳の竜骨から創作したようだ。母は息長帯姫大目命つまり神功皇后だろうが、そうすると記紀ではオシホミミはアマテラスの御子なのだから、神功皇后=アマテラスになってしまうとも書いた。修験者が香春の秦氏だから、オシホミミという日の当たらなかった天孫を持ち出したのか?記紀でオシホミミは子のニニギに降臨を譲り、自身は降臨していないことになっている。福岡県赤村には数度行ったが、確かにここに吾勝オシホネ祭られている。しかしその「われかつあかつ」とはオシホミミのものなのでやはり二人は同一神のようだ。敗者の作った神なのだろう。



28 国東六郷満山(両子岳はコニーデ火山) 宇佐神宮も含めた国東半島全域の修験道。峰入り修行地。
●開山 伝説で仁聞(にんもん)菩薩と伝わるが、南都・比叡山の天台密教に始まって、四国からは空海の真言密教、また宇佐信仰と福岡田川郡の渡来系?英彦山修験道が?入り混じる混沌性がある。東大寺お水取り儀式に関わる修正鬼会(しゅじょうおにえ)が伝わるのは、白山信仰の伝わった愛知県や長野県南部の花祭・雪祭に近似。奇山・奇岩・景観を経巡りながら天空をゆくような高揚感が味わえる。無明橋が高山と高山をつなぐ醍醐味は、葛城山と吉野金峯山にハシをかけて自在に往来したという役小角の呪術を思い出させる。また数年に一度ほど、比叡山阿闍梨(あじゃり、あざり、ācārya アーチャーリヤ、阿舎梨・阿闍梨耶とも音写)とともに修行する峰入りが行われるのは見もの。


29 阿蘇山(カルデラ活火山) 熊本県 その他熊本には熊本市に金峰山、九州山地熊襲居住地そばには金峯・銀峯がある。


30 霧島山(コニーデ活火山連峰)  鹿児島県・宮崎県 霧島山・新燃岳・韓国岳・高千穂岳を含む霧島連山 霧島の高千穂岳頂上には天の逆鉾がささっている。宮崎県高千穂町の高千穂峰は祖母山のことで霧島とは別であるが、どちらも天孫降臨候補地の高千穂を主張している。


番外 由布・鶴見岳伽藍岳噴火口(コニーデ活火山)と九重連山 大分県 特に鶴見岳は別府温泉・塚原温泉、由布岳は湯布院温泉・湯平温泉のそれぞれ源の山 火男火売女神社(ほのおほのめじんじゃ)と山麓の朝見神社が別府鎮護の山である●開山役小角  





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岩石信仰と修験道もリンクする。聖なる石だとされた石材の出る地域には偏りがある。種類が多い場所は石材の必要性が高かった高度な都市文明がある場所?それは石棺や石室、つまり古墳の分布数にもリンクしたし、強力な豪族や大名のいた場所でもあった・・・。





さて長々と(一覧製作に一日かかった)並べてきたが、この地図をいろいろほかの分布図と比較してみたいのである。

まずこれらの聖山と鉱物・石材分布のリンクはあるのかどうか。


日本の花崗岩分布(筆者製作)
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聖地と花崗岩分布はほぼリンクする


※花崗岩は甲とか御影とかの地名がある場所に、岩盤として多く存在し、中に石英などの輝石や、貝殻化石、砂鉄などを含むので、古代金属探索の目安になった石。とくにそのマーブルの中にむかでとか蛇と呼ばれる鉱物鉱床のすじがあれば、そこの地殻には金や鉄や銅や錫・水銀なども含まれるかもしれない。修験者がそれを修行といいつつ探したのではないか?

役行者は国家によってとらわれたが、それを換言したのが葛城の山の神である一言主神だったと記録は言う。実際には弟子だった韓国広足であったらしいのが、なぜかのちに書き換えられたらしい。一言主と言えば役の行者にしてみれば出身地葛城の地元の地主神である。それに裏切られたというのは、もしや葛城山・吉野山の鉱脈を採集したからではないか?

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筆者がもらった葛城一言主神社御火焚祭祈祷串


一言主神社は大阪府の赤坂村にある地主神社。ここは楠正成が南北朝の争いのときに立てこもったところ。同時に葛城鴨氏が管理した場所でもある。役の行者はその葛城鴨の朝臣だったとなっている。葛城氏出身なら一言主神にとってそれは管理者・監視氏族であり、それをちくるというのも奇妙か。雄略天皇の記事では、狩りの最中に現れて、天皇そっくりの姿で天皇を威嚇する。そういう口やかましい地元神である。土蜘蛛がいたとあるので鉱山の鉱夫らの神だろう。

そういうと神武のときには吉野山の似たような鉱山夫?いひかが出てくる。吉野山は往古から仙人がやまほどいたとされた聖地。仙人は道教の言葉だから、吉野山の伝説は中国の道教の影響から生まれたわけだ。




さて記録では、のちに国が僧尼令(養老律令の一部)を出して山に僧侶が修行として住み着くことが禁止(山居禁止)されている。その理由が森さんは最後まで、「わからない」と言って亡くなっている。しかし山にある金属は、武器の材料である。鉄なら剣もやじりも作り出せ、さまざまの農具、刃物も作れたえわけである。そうなると為政者は困るだろうと思う。鉱物を勝手に採取する行為は、為政者にとっては国家の敵となりうるものだっただろう。行者が呪を用い、鬼神を使って山々を闊歩し、孔雀明王の秘術の真言孔雀呪文を唱えて自在に山々をうごめいた・・・(孔雀妙法は真言密教の観念で、その呪文とは真言である。つまり孔雀明王の名前オン・マヤラギランデイ・ソワカをサンスクリットで連呼するだけのことなんだが病魔退散・災害忌避にご利益があるとか?それにしては本人は島流しされているが?)それは非常に危険な敵対行為に見えたのであろう。それにしては空海も最澄も入山修行や放浪修行のオンパレードなのにつかまってはいない(空海は一度だけ注意されたらしいが)。国家が許容した国家仏教の正式伝承者だったからだろうか?えこひいきかな?https://climbing-shoes.info/hitori/archives/2815

役小角は優婆塞だから(この言葉自体が公伝仏教・儒教の用語だから奈良時代にそれが来ていることになる)、僧侶にはならない。すると僧尼令は当たらないことになるか?

式内社の分布図その3 http://magnoliachizu.blogspot.jp/2014/11/3.html
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神社信仰は修験道も。仏教・道教・神道の習合が修験を生み出し、それは皇極~天武の時代に特に・・・。それこそが天皇家登場の裏側のヒント。



●出雲は鉄よりも銅の国家
ついでながら、出雲を鉄の国家だと見る向きは多いようだが、筆者は出雲は最初は銅の国家だったと見ている。出雲からは銅剣も銅鐸も大量に出ている。その数は日本全国で出てくる銅器の数量を簡単に超越する数量だった。つまり記紀の言う国譲りは、出雲の銅文化が、侵略者の鉄文化によって圧倒された歴史を語るものなのだろう。それで奈良時代になると出雲は砂鉄によるたたら製鉄のメッカに変身した。しかし出雲よりも早い・・・日本でも最古級に早い製鉄遺跡が出てくるのは吉備や丹後や若狭なのである。金属は現代でもまだ国家の産業の基盤であり続けている。自動車は鉄やアルミでできている。だからアメリカは鉄やアルミに今回、高い課税をしてきたのだ。中国や日本を、奈良時代の天皇同様、役の行者だと見ているわけである。



あとは地図、分布図を一杯やりながら、つらつら眺めては、あなたはあなたなりの古代学を楽しんでください。ながながとおつきあいさせました。ご愛読、ご通読、完全読破をありがとうでした。


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渡来・秦氏・修験道・神仏習合の影にのちの呪術の亜流である忍法も?
あとは鉱物・金属・鉱床・鉱山そのものの分布だな。


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日本の鉱山分布図各種ページへのリンク


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新しいブログを始めました!

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Kawakatuの、ニュースを料理してしまえ!


これまでの二つのブログでは扱いにくいテーマをずばりと切る、話題批評ブログです。
考古学とか歴史学のような人間生活の歴史が中心ではなく、広く生物学や人類学、自然科学~卑近な最近の世相まで、ずばずばずばずば、切り取ってきて、とっても意地悪くアイロニーに富んだKawakatuならではの冷ややかな笑いにしちまおうというわけです。まあ、もうひとつの暇つぶしにしていただければ幸いですわ。

第一回はイーダという名前をつけられて、人類最古の祖先にされてしまった(その可能性がどうも高い?)キツネザルの化石の話です。


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イーダ!!
って舌べろだしてる?





唐古・鍵 建物の「どうしてそれでいいと思うの?」的な・・・

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先日、奈良の唐古・鍵遺跡の例の建造物がリニューアル発表されましてな。

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どうしてこういう形状になったかってえと・・・、

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この土器片が出たからですがね・・・。




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およそ高松塚以前の古代人が描いた絵画は、ほとんどが、意識も意味も見た目もディフォルメされた概念・観念的画像だと思うのである。

言わば今の漫画やアニメを日本人は得意としているが、それは装飾古墳など見る限り、非常に幾何学的に描かれている。だから高松塚やキトラより前の形象ってやつは、ぼくらはまずあれはかなり心象的なディフォルメされていると思うべきなのだ。


なのに唐古・鍵では、土器に描かれたまんまの漫画チックな塔を再現しちゃったわけね。



あたしゃあ、そのアカデミズムの奇妙なまじめさが笑えるわけなんです。



あたしゃね、
ああいう建造物を、海を渡って見て来た奴がいたんだと思うのですよ。
それを頭に刻みこんで倭国に戻ってきて、こんな感じだったと描いたのよ。

ただし、いい加減に書いたかといえば、そうじゃない。
ディフォルメの持っているもの、抽象化する能力・・・それはね、ちゃんとその建造物の宗教的とか、哲学的とか?そういうものまでわかって持ち帰ってこそ描けるわけなんだな。


そうして考えたとき、この建造物はぼくには漫画に見えてきてしまうんだなあ。
























新しいスサノヲ学 2 雅楽蘇莫者と蘇志摩利と藤原不比等の政治的?

