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ユール・ミトラ・サトゥルナリアの関連性と太陽神・月神・災害神の三位一体

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ユール・ミトラ・サトゥリアヌスの関連性

北欧の冬至祭の始まりはミトラ教(ゾロアスター)の太陽神ミトラ信仰を起源とする。冬の長い北欧では太陽は憧憬すべき最大の対象物となり、太陽=光=炎=生命力の根源=大地母であった。太陽神には山羊などの生贄をささげ、災害神として、あるいは生命の再生への願望を聞き届け、さらには天体としての太陽の永久をも願い、ひいては太陽を生んだ根源である宇宙観念そのものへの畏怖へと発展していったと思われる。

フン族の侵入によって民族大移動が起こると、北欧の民人たちはみな南欧や西欧を目指して移動してゆき、そうした古い信仰をプロヴァンスなどの地中海沿岸地域へ浸透させていくとともに、血脈の混合が起こった。このときにローマではもともとキリスト教を取り込む前から存在した、やはり古い民族信仰の神々といわば「神仏混交」的融合を認めざるを得ず、信仰のいわば混乱が引き起こった。これを国家としてローマはひとつにする必要に迫まられたであろう。そこでかつて自らが処刑したイエスが、ローマ民衆の心をつかんでいたのを逆転の思想で持ち上げようとする。宗教統一=国家統一が古代社会のはじまりである。キリスト教もミトラ教や、それ以前の農業神サトゥリニウス(時の神クロノス)を祭ってきた冬至祭サトゥルナリアをキリスト教へと置き換える作業の中で、ミトラ太陽神はイエスの母マリアへ、サトゥリニウスや牧神パンのような山羊や羊の形をした農業神はデビルへとすり替える。


民族学伝承ひろいあげ辞典わが子を食らうサトゥリヌス参照されたし

サトゥルナリア


「キリスト教のライバルだったミトラ教は、ゾロアスター教発祥で、太陽神ミトラを崇拝しており、このミトラ神が再生する日が冬至(その当時は12月25日)であった。キリスト教は、旧約聖書の「マラキ書」の「義の太陽」にイエスをなぞらえ、ミトラ教同様に、12月25日を祝うようになった。325年のニカイア公会議で、キリスト教会は、12月25日をイエスの誕生日に正式決定する。キリスト教とミトラ教の融合、そして、冬至祭の伝統を持つケルト民族やゲルマン民族を統合する狙いがあったと言われる[21]。また、真冬の時期で、えさの少ない小鳥のために、ユール・ネックと呼ばれる、の穂束を立てるならわしもある[12]


サートゥルヌスの像

ユール・ログ、ユール・ゴート、ユール・シンギング(家々や果樹園を訪ねてキャロルを歌うこと)その他のユールに関する系統のものは、キリスト教以前からの祭りで、はっきりした日付は分からないが、13世紀の時点では、11月14日から12月13日の間であったといわれる。その後、年末の時期となったが、ユールの時期を、いつかであるか特定するのは難しい。神々に供物をする時期は、他に参考となるものが見つからず、真冬の祭りに一体化させるというのが、一番信頼性があると思われる[26]。また、初期のゲルマン人の天文学の知識は大雑把なものだったともいわれている[27]

ユールは、古代ローマの冬至祭であるサトゥルナリアに起源があるともいわれる[28]。この祭りは元々、ローマ神話農業の神サートゥルヌスギリシャ神話クロノス)を祝うもので、12月17日に行われてのが、1世紀ごろに12月23日に行われるようになった。この日は完全な安息日で、には偽王(モック・キング)[注釈 4]が登場した。古代ローマにはカレンズ英語版という年明けの祭もあり、これもサトゥルナリアと同じやり方で行われた[30]。」
以上Wiki ユールより


イメージ 1


こうしてクロノスはわが子を食べてしまう悪神とされ、悪魔とされながら、民衆のガス抜きとしての正反対観念、悪魔=堕天使(だてんし)ガブリエル=ルキフェル 、イエス=ユダヤの敵、マリア信仰=大地母神といった、裏表観念を容認するダブル・スタンダードな観念が生まれたのである。この大陸的な逃げ道は、現代の政治にもその多くが残存し、二枚舌外交のはじまりがそこにあったと見ることが可能である。そして民主主義の根幹でもある二大政党による政治交替によって治安を維持しようとする形も、まったくこの踏襲から生まれた手法と考え得るのである。


サトゥリヌスのStwuからサタンSatanの名称も考え出されたのだろう。その実態が斎の神であるのは時間=永遠。つまりそもそもは災害神のもう一つの性格である宇宙神、生命の誕生の根源・摂理としてのクロノスである。それがキリスト教徒の手に掛かると今度はわが子を食らう奇神として描かれた。つまり異端の鬼神である。わが子を食らうとはそもそも生贄を捧げて災害や一族の永遠を願う対象だったのであり、ミトラ教等の古い原始信仰においては悪鬼どころか善神だったのである。ところが宇宙神が災害神でもある以上、神には常に世界中で善神と悪神の二律背反はつきまとっていた。そこを利用するのである。

神が老人や童子の姿であることはそういう意味で当然である。神とはそういう表裏が一体化した観念として最初から始まるのである。なぜなら、自然がまさにそういうものだったからにほかならない。

これでわかることは、日本のアマテラス・ツクヨミ・スサノヲの三神もまた当然、自然現象やそれを引き起こす宇宙の摂理の表裏を三つに分けたものであり、根本ではひとつであることだろう。太陽・月・地球。そしてツクヨミ=スサノヲとなるだろう。月は地球の恒星であって二つで一つなのだから。


神も大地も海も、おしなべてあるときは限りない慈悲と恵みを与え賜うが、時には限りなくすべてを奪い去る。神と悪魔は常にひとつの摂理である。時に迷惑、時に有難い。ゆえにこそ人も、政治も、宗教もみな、この地球の生み出したものは両面性を持った両性具備の不完全なものにできあがったのであろう。


完璧は永遠に起こりえない。
二律背反と三位一体とガス抜きによってかつがつ世界は動いている。ひとつになれるはずもない世界にわれわれは生まれてくる。滅ぼすか圧迫するかなだめあうしかない。かくして平和は永遠の観念の中の願い事になった。当然である。


実現不可能。






ちなみにYULEのつづりは北欧でJULE。
フランスの小説家ジュール・ヴェルヌ つづりはJulesであるので、もしかするとユールを信仰した北欧人の血が混じった家柄の名前なのかも知れない。

日本にはなぜか夏至だ夏至だと神社信仰を考えたがる人がいるようだが、農業にとって夏至よりも冬至であったことは再認識していただきたいものである。太陽への希求という面で、それが消えてしまう冬と、猛暑が災害ばかりもたらす夏のどっちが太陽神への憧れが強いかという単純なことである。



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