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金銅威奈大村骨蔵器銘文の謎

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調査のきっかけとなったのはこの記事
記紀いっぱつさんの「のんびりと古代史」の「「蘇我氏と息長氏」:閑話休題




金銅威奈大村骨蔵器

イメージ 1


江戸時代の明和年間に現在の奈良県香芝町出土で農民によって偶然発見されたもので、甕を伏せた下からこの骨蔵器が出土したと伝える。球形の容器で、蓋と身が半球形に分かれる特殊な形である。

よく似たものに佐賀県出土と伝えられる無銘のものがある。

威奈大村骨蔵器は蓋裏に1行10字詰め39行319字におよぶ銘が刻まれている。これには、威奈真人大村(いなの・まひとの・おおむら)が宣化天皇の子孫にあたり、持統朝に任官、文武朝に少納言、大宝令制定とともに従五位すなわち貴族に列せられ、慶雲2年(705)に越後守に任ぜられるが、同4年に任地で歿したこと、そして故郷の大和の葛城下郡山君里、今の香芝市穴虫の地に葬ったことが記されている。大阪市の四天王寺が現在保管している。
国宝。高24.2cm 飛鳥時代(707)
国宝だが発見が江戸時代で伝世遺物ゆえに一級考古資料とは言いにくい。
問題は発見場所が墓だったかどうかである。埋めようと思えば、あとからいくらでも造作して埋められる。まして骨臓器の科学的年代鑑定ができるかどうか?
例えば古墳には被葬者とは時代が違う須恵器があとから埋められるものだが、周辺遺物からでは古墳年代の決定は無理である。
墓場かどうかわからないところから出た遺物として有名すぎるのが志賀島金印である。イナ真人氏が飛鳥時代、本当に奈良や摂津に存在した氏族かは以下に分析する。



大村骨臓器銘文(部分)
卿諱大村。 檜前五百野宮
御宇 天皇之四世。 後岡
本聖朝、紫冠 威奈鏡公之
第三子也。卿温良在性。恭
倹為懐。簡而廉隅。柔而成
立。後清原聖朝、初授務廣
肆。藤原聖朝小納言闕。於
是、高門貴兜、各望備員。
天皇特擢卿、除小納言。授
勤廣肆。・・・・(中略)
以、慶雲四年歳在丁未
四月廿四日。寝疾終、於越
城。時年卌六。粤以其年冬
十一月、乙未朔廿一日乙
卯。帰葬。於大倭国葛木下
郡山君里狛井山崗。・・・

訳文
卿、諱は大村。檜前の五百野宮に宣化天皇の四世後岡本宮の斉明天皇の紫冠、
威奈鏡公の第三子也。
卿、温良性に在り。恭倹懐と為す。 
簡にして廉隅。柔にして成立す。
後の清原の持統天皇、初めて務広肆を授く。
藤原の文武天皇、小納言闕けたり。
是に於いて高門の貴兜、各員に備わらんことを望む。
天皇特に卿を擢んでて、小納言に除し、勤広肆を授く。
・・・・(中略)
慶雲四歳(707年)は丁未に在る四月廿四日を以ちて、疾に寝し、越城に終わる。
時に年四十六。
ここに其の年冬十一月、乙未朔の廿一日乙卯を以ちて、大倭国葛木下郡山君里狛井山崗に帰葬す。(後略)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage422.htm


骨臓器の拡大画像も同じく上記URLで見られる。


銘文訓読の区切りをどうするか?
五百野宮に宣化天皇の四世後。
岡本宮の斉明天皇の紫冠
と読むか
五百野宮に宣化天皇の四世後であった岡本宮の斉明天皇の紫冠
と続けて読むかで解釈が変わる。

四世とは初代から数えて四代目である。すると記紀では斉明女帝は宣化大王の四世孫ないしは五世孫となるので、この文は大村の父鏡王のことか斉明のことが決めがたくなる気もする。


