ワニ族の殺牛生贄
牽牛本義
「十月末に従江県(従江県(じゅうこう-けん)は中華人民共和国貴州省黔東南ミャオ族トン族自治州に位置する県。)加鳩(かきゅう)で三〇〇頭のウシを殺して祭りは終了したということで・・・剣河県川柳区久仰郷基祐村へ・・・やがて牽牛はワラをウシの鼻に通し、そのワラを杉の棒にくくりつけてウシを制御し、ころあいをみてウシの首をずいと上げる。すかさず牛殺人がウシの頸部めがけ大刀をふりおろす。男衆がかけ寄り二本の丸太でウシをおさえつける。同時に、別の者がほとばしる鮮血を油紙を張った(ママ。貼った)大笊(おおざる)で受ける。ウシを殺す人は、養牛人の母方のオジ(伯父・叔父)である」
「十月末に従江県(従江県(じゅうこう-けん)は中華人民共和国貴州省黔東南ミャオ族トン族自治州に位置する県。)加鳩(かきゅう)で三〇〇頭のウシを殺して祭りは終了したということで・・・剣河県川柳区久仰郷基祐村へ・・・やがて牽牛はワラをウシの鼻に通し、そのワラを杉の棒にくくりつけてウシを制御し、ころあいをみてウシの首をずいと上げる。すかさず牛殺人がウシの頸部めがけ大刀をふりおろす。男衆がかけ寄り二本の丸太でウシをおさえつける。同時に、別の者がほとばしる鮮血を油紙を張った(ママ。貼った)大笊(おおざる)で受ける。ウシを殺す人は、養牛人の母方のオジ(伯父・叔父)である」
萩原秀三郎『稲を伝えた民族 苗族と江南の民族文化』「第五章 鼓社節を現地にみる」雄山閣 1989
より
参考殺牛生贄の祭
旧暦の七夕が近くなった。牽牛にまつわるいくつかを書いておこう。
七夕の主役・牽牛と織姫は、織姫が機織巫女であろうことは人口に膾炙されてきたが、さて、では牽牛とは何かとなると、天帝の牛飼いであろうとしか言われてなく、ではなにゆえに機織の姫と牛飼が遠隔地恋愛をするに至るか、またその意味は何かについては、単なる悲恋としか解釈されずにいるようで物足りない。
牛は本来生贄のための飼育を受けていた時期が世界各地にある。地域によってはあるいは牛でなく羊や鹿であったこともあるが、それは地域特性であって、どれもが犠牲祭祀のためのニエであったことに代わりはない。つまり牽牛とは萩原の文章中に出てくる養牛人でもあろう。それが江南のミャオ族では、十月あたりの祭祀に当たり、牛を何百頭も持ってきて殺していたというのである。
だから牽牛は神の生贄の放牧人だということになろう。もちろん生贄だけのために牛が飼われたわけではなく、普段は役牛として、あるいは食用としても飼っていたのだろう。それは日本の大阪の猪飼野などにいた朝鮮系民族も同じだろう。だから大阪のあの当たりでは今も食肉、とさつ業は多い。
さて、ミャオが大量に殺すウシは水牛であったそうだ。そしてこの祭祀はあくまでも祖霊を祭るもので、特に雨乞い祭祀だったのではない、と萩原は言っている。しかし半面で、ミャオの他の地域ではアヒルをやはり鼻にワラを通して神樹の下で殺し、それを龍として「祭竜」の祭りだともしており、祖霊祭と竜神に水を乞う祭祀が渾然一体でもあるかと匂わせている。もちろん雨乞いだけではなく、災害神すべてがそうした祭祀の対象となるはずである。大風、台風、雷、大地震、なだれ、地崩れ・・・それらすべてを「祖霊を通じて」神へ、鎮まるように祈ったのだろう。
つまり殺牛祭祀とは雨乞い・雨止みに関する災害神をなぐさめる(なだめる)ためのニエ=神饌を奉る祭りであったことになる。なぜそこに機織女が関係してくるのか?
