「あづみ」とは「あまつみ」すなわち「綿津見の海神=スサノヲと月読の子孫」である。
月読とは太陽を守護し、助力する者であり、スサノヲとは海を統率し暴風を自在にあやつることができる、つまり天皇家に対し諫言を言える者。時に大王を援助し、時に朝廷にまつろわぬ誇り高き存在。
月読とは太陽を守護し、助力する者であり、スサノヲとは海を統率し暴風を自在にあやつることができる、つまり天皇家に対し諫言を言える者。時に大王を援助し、時に朝廷にまつろわぬ誇り高き存在。
穂高神社安曇比羅夫像
●「古代の海人族の中でもっとも優勢を誇ったのは阿曇連氏である。この氏が有するところの連なる姓(かばね)は、古代の名族大伴・物部・中臣等の諸氏のそれと同じく、大和の王権の下で特定の職業集団(品部(ともべ))を統率する氏族(伴造(とものみやつこ))に与えられたものであるが、同じく伴造でも造(みやつこ)とか首(おびと)といった、より低い姓を与えられたものもあったから、連姓を与えられた阿曇氏の政治的地位はそれなりに高いものであったといえる。」
「海人族のウヂを探り東漸を追う」(黛 弘道、『日本の歴史?倭人争乱』集英社)
「海人族のウヂを探り東漸を追う」(黛 弘道、『日本の歴史?倭人争乱』集英社)
●『新撰姓氏録』
・「阿曇宿禰 海神綿積豊玉彦神(わたのかみわたつみとよたまひこ)の子、穂高見命の後(すえ)なり」・ 阿曇犬養連は、「海神大和多罪(おおわたつみ)命の三世孫(みつぎのひこ)、穂己都久(ほこつく)命の後なり」・ 安曇連 宇都志日金折(うつしひがなさく)命の後という・ 穂高見命、別名宇都志日金折命(古事記に記載)といわれている古くにおいては宇都志日金折命といわれ、その後穂高見命といわれたとの説もある
・「阿曇宿禰 海神綿積豊玉彦神(わたのかみわたつみとよたまひこ)の子、穂高見命の後(すえ)なり」・ 阿曇犬養連は、「海神大和多罪(おおわたつみ)命の三世孫(みつぎのひこ)、穂己都久(ほこつく)命の後なり」・ 安曇連 宇都志日金折(うつしひがなさく)命の後という・ 穂高見命、別名宇都志日金折命(古事記に記載)といわれている古くにおいては宇都志日金折命といわれ、その後穂高見命といわれたとの説もある
●阿曇氏の発祥の地筑前国糟屋郡安曇郷(福岡市東区和白・福岡県粕屋郡新宮町あたり)、志珂郷(福岡市東区志賀島)を中心とした地域式内名神大社 志加海(しかわた・志賀海)神社 があり、神職は阿曇氏4.
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「志賀」とは「鹿」であるが、海でもある。
安曇族は鹿角を釣り針などにし、鹿をステータスにした。そしてそれゆえに鹿=海の神としたのである。
中世志賀氏の名も、滋賀県・志賀島の名前も彼らがいたところの地名になっている。祖神である安曇磯良し(あずみのしら)は磯の岩礁の神格化である。住吉三神を祀る。その配下からは漂泊の中世芸能民が出る。いわゆるクグツである。
安曇族は鹿角を釣り針などにし、鹿をステータスにした。そしてそれゆえに鹿=海の神としたのである。
中世志賀氏の名も、滋賀県・志賀島の名前も彼らがいたところの地名になっている。祖神である安曇磯良し(あずみのしら)は磯の岩礁の神格化である。住吉三神を祀る。その配下からは漂泊の中世芸能民が出る。いわゆるクグツである。
安曇氏族の系列阿曇連(あずみのむらじ)(または阿曇宿禰)海犬養連(あまのいぬかいむらじ)凡海連(おおしあまのむらじ)八木造(やぎのみやつこ)阿曇犬養連(あづみのいぬかいのむらじ)?
