古墳時代という現在使われている日本古代史の時代区分では、その開始時期と終焉時期には、地方によってどうしてもタイムラグと地域の学者によっての考え方の違いが出てきてしまう。
前者は日本列島の地形が細長いために、どの論理で考えても地域差が生まれてもしょうがない。しかし、古墳の始まり、終わりを大和中心で考える現在の教科書的区分は明らかに対象を前方後円墳と言う形式に絞り込んでしまった片手落ちの論理でしかない。
形ではなく、その対象物である墓の背後にある時代背景、それが生み出した日本人のイデオロギーの相違で筆者は区分しようとするものである。
それは古墳時代という区分名そのものの否定でもあり、さらに縄文時代、弥生時代という土器中心の時代区分にも大きな提言となるだろう。
まず古墳時代の開始と終焉を先に規定してしまおう。そうすると背景にあるべきイデオロギーの本質が見えてくることになり、引いては現在の古代の区分が大きく変化することになるのである。それは形ではなく、その時代の人間の志向そのものを区分する結果を導くことになるのである。
●古墳時代の開始時期はフェアな立場から見るとこうなっていると考える。
A九州・・・北部九州2世紀中盤、平原墳丘墓の巨大化
B吉備・・・吉備2世紀中、盾築墳丘墓の巨大化
C大和・・・纏向3世紀中盤 、纏向プレ前方後円墳型墳丘墓の出現
しかし、全国教科書ではCのみが採用され、近畿中心の考え方が主流とされてしまっており、地方がまったく無視されている。この状況は奇妙でいびつである。なぜなら、それ以前まで、あらゆる大陸からの新文化が最初に入ったのは北部九州からだと認められていながら、古墳時代に入るといきなり説が逆転して、途中の吉備すら無視して纏向から始まったと決め付けられているからである。このようなアンフェアな、時代感覚無視の区分は、学ぶ側の人間を低く見た、押し付け論理でしかあるまい。
古墳時代は前方後円墳から始まらない。
それ以前の墳丘墓の大型化によって開始された。
その流れは九州も吉備もほとんど同時期で大和だけが100年近く遅れるのである。
それまでは三地域ともに方形周溝墓、円形周溝墓であり、それが大型化するのである。出雲型の四隅突出型墳丘墓はそのバリエーションのひとつと捉えられる。
最初は「平原古墳」からである。次にほぼ同時期に「盾築古墳」が築かれ、最後に「纏向型プレ前方後円墳」が3世紀中頃になって登場し、完全型の箸墓は後半まで遅れる。纏向だけが前方後円型を選んだのは、大和が地方出身豪族の寄り合い所帯で始まるからである。
これらすべてに共通するのが「大型化」願望である。それを別の言葉で置き換えれば松木武彦が言うヘテラルキーからヒエラルキーへのイデオロギー大転換に合致することになる。
外国ではピラミッドやマチュピチュ神殿のように、多くはそれが高さ(天上界に近いところに近づく志向性=欧州中世のゴチック建築も)で表現される時代が起きているけれど、日本では、当初こそ高山中腹や台地の腹部を切り開いて始まるのだが、次には高さよりもむしろ底辺の広さに転換して、平地で展開され始めた。そして5世紀までに古市のような、超巨大なものへと変化したわけである。仁徳天皇陵大仙古墳の底部の広さはピラミッドをはるかにしのいでいる。
このように、古墳時代を規定するならばその開始は2世紀中盤にあてるべきである。そしてその時代こそが、魏志が描いた倭国の乱の直後なのである。この歴史的大事件が軽んじられてはいまいか?倭国の乱は、東アジア諸国が知っていたグローバルな世界史の一部であり、ひとり日本国内の小事ではなかったのだ。当然、ここに日本史の時代区分が置かれてしかるべきであるのは、あとの鎌倉、室町、戦国、江戸、明治時代のすべてが大戦争によって転換することにまったく矛盾しないのだから。戦争はその時代を二分する大事件、イベントであり、だからこそそれらはいくさによって区分された。にも関わらず、「古代だけをいくさで区分していない」現行時代区分は非常に一貫性に欠けた不完全なものだと筆者は考える。
すると本来のあるべき区分は、倭国の乱における日本を二分した天下分け目の大戦争ではっきりと二分され、異論をはさむ余地がなくなる。そしてその前と後とでまったく倭人が変わった証拠品としての古墳が登場するという理解に行き着ける。ここに矛盾は存在しないはずだ。
墳墓を大きくしたがったのは、どういう心理の変化かが問題になるのである。これは日本人全体の歴史的転換を指し示すのであり、明らかな時代変化だ。
