◆古墳時代のよろい着用人骨発見
群馬県渋川市の古墳時代の遺跡から、火山灰に埋まった男性の骨がよろいを身につけた状態で見つかりました。
専門家は、男性が近くにある榛名山の噴火を鎮めるまつりをするためによろいをつけていたか、噴火から身を守るためによろいをつけていた可能性があると見て、分析しています。
発掘調査が行われたのは、群馬県渋川市の「金井東裏遺跡」で、6世紀はじめの古墳時代、火山灰で埋まった溝の中からよろいを着けた男性の骨が見つかりました。
よろいは高さ60センチ、幅50センチで、小さな鉄の板を重ねて編んで作られた「小札甲」でした。古墳時代のよろいが装着された状態で、人の骨が見つかったのは全国で初めてで、群馬県教育委員会などは現場の状況などから、男性は近くにある榛名山の噴火で火砕流に巻き込まれたとみています。当時、この地域では大きな争いがなかったと見られているため、専門家は男性が榛名山の噴火を鎮めるまつりをするためによろいをつけていたか、噴火から身を守るためによろいをつけていた可能性があると見て分析しています。
群馬県渋川市の古墳時代の遺跡から、火山灰に埋まった男性の骨がよろいを身につけた状態で見つかりました。
専門家は、男性が近くにある榛名山の噴火を鎮めるまつりをするためによろいをつけていたか、噴火から身を守るためによろいをつけていた可能性があると見て、分析しています。
発掘調査が行われたのは、群馬県渋川市の「金井東裏遺跡」で、6世紀はじめの古墳時代、火山灰で埋まった溝の中からよろいを着けた男性の骨が見つかりました。
よろいは高さ60センチ、幅50センチで、小さな鉄の板を重ねて編んで作られた「小札甲」でした。古墳時代のよろいが装着された状態で、人の骨が見つかったのは全国で初めてで、群馬県教育委員会などは現場の状況などから、男性は近くにある榛名山の噴火で火砕流に巻き込まれたとみています。当時、この地域では大きな争いがなかったと見られているため、専門家は男性が榛名山の噴火を鎮めるまつりをするためによろいをつけていたか、噴火から身を守るためによろいをつけていた可能性があると見て分析しています。
群馬県教育委員会などによりますと、榛名山では5世紀から6世紀のおよそ100年の間に、大きな噴火が3回起きたとみられるということです。
いずれも火砕流は最大で周辺15キロ余りまで広がり、火山灰は福島県にまで達したと推定されています。
当時、榛名山のふもとには地方豪族に率いられた集落が点在していて、その多くは火砕流などで壊滅的な被害を受けたとみられています。
いずれも火砕流は最大で周辺15キロ余りまで広がり、火山灰は福島県にまで達したと推定されています。
当時、榛名山のふもとには地方豪族に率いられた集落が点在していて、その多くは火砕流などで壊滅的な被害を受けたとみられています。
古墳時代に詳しい群馬大学の右島和夫講師は「これまで古墳の副葬品としてしか見つかっていなかったよろいが、人が身につけた状態で出土したというのは大きな発見だ。当時、よろいは権力の大きさを示すために使われていたが、榛名山の火山活動が活発化する中で、男性が山の神に立ち向かおうとよろいを身につけたとも考えられる」と話しています。
http://www.nhk.or.jp/lnews/shutoken/1004072701.html?t=
http://www.nhk.or.jp/lnews/shutoken/1004072701.html?t=
突然の火山爆破に「すわっ!!」と飛び出した勇敢な古代武人?そんなシーンが非常にリアルに感じられる「日本のポンペイ」でしょうか?日本初の発掘。
またよろいの意匠も、東国らしく鉄素材をふんだんに重ねたもので、どこの鉄を使ったか、そのデザインの同じものの分布は?などこれからが楽しみである。
またよろいの意匠も、東国らしく鉄素材をふんだんに重ねたもので、どこの鉄を使ったか、そのデザインの同じものの分布は?などこれからが楽しみである。
群馬県教育委員会画像
金井丸山(かないまるやま)古墳