「おそらく元来は牽牛が男の仕事である農耕を,織女が女の仕事である養蚕紡織を象徴し,神話的宇宙観の中で二元構造をなす一対の神格であったものが,星座にも反映されたものであろう」コトバンク牽牛・織女https://kotobank.jp/word/%E7%89%BD%E7%89%9B%EF%BD%A5%E7%B9%94%E5%A5%B3-1163612
これが一般的解釈で特に異をはさむ余地もない。それはそれでいい。陰陽五行の中国でそれが一対の大地神=夫婦神になって不思議はない。しかし気になるのは織女の日本神話での扱いの非常に理不尽さである。
スサノヲ神話では機織女はおおひるめむちの機織りで、生皮をはがされたアメノ斑駒(ぶちのある馬。斑についてはこのブログの斑まだら検索)を放り込まれて動転し、女陰を杼でついて死んだし、大三輪伝説でも蛇と化した大物主の姿を見てこれまた驚きほとを杼で突き死んでいる。どうやら織女もまたなにやら生贄に関与したものであった気配がある。というよりも織女は牛以前には生贄そのものだったと思われるのである。ならば天帝の怒りを買って引き離されたくらいならまだハッピーエンドなことになるのである。
一方日本の奈良時代以降には、神社には馬を幾度かささげていた記事が見られる。それは現在、神馬として名残が見られるが、どうやら当初はこの馬も生贄であったようだ。神馬を猿が引くという伝承がかなり見られる。
神馬を引く猿の像 上・新潟県上越市府中八幡宮、下・神奈川県高座郡寒川町寒川神社
ミャオたちは祭りの後、殺した水牛の頭部を神にささげると、残った胴体は家族・親戚でわけて食べてしまったそうである。日本で、牛をささげた地域では牛を、馬をささげた地域では馬を、食す習慣はないことになっているが、実際にはいけにえを処理する神人たちは、それを食べていたのであろう。そうしなければ肉が腐って環境破壊と疫病を引き起こすはずである。
こうしてみてくると七夕行事とは要するに災害の起こらぬように祈るところに本義があったということになると思う。
フレイザーの『金枝篇』には同様の、世界各地の動物供儀の例証がまとめられている。
●ティモール族 雨乞いに黒豚
●ニューカレドニア 骸骨を雨乞いに水に浸し、雨止みには火で燃やす
●カンボジア 精霊が剣にやどりこれをヤンと呼び、これに水牛・豚・鶏・鴨などを捧げる
●インド ガーロ人(モンゴロイド系少数民) 旱魃に黒い牛、ダルド族 牛皮など不浄な異物が泉に落ちると嵐が起こると迷信
●ティモール族 雨乞いに黒豚
●ニューカレドニア 骸骨を雨乞いに水に浸し、雨止みには火で燃やす
●カンボジア 精霊が剣にやどりこれをヤンと呼び、これに水牛・豚・鶏・鴨などを捧げる
●インド ガーロ人(モンゴロイド系少数民) 旱魃に黒い牛、ダルド族 牛皮など不浄な異物が泉に落ちると嵐が起こると迷信
石田栄一郎『河童駒引考』「洪水の供儀」には面白いことが書かれている。
パンジャブ地方ではオス牛か馬、あるいは雄羊の耳に穴をあけて生贄にするらしい。これなど諏訪の耳裂鹿とそっくりである。
またペルシアでも蛮人たちは神聖な雄牛を犠牲にささげたとプルタールコスが記録している。
アフリカのサンも飢饉になると雄牛を連れ出し、葉たまねぎが生える土地を引き回し歩かせるが、それはたまねぎが水であり、引き出してきた牛を呪医=シャーマンが途中で殺し、雨が降るように切り開くという(石田)。
『漢書』にも河北省北部の金堤で、白馬を沈めて水神河伯に祈ったとある。
美女を捧げた話では日本の松浦佐用姫が有名である。
『金枝篇』は似たような話をギニアやアラブでも採集しており、生贄、雨乞いのリンクは世界中で見られる。朝鮮ではアメノヒボコやツヌガアラシトが黄牛(あめうし)をつれた農夫をひきとめ疑って赤い玉とか白い石を得る話がある。「あめうし」はいけにえの牛である。黄色いのは陰陽五行の色である。黒である水気=竜神に対して黄である土気はこれを剋すからである。
こうした動物供儀の古さを今に如実に知るには、アフリカのブッシュマンの壁画にある「雨の雄牛」が最適であろうと石田はその壁画を引用している。
ほかに欧州壁画でもこのように「背後から槍を打ち込まれた=生贄」のバッファローが描かれている。