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蘇莫者と蘇志摩利
●そまくしゃ【蘇莫者】
「雅楽,管絃,舞楽の曲名。唐楽にふくまれ盤渉(ばんしき)調。一人舞の走舞(はしりまい)。蘇莫遮とも書く。別名《莫者》。番舞(つがいまい)は《蘇志摩利》。この曲用の別装束(毛べりのついた赤の裲襠(りようとう)装束)に蓑をまとい,金色の山神(あるいは老猿)を模した面をつけ,左手に桴(ばち)を持って舞う。別に太子(たいし)と呼ばれる笛の音頭が舞台の上で笛を奏す。太子は左方襲(さほうかさね)(常)装束に唐冠(とうかんむり)をかぶり,太刀を腰に下げる。」出典 株式会社平凡社/世界大百科事典 第2版について 
”篝の舞楽-蘇莫者(そまくしゃ)”  動画リンク
https://www.youtube.com/watch?v=Uy29RdZhoGA


●そしまり【蘇志摩利】
「雅楽。高麗楽 (こまがく) 。高麗双調の中曲。舞は四人舞。舞人は蓑笠 (みのかさ) をつけ、高天原 (たかまがはら) を追われた素戔嗚尊 (すさのおのみこと) の苦難を写すという。長久楽。蘇尸茂利 (そしもり) 。」goo辞書
蘇志摩利  動画
https://www.youtube.com/watch?v=HRI8w_b6r5Y




筆者解説


蘇志摩利は高麗から来た舞曲舞踊
蘇志摩利については、宝亀十一年(780)十二月の『西大寺資材流記帳(さいだいじしざいるきちょう)』楽器衣服部・高麗楽具に「蘇志摩利 懸笠二蓋 各黒羅衣」の記録が残っており、黒羅衣(くろのらい)とは、神の着用した青草(日本なら茅)の蓑を現すとされている。

また十世紀半ばの『和妙抄』にも「高麗楽曲蘇志茂利」とあるので高麗(新羅)から来たことにまず間違いはない。奈良時代から宮中でよくやられたらしいが、近衛天皇の1140年代以降舞楽が絶えて以来、主として筝曲だけに題名がとどめられたという経緯がある(『仁智要録』)。(山口博『創られたスサノオ神話』2012)

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松下見林は蓑笠で体を屈折する画を見て判断し、腰を屈折して舞うので「スサノヲの流離辛苦」であろうと推測。元禄の楽人・安倍季尚(すえひさ)『楽家録』にも「新羅での青草蓑笠でのスサノヲの道行き」と書いている。水戸光圀『大日本史』礼楽史5は、「新羅楽曲で蓑笠で水を跳ねる足遣い」と書く。つまり蘇志摩利とはソシモリであるから場所は新羅、主人公はスサノヲで間違いないという考えであろう。しかしもうひとつの蓑笠を着用する蘇莫者のほうは実は蘇志摩利とも深く関わるもので、その※番舞として右舞蘇志摩利が付随するものであるが、つまり蘇志摩利は蘇莫者の番舞の一部であり、同じイメージの舞と取られていたと思われるが、その本元は中国、さらには遠く西域にある舞踊なのである。すると「そしまり」は必ずしもスサノヲと新羅に関わる地名「ソシモリ」であったかどうか不確定と言うことになろう。もしや新羅で蘇莫者が蘇志摩利に変化してそれぞれが別々に渡来したのかも知れない。するとスサノヲ神話がそもそも新羅にあったことになるのだろうか?あるいはスサノヲのような類似した朝鮮のソシモリにいた人物に仮託した?それが日本に来てスサノヲが主人公と考えられるようになった?いや、おそらく新羅にスサノヲ神話の原型があったのだろう。

※番舞(つがいまい)は「舞楽で、左方の舞と右方の舞とを組み合わせて一番とするもの。また、その舞。」 「古くは曲の性質や舞姿の似通った曲( たとえば左舞の《陵王》と右舞の《納曾利》)を一番(ひとつがい)として緩やかな対応で結びつける番舞(つがいまい)制度があった」

「舞楽では,左舞と右舞を対にして演ずる習慣があり,これを番舞(つがいまい)と呼んでいる。原則的には似かよった種類の舞どうしを組み合わせることになっているが,現今では必ずしもこの原則は守られていない。」世界大百科事典



一方、蘇莫者は10世紀中ごろ、醍醐天皇が外来の稀な曲目を演じさせた目録の中にあり、渡来は奈良時代である。12世紀の楽書『竜鳴抄』には黄色の蓑をつけて舞うとある。同時代の藤原通憲(信西入道)は通称『信西古楽図』の絵図に黄色の頭巾の蓑笠姿の蘇莫者を描いている。青も黄色も神、霊魂、異界者の色だったと思われる。

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ルーツはスキタイ 
蘇莫者のルーツは唐の「蘇莫遮 そましゃ」である。そのまたルーツのルーツがウズベキスタン、サマルカンドのスキタイの「潑寒胡戯 はっかんこぎ」である。(山口1996・2012)

吉簡
「新井白石の『楽考』では、吉簡は乞寒戯のことであろうとあります。これは、乞寒胡戯あるいは潑寒胡戯といわれるものと思われます。中国西域の康国から伝わり、一時期は唐でも行われていたようで、中宗の神龍元(705)年11月、洛城の南楼にて潑寒胡戯をご観覧になる際、「わざわざ寒い時期に、裸になって水を掛け合い、街頭で鼓舞することで、何を得られましょうか。」と諌めたが受け入れられなかったと『資治通鑑』にあります。水を掛け合い踊るものと、この舞とどう関係するのか、また、西域あるいは唐起源のものが唐楽ではなく高麗楽に組み込まれているのはなぜなのか、疑問がないわけではありません」
http://houteki.blog106.fc2.com/blog-entry-1061.html

このサイト管理者の疑問におそらく筆者は答えられる。考古学で、新羅の歩揺(ホヨウ)のある金冠が、スキタイ王がいた古代アフガニスタン王宮から出土している。つまり新羅とスキタイにはそういう関係があったからだろう。


というわけで、どちらも日本では主人公を磊落し地上界へ堕ち行くスサノヲにしてあるが、蘇莫者は高麗(奈良時代では高句麗はすでにないので高麗は広く朝鮮半島統一新羅国である)から、蘇志摩利は中国から、それぞれ来たという記録があるので、スサノヲ、あるいは説によっては蘇我本家入鹿などともいわれるモデルは別にあったと考えられる。スサノヲや入鹿にこの在野へ堕ちてゆく神(どちらも衣装に蓑笠を使うゆえ)の姿に、日本で勝手にイメージを託したことで今にまで残った芸能だと言える。

ただ、ではスサノヲではないのかというと、スサノヲのようなペルセウス・アンドロメダ型竜退治(多頭竜を王者が倒して姫を獲得するドラゴンスレイヤー物語の類型)のルーツが、実はやはりスキタイに求めることも可能なのである。スキタイの王子であるヘラクレスの竜退治がある。同様の複数の頭を持つ竜その他の類似キメラの出てくる神話は、実のところ世界中になる。中国から放射状にインド、アナトリア、スキタイ、北欧、メソポタミア、朝鮮そして日本と。それでこの中で最古と思えるのはメソポタミアの前身であるシュメールかも知れないと山口博は書いている。

むしろ朝鮮には記録がないのだが、それは朝鮮の記録自体がほとんど残されていないからすべてのことで、神話として口承されてはいるようだ。ヤマタノオロチとスサノヲと稲田比売のモデルはどうやら新羅を経て、中国、インド、スキタイがメソポタミア地方から持ち込んできたものだったらしい。すべてはシュメールから拡散する聖なる物語である

おそらく日本へは海人族から口伝えで広まったのだろう。

日本の奈良時代になって二つの舞曲が新羅から入り、おそらくそれ以前の記紀成立前の飛鳥時代までに日本に伝承あるいは海人族により持ち帰られていた複数頭の大蛇を倒す伝説は、出雲・石見の地方伝承の小国の神だったスサノヲを、記紀編者が、中東起源の地上の征服王にスサノヲをなぞらえて、大和朝廷以前の太古の王家が日本海にあったとしたのだろう。そういう強いものを大和の王家が戦って奪ったのだから、もっと強いのだと示すためにである。スサノヲはそれに利用されたのである。そのためには出雲世界があまり注目していない神のほうがよかったといえまいか?これが大国主であったら、出雲庶民は怒り心頭だったかも知れまい。

奈良時代の為政者は、蘇莫者・蘇志摩利を見てそこに天上界から出雲へ堕ちてゆくスサノヲを感じたことは間違いない。いわゆる日本人好みの判官贔屓そのものである。つまり記紀の神話のスサノヲは、建前上は宮中貴族には敗北者で暴れん坊で忌むべき存在で話の中ではタブー的存在だったが、実は心の中では、庶民と同じく、スサノヲが大好きだったと言えるだろう。
さて、ヤマタノオロチのヤマタは形状で、八つの頭と尾を持ったという意味だが、必ずしも八つに限ることはなく、たくさんのという意味。オロチは大蛇だが、語源は中国の「オロン」=蛇であると山口は言う。モンゴルでもそうだ。そのまたオロンのことをスキタイはオロと言う。ツングースのオロチョン族やホロンバイルのオロ・ホロも蛇のことである。オヨとぽ言う地域もある。これまたスキタイに語源があると思われる。チはミズチのチで神霊を著す朝鮮語か大和言葉。

また中国、中東からアフリカにかけて蛇をマングイ、マング。マンガなどとも呼ぶが、蛇を好む補修類のマングースはマング捕食者という意味のアフリカ語であろう。マンガは沖縄の島嶼八重山あたりでは祭りの精霊になっている。蛇を精霊、神とする地域も世界中にある。マングースの語源が蛇であれば、オロチを退治したスサノヲもいわば蛇の名を持つ鬼でもあろう。そしてそこにはツングース、北方系の神話がつきまとう。要するに弥生渡来的でありながら、縄文土着系なのである。おそらく双方の敗者、被差別者、先住民のイメージがひとりスサノヲの肩に一身に背負い込まれたと言える。そうされたのである。その出身地も日本海の、縄文文化圏だと。

神とそれに退治された者の一心同体化は珍しくはない。日本で天皇をもうひとつの被差別民とする研究者もいるし、彼らも菊のご紋を勝手に使用したり、天皇家御用達獲得にまい進してきた経緯もある。平家落人伝説と菊の御紋は、実は深く関わる。古墳時代の熊本の古墳の石棺に菊の紋らしき車輪文がついていたりしたし、菊の地名が多いのも、なにか関係があるやも知れない。それは差別のせいではなく、平家などの敗北者が落ちていったからで、いわゆる貴種流離話を持った氏族・職人が、中央への未練を忘れてないということなのだろう。

オロチは越の国から来るという。道教などには北西を鬼門、鬼の来る方位とする思想がある。それは北風が来る方位だったからだろう。もしヤマタノオロチが出雲の鉄を意味したなら、オロチは出雲在住でなければおかしい。しかしオロチは北西方向の越から来るのだ。だから出雲は最初鉄ではなく銅器の国なのである。それを簒奪した渡来人が大量の銅器を地中にうずめたのである。呪力を封じるために。そしてその敵とは記紀の声を大にしていうところの大和朝廷の神々などではない。それはアメノヒボコやツヌガアラシトのような渡来した新羅の神でなければならない。日本海に集中する古代戦争遺跡がそれを如実に語っているではないか。思うに越(こし)という日本の地名は、大陸から見たときに日本海を越えたところという意味なのではないか?古来、日本海側は出雲文化圏と越文化圏は横長に蛇のように横たわっていた。奇しくも出雲神話にも、国引きの神の引っ張った縄が浜になったとある。森浩一は出雲とは山口から若狭まで、越とは福井から秋田までという非常に細長い広範囲な地域名であったと書いた。そしてその越の北側にはもう縄文の青森がある。出雲弁には東北弁の残照がある。それは蝦夷の言葉である。発音である。アイヌのものではあるまい。樹木の巨大高僧建造物がそれを物語る。あれらは海から見える山あての塔であろう。屋根はない。ないのは頂上で火をくべたからである。物見やぐら兼灯台である。
 
記紀は風土記にある出雲国引き神話は無視している。そしてかわりに風土記にはなかったオロチ退治を挿入した。なぜか?