渋川市金井字東裏1806番地1に所在した古墳で、金井東裏遺跡に近接する。1978年に渋川市教育委員会が調査を行ったが、墳丘の規模は不明である。埴輪は調査時には検出されていない。埋葬施設の主体部は、長軸長1.85メートルの竪穴状小石槨(たてあなじょうしょうせっかく)であり、調査報告書では箱式棺状と表現されている。副葬品は、剣3点、鑷子(ちょうし(毛抜き))1点を出土している。調査段階では、榛名山二ッ岳軽石の降下以前の築造であることが確認されているが、榛名山二ッ岳火山灰との関係は不明である。鉄剣の出土ともあわせ遺物の様相から、5世紀後半から6世紀初頭の築造と考えられる。
渋川市金井字東裏1806番地1に所在した古墳で、金井東裏遺跡に近接する。1978年に渋川市教育委員会が調査を行ったが、墳丘の規模は不明である。埴輪は調査時には検出されていない。埋葬施設の主体部は、長軸長1.85メートルの竪穴状小石槨(たてあなじょうしょうせっかく)であり、調査報告書では箱式棺状と表現されている。副葬品は、剣3点、鑷子(ちょうし(毛抜き))1点を出土している。調査段階では、榛名山二ッ岳軽石の降下以前の築造であることが確認されているが、榛名山二ッ岳火山灰との関係は不明である。鉄剣の出土ともあわせ遺物の様相から、5世紀後半から6世紀初頭の築造と考えられる。
榛名山二ツ岳火山灰(Hr-FA)
6世紀初頭(古墳時代後期)に噴火した、榛名山二ツ岳の火山灰。細粒の火山灰、火砕流堆積物、軽石などからなる15層のユニットが確認されている。金井東裏遺跡では、約30センチメートルの堆積が認められる。給源から東~南東の方向に火山灰を降下させ、東側は栃木県宇都宮市、南東側は埼玉県鴻巣市で確認され、それぞれ給源から約100キロメートルの距離にある。県指定史跡の中筋(なかすじ)遺跡は、この火山灰で埋没した集落遺跡である。
6世紀初頭(古墳時代後期)に噴火した、榛名山二ツ岳の火山灰。細粒の火山灰、火砕流堆積物、軽石などからなる15層のユニットが確認されている。金井東裏遺跡では、約30センチメートルの堆積が認められる。給源から東~南東の方向に火山灰を降下させ、東側は栃木県宇都宮市、南東側は埼玉県鴻巣市で確認され、それぞれ給源から約100キロメートルの距離にある。県指定史跡の中筋(なかすじ)遺跡は、この火山灰で埋没した集落遺跡である。
小札甲(こざねよろい)(挂甲(けいこう))
小札とよばれる小さな薄い長方形の鉄板を縦に用い、これにあけられた綴孔(とじあな)に革紐の綴革を通して、左右横一段に強固に綴合わせ、これを上下に威孔(おどしあな)に通した威革でブラインド状に屈伸する様に組みあげたもの。古墳出土のものに特徴的な胴丸式のものは、胸や腹部をおおう竪上(たてあげ)や長側(なががわ)とよばれるいわゆる胴と、腰をおおう草摺(くさずり)とを一体に組みあげたもので、前開きになっており、正面で左右に引き合わせて、それぞれについている革紐の引合緒(ひきあわせお)を結んで装着する様になっている。胴と草摺とは、ウエストの部分に用いられた長さが普通の小札の倍近くあり、その中央をウエストの線に合わせて内側にゆるく彎曲させた腰小札(こしこざね)の上下に威付(おどしつ)けているが、挂甲着用の埴輪ではこの部分に帯を結んでいる。
http://www.pref.gunma.jp/03/x4500038.html
小札とよばれる小さな薄い長方形の鉄板を縦に用い、これにあけられた綴孔(とじあな)に革紐の綴革を通して、左右横一段に強固に綴合わせ、これを上下に威孔(おどしあな)に通した威革でブラインド状に屈伸する様に組みあげたもの。古墳出土のものに特徴的な胴丸式のものは、胸や腹部をおおう竪上(たてあげ)や長側(なががわ)とよばれるいわゆる胴と、腰をおおう草摺(くさずり)とを一体に組みあげたもので、前開きになっており、正面で左右に引き合わせて、それぞれについている革紐の引合緒(ひきあわせお)を結んで装着する様になっている。胴と草摺とは、ウエストの部分に用いられた長さが普通の小札の倍近くあり、その中央をウエストの線に合わせて内側にゆるく彎曲させた腰小札(こしこざね)の上下に威付(おどしつ)けているが、挂甲着用の埴輪ではこの部分に帯を結んでいる。
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