小比類巻かほる I'm Here
乗り越えた
心配無用
復活する
本物はわたし。
この11年間
ここを書いてきたのは
わたしKawakatuただひとり
いくらなりすましても
一目瞭然
おまえではない
九州の弥生時代前期に板付遺跡が出現すると、ほぼ同時期に突然、縄文土器の流れを汲んだとおぼしき板付式土器が出現した。そこに描かれた模様は、あまりにも青森の亀ヶ岡の縄文土器の「重弧文」に似ていた(小林青樹・設楽博巳 2007)。
紀元前の最後のミレニアム。
長江をおわれた稲作は半島南部の倭族に伝わり、その伝播はBC950年にはもう北部九州から日本海を北上しはじめ、500年後には青森にまず到達。そのとき東北には九州独特の渦巻き=永遠の観念も到達し、南海の貝殻を形象化した縄文土器が登場する。
この永遠の渦巻きは、その後亀ヶ岡で新たな模様を生み出した。
それが重弧文である。
やがて、彼ら東北縄文人が描いていた模様は、今度は九州へと逆輸入され、板付式の重弧文土器が生まれたのである。
同時に板付遺跡では、縄文オリジナルの土器である隆線連子文土器までもが出土し、東北と九州との稲作による交流が、弥生時代早期までにすでに実現していたことをはっきりと語ることとなった。
紀元前950年、北部九州に大陸から到達した稲作は、日本海を通じて紀元前400年には青森にまで拡散している。それまでの九州の土器は朝鮮式の無紋の弥生土器だった。その機能美だけの無個性な土器に、先住縄文が久しく伝えてきた古い縄文の情念の模様が描かれるようになった。そればかりではなく、弥生の西日本への東北からの文化波及には、浮線文土器と舟形土器・容器の波及もあったと久田正弘は論じている。
かくして縄文と弥生は運命の合体を開始した。
弥生は縄文を受け入れた。
縄文もまた弥生を受け入れた。
この懐の広さこそが、今の日本人と日本文化を形成した。
参考
東北の縄文人、北部九州に関与? 弥生文化の起源に新説
石川県埋蔵文化財情報第30号 最下段調査報告
西日本への浮線文土器と舟形土器・容器の波及 久田 正弘
印東道子『人類の移動史』第三節所収小林青樹「縄文と弥生 日本列島を縦断する移動と交流」2013
今、これまで西日本、九州からが当然だった台風が、いくつも東北を襲う環境となった。九州は台風を何千年も受け入れ続け、それを乗り越えるノウハウをわずかながら手にした。東北との新たな学びあいの時代が来ている。
長い夏休みをとった。
これから夏は毎年、そうなるだろう。
ぼくはもう、十数年間、古代史にとってのたくさんのヒントをここに書いてきた。
もうさほど急いで書かねばならぬ発見も少なくなった。
いや、体調さえよければ、このひとつきに、まだ十個以上の記事はかけたかもしれない。そういう小さな発見ならあった。
けれどあえてぼくは休んだ。
ささいな発見はいずれ誰でもが気づくだろう。
もうそれでよいだろう。
多くは語るまい。
ネット上にこのブログを「俺の民族学伝承ひろいあげ辞典」だと騙る者が登場した。
このブログをそのまま転載するサイトならいくつかある。
このブログから引用、孫引きするサイトはさらに多い。
それほどこのブログは多くの古代史を愛する人々に注視され、愛されているのだと思うことにしよう。
しかし
これだけは言おう。
人類史の真実のダイナミズムを語れるのは
わたし
Kawakatuだけだ。
わたしは本物の
民族学伝承ひろいあげ辞典の
作者である。
I'm Here.
本当のぼくは生きてここにいる。