まず、考えられるのは、さきほど書いたように朝廷が平定したがる国なら、それほど協力だった、だからという大儀がある。しかし新羅から国土を引っ張って島根にしたなどとは書かない。そうなると出雲のほうも先に敵国を奪ったほどの国家で、大和はそれを再び物まねして簒奪することになってしまう。出雲征服は最古のオリジナル戦争でなければならない。

どっちにしても神話は事実ではなく、政治的正統性をほかの豪族に知らせるためにあるものだ。
山口も、『日本書紀』の解説が何度も行われた理由を、政治解釈ためのものと見る。ようは大和朝廷、女帝の政党であることのための書物なのである。だから歴史書としての機能は記紀神話から人皇史の前半部分にはないと思うべきだ。いやもっと言えば記紀は史書ではなく政治書であって、史書は『続日本紀』からだと日本史をやるなら最初に認識しておくべきだろう。
もうひとつ。
「養老律令」は藤原不比等が編纂を始めたが、内容はその前の「大宝律令」の用語を変えただけのコピーであり、なのに編纂が長引いて頓挫したものを、孫の藤原仲麻呂が強引に引っ張り出してきて法律として押し付けたものであることはよく知られている。「大宝律令」は701年、天武天皇の勅によって不比等自身も関わって作られた法律書である。ただし大半が中国の真似でできてはいたが。そのように藤原不比等は大和朝廷最初の政治・法律深く関わった人物であった。しかるに、記紀もまた政治的産物となったのである。そして不比等の父親は先の王家である蘇我氏と皇極女帝の業績を簒奪しうまく再利用している。蘇我氏もまたその前の王家であろう継体や大伴や物部氏の歴史を簒奪し、物部氏の旧事本紀も継体王家もまたその前にあっただろう倭五王王権のものを、倭王もまた吉備・葛城のものを、吉備・葛城もまた出雲・越のものを・・・それが日本古代史なのだ。いや、それが世界史なのである。

弱者を強者が食い、その栄誉ある歴史を奪い取ってきた。それでいいのだ。それしか生きる方法が人間にはないのだろう。

次回から平民・庶民の古代史を扱います。
主として『日本霊異記』の記録から、仏教説話的意味合い以外の題材を拾い出してみたい。
書物を読むとき、多くの人は作者の考えに従属し、作者の意図を読もうとして読み進めるだろう。それが一番読破の近道だからだ。しかし本当の読書家というものは、そこに書かれている作者の真意は一回目に理解すると、次にはさらに、詳細な地名、人名、地形、位置関係、登場人物の詳細分析、書かれている古い用語などなど、ありとあらゆるものを知ろうとする生き物である。一回読んで読んだとはいわないものだ。霊異記のたったわずかの行数、文脈、単語に、彼らは食いつく。そうすることが本への愛だと筆者も考えている。さて、何が出ますか。お楽しみに。




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[転載]隠れ蓑・笠は本来「見せるためのアイテム」・苗族のマンガオと蛇

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蘇莫者関連で過去記事再掲載。
 


隠れ蓑というのがよく民話などに出てくる。
正確には笠もつくので「隠れ蓑笠」である。
 
 
本来は鬼、霊魂、神が着る着衣を、たまたまそれを拾った人間の主人公が、まとうと、見えなくなる。
 
 
 
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斉明天皇、筑紫朝倉宮崩御の際、このような鬼が出現した。
 
 
 
 
しかし隠れ蓑笠とは、あくまでも神霊のための着衣で、神霊の側から言うならば、おのれの姿を人間に対して顕現するために用いる道具なのである。
 
つまり「隠れ蓑」とは人間の側からその道具を呼んだ言葉であり、神霊側から言うならばそれは「見せ蓑笠」なのである。
 
 
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日本各地でこのような装束を用いる祭りがある。
つまり彼らは蓑笠を着ることで、自分が神・鬼であることを示しているのである。
 
 
なまはげもそうだが、こういう祭りを「儺 な」と呼ぶのは中国少数民族のあいだの「マンガオ」(ミャオ)とか「マオグス」(トウチャ)といった毛むくじゃらの来訪神に始まっている。
 
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 ※最近、マンガオはマング=蛇であろうと気がついた。蛇をマングイ、マング、マンガオなどと呼ぶのは広く中央アジア~東アジア、さらには沖縄はマブで、やはり「マン=霊魂・神様」で共通する。マンには満、つまり丸い形状というアジア共通観念がありそうだ。とぐろを巻いた姿からか。日本では縄にみたてて口縄、なが虫などと呼ぶ地域もある。長い浜辺を縄ともいう。おきなわも、そういう長い島からきたか?とぐろを巻く姿は「三輪」と呼ぶ。いずれにせよ苗族らにとって蛇はマンだったらしいが、インドではナーガである。民俗学の吉野はナーガ、かがち、などをみな蛇と考え、筆者は河岸段丘や台地の尾も蛇であると見ている。崖を蛇に見る地域もあったようだ。
 


これもまた長江文明人と日本人の共通性を示す民俗学的証拠品である。
稲作とともにやってきた。
 
 

転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

[転載]歩搖付金冠・垂飾装飾品と騎馬遊牧民の移動そして日本へ

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これも蘇莫者関連で再掲載。新羅とスキタイの親密な関係。


国立博物館で昨年から「黄金のアフガニスタン展」が順次開催され、現在、九州国立博物館で元日から2月14日まで開催中である。http://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s42.html

oyz87氏のブログhttp://blogs.yahoo.co.jp/oyz87/37033542.htmlでそのことを知り、北アフガニスタンのティリア・テペ王墓の6号墓の女王あるいは王妃らしき木郭墓の中から、新羅南部の慶州に特化するほどよく出てくる金銅製歩搖付金冠(ほようつききんかん。垂飾冠とも)にそっくりな金冠を発見してから、筆者は一週間随分わくわくしながら、その来し方を想像してきた。

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新羅慶州北道金鈴塚古墳出土歩搖金冠



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奈良県橿原市藤ノ木古墳出土金銅製歩搖付金冠レプリカ


アフガニスタンのティリヤ・テペ6号墓出土王冠は新羅慶州の歩搖付王冠に影響か?


「ティリヤ・テペは北アフガニスタン、アレクサンドロス大王が遠征したバクトラ(現バルフ)とアレクサンドリア・マルギアナ(現メルヴ)の中程に位置している。粒金細工の装身具が出土したサルマタイの住むクラスノダルやロストフよりも東南方にある。

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『アフガニスタン遺跡と秘宝』は、出土品にはヘレニズム、パルチア、バクトリア、スキタイ、インド、中国、匈奴など、ユーラシア各地の文化の影響が見られる。1世紀のクシャン朝初期か大月氏の墓と見られる。なかで、シルクロードの各地に見られるものが、スキタイ系の黄金製品である。

スキタイは、黒海の北の沿岸にいた騎馬民族であった。紀元前7世紀頃、ギリシャ民族がこのあたりに植民地を開き、ふたつの民族の交流がはじまった。ギリシャは穀物や毛皮・奴隷を求め、スキタイは工芸品や葡萄・オリーブ油を求めた。スキタイの特色とされる金銀工芸品は、スキタイ貴族の要請に応えて植民地にいたギリシャの工人が作ったものであったといわれるという。」
http://avantdoublier.blogspot.jp/search/label/%E6%AD%A9%E6%8F%BA

画像の多くもこのサイトから転載しました。


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ティリア・テペはアレクサンドリアに近い。


歩搖(ほよう)とは先の記事にあるように、歩くと揺れるので歩搖と呼ばれる飾り(垂飾)であり、近世にはカンザシもそう呼ばれた装飾である。仏教では瓔珞(ようらく)や垂飾、あるいは髪飾りもあるが、歩搖のような木の葉的なちらちらと揺れる飾りはない。アフガニスタンなどの「スタン」が後につく国々はインドや中国に隣接するので、影響を与え、与えられがあったとは思える。中国の金冠でも歩搖状の垂飾飾りは仏教壁画などで見ることがある。アフガニスタンと言えばバーミアンの石像が有名だし、アルカイックスマイルのような形式も西から東へ伝わっている。それを伝えた人々と金冠歩搖を伝えた人々は、コースは違ったとしても同じスキタイ・テュルク系の騎馬遊牧民であることは間違いない。しかし上記引用文が言うギリシア工人の作とはあまり思えない細かな細工がこの王冠にはしてある。ギリシア以前、そこにはマケドニアという国家があり、ヴェルギナ、カサンドラ(カッサンドレイア)という都市から、やはり歩搖付の工芸品が出ている。ここが工人の起源地かも知れない。

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アフガンからカスピ海を通り、ヒマラヤ山脈の北側を通るシルクロードのステップロード沿線には、代々多くの遊牧民族が国家を形成しており、東へ行くほどに東アジア人との混血度合いを深め、烏丸、鮮卑などと魏志東夷伝が書いた人々は、匈奴や東胡、月氏、烏桓、烏孫などの異民族とよく似た種族だったことだろう。現在の中国ウイグル自治区の人々がそうであるように、いまや彼らの多くがイスラームを信じるムスリムであり、遠い祖先はバクトリア地方など原西アジア民族だったことは確かであろう。


筆者作 歩搖付金冠及び装飾品出土地分布図
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西アジア各国や旧ソ連からの独立国、また旧高句麗の範囲だった北朝鮮など、多くの地域が発掘困難なところであるため、歩搖装身具の発掘は勢い東アジアに偏ってしまっているが、将来スタン各国やほかの地域からも発見があるはずである。


とにかく現状で歩搖付の金冠・装飾品が集中するのは旧新羅の南部、慶州に偏っている。新羅とは言いながら、この地域はまだ新羅が国家として成立する以前(斯蘆 しろ時代)には、むしろ伽耶連合の影響の強い地域である。伽耶(加羅)はコスモポリタン地域で、さまざまの小国家が連合しており、異民族、外国人が同居していた。その最南部、日本海沿岸に金官伽耶があった。これが新羅によって滅ぼされて倭国に王族ご一党が逃れてくる。おそらく奈良の藤ノ木や新沢千塚や、福岡県古賀市の船原古墳、宗像の安曇族などの豪族に影響を与えたであろう。いやそれ以前から互いに交流関係にあったはずである。