●安曇氏族の分布
( 黒字:宮地直一、青字:大場磐雄 による)
?筑前国 糟屋郡志珂郷、阿曇郷、志賀海(シカノアマ)神社?
壱岐・対馬 和多都美神社?
豊後国 戸为山部牛の妻阿曇部馬身賣(ウマミメ)他、海部郡?
長門国 下関市安園町富任 長門国豊浦團五十長凡海我孫
( 黒字:宮地直一、青字:大場磐雄 による)
?筑前国 糟屋郡志珂郷、阿曇郷、志賀海(シカノアマ)神社?
壱岐・対馬 和多都美神社?
豊後国 戸为山部牛の妻阿曇部馬身賣(ウマミメ)他、海部郡?
長門国 下関市安園町富任 長門国豊浦團五十長凡海我孫
肥後国大津郡向津具村 八木家所有の畑地から有柄銅剣?
隠岐国 海部(アマ)郡 少領外従八位下阿曇三雄、海部郷?
伯耆国 會見(アツミ)郡安曇郷西伯郡宇田川村 和名抄に安曇郷記載、石剣出土?
出雲国 簸川郡大社町杵築 海部が居住していた、銅戈が出土?
丹後国 熊野郡湊村函石濱 和名抄に安曇郷記載、石剣出土與謝郡日置村 海部氏が奉斉する籠神社、石剣出土?
播磨国 揖保郡浦上里、石海 安曇連百足?
讃岐国 大内郡入野(ニフノ)郷 安曇茂丸戸他、讃岐是秀 安曇直眉他?
阿波国 男帝の御宇に供奉する神祇官選定阿曇部、名方郡の人安曇部栗麻呂宿禰、和多都美豊玉比賣神社、海部郡?
淡路国 三原郡南方の野島は海人の本拠地、西南の方に阿萬(アマ)郷?
摂津国 安曇犬養連等の地、難波津の安曇江、安曇寺?河内国 阿曇連等の地?
山城国 阿曇宿禰等の地?
近江国 伊香(イカコ)郡安曇郷(東北方湖辺の地であるが所在は明らかでない)?
美濃国 厚見郡、厚見郷?三河国 渥美郡、渥美郷?信濃国 更科郡氷鉋、斗賣郷 氷鉋斗賣神社 、埴科郡玉依比賣命神社?
信濃国 安曇郡 穂高神社 安曇部百鳥
隠岐国 海部(アマ)郡 少領外従八位下阿曇三雄、海部郷?
伯耆国 會見(アツミ)郡安曇郷西伯郡宇田川村 和名抄に安曇郷記載、石剣出土?
出雲国 簸川郡大社町杵築 海部が居住していた、銅戈が出土?
丹後国 熊野郡湊村函石濱 和名抄に安曇郷記載、石剣出土與謝郡日置村 海部氏が奉斉する籠神社、石剣出土?
播磨国 揖保郡浦上里、石海 安曇連百足?
讃岐国 大内郡入野(ニフノ)郷 安曇茂丸戸他、讃岐是秀 安曇直眉他?
阿波国 男帝の御宇に供奉する神祇官選定阿曇部、名方郡の人安曇部栗麻呂宿禰、和多都美豊玉比賣神社、海部郡?
淡路国 三原郡南方の野島は海人の本拠地、西南の方に阿萬(アマ)郷?
摂津国 安曇犬養連等の地、難波津の安曇江、安曇寺?河内国 阿曇連等の地?
山城国 阿曇宿禰等の地?
近江国 伊香(イカコ)郡安曇郷(東北方湖辺の地であるが所在は明らかでない)?
美濃国 厚見郡、厚見郷?三河国 渥美郡、渥美郷?信濃国 更科郡氷鉋、斗賣郷 氷鉋斗賣神社 、埴科郡玉依比賣命神社?