結果的にそうした生贄儀式をやっていた土地には地名として牛鬼、牛転、牛落、などが残ったと筒井功は書いている(『殺牛・殺馬の民俗学』)。筆者は牛窓、牛斬地名もそうであることを知っている。
結局、牽牛とはあらゆる世界で差別された動物飼育民を代表する存在であろう。しかし、中世以後、彼らは聖なるものから悪魔、牛鬼などと烙印を押されていった。その悲哀が七夕の牽牛・織女伝説にはエッセンスとして込められることになった。結果的に、われわれはそこから悲恋部分だけを共通項として選択し、そこだけを言い伝えてきたわけであろう。
あいも変わらぬ陰惨な話になってしまったが、真実は知っておいても困ることはない。すまぬ。夢見る少女じゃいられない、という歌もあることだし。
言わねばならぬことは、神は決して人を助けるだけではなく、常はだいたい困り者であったということ。そしてそれに仕えるモノとは、世界中どこでも、差別されたということである。それは古い価値観が常に新しい価値観によって滅ぼされるべきものであるという人間の裏側の行動原理に存在する「進歩」とかいうもののうしろには、必ず差別と略奪・暴行・侵略・追いやりがあるということの裏腹の世界を言っているのである。そうやって私たちは今の平和な日本にたどり着いた。そこ、忘れないでね。
なお、「河童駒引き」とは、河童=水の精は犠牲を求めている、馬は龍であるという迷信。
「柳田國男によると、河童は水神の零落した姿だという。「河童駒引」というのは、 河童が馬を水中に引き込む話だ。その馬を守るのが猿なのである。この「河童駒引」を ユーラシア大陸に広く伝わる水神信仰の大海の中に位置づけたのが、石田英一郎著『 河童駒引考」である。」
http://web1.kcn.jp/tkia/mjf/mjf-81.html
「河童が馬を水中にひき入れるという伝承。
広く日本各地で採取される。その大方は失敗譚で、逆に馬に引きずられたところを人間にみつかって捕えられたり、腕をとられたりする。以後いたずらをしないと約束して詫証文を書いたり、命を助けてもらった礼にと魚を贈ってきたりしたと伝え、その証文が残っている場合もある。また腕を返してもらう際には接骨薬・血止め薬などの秘伝を伝授する例が多く、家伝薬の由来譚として広く伝えられている。
広く日本各地で採取される。その大方は失敗譚で、逆に馬に引きずられたところを人間にみつかって捕えられたり、腕をとられたりする。以後いたずらをしないと約束して詫証文を書いたり、命を助けてもらった礼にと魚を贈ってきたりしたと伝え、その証文が残っている場合もある。また腕を返してもらう際には接骨薬・血止め薬などの秘伝を伝授する例が多く、家伝薬の由来譚として広く伝えられている。
この伝承中、多くは、馬が水辺の牧に野飼されているところを河童にいたずらされている。河童は水神の零落したひとつの姿と考えられており、各地の伝承には馬と水神との密接なつながりが指摘されている。そうした点を考え合わせて、柳田国男、石田英一郎らは、河童駒引き譚には駿馬が水中から出現するという思想、水辺に牧馬を放して竜または水神の胤を得ようとする俗信、さらには古く馬を水神に供えた儀式のおもかげがうかがえるのではないかと考察している。
また、猿を厩の守護神とする信仰は古くから行なわれ、猿駒引きの図柄の絵馬・守護符、駒引き銭という絵銭から伺い知ることができる。厩馬安全の祈祷に厩で猿を舞わせる猿引き(猿回し)という職業も生み出されている。
一方、河童は猿と深いつながりがあると考えられる。中国・四国では河童をエンコ・エンコウ(猿侯)とよび、九州では河童に出会った人が猿に近いイメージを報告している。河童と猿とは兄弟分だという一方、両者は仇敵で河童の災を避けるために猿を飼うとも伝える。
いずれにせよ、河童駒引きと猿駒引きとは互いに深く関連しているといえよう。各地に「河童松」「河童石」「河太郎渡」「えんこう淵」などといった河童にまつわる名称や伝説が残っており、「河童聟入」「水と神の文使い」などの昔話にも登場している。」
http://www.ishinotent.co.jp/Kappa/kappa_d/kappa_komahiki2.html
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