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沖ノ島歩搖付金銅遺物


沖ノ島から出ている遺物は、ほかにも新羅慶州の王墓の遺物とそっくりなものが多い。
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上・沖ノ島の指輪 下・慶州天馬塚出土金指輪




歴史上、金の歩搖を大変愛した人物と言えば莫護跋(呉音:まくごば/もごばち、漢音:ばくこばつ/ぼこはつ、拼音:Mòhùbá 生没年不詳)である。

莫は魏時代の鮮卑(せんぴ)族の族長で、あまりに歩搖金冠を気に入りかぶったので名を「ほよう」の音をもじって慕容(ぼよう)と改名したと記録されている。


景初2年(238年)、司馬懿公孫淵討伐に功があって率義王を拝命され、棘城の北に建国する。
時にの地方では歩揺冠(歩くと揺れる冠)をかぶる者が多く、莫護跋はこれを見て気に入り、髪をまとめて歩揺冠をかぶったので、諸部は彼のことを歩揺と呼ぶようになり、その後音が訛って、慕容となった。
彼の死後は、息子の慕容木延が後を継いだ。」

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後漢時代の鮮卑の版図


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紀元前二世紀


この慕容氏からやがて有名な族長・慕容廆 ぼようかい Mù róng Wěi が登場する。鮮卑を憎み大単于(冒頓氏)を壊滅させ、東晋を滅ぼし、単于は鮮卑というよりも、ツングース語とテュルク語の混ざった言語を用いる匈奴あるいはモンゴル民族のことかも知れぬ。

先祖である鮮卑族・・・これもはっきりとはしない連合体だったようで、ツングース系モンゴル人も、あるいはテュルク系やスラブ系やもまじった騎馬民族連合体だったようで、その前は今の内モンゴルの東部にいた東胡族から分かれたようである。このテュルク系やスラブ系をたどっていくと、西へ西へとよく似た種族国家が代々、遊牧国家として記録がある。いわゆる烏丸・鮮卑も加えて烏孫、月氏、スキタイへたどっていける。そのコースがやはり紀元後4世紀くらいにフン族を生み出したであろうカスピ海周辺地域と、もっと西側のバルカン半島へと分かれてたどり着くことになる。バルカン半島はいうまでもなくトルコ=テュルク民族を含めたスラブ民族の故郷であり、カスピ海沿岸から東はスキタイ系「スタン」国家の地域である。この「スタン」はドイツ語ならシュタットであろう。英語ではシティとなっていった国、地域をさす言葉である。トルキスタンと言えば集団、民族の名になる。


つまりほぼ同類の騎馬遊牧民族である。人類がアフリカを出て最初の分岐点で彼らは民族を分化させていったが、バルカンではアナトリアという最古の国家を作り、アッシリアやエジプトと対等、それ以上の戦いをした最古の製鉄国家である。彼らの影響を対岸のギリシアやエジプトはもろにうけて、そこから製鉄、鉄剣のいくさが世界に拡散した。つまり王冠や歩搖愛好趣味も一緒に東西へ広がるのだ。その担い手が騎馬遊牧民である。特に東洋へは、アッシリアに敗れて分離したアナトリア製鉄・彫金工人が大量に逃げ込む。彼らは鹿と太陽の女神キュベレをステータスとしスタンダードという象徴にしていた人々だった。

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アナトリアの鹿のスタンダードのついた権威的杖



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太陽神キュベレを描いたアナトリアの遺物


だから鉄=シカ、そして太陽神信仰はこのときから中国、朝鮮へと伝わり日本の製鉄開始時代である弥生時代も始まるのである。新羅の金冠や中国の絵画に、それ以後シカの角型のものが多出しはじめる。これが日本の古墳時代に三重県松坂市の宝塚古墳などで出土するV字型威杖の原型であろう。

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だから中国からの青銅器とほぼ同時に鉄も倭国へ入り、青銅器は早々に鉄器に切り替わるのが日本の有史以前金属器時代の特徴である。倭人もまた製鉄=鹿をステータスとした。鹿の皮袋は世界中で製鉄のふいごとなり、角は再生のステータスとなった。それが治金工人が金属を溶かし再生させる技術者としてのシンボルが鹿であり、農耕民の太陽神なのだ。

要するに最も遅く大陸文化がたどり着くのが日本であり、それはまた短期集中型で、完全な形で入ってきた。稲作もまったく同じである。最初から菜畑には江南の最新鋭の水田が作られている。あとから伝わることのそれがメリットである。代々の苦心惨憺があまりなしにいきなり文明が開花する。それは今、ようやく西欧科学と近代化を取り込もうとしている中国やインドやブラジルもまったく同じだ。いきなり短期間で西欧化し、しかしそのために無理と矛盾が生じる。70年かけて西欧化した現代日本は非常に運がよい。さらにそれによって生じた資源の枯渇も、日本は中国やらのようにはいきなり経験するはめにならなかったので、対応策をたくさんはぐくむことにも成功した。


一方、アフガン周辺は最古はパルティァの領土であり、彼らもパルティアン・ショットという独特の馬上から振り返りざま矢を打つ名手であった。つまり今のイランであるが、彼らも砂漠の貿易商でもあり、海のシンドバッドでもあり、スキタイ系?騎馬遊牧民をも含んでいたのだろう。

自主的に製作した上図を見れば、歩搖や金冠の伝播コースがシルクロードであることは一目瞭然である。正倉院までつながる絹の道は、それ以前にも鉄の道・たゆとう王冠の道だったのである。




歩搖は先に書いたように西欧にも伝わっている。
マケドニア、ギリシアの遺跡で、先に書いたヴェルギナやカッサンドレイアからも木の葉の形の揺れる装飾をつけた王冠が出る。

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地中海で対面するからだが、それだけではない。形式こそ違うがやはり垂飾をたらした冠や腕輪はゲルマンから、西欧州に移動したケルトを通じて南欧へと拡散してゆき、フランスやイタリアや英国王や騎士たちの金の王冠・ティアラ・ブレスレットの趣味にも影響を与えるのではなかったか?



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アフガニスタンで出土した下げ飾りのあるティアラ。

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日本では東国茨城の三昧塚古墳からも歩搖付王冠が出土。まさにアフガンの金冠の歩搖にそっくりだ。
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      金銅製馬形飾付冠。茨城県・三昧塚古墳、復元品

いわゆる日本にしかないリボン(蝶型装飾)を前面に配置した様式は藤ノ木と同じで、形も藤ノ木と同じ伽耶・慶州系「広帯二山式」である。歩搖は最下部に小さいがずらりと並ぶ。広帯二山式冠は倭国では5~6世紀雄略~継体大王の地方豪族へ下賜した冠形式の威信財なのだ。
茨城県地名と継体大王の関係は大阪府の茨木地名でつなぐことができる。

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旧高句麗の領域である現在の中国北東部からも出土する。

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同じく遼寧省房身遺跡出土の四角形の王冠にも。
この正方形は頭部にかぶられ、歩搖垂飾が王の顔面を囲むように揺れる。こうした中国王の四角い帽冠様式は、西欧の大学の学帽に取り込まれたか?


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それとまったくそっくりさんは奈良県新沢千塚126号墳で出土した。しかもこれは禁制品で金銅製ではない。純粋のゴールドの板金である。新沢の被葬者はいったい誰なのか?5世紀関西では和歌山の岩橋千塚と並ぶ最古の群集墳であることはすでに書いた。http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/57314860.html
推定されている氏族は、秦氏とともに伽耶から来たとされる漢(あや)氏である。


金工技術の来た道
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さて、これらの歩搖ブームの主がすべて慕容氏の祖先である鮮卑族であったかどうかだが、まず時代が遅すぎる気がする。東アジアへ拡散させたのは彼らでよいだろうが、そもそも歩搖そのものは莫が入った東胡あたりにすでにあったもので、それを莫は気に入ったのであるから、それ以前からすでに鮮卑か東胡の別族がモンゴルあたりへ持ち込んでいたのである。ということはやはりその大元は慕容氏以前の紀元前の遊牧民によるものであろう。それが世界の東西に中近東から拡散したのだ。そして慶州とそれらの地域をつなぐ遺跡遺物には、慶州の石積木郭墓というものがあるのである。

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新羅の石積木郭墓


この墳墓形式もまたアフガニスタンにはあるのだ。

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ここだけではない。
木郭墓は世界中に存在する。日本の九州にも近畿にも、ケルト世界にもである。


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またこういう冠帽が新羅慶州にある。

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これは日本の鎌足と百済王余豊璋の大織冠にそっくりである。



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小さな装飾品もそっくり。



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さて、福岡県古賀市の船原古墳は、ちょうど継体大王や磐井の君の時代に相当する古墳で、その主は継体や筑紫の君らともえにしのあった宗像氏の前身であるかとも思える安曇部の族長だったかと考えているが、金官伽耶とも百済とも同じ倭人系海洋民として安曇は長く半島を行き来し、全国に海外の文化や珍品を持っていったことで継体大王以前から九州や日本海、近畿の王家に寵愛された部族だった。それが継体が死んでしまうと安曇は部民となり大和王家から見放されてしまったのだ。それが数百年後、なぜか突如として復活したことがある。天武天皇壬申の乱以後のこと、宗像氏という海人族の族長がいきなり天武に妃をさしだせた。『日本書紀』記述の不思議はここに極まっている。


九州国博黄金のアフガニスタン関連記事にエントリーしたので、あまり過激なことはここには書けませんから。^^;







今回、あえて全公開記事。




画像の一部は各種パンフレットから。
それ以外は上記引用文作者「忘れへんうちに」サイトから。









PS.
騎馬民族は日本へ来たのか?はいつになってもファンの耳目を賑わせて来ましたが、さて、来たというよりも安曇ら海洋民倭人が文化や工芸品を運んだというのが真相でしょう。もちろんぼくはイラン人が飛鳥に来たとも考えますので、契丹や匈奴や鮮卑といったスキタイ系遊牧騎馬民族だって伽耶滅亡時に「秦の民」にまじっていてもおかしくないわけです。ただ、イラン人建築史らは中国~百済を通じて飛鳥へ正式に、仏教寺院建築のために贈呈されていますので、伽耶の亡命とはわけがちがいます。