信濃国 安曇郡 穂高神社 安曇部百鳥
以上の他に、「信濃の安曇」(笹川尚紀『信濃第 55 巻第 7 号』平成 15 年)によると、肥前国、周防国、備中国、伊予国にも安曇連、安曇部の存在があるという。
● 日本書紀にみる安曇氏の系譜1.神代上巻第一第五段伊装諾尊(いざなきのみこと)、伊装冉尊(いざなみのみこと)伊装諾尊が黄泉(よもつくに)から逃げ帰って川で祓ぎ除(みそぎはら)った時に、多くの神を生んだ。そして「又海(わた)の底(そこ)に沈(かづ)き濯(すす)ぐ。因りて生める神を、号(なづ)けて底津少童命(そこつわたつみのみこと)と曰(まう)す。次に底筒男命(そこつつのをのみこと)。又潮(しほ)の中に潜(かづ)き濯(すす)ぐ。因りて生める神を、号けて中津少童命(なかつわたつみのみこと)と曰す。次に中筒男命(なかつつをのみこと)。又潮の上に浮き濯ぐ。因り生める神を、号けて表津少童命(うわつわたつみのみこと)と曰す。次に表筒男命(うわつつのをのみこと)。凡(すべ)て九(ここのはしら)の神有(いま)す。其の上筒男命・中筒男命・表筒男命は、是即ち住吉大神(すみのえのおほかみ)なり。底津少童命・中津少童命・表津少童命は、是阿曇連等(あずみむらじら)が所祭(いつきまつ)る神なり。」『日本書紀一(巻第一神代上第五段)、岩波文庫』
●景行天皇紀 ( 70〜98 年)→ (後漢の光步帝より漢倭奴国王印を授与される 57 年 )
82 年日本書紀によると、熊襲征伐に向かう途中筑紫において、鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折という名の賊者を討伐したとある。
続いて、青、白という名の土蜘蛛と打猨(うちさる)、八田(やた)、国摩侶(くにまろ)という名の土蜘蛛を討伐したとの記述がある。このときは抵抗が激しく、志我神(しがのかみ)、直入物部神(なおいりもののべのかみ)、直入中臣神(なおいりなかとみのかみ)に祈ったとある。
82 年日本書紀によると、熊襲征伐に向かう途中筑紫において、鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折という名の賊者を討伐したとある。
続いて、青、白という名の土蜘蛛と打猨(うちさる)、八田(やた)、国摩侶(くにまろ)という名の土蜘蛛を討伐したとの記述がある。このときは抵抗が激しく、志我神(しがのかみ)、直入物部神(なおいりもののべのかみ)、直入中臣神(なおいりなかとみのかみ)に祈ったとある。
この点に関して『日本古代の軍事航海史(松枝 正根)、かや書房』(上、267 頁)は次のように指摘している。
肥前風土記によると、景行天皇が巡幸したとき供者の安曇連百足(あづみみらじももたり)に命じて、近くの島を視察させたところ、二つの島に大耳、垂耳という土蜘蛛がいた。そこで安曇連百足は彼らを捕らえた。彼らは貢物をすること約束したので、天皇は恩情をかけ、赦免したとある。その嶋は値嘉嶋と呼ばれ、そこに住む白水郎(あま)は牛や馬を多く所有しており、容貌は隼人ににており、いつも騎射を好み、言葉は俗人と異なっていると記述している。
肥前風土記によると、景行天皇が巡幸したとき供者の安曇連百足(あづみみらじももたり)に命じて、近くの島を視察させたところ、二つの島に大耳、垂耳という土蜘蛛がいた。そこで安曇連百足は彼らを捕らえた。彼らは貢物をすること約束したので、天皇は恩情をかけ、赦免したとある。その嶋は値嘉嶋と呼ばれ、そこに住む白水郎(あま)は牛や馬を多く所有しており、容貌は隼人ににており、いつも騎射を好み、言葉は俗人と異なっていると記述している。