では、その「大きく立派にしたくなった」理由はなんなのかであろう。もちろん三国時代の中華大戦争が決着したための結果でそうなったのである。それは別の用語で言えば先に書いた「ヘテラルキー社会からヒエラルキー社会」への大転換のきっかけになったのである。ヒエラルキーとは現代社会まで存続する権威主義的な集団形成、政治形態だと言える。歴史用語では中央集権国家への道のはじまりである。
いわゆる弥生時代後期終盤の2世紀に、九州・吉備・出雲日本海、近畿などで墳墓が一斉に大型化した。その直前までほぼ一線の周溝墓で統一的、ヘテラルキー型だった墓が、格差を生じはじめ、同時に、地方と大和に軋轢や反駁、集散離合が起きる。その中で纏向型墳墓だけが生き残り、あとの時代にその形状が引き継がれた。
ところが5世紀後半を過ぎ6世紀前後になるとなぜか九州型の横穴式、横口式石室や石棺、さらに阿蘇凝灰岩製の石を使った家型石棺が登場し、それまでの大和的だった竪穴式石室、割竹型木棺にとってかわり、東へ一気に伝播。あっという間に東北まで拡大した。
河内・泉州の古墳でも、それまでの長持ち型で二上山石を使った石棺と、阿蘇の石棺が一緒に葬られる。最古の例は大阪藤井寺の唐櫃山(からとやま)古墳・長持山(ながもちやま)古墳などである。あきらかに大王(允恭?)の陪塚であるこれらの墳墓が、九州の阿蘇石を欲して造られたことになる。
ほぼ同時に九州式の大量威信財の埋蔵も始まって、祭礼(吉備)・土器(東海)以外の目に見える墳丘墓遺物、建造物形式が一切合財、九州型へ切り替わることになった。しかしそれらはすべて墓の内部にあって、生きているなまの民衆には見えないものばかりで目立たない。しかし間違いなく、大和は北部九州の実力者を、「吉備を仲介者として」=近畿では国司として派遣するための吉備への支配が起きた=招かねばならなくなったのだ。その理由は半島の争乱にあった。半島の、武力による制圧・安定の必要性=百済・高句麗干渉と新興新羅牽制の必要性=が生じたのだ。
さて墳墓形式の伝播の速さは日本のヘソの位置にあった近畿地方を経由したからである。近畿がその頃には情報の集散地つまり問屋になっていたことは間違いない。これが中央集権への大きな布石であるならば、倭国の乱で近畿大和が少なくとも6世紀までには実権を手にしたことは否定できない。しかしそれは九州型の墳墓形式を合体した結果生み出された和合だったこともまた否定できまい。そして使用された土器・埴輪には吉備や東海のものがあったことも重要で、3世紀には、争乱の上の結果としての地域の和合が起きたことも間違いない。
このように、古墳時代を再編成しなおすと、その中心にあったのが東アジア諸外国を意識した見栄えや権威主義にあることは丸見えになる。大事なのは大きさと広さと美しさ、海から見える小高い場所などのヒエラルキー要素だ。これがそれ以前と以後を大きく区分けする最重要の要素なのだ。そして同時に、ヒエラルキー社会への変貌以前のすべてはヘテラルキー(平等主義的、アンチピラミッド型の)社会だったことが見えてくる。
つまり縄文も弥生前半も、大差のない世界である。
鉄器や稲作で縄文と弥生は別けられてきた。しかしそのわけ目はいまやあいまいで、時代が徐々にスライスしながら変化していったことは間違いない。昔の年表のような、いきなりすぱっと切り替わるような図表にはならない。当然である。日本は細長く、伝播にタイムラグがあるからだ。へたをすると縄文後期~晩期~弥生初期に、遺物や文化では区分けがきかないものが混じっている。しかしイデオロギーで考えると古墳時代からは明らかにイデアが違う。したがって先史時代の区分は、弥生中期までのヘテラルキー時代とその後のヒエラルキー黎明期にはっきりとわかつことができるのである。
もうひとつ気になっている区分がある。
一万年以上も続いた縄文時代には、なぜ区分がなく、草創期~前期~中期~後期~晩期という名前での小区分しかないのか?実際に土器に当たれば、すべてが縄文だったのではないのに?なぜ擦紋時代とか火焔土器時代がないのか?世界史ではここを新石器時代として、それ以前の旧石器時代と区分される。なぜ日本史だけが土器形式で区分けしたのか?それは日本の考古学の有り様の歴史でもある。つまりは近畿考古学がほかを押し込んできた学閥世界の流れが、土器編年こそが唯一の時代区分のノウハウであると勘違いしてきたからではなかったか?炭素年代法以来の新たな手法を、取り入れたくない・・・保守的でアンチラジカルな考え方がこの国の歴史観をがんじがらめに縛り付けていたせいではないのか?という疑念でである。
次回、古墳時代終焉期の規定と群集墳・横穴墓の意味を具体的に。森浩一氏の文献から当たる。