ということは一時的に彼らのようなあきらかに風貌の違う異国人は、中央には置けず、よそに分かれて入ったかも知れない。どこに?そう、秋田とかにね。





転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

[転載]語彙最大・桜用語の基礎知識・総ざらい桜に関わる言葉と話・人物

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ああ。この記事か。


桜に関わる季語、全言葉、桜のつく実用語、人名、落語など総ざらい。
トップクラスの語彙群を集めました。

◆桜のつく言葉総ざらい

●季語・装飾語など
・桜色(さくらいろ)/桜の花のような、ほんのり赤い色
・花冷え(はなびえ)/桜が咲く頃に冷え込むこと
・初桜(はつざくら)/その年に初めて咲く桜お花、咲いて間もない桜の花
・桜雨(さくらあめ)/桜が咲く頃に降る雨のこと
・桜狩り(さくらがり)/桜お花をたずね歩いて観賞すること。花見
・夜桜(よざくら)/夜の桜の花
・桜吹雪(さくらふぶき)/桜の花びらが乱れ散るさまを雪にたとえて言う語。桜ふぶき
・花あかり(はなあかり)/群れ咲く桜の花のために、夜でも灯りをともしたように明るく見えること
・桜風(さくらかぜ)/最多(まま。咲いた)桜の花を吹き散らしてしまう風
・花嵐(はなあらし)/桜の花が風のように散ること。桜の花時に吹く強い風
・花霞(はながすみ)/遠くに群がって咲く桜の花が白く見えるさまを霧にたとえていう言葉
・花曇り(はなぐもり)/桜の咲く頃、空が薄曇りであること
・花盛り(はなざかり)/花が盛んに咲くこと。その季節。全盛期のたとえ
・花便り(はなだより)/桜の花の咲いた様子を知らせる便り
・花時(はなどき)/春いろいろな花の咲く頃。特に桜の花の頃
・夢見草(ゆめみぐさ)/桜の別名。桜の花の美しさにうっとり見ほれた様子からついた呼び名
<参考文献>『花の言葉』(小学館刊)
http://www.yourletter.jp/2010/03/post-219.html

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1608149/31/54622231/img_0?20180412132753

・花筏(いかだ)/散った花びらが水面(みなも)に浮かんで漂う様子
・花曇(ぐも)り /桜の頃に多い、薄明るい曇り空のこと
・花便り /桜の開花を知らせる便り
・花散らし/ 桜の季節に野外で遊ぶこと
・花疲れ /花見のあとの気だるい心地。美しいものをみた充足感
・花の雨 /桜の頃の長雨
・花の雲 /満開の花が連なって雲のように見える様子
・花冷(はなび)え/ 桜の頃の冷え込み
・花巡(めぐ)り /桜の花を求めて山野を訪ねること
・飛花(ひか) /ひらひらと舞いながら散る花びら
http://blogs.yahoo.co.jp/ratri_swotantra/18118393.html

・花時(はなどき。花芽時ではない)/ 桜の花が咲く時季
・桜狩(さくらがり)/ 花見
・花影(はなかげ・かえい)/ 水面などに映った桜花の影
・花衣(はなごろも) /花見に行く際の女性の美しい着物 
・花人(はなびと) /花見の人
・花守(はなもり) /花の番をしている人
・花篝(はなかがり)/ 夜桜を見るために花の下で炊かれる篝火「花雪洞」
・花筵(はなむしろ) /桜の花びらが一面に散り敷いている様子
・花の雪(はなのゆき) /雪のように散る桜花
・零れ桜(こぼれざくら) /散る桜
・残花(ざんか) /散り残った桜花
・桜流し(さくらながし)/散った花びらが雨や水に流れていく様子
http://www.eclat.cc/home/yattyan/diary/2010/03/1269768780.html
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1608149/31/54622231/img_1?20180412132753


●和歌
・桜花 散りかひくもれ 老いらくの 来むといふなる道まがふがに・・・在原業平
・さくらばな 散りぬる風の なごりには 水なき空に 波ぞたちける・・・紀貫之
・桜田へ 鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた=愛知の干潟)潮干にけらし 鶴鳴き渡る・・・ 高市黒人  
桜の和歌ベスト50撰→http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51868294.html
新撰桜の和歌→http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53593195.html



●実用語・色彩・名詞
・桜鼠(さくらねず(み))/桜色の入ったねずみ色
・桜餅/もち米を蒸した中に道明寺粉と水あめを混ぜ、蒸したあと道明寺餡を包み込み桜の葉の塩漬けで巻いた西日本・関西風(道明寺・おはぎ風)と、ひらたくのした小麦粉で薄い餅と長明寺餡を巻き桜葉で巻いた山陰・関東風(長命寺餅・クレープ風)がある。関東ではもち米が採れなかった(南方植物のため)ため、小麦粉で京都のみやびを真似て工夫した。

・桜肉/馬肉 イノシシを牡丹という対語。
・桜鍋/馬肉鍋
・桜海老
・桜鯛/桜の季節に獲れた鯛。地域によって季節が違う。
・桜隊/花見警備の警察隊
・桜色
・桜街道
・桜並木
・八重桜
・枝垂桜(しだれ桜)
・ぼたん桜/八重桜をさらに牡丹のように改良した、一見ボタ~ンとした超八重桜。
・彼岸桜
・山桜
・初桜
・桜狩り
・夜桜
・葉桜
・桜吹雪(さくらふぶき)
・桜陰(さくらかげ)
・桜前線
・桜花(おうか・さくらばな)
・桜湯
・桜漬け
・桜草
・桜貝
・桜でんぶ
・桜桃(おうとう)/ユスラウメ
・桜紙/反故(ほご)紙をすきかえした、小判で薄く柔らかい 和紙。ちり紙の上品な隠語
・さくらんぼ
・姥桜(うばざくら)/あなた
・桜貝
・花宴
・花見酒
・夜桜
・桜前線
・秋桜/コスモス
・桜花賞
・桜咲く・桜散る/合格・落第のたとえ
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1608149/31/54622231/img_2?20180412132753

●昭和九年版「広辞林」より
・桜扇/桜の柄がある扇
・桜蓼/さくらたで・タデ科植物。刺身のツマ
・桜鹿子/染色で桜色のしぼり
・桜かざし/桜花をカンザシにした状態
・桜襲(さくらがさね)/表は白、裏が葡萄色に染めた着衣。生地「かさね」
・桜膳(さくらがしわ)/桜花を敷き詰めたる三宝で饗応する趣向
・桜銀(さくらぎん)/江戸時代の銀貨。桜の刻印があった。
・桜田(さくらだ)/桜木の植えてある田
・桜茶屋/花見の頃に出る掛け茶屋・露店
・桜彩(さくらだみ)/桜色
・桜月(さくらづき)/陰暦三月の俗称。
・桜灯篭/桜の透かし彫りが一面に入った灯篭
・桜時/桜の季節・春
・桜煮(さくらに。さくら煎りとも)/タコを味噌で炊いたもの
・桜の御能(さくらのおのう)/陰暦三月、桜花の頃に禁中で催された能
・桜味噌/味噌に牛蒡・ハシバミなどを混ぜたもの
・桜海苔/壱岐で作られる海苔の昔の名前
・桜張(さくらばり)/京都二条通櫻屋が作っていたキセルの張り方
・桜結び/紐を桜の形に結ぶやりかた。
・桜飯/水に酒と醤油を落として炊いただけの味付けごはん。
・桜山(さくらやま)/花盛りの山
・桜湯(さくらゆ)/桜の塩漬け(=桜漬け)を白湯に落としていただくもの
・桜会(さくらえ)/往古の京都の寺社でおこなわれた観桜のうたげ。秀吉の「醍醐の花見」は有名。
・桜魚(さくらうお)/桜の季節の小鮎。
・桜薄様(さくらうすよう)/衣服の柄。「桜襲」の下へ行くほど薄くグラデーションになった模様


●四字熟語
・桜花繚乱
・桜花爛漫

●慣用句
・花は桜木 人は武士
・願はくは 花の下にて春死なむ その如月の望月のころ 西行
・吉野の桜
・義経千本桜
・花に嵐の例えもあるぞ さよならだけが人生だ
・桜の園/トルストイの名作、あるいはかわゆい女の子ばっかり出てくる日本映画
・花見て一杯(一献)
・同期の桜/軍歌・戦中の航空隊の歌。戦後は硬派を気取った若い男、学生の定番の酒飲み歌。歌うけれどからっきしいくさに行くつもりはない。
・肩にひとひら花が散る/歌
・花/「隅田川」とよく勘違いされている滝廉太郎の名曲
・春、高楼の花の宴/同じく滝廉太郎「荒城の月」の歌詞・作詞土井晩翠、「♪なはのえん~~~」の半音が難しいので、学校ではうそっぱちに覚えさせられた名曲。

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1608149/31/54622231/img_3?20180412132753

●その他
・佐倉桃子(さくらももこ)/漫画家、あるいはその著作「ちびまるこちゃん」の、ちょっとおめでたい子どもの主人公の名前。頭の中にいつも花が咲いていて、よく祖父の「ともぞう」なるものをひきつれて静岡県の某所で、どじをやらかす。ともぞうは毎回とぼけた俳句らしきものを詠むが、あまり俳句らしくなく、それが落ちになることもある、そんなへんてこオジサンな漫画。「♪うだだ、うだだ、うだうだで~」と山本リンダの往年のヒット曲を替え歌して、話が切り替わるたびに、あたまをかきつつ歌う、奇妙な小学女子。
子どもよりその母親父親が大喜びする奇妙な漫画。姓はさくら、名はももこ、とはまさに脳みそ花盛りになるべく生まれた子どもである。来週に続く。(うそ、この記事はこれでおしまい、うだだうだだ・・・)
・錯乱坊/チェリーとも呼ばれる漫画「うる★やつら」のバイプレーヤー。一時期ラムの電撃によるショックのため精神・錯乱し、ラムとしか話せない言語障害を 引き起こして某所に軟禁されていた。(「愛のすみかはいずこ? 栗子と長十郎」): 錯乱坊 の作った童心丹をサクラが飲んだことによって現れたサクラの童心を、サクラの隠し子と ...
http://search.yahoo.co.jp/search?b=1&n=10&ei=UTF-8&fr=ie8sc&p=%E9%8C%AF%E4%B9%B1%E5%9D%8A
・サクラダファミリア/サグラダ・ファミリアの間違い桜田一家ではない。
・桜田門/警視庁のスラング、業界用語。江戸城の門のひとつ。→桜田門外の変「井伊直弼が水戸藩の納豆を食べ過ぎたので殺された政変、ではない。
・桜田淳子/壷が好きな元アイドル
・桜町やっくん/消えた女装コメディアン
・桜木けんいち/柔道が好きでピアノの上は走れなかった人
・桜町天皇/江戸時代の天皇
・桜だらけ/「桜づくし」のざっかけない言い方
・桜井和寿(さくらいかずとし)/ミスチルのボーカル
・桜紋/肥後細川家家紋が有名
・桜庭(さくらば)/桜咲く庭。人名。
・桜美林(おうびりん)/日本の大学
・桜桃忌(おうとうき)/太宰治の死んだ記念日。夏、ユスラウメの季節ゆえ。
・黄色いサクランボ/歌
・長屋の花見/落語、上方では貧乏花見。長屋の住人がそろって花見。しかし着物は下は風呂敷、上は反襦袢などめちゃくちゃ。いざ酒盛りは「お茶け」がお酒、黄色い沢庵が玉子焼きなど、泣き笑いの噺。ペーソスと爆笑。
・あたま山/落語。サクランボを食べて頭に桜が生え、満開になると人だかりができ、ドンちゃん騒ぎがやかましく、ひっこぬいたら雨がたまって池になり、またまた人が・・・。とうとうその池に飛び込んで自殺するという、SFチックな噺