●神功皇后紀 ( 200〜270 年)→(卑弥呼、魏へ入貢し親魏倭王の印綬をうける 238 年) 200 年日本書紀によると、神功皇后はこの年新羅へ出征した。「又磯鹿(しか)の海人(あま)、名は草(くさ)を遣わして視しむ」とある。(名草郡の地名由来はこれであろう)
『日本古代の軍事航海史(松枝 正根) かや書房』(中、15頁)によると、
新羅出征に際し神功皇后は「阿曇連磯良丸命に舟師を率いさせて出征した。九月には諸国に令した船が集まったので、磯鹿海人(しかあま)名草を水先案内人として壱岐経由して、十月三日、対馬の和珥津(わにつ)を出港して新羅の南岸へ迫ったとされている」と記述している。
新羅出征に際し神功皇后は「阿曇連磯良丸命に舟師を率いさせて出征した。九月には諸国に令した船が集まったので、磯鹿海人(しかあま)名草を水先案内人として壱岐経由して、十月三日、対馬の和珥津(わにつ)を出港して新羅の南岸へ迫ったとされている」と記述している。
●応神天皇紀 (270〜313 年) 273 年 日本書紀によるとこの年、『処処の海人、訕?(さばめ)きて命に従わず。則ち(すなわち)阿曇連の祖大浜宿禰(おおはまのすくね)を遣わして、其の訕?を平ぐ。因りて海人の宰(あまのみこともち)とす』とある。275 年日本書紀によると、「諸国に令して、海人(あま)及び山守部(やまもりべ)を定む」「伊豆国に科(ふれおおせて)、船を造らしむ。長さ十丈(とつゑ)。船既に成りぬ。試みに海に浮く。便(すなわ)ち軽く泛(うか)びて疾(と)く行くこと馳(はし)るが如し。故(かれ)、其の船を名けて枯野(からの)と曰ふ。」とある。『日本古代の軍事航海史(上、52 頁)』(松枝 正根、 かや書房)によると、「応神天皇は、三人の皇子にそれぞれの職の分担を定め、皇子大山守命を山海を担当する総宰にしている。そして阿曇連および凡海連を副総宰とし、吉備、紀伊、但馬、播磨、阿波等の諸国にそれぞれ海直(うみのあたい)を置いた」と記述している。
以下略
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=dlMwvUETXbgJ&p=%E5%AE%89%E6%9B%87%E9%83%A8%E5%88%86%E5%B8%83&u=azuminorekishi.sakura.ne.jp%2Fsiryou.pdf#search='%E5%AE%89%E6%9B%87%E9%83%A8%E5%88%86%E5%B8%83'
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要するに住吉信仰の大元を太陽信仰として記紀は神功皇后という、限りなく倭の女王に近い女性を作り出すのである。それが伊勢信仰、つまり天皇家とアマテラス信仰の大前提としてとりこまれ、日本の神社信仰のすべての形態がこの8世紀以後完成する。
安曇はそのために朝廷の大陸交易渡航の道具となり、信仰も奪われ、結果、配下に存在した多くの海人族の中でそれに反発して海賊と化したものが多数出たのである。しかしながら現代日本の海運業、あるいは明治のバルチック艦隊を殲滅したその海軍力の原動力は、少なからず彼らの長い経験やその血脈によってなしえたと考えてもいいだろう。
安曇はそのために朝廷の大陸交易渡航の道具となり、信仰も奪われ、結果、配下に存在した多くの海人族の中でそれに反発して海賊と化したものが多数出たのである。しかしながら現代日本の海運業、あるいは明治のバルチック艦隊を殲滅したその海軍力の原動力は、少なからず彼らの長い経験やその血脈によってなしえたと考えてもいいだろう。
私自身は、日本人が大陸渡来の弥生人の子孫であるよりも、勇猛な彼ら海人族縄文倭人の子孫であらんことを誇りとするものである。
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