イメージ 2




威奈真人大村とは?
「  ? - 707年(慶雲4)4月24日  宣化天皇の皇子の火焔皇子を祖とする為奈(猪名)真人氏の出身。四天王寺所蔵の骨蔵器に大村の墓誌銘が刻まれている。それによると大村は宣化天皇の四世(三世孫)で、斉明天皇の代に紫冠を授けられた鏡公の第3子である。持統天皇の代の初めに務広肆の位を授けられ、文武天皇の代に少納言に任ぜられ、勤広肆に昇った。701年(大宝元)に従五位下に叙せられ、侍従を兼ねた。704年正月に従五位上に叙せられ、705年(慶雲2)左少弁、同年11月に越後城司に任ぜられた。707年2月に正五位下に叙せられたが、同年4月に越後で死んだ。時に年46であった。この年の11月に大倭国葛木下郡山君里狛井山岡に葬られた。また「続日本紀」には、703年10月、持統天皇の葬儀にさいして御葬副官に任ぜられ、706年閏正月に越後守に任ぜられたことがみえる。」執筆者: 長山泰孝http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E5%A8%81%E5%A5%88%E7%9C%9F%E4%BA%BA%E5%A4%A7%E6%9D%91



「いな」(地名)
語源は稲(大阪府箕面市に稲があり「いな」と読ませる。ここが摂津伊那郡震源地)
猪名(郡)、飛鳥時代に現在の吹田市・箕面市から尼崎市までの北摂地方に置かれた県(アガタ)の一つ。
ほかに伊奈表記では埼玉県北足立郡伊奈町、茨城県筑波郡伊奈町(現・つくばみらい市)、愛知県宝飯郡伊奈村(現・豊川市伊奈町)があるが、茨城と埼玉は中世氏族伊奈氏由来。
伊那表記では長野県伊那市。
東京都あきる野市に伊奈。
千葉県、茨城県、福島県に稲。


いなのまひと氏(氏族名)
為奈、猪名、威名などと表記される氏族。
『新撰姓氏録』右京, 皇別, 為名真人, 真人, 宣化天皇皇子火焔王之後也, 日本紀合,

系図
継体大王・・・宣化大王・・・火焔王・・・阿保王・・・鏡王(韋那公高見)・・威名真人大村
宣化大王の四世孫=やしゃご
兄弟=額田王(ぬかたのおおきみ)
叔母=鏡王女(かがみのおうきみのむすめ)
いとこ=藤原不比等

真人姓は記紀整合の立場では継体からとされるが、正しくは天武の諱号が「ぬなはらおきのまひと」であるし、道教に詳しかった天武からのものと考えられる。(ただし、これもまた造作かも知れない。天皇称号とアマテラス信仰と聖徳太子は持統女帝を遡らない、が筆者の持論である。)

また記紀の継体~欽明までの系譜は、息長系譜天皇(天智・天武など)の正当化のためと考えられ、実在性に?がつく。九州王朝論では継体は九州の王だったことになっており、大和では摂津に拠点を置いた近江息長氏と越前三尾氏の子孫となっている。

私論では継体=筑紫君磐井であるので、実在はしたけれど墓である今城塚は岩戸山の拡大コピーである。つまり福井や近江とはあまり関係はなく、九州の筑後から系譜を近畿近隣に動かした人物と思える。


ところが骨臓器は現物であり、銘文は金石文であるので、動かせない証拠品でも或る。大村の銘文入り骨臓器が奈良県で出た。しかしなぜ摂津の箕面の氏族のものが奈良から出るのか?それは大和から言わせれば朝廷に仕官していたから当然となるだろう。しかしそれならばなぜ継体の墓は摂津にあり、鎌足の墓も縁もない摂津にあるのかではなかろうか?墓なら故郷にあってもおかしくはない。高野新笠の墓は父方の京都にちゃんと作られている。


考えられることは二つ。
九州の磐井=王朝=継体。記紀の継体王朝は、実際には九州筑後王家が日本海で出雲や丹後や越前と通じて近畿王家を一時的に乗っ取ったもので、それを不比等が息長系天皇の正統のために「おおどおう」に改変して、ふたりに分け、互いに戦って息長形が勝ち、かえす刀で、ついでに蘇我系の非正当性のために聖徳太子を造作し、守屋神霊=饒速日命=物部旧態先住氏族をも鬼として、実は上宮王家を追い詰めた中臣氏の過去を抹消。結果的に飛鳥以前のすべての王家から息長王家は万世一系でつながったものとしておくためのねつ造という構図である。


それにしても、古墳や遺物、墓誌までもねつ造するかいな?はネックですなあ。


不比等って前代未聞の策士だった・・・というのもまだちょっと言い切れないところはある。今後の探求宿題である。








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