転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

二つの一の宮・その意味 月読からアマテラスへ

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全国に一の宮が建てられている。ほぼ一国につき一社が当然。ところがそれが二社もある例外がある。今の大分県、豊後国である。

ここには西寒多神社(ささむた・じんじゃ)という「本音一の宮」と柞原八幡宮という武士の「建前一の宮」のふたつがある。


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寒田川(そうだがわ)と桜並木https://plaza.rakuten.co.jp/mae717da/diary/201303220000/


大友氏家伴衆の子孫として、筆者藤原近藤流子孫寒田鑑秀末裔であるKawakatuが、その理由をはっきりとさせておきたい。





豊後国一宮の比定
『豊後国志』『太宰管内志』「大分郡志」等によれば豊後一ノ宮は西寒多神社としてある。一方で、柞原八幡宮も一ノ宮を主張する。

「嘉応3年(1171年)の史料で「由原八幡宮」を一宮とするものがあり、宇佐八幡宮別宮の柞原八幡宮が当社を差し置いて一宮に転化したと見方が強い。一宮について記した史料では、根拠は不明ながら、『諸国一宮神名帳』(1375年以前成立)は柞原八幡宮を、『大日本国一宮記』(16世紀頃成立)は当社を記載している。これに関連して、安永10年(1781年)の縁起では「当社を柞原神社ともいう」として両社を同体視する伝承を載せている。ただし、これは誤りと見られている。」
Wiki西寒多神社





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西寒多神社
祭神
主祭神(本殿)
西寒多大神 (ささむたのおおかみ)
天照皇大御神、月読尊、天忍穂耳命の総称
古記社伝では最初月読尊
明治期に皇国史観からアマテラスに変化し
現在はどちらも併記して西寒多大神

相殿神
応神天皇
神功皇后
武内宿禰
殿内所在諸神
伊弉諾大神、伊弉册大神
大直日大神、神直日大神
天思兼大神
大歳大神、倉稲魂大神
軻遇突智大神
天児屋根命
経津主神






一ノ宮が二箇所あるのは豊後国だけである。なぜそうなったか、というよりも、一ノ宮は西寒多神社でよいと筆者は考えているわけだが、まずはこの二つがいずれも豊後大友氏によって創始された中世の時代の社だということ。そして西寒多神社はそもそも大友氏が、母方のある相模国秦野市(大友郷波多野)にある寒田神社(さむた・じんじゃ・祭神ヤマトタケル)の地名寒田を、守護職(しゅごしき)として下向(鎮西守護職は多くが元寇の際に現地に下向)した豊後国に同名の土地を切り開き、その地は最初、現在の西寒多神社のある大分市大字寒田ではなく、やや南下した臼杵市野津町と豊後大野市にまたがって存在する西寒田であったこと。そこから新たに現在の地に新たに勧請したのが今の西寒多神社であること。

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大分県豊後大野市犬飼町西寒田に鎮座する【西寒多神社】(ささむたじんじゃ)
http://kazenoyadori.seesaa.net/article/216308985.html

・八幡大神(やはたおほかみ/はちまんおほかみ)
 ・軻遇突智命(かぐつちのかみ) 【火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)】
 ・少彦名命(すくなひこなのかみ)
 ・伊邪那美命(いざなみのみこと)
 ・菅原道眞命(すがわらのみちざねのみこと) 【天満天神(あまみつあめのかみ)】
『龜山隨筆』にも「西寒多神社は初め大野郡野津ノ荘寒田村」に鎮座していたことが記され、また『豊後國志』には「大野郡寒田神社を西寒多神社とし、応永15年(1408年)大友親世が大分郡植田に移し寒田と名づけた」。

つまりここが先にあった西寒多神社であることは間違いない。




この元の西寒田には、大友氏狩猟用のイヌを飼育する「犬追物」がおり、ゆえに一帯を広く犬飼とよんでいたこと。それが今の犬飼町の名の元である。その犬追物の役目を筆者先祖の分家のひとつである寒田雪之助なるものが負っていた記録が『大分県資料』にあること。その寒田氏の来歴は記録では不明だが、おそらく大友氏豊後下向に伴って波多野(はたの)大友郷寒田からやってきた寒田(さむた・そうだ・かんだ)親景(ちかかげ・兵部少輔)や親将(ちかかど)の祖先とその一族郎党が豊後府内近辺一帯に入り、そこを寒田と呼ぶことで「西の寒田」=西寒多として鎮守したのが始まりであろう。社名に多を使うのは、古来、田よりも多の文字に呪があるとされるからである。



※筆者は現在「そうだ」と名乗っているが、明治時代には「かんだ」と名乗っていた。それは廃仏毀釈・皇国史観の「敗者」として仏教関係者の隠れ蓑でもあったかも知れないし、あるいは往古、大内氏との戦い(勢場ヶ原の戦い)で戦死した敗軍の副将子孫としての隠れ蓑であったかも知れない。戦後、『大分県資料』作者である田北学氏と市職員が筆者の祖父宅まで来訪して、読み名がそうだであると諭され、末子だったわが父だけがこれを名乗ったという経緯がある。こうして寒田姓は復活された。祖父は最後の豊後府内春日神社神宮寺大宮司であった。藤原寒田鑑秀(かねひで)子孫。墓所は上野金剛宝界寺内。宗派真言宗。






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一方、もうひとつの一ノ宮と目される柞原八幡宮も、大友氏が宇佐から分祀した社で、鎌倉時代の武家が八幡神を軍神としたことが契機であろう。八幡神はそもそも天皇家の、伊勢に次ぐ宗廟であり、祭神も記紀記録では応神天皇以下とその母とされた経緯もあり、武家の天皇への忠誠をも示す「小道具」でもあった。

ことに大友六~七世あたりでは、豊前国を取り合って大内氏と合戦を繰り広げている。宇佐は国家の所領で、周防の大内氏は天皇家との親密な関係から、宇佐社領地を非常に欲していたのである。それは王家との関係を示すためのステータス。そのため、豊後大友氏側は、これを防ごうとして八幡宮を大内に先んじて豊後に分祀する必要が生じたわけである。そのとき宇佐荘園であった国東高田の田染荘園を管理したのがわが先祖である兵部少輔・寒田親景(そうだ・ちかかげ)であった。

それで全国に八幡神は、ことに武家の時代になって広く分祀されたわけである。それ以前には船の守り神として古代海人族・海部ら厚く奉祭されてきた。柞原八幡宮分祀に伴って宇佐・中津から祭祀者賀来(かく)一族がやってきて、住まったのが八幡から南へ高崎山山麓を下ったところにある大分市賀来であった。そこに賀来神社があって、祭神は賀来氏の氏神である武内宿祢である。宿祢はヤマトタケル~応神天皇の大臣。ここでようやく本来の波多野寒田神社の祭神に関係する武内宿禰が出てくることで、豊後大友氏が自らの祖先神として記紀のヤマトタケル・仲哀天皇・応神天皇そして神功皇后という祭神を持ち込んだということがわかるのである。

一般的に言えば、中世武士団のほとんどが、本来の祖先神とは別に、武士として皇室の守りとしての役割を世間に言うがための記紀の神々・・・という二重構造が見えてくるわけである。本音と建前、それが柞原八幡宮と西寒多神社であるというのが筆者の最もわかりやすい、シンプルなとらまえかたである。

武内宿禰=天皇の宰相・補佐役・託宣者・・・つまり武士団となる。
そして豊後大友氏は関東藤原氏近藤流を名乗っている氏族。大友は母方の郷名である。なぜ母方かと言うと、先代豊後守護職である室町時代の氏族・中原氏が大友母方波多野氏の氏姓である古庄(ふるしょう)一族だったからだろう。だから初代大友直能はまず中原の養子になって守護職を次ぐ形をとるがために、相模波多野の古庄分家を名乗った上で中原家に養子に入って守護職を授受できる身になってのち、頼朝から正式に豊後守護を拝領できた。そして拝領してからは母方古庄姓大友氏を名乗りながら、同時に鎌倉武士としては、関東藤原氏の始祖である藤原秀郷(ひでさと・田原の藤太たわらのとうた)子孫の近藤流藤原を表の姓としたのであろう。

ややこしいが、そういうわけで、筆者の氏姓は、その寒田氏一族の中の祭祀者「部門」を受け継いだものである。武家も古代豪族と同じで、うじかばねがあって、また同じ姓でも身分が上から下までいろいろあったのである。先ほど書いた犬飼氏族は、おそらく戦国時代なら下級武士クラスだろうが、大名の中にはイヌの番から百万石にまで出世したり(前田犬千代)、百姓でありながら厩番・草履役から関白にまであったもの(豊臣秀吉)もいたわけで、身分階級をあなどってはならない。







おまけ、
西寒多神社主祭神の変化について
これは歴史的にどこでも起こったことである。
武家である大友氏が当初、武士、宰相、大家の番人としての月読(つくよみ)を祖先神として祭るのは極めて当然しごくのことである。古代から月読は壱岐島王の祭神であった月神である。それを記紀は皇祖アマテラスの従者である船の民の象徴として取り込んでいる。その影にいたのは宗像海人族であった宗像君徳善(むなかたのきみ・とくぜん)であることは間違いなかろう。アマテラス信仰は藤原不比等が持統女帝以下の傀儡女帝政権の正当化のためにクローズアップした伊勢の海人族・あまたちの女神に過ぎなかった神。女神信仰・太陽信仰はどちらもそもそも海の民の信仰であるのを利用した。それがために徳善と宗像氏はにわかに天武・持統時代から記録に登場するのである。

ところが明治維新政府が、廃仏毀釈と祭神・神社統一を突然開始する。いわゆる万世一系・皇国史観による富国強兵・軍国主義のための国民イデオロギーの統一戦略からである。各地の大社にあった神宮寺はことごとく、官憲による指導に従った民衆自身の手で焼き払われ、全国の村社や郷社はひとつにまとめられてゆく。南方熊楠の大山神社もその対象だった。そして当家の春日神宮寺も焼かれた。

大社であっても主祭神すら置き換えられた。その名はアマテラス。













エゴマ・荏のつく地名人名  離宮八幡神人油売りと斉藤道三とスパイ活動と

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エゴマ

エゴマは現代日本人には馴染みが薄い植物で、よく胡麻、あるいは姿かたちからシソと混同されたり、完全に入れ替わってしまった商品もある。そしてその日本での復活が、主として韓国料理の素材としてが大きかったために、エゴマが韓国、朝鮮半島独特の植物だと勘違いされてしまったのだが、実際にはエゴマは日本自生種が縄文時代からあって、遺跡から食用・燃料用として種子が出てくる植物である。江戸時代以前は灯明油と言えば荏油だった。室町時代には幕府は荏油売り神人に通交手形不要・守護不介入を許容し、京都の混乱と引いては応仁の乱を引き起こす火種になった。


