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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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イチ、イタコ、イチ子、大市の箸墓そして卑弥呼

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柳田國男は『巫女考』の「ミコという語」の中で、

「東京人はこのミコに対して口寄せのミコをばイチといっている。しかるに地方によっては反対に神社に従属する巫女をイチまたはイチコという処がある。京阪地方も古くからそうであるらしい。常陸では相当の神社に大市・小市と名づけて祭事に与る(あづかる=関与する)者がある」

高知県出身の民俗学の筒井功は、高知の例証をとりあげて、やはり土佐各地にイチの記録があると書いている(『殺牛・殺馬の民俗学 いけにえと被差別』河出書房新社 2015)。

京都に惣市(土佐では惣ノ佾)、園市という湯たてをする職人がいたと柳田は書く。また滋賀県愛知(えち)郡・神崎郡には神楽を舞う者をイチとしたとも書く。長崎県の五島列島福江ではイツドン、壱岐ではイチジョウ(市女か?)というとある(『分類祭祀習俗語彙』)。
これらはすべてシャーマンのような霊能者であると筒井はしている。

惣という言葉は「惣領」などに使うが語義は1 忙しい 2 すべて である。
中学の友人に惣川(そうがわ)君がいたが秀才で東大へ行った。地名では惣村(そうそん)といえば中世の組織地名で、結や輪中のようなものだったろうか。これらは概して部落だった可能性は高い。

さて大市は例の箸墓の地名である。「やまとととひももそひめ」倭迹迹日百襲姫命を「大市に葬った」と『日本書紀』は明記する。以来、そこを大市と呼ぶようになったようだ。この市も、この姫がシャーマンだったからついた名であろう。ちなみに箸墓は、土師氏の造った?あるいは墳頂に柱=箸を建てたからだ?などと言われる。だいたい「ももそ」なんて名前は百の熊襲みたいであまりよい雰囲気がしない名前である。「襲」をつけられたのは熊襲意外では、敗北王家の葛城襲津彦とこの女神だけだ。これが卑弥呼ならば狗奴国に負けた巫女になってしまうわけである。

するとその柱とは御柱や九州の平原の一本柱のようなものだったかと気になってくる。

雨乞いで有名な皇極天皇と蘇我入鹿の雨乞い祭祀で、入鹿では小雨しか降らないのでついに皇極は八月一日に明日香村の南淵の河上に行幸され、ひざまづいて四方を拝んだとある。その南淵とは今の飛鳥川の稲淵(通称八幡ダブ)、あるいは飛鳥川上坐宇須多祈比売(あすかのかわかみにます・うすたきひめ)神社がある近くの小字名「ウスタケ」の淵かと筒井は言う。

いずれも岸壁が水によってうがたれ、湾のようにへこんだ壷地形である。雨乞いにはだいたい滝か壷が選ばれ、牛馬の首がいけにえとして投げ込まれた。それでのちにそのすべてを禁止する令が出ている。しかし巫女である女帝は馬をささげたようである。


イメージ 1
ハチマンダブ



「いっぽう、現在の飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社は、明治より以前は「宇佐八幡神社」と呼ばれていた。現在でも当社の社殿内は、中央に祀られる主神の宇須多伎比売命の両側にそれぞれ神功皇后(左)と応神天皇(右)が配祀してあるそうだが、この明治以前の宇佐八幡神社で祀られていたものだろう。

 『高市郡神社誌』によれば、当社には天文二十二年(1553)の湯窯が社蔵されており、そこに「宇佐八幡宮」の銘があったというから、この神社が八幡宮として信仰を受けていた時期は遅くとも中世後期に遡ることになる。では、それ以前の現・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社がはたして式内・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社であったかどうかだが、実はこれは不明というほかない。というのも当社をこの式内社に比定したのは、『大和志』『神社覈録』『特選神名牒』等だが、『日本の神々』の大矢良哲氏も述べているように、何か確実な根拠があってそうされた訳ではないからだ。ただ、飛鳥川の上流域に鎮座し、山を拝する原始的な信仰形態を残しつつ、いかにも古社らしい風致をたたえ、足許を流れる稲淵川の岩盤には社名の由来とおぼしき滝もみられる等の漠然とした状況証拠から言い出されたことで、他に有力な論社もないなかでこれまでとくだんの異議が出されなかったにすぎない。


  今、言った当社ふきんにある滝について説明しておく。前述のとおり、式内・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社は貞観十六年(874)の太政官符には、「臼瀧」と表記されているが、現・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社の石段の登り口から道路を渡り、下を流れる飛鳥川をのぞき込むと、岩盤が臼のような形に抉られてできた滝がある。この場所は「ハチマンダブ」と呼ばれるが、社名になっている祭神の「宇須多伎比売命(うすたきひめのみこと)=臼滝ヒメ」はこの滝を神格化したものではないかと言われる。 」




このようにイチが巫女であるならば箸墓の大市地名も被葬者が巫女だったからということですっきりする。ただ、その巫女が「大」をつけられるほどの偉大なイチだったということも大事であろう。

朝、座頭市を見ながら、ははあ、さしずめあんまも往古はイチ的な呪者から始まったんだろうなと妙に納得したのであった。なにせ鍼灸も医術だったのだから。床屋もイチかな?



近世には彼らはエタに分類されてしまったわけだが。卑弥呼もそういう勝敗によって差別されたシャーマンだったわけだ。















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