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「エゴマ(荏胡麻、学名:Perilla frutescens)はシソ科の一年草。シソ(青紫蘇)とは同種の変種。東南アジア原産とされる。地方名にジュウネンがあり、食べると十年長生きできるという謂れから。古名、漢名は、荏(え)。
食用または油を採るために栽培される。シソ(青紫蘇)とよく似ており、アジア全域ではシソ系統の品種が好まれる地域、エゴマ系統の品種が好まれる地域、両方が栽培される地域などが見られるが、原産地の東南アジアではシソともエゴマともつかない未分化の品種群が多く見られる。
葉などには香り成分としてペリラケトン(Perilla ketone)やエゴマケトン(Egoma ketone、3-(4-Methyl-1-oxa-3-pentenyl)furan)などの3位置換フラン化合物が含まれ、大量に摂取した反芻動物に対して毒性を示す。」Wikiエゴマ


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●縄文時代から栽培利用 荏地名
「日本ではインド原産のゴマよりも古くから利用されている。エゴマをはじめとするシソ属種実の検出が縄文時代早期から確認されており、1974年には長野県諏訪市の荒神山遺跡から「エゴマ種実」が検出されている。長野県では大石遺跡からもエゴマ種実が出土しており、当初は「アワ類似炭化物」とされていたが、1981年にシソ科のエゴマであると鑑定された。

縄文時代にはクッキー状炭化物からも検出されていることから食用加工されていたと考えられており、栽培植物としての観点から縄文農耕論においても注目されている。

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中世から鎌倉時代ごろまで、搾油用に広く栽培され、荏原など、地名に「荏」が付く場所の多くは栽培地であったことに由来する。」Wikiエゴマ

例えば荏原、荏の原、荏隅(えのくま)、荏川、油谷、油座などの地名、人名は荏生産地、生産者、あるいは油に関わる土地と人々由来である。

●荏油
「エゴマ油は種子から絞った油で荏の油(えのあぶら、えのゆ、荏油〈じんゆ〉)ともいわれ、食用に、また乾性油なので防水性を持たせる塗料として油紙、番傘などに用いられてきた。

中世末期に不乾性油の菜種油が普及するまでは日本で植物油と言えばエゴマ油であり、灯火にもこれが主に用いられ、安定的に確保、供給するために油座という組織が作られた。しかし、菜種油の普及と共に次第にエゴマ油の利用は衰退し、乾性油としての特質が不可欠な用途に限られていき、知名度は低くなっていった。しかし、朝鮮などでは、トゥルギルム(들기름)と称して日本よりも一般的に使用されつづけている。」Wikiエゴマ

●本邦製油發祥地・離宮八幡宮と「長木」
「離宮八幡宮(京都府乙訓郡大山崎町駅前)には「本邦製油發祥地」の碑が建てられています。離宮八幡宮の説明によると、「平安時代の初め、当社神主が「長木(ちょうぎ)」(絵図参照)という道具で油を絞り、灯油に用いた。これが我が国製油の始まりとされている」とあります。油は神祀(まつ)りの灯火に用いられ、また宮中に献上される、大変貴重なものでした。(中略)


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  弊店が創業した約200年前は、主にお灯明用の菜種油を扱っていました。荏油から菜種油へと変遷していったのには歴史的な背景を抜きにしては語れませんが、詳しくは次回に譲ることにいたしましょう。機能的な面で言えば、荏より菜種の方が栽培しやすく稲の裏作が可能だったこと、搾油しやすかったこと、明るさの点で優れていたことなどがあげられます。」
http://yoil.co.jp/a1.htm



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●油売り斉藤道三
司馬遼太郎原作『国盗り物語』における斉藤道三の油売り「とうとうたらり とうたらり」で有名な油は荏胡麻油である。

●大山崎油座と通行税免除・天下御免の油売り→スパイの隠れ蓑代名詞
「荏胡麻の栽培・搾油・運送・卸・小売りの組合のようなものですが、 これは油関係の商売を独占的に行います。

この物品に関わるお墨付きは朝廷や室町幕府(絶頂期は三代足利義満)になされますので、誰にも文句を言われない排他的権力が保証されていました。 」

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「古来より川向うの男山、石清水八幡宮(またはこちら、こちらも)は京都の北東(鬼門)比叡山と対にある裏鬼門(南西)にあたり鎮護国家の思想から朝廷に保護され続けていました。


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エナガ先生のどったらこったらが面白い講義メモよりhttp://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/38964742.html



「離宮八幡宮」は嵯峨天皇の離宮となったことからそう呼ばれていますが、もともとはその石清水八幡宮の元社と言われています。よってブログで以前「八幡宮といえば男山」と記したのは端折りすぎました。

また八幡宮は源氏の頭領必須の社寺ということもあって武士世界に移ってからもその八幡宮の権益は保護される傾向にありましたが、この「油座」というものはまさに「離宮八幡宮」の「神人」(神職・氏子)による独占的排他的事業だったわけです。

当時の「油」で思い出されるのはNHK大河ドラマの「国盗り物語」(司馬遼太郎原作)。
若き日の斉藤道三は「一介の油売り」。 永禄銭の穴に油を通す「とうとうたらーり とうたらり」のパフォーマンスとその調声がよぎります。

諸国の状況を把握できる立場にあったのが通行料自由、非課税の油屋でした。
室町幕府三代足利義満の時に油座が最盛期を迎えたというのは義満の母親が石清水八幡宮検校善法寺通清の娘の紀良子(きのよしこ)であったからと考えるのがスジのようです。
足利義満袖判御教書
八幡宮大山崎内 東限円明寺 西限
水無瀬河 依為日使大神事等重役神人
在所 自往古以来 惣所不勤公方課役也
爰以関戸院 号摂州内 成違乱云々 太不
可然 早任先例 於山崎者雖為向後諸 
事 可停止守護綺者也 就中 内殿
御燈油荏胡麻諸関津料并兵庫嶋
升米以下 固可止其妨状 下知如件
   明徳三年十二月廿六日
 

●神人(じにん)と油
さてここで出てきた神人とは神社の祭祀や細かい仕事、販売促進なんぞに勝手に関わった氏子のことだが、諸君後存知の通り、あえて「神人」と言った場合それは多くが下層民の犬神人(いぬじにん)のことで、神社境内に巣食う無頼の徒である。

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よく言えば自由人、遊興人、あるいは芸人、歌舞音曲・・・と言うと聞こえはいいが、要するに無宿者、ならずもの、テキヤ、阿弥、こじき坊主といった類の、いうならば当時では無為徒食の被差別者。その中にはまあスパイや忍びの者、修験者などなどまで紛れ込む。で、油売りにかこつけて都や大阪や尾張を探っていたのが大名斎藤道三だったというのが司馬さんの設定である。境内には大道芸や芝居の小屋も立つことから、変装道具には事欠かない。有象無象のやからがわいわいしていれば、少々怪しいやつがいたってまぎれこんでしまう。っていうよりも、神人なんて全員
がちょっと怪しいやつばかりである。まともな奴のほうが目立ってしまう。

書状にある通り、足利義満が離宮八幡宮や岩清水八幡宮、あるいは酒解神社などの神人油売りに対して、守護の不介入を許可したために、以後、これに身をやつしての京都潜入がたやすくなってしまう。その結果、京都は諜報活動丸裸となってしまい、やがてそれによって宮中内部大名内部も情報過多の疑心暗鬼。ついに応仁・文明の乱が勃発し京都だけでなく、その影響で全国の流通都市で荒廃が。やがて織田信長の「楽市楽座」による商業慣習打破(為政者による商行為把握と租税徴収)による独占権威失墜と菜種油の登場によって荏ゴマ油は完全衰微してゆくのだった。

エゴマの栽培と渡来には特に関わりなし。
あると思って調べてみたが、なにしろインド由来のゴマよりももっともっと古い縄文時代からエゴマはあるので、特に渡来人の持ち込みはなかったようだ。栽培適地も特になく、冷涼であればどこでも育つ。それに長期間日本に存在したので、地域格差にもよく適合していて、場所によって育ちやすい品種が存在する。

筆者の近在には荏隅地名がある。大きな河川の下流で、往古よく氾濫の起きた湿地帯だった地域である。あまりよくない土地だったせいか刑務所や自動車試験場があったりするが、往古は湿地を利した農業が盛んで、レンコン、荏ゴマ、桑などの農家が多かったらしい。一帯には古墳が点在し、前方後円墳後円墳も一基ある。西部河岸段丘麓には「餅田」地名があり、秦氏・鴨氏・三輪氏共通の白鳥伝説・朝日長者伝説との関係も考えられる。


全人類の平和なんぞ願うのは日本人だけだね。石原慎太郎猫被ってたな

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全人類の幸福とか、できもしないことを外国人は言ったりしない。個人主義が基本だからだ。ところが日本人だけがそういうできもしないことを願うとか言ったりする人こそが素晴らしい善人だと言われる。全体主義だからだ。全人類の幸福は、裏目に出たときには全世界の征服になる代物で、どっちも建前でしかない。そもそも公私を使い分けたりするのが日本人だけである。世界は本音と建前は使い分けても、公私は使い分けていない。

金が日本だけ蚊帳の外にしている、などとマスコミが騒ぐけれど、その見方は金を中心に考えてしまう日本人らしい勘違いから出てくるものであって、日本を中心に考えれば、あんな半島サイズのバカ騒ぎに巻き込まれずに済むから万歳だ。と思うのが当然である。そもそも半島のごたごたに日本は無関係だった。それを無理やり関係付けたのは金の側の拉致行為である。金がほしくて中華に行脚し、しかもえらそうにして和平は自分のおかげだ然としているが、詐欺である。おばかの平和主義者はすぐに平和になると喜ぶが、そんなわけはない。向こうはあっぱれ詐欺師である。

拉致は埒があくはずがなく、日本はミサイルさえ跳んでこなければオンノジが本音。もちろん拉致が解決するためには、金と仲良くするべきだが、そうはいかない。そのうち向こうからすりよってくるからこっちは待っていればよいのだ。

しかしだね、今、くだらんやったやらないのもろかけなんぞで、安倍が降りたとして、いったい誰が金やトランプと対等につきあいできる?そんな奴、少なくとも野党にはひとりもいない状況で、やめさせようとしてる暇があるのかねえ?

貴乃花はやっぱ子供だったな。がっかりさせるよ。だから新日本相撲立ち上げろって言ってるじゃないの。でももうおばか女性ファンも三行半してるしなあ。お人よしも、さすがに目が覚めただろう。


小池はイヌのサツ処分しなくしたって、じゃあ、どうするんだ?生かしておくほうが金がかかるのが生き物よ?わけわからないわ。ばかほど生まれてくる強い生命体を減らすには殺す、させない、カットする以外になにがあると?建前で政治やってんじゃねえよ。


石原慎太郎、めちゃくちゃ元気じゃないか?昨日のプライムニュース。
あの海賊親分め、猫かぶってやがったな。血色いいし、しゃんしゃんしゃべるし、相変わらず右よりばりばりで、日本に核弾頭があるなんてほら吹いたあげくに、CM中にトイレにたって、戻ってきたら反町本番おしゃべり中の背後を、亡霊のごとくよろめきながら、座るとき思わず反町のハゲ頭をつかむかという勢いで、イスの肘掛をおっつかんで画面から消えた。死んだのかと思ったよ。






タラノ芽狩り

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散歩のついでにタラノ芽狩りしてきた。


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毎年道端に木があるのでいただくが、
今年はもう木が大きくなっていて届かない。
たったこれだけ。
先日コメを借りた方に差し上げた。


開花宣言が遅かったくせに春の山菜は早い。
もうタケノコだって店に顔を出す。










東国の古代識字率と現代北関東暴走族の難読漢字好みの因果関係

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関東地方から出てくる墨書土器や木簡には、全国でも群を抜いて難読漢字が多く書かれている。万葉集を見ても、東歌の数は非常に多く、地方でナンバーワンである。

古墳時代~奈良時代~平安時代と、渡来人や、西からの屯田開拓者が多かった関東地方では、中央の文化への関心が非常に高かったらしく、文字を習得しようという心意気が万葉和歌や木簡、土器での文字練習の痕跡で見て取れる。

特に北関東、茨城地方、南関東千葉県に墨書土器、木簡が多い。
木簡と言うのはいわゆる文章ではなく、納品伝票なので、品目、数量、どこそこへ納品する、どこそこでとれた産物・・・などの情報の山である。つまり現代なら運送業者の送り状みたいなものである。土器のほうは底に描いたのろい言葉が多くて、まあ難解な文字の練習にはうってつけである。

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ぼくは茨城県・千葉県には一度行っただけだが、ヤンキーと黒いワンボックスワゴン、ウインドーは黒いスクリーン貼り、聞いている音楽はエグザイル系で、暴走する人々が多いとか、大工・土木業関係者、トラック運搬業者などけっこう荒い仕事のかたがたがが多いなどは、よくテレビでやってくれているので、そうなんだろうなあと感じてはいる。




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インテリコンプレックス?学業への憧れと恨み?
難しい漢字だけ使う。やさしい漢字はむしろ読めない?


その暴走族のあんちゃんたちが、やはり東京に非常に高い関心を持って夜な夜なシャコタン?車を走らせるらしきことも聞いたことがある。彼らが好むのが古代人同様、難読漢字であることも有名である。それは古代からの伝統だったのである。東国の識字率の高さに感心していた森浩一氏を思い出してしまった。

墨書土器分布 時代別千葉県
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貝と春の歴史

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貝は春に最もうまくなる。
だから貝には春=「張る」、英語ならバネ(スプリング)の生命力がある。そのバネの形はやはり春の山菜の蕨(わらび)やゼンマイが持っている。いわゆる蕨手文はそういう形状である。

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そこに古代の人々も永遠の生命力を見ていたようだ。


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王塚古墳装飾


縄文時代には、採集食料の主力が貝で、山ほどの貝殻が見つかる。
中心はアサリやハマグリやシジミやらの二枚貝だ。
今ならムール貝に相当するイガイ類もよく食べている。


ただ貝には貝毒があり、食べ過ぎるのは危険だ。
フグは貝を食べることで胎内に貝毒を取り込み、それがフグの猛毒テトロドキシンを作ってしまう。長崎県や佐賀県では、じゃあ、フグに貝を食べさせなければどうなるかとやってみて、毒がない養殖フグを作り出したりしている。


縄文人も、貝塚を作ってしまうほど貝を食べていて、きっと貝の毒にも苦しんだはずである。


縄文後期から弥生時代になると、貝は装身具になった。
その貝殻は二枚貝よりも巻貝である。
巻貝が持っている渦巻き模様が、不老長生をイメージさせたのだろう。

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渦巻きはすなわち永遠の円の連続である。
むかし、海外テレビ番組でタイムトンネルというのがあったが、タイムトンネルの形状がまさに巻貝の渦巻きだった。人はその中心へ向って細く続く渦巻きに、時空を越える何か時間の超越を感じたことで今も昔も同じであるようだ。



それをブレスレットにして身につけることを許される人は限られていた。シャーマンや王族である。そういうところから、倭人の最初が海の民であったことは感じ取らねばならないだろう。


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サクラやバラの花びらにもやはり似たような渦巻きは見られる。


そうした目で、地球を歩いていると、意外に地形や地層にも、永遠がちゃんと刻み込まれているのに気がつく。


ぼくは、地形、地層、自然の造形が持っている永遠に、歴史家はもっと敏感になるべきだと思っている。シャーマニズムだろうがアニミズムだろうが、人間は原初的に、そうした大自然のたくまぬ造形に往古から鳥肌が立つような官能を見出してきたのだ。



そういう意味で、あらゆる歴史のヒントをまさぐってきて、やはり大地、宇宙の、何を求めてそうした形状を作るのかが、最も大事な人類の内的歴史の肝にあるように思えてならない。


修験道だろうが道教だろうが、仏教だろうが、およそ、狭小な処世術を大きく超越した信仰の真奥に、どうも「道」があるように思うのである。


柱状節理と貝殻に、同じ何かをぼくは感じてしまう。



そこにディフォルメという真理を見るのだ。


そこがあの昨夜の教育放送の若い俳優とは一段違う、道がぼくには見えるように思う。












コノハナチルヒメ

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コノハナチルヒメは『古事記』にだけ登場する大山積の娘。
コノハナサクヤヒメが山桜の咲き始めの女神なら、この女神は散り際の女神となる。
いわば『日本書紀』のイワナガヒメに相当する。


死生観を言うがための女神。




『日本霊異記』に見る奈良時代庶民の生活と苦悩と泣き笑いだけではない、こまか~い突っ込みみどころ

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●『日本霊異記』とは
『日本国現報善悪霊異記』(にほんこく・げんほう・ぜんあく・りょういき)
平安時代初期
最古の説話集
著者=景戒
上・中・下三巻。変則的漢文表記の仏教説話集
『日本霊異記』の古写本には、平安中期の興福寺本(上巻のみ、国宝)、来迎院本(中・下巻、国宝)、真福寺本(大須観音宝生院蔵、中・下巻、重要文化財)、前田家本(下巻、重要文化財)、金剛三昧院(高野山本、上中下巻)などがあり、興福寺本と真福寺本が校注本においても底本に用いられることが多い(『日本霊異記』の諸本については小泉道『日本霊異記諸本の研究』1989)

●景戒 けいかい 
もとは私度僧(しどそう=優婆塞うばそく。還俗したまま勝手に僧の修行をする者。奈良時代僧侶資格のない者の勝手な僧侶化は禁止されていた。つまり違法独学の修行者が私度僧)
晩年になってようやく国家に僧侶を認められ、薬師寺の僧侶に。 
出身:紀州(和歌山)名草郡の漁民で妻子もあった 
「日本霊異記」はその間に紀州で見聞、あるいは直接見た、経験した仏教的、霊的奇異譚の拾遺集で、自分が貴族でもない平民それも豪族や神社や王宮ににえを献上させられていた漁民(調=つきの者の身分)から僧侶になれたゆえに、国家が禁じていた私度僧に好意的だった。調の者の多くが、ある意味租を納めていたほかの百姓(おおみたから)から差別された一族でもあった事情があり、そのことも解説するつもりである。

「日本霊異記」の最後から二番目の章=下巻末の第38話に、景戒自身の奇異経験など私的な記述があるのでまずこれから読むとこの説話集のできあがる事情がうすうす見えるかも知れない。本文で後述。概略は「延暦6年(787年)には景戒は僧の身でありながら、一方では世俗の家に住み、妻子がいたものの、それを十分に養うだけの財力がないという状態にあった。また、延暦14年(795年)に伝灯住位の僧位に進んでいる。また、その2年後の延暦16年に造立した仏堂に向かってキツネがいくたびか鳴くので不審に思っていたところ、自身の子息や牛馬が相次いで亡くなったという」(Wiki景戒)。

おそらく説話中に登場する漁師たちにも似たような境遇の遭難者がいるが、景戒もそれと同様に、漁師をしていたときには、領主、網元が提供する海の小屋に住み、妻がわずかな畑を耕して口に糊する貧民だっただろう。それだけに彼には同じ貧民や賎民、漁民への慈悲あふれる思いがあったようである。彼らは遭難して戻らない者も多くあったらしく(農家で言えば庄屋と小作=水のみ百姓のような、大変な格差のある生活である)、それは当時、国法違反であるが国司が不問にして、哀れんで食料を分け与える内儀の話なども見える。涙と笑い、ペーソスも充分味わえるはずである。

もちろん仏教説話である限り、そこにコレクションされた怪異は、いきおい、すべてが仏のご利益、仏を信じれば報われる、そむけば自身、あるいは家族に不幸が起きる、だから仏法を信じなさいという仏教拡販的宗教宣伝用コピーであるのはやむをえず、なにもかもが因果応報思想で描かれるのも否めない。場合によっては、その目的のために元ネタを改変、潤色したケースもないとは言えまい。しかしそこには、当時の民衆、漁師やその家族の納税情報や、献上した物品(贄ニエ・調)の詳細、和歌山を中心とする近畿海岸部の情報、地名、地形、その他いつごろ海に出ているか、どこでなにを採集しているか、網本としての紀氏、網子としての漁師の実生活、それをいわゆる税を納めていた農民の生活や形態などと比較できたりと、山のような庶民情報が含まれ、近年重視されてきた出土木簡に書かれていた物品やその納品先などと合致していたりする。

紀州名草郡や海部郡、あるいは海草郡などは、そもそも紀氏に従属する古来からの海人族の多い地域で、景戒も波多村の漁師の出身である。波多は秦氏のはたではなく、海の氏族の波多氏一族とその部民の姓である。太平洋側の良港に多い氏姓。波多野、波多田など。その倭国における派生元は九州有明海の肥前など。それ以前はおそらく朝鮮半島南岸部、伽耶あたりであろうと思われる。肥前、紀州、相模などに多い苗字。また紀氏がスサノヲを祖とする氏族で、任那(伽耶の一部)が実際にあっただろう渡来氏族人名なども登場すること、なぜスサノヲ子孫を名乗るか、なども見えてくる可能性があろうかと思っている。

いくつかの話をピックアップして、日本霊異記を重箱の隅をつつくようにあらゆる事柄、言葉、現象、地名、人名に絡んでみるつもりなのでおたのしみに。それぞれ10数行の簡潔で短い説話だが、つっこみどころの非常に多い民俗誌なので、解説は一章にかなりボリュームのあるものになるかと感じている。



mudai

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