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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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地名と地形 神戸市わだみさき 兵庫の中の兵庫

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和田岬は神戸港のある場所にある瀬戸内海に突き出す岬。対岸は淡路島。

「わだ」は平安末期には「輪田」で、海岸線の地形が輪のように婉曲した場所だからと言うが、さて、そうした沿岸の婉曲した地形なら全国にあり、ここだけを輪田とするには少々弱い気がする。


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縄文海進時代までの大和田の地形。
ゆるやかに婉曲する湾どである。
こうした地形で多い地名は「筒」が多い。
なぜ輪田だったのか?



清盛の時代に「大輪田」と言われ、平家の貿易の隆盛を造る基礎となった港が「大輪田泊 おおわだのとまり」である。

泊は船が停泊する場所という意味。

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古地図で見る限り、輪になっているのは狭い範囲で、これが清盛以後の和田になる。


「わだ」の地名はむしろもっと古く、朝鮮語の海を言い表す「ぱだ」が信憑性が高いだろう。「わだつみ」が海の神であったことからも「わた」は海そのものを差す地名である。人名の和田は、大阪湾住之江の和田氏が最も有名である。彼らは関東から来た武士団で、住江に住んだことから海=わだを名乗った。もともと関東でも海に関与した海人族だったのではないかと思う。家紋は三ツ星に下線が多い。一本線が和田氏の中の剣を持つ武家であることを示す。海辺の和田氏と、郡上八幡や大分県竹田市の和田氏のような山の和田氏がある。海人族が海と山にいる理由は、舟の釘を求めて山に入るからである。鉄を探すのである。山砂鉄や鉄鉱石を求める別働隊が、氏族には必ずいたものである。


朝鮮語の「ぱだ」は、地名では波旦(ぱたん)として新羅国南の海岸部にあった。金官伽耶のそばである。金海あたりか?この「ぱたん」から秦氏の名が出るとする説もある。まあ、しかし「とえはたえ」が多いという意味であるから「はた」もこの場合「うずたかく」に似た概念の「多い」が元であろうと思う。「はたち」も10よりも多い数字「20」である。秦の文字は中国の秦の子孫を言うための文字使用で、漢から来たと言う漢(あや)氏と同じ使用法だ。

さて、和田岬のあるこの三角形の砂洲=くちばしのように三角に尖った砂洲なので地形用語で砂嘴(さし)と言う。


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先日、ぶらタモリで神戸港に行っていたのは記憶にあるだろう。それで刺激を受けたので少し兵庫の地形について調べてみた。


番組の解説では、近畿地方は東西方向から巨大なプレートテクトニクスだかなんだかで、巨大な力を受け、左右にぐしゃっとスライドしていることを述べておられた。
その形状はX型になったという。



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そのために神戸には大きな段差が生じ、できたのが六甲の山塊であるという。そのX軸の先にある段差が淡路島なのだとも。つまりここには巨大な断層があることになる。

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つまりこの断層が阪神淡路大震災の震源地だったのである。


X軸の北をたどると、淀川ラインで京都市~琵琶湖そして日本海側の丹後・若狭湾へ向かい、原発集中地帯の三方断層へ向かっている。これは非常に危険なXである。

ではX軸のもう一本のラインにはなにがあるか?
南は京都市~伊勢湾がある。北は日本海丹後へ抜けてゆく。
これも危険なラインといえる。古代、京都には巨大地震が何度かきた記事が或る。

どっちにしても京都市は双方が交わる危険な地域なのである。

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ここで、少しだけ、昨今ニュースでよく取りざたされている東北フクシマの原発事故以来の、フクシマからの移住者への差別問題について一言。原発はほぼ全国に存在し、いつそこもフクシマのようになるかわからないのが災害多発国日本。フクシマからの子供を差別しているあなたのいる土地も、いつ同じ憂き目に逢うかもしれない。そう考えたとき、どうして被災者を差別できようか?となぜ考え付かない?教育者はなぜそれを子供に強く教化しない?


六甲山系は花崗岩で出来ており、神戸の宮水などの無機質な名水を生み出した。ゆえに世界の船の調理師たちには垂涎の水といわれるようだ。

 「神戸市域は六甲山を中心にした広大な地域に広がっている。現在では住宅地は、六甲山地北部から西部の丘陵地にまで広がっているが、依然として六甲山地南側の幅3km程度の細長い低地部が市の中心であり、市街地が海岸から山麓にいたるまでほとんど切れ目なく続いている。近年では、海岸部や海上を埋め立て、神戸の特徴ともいえる港湾施設の拡充や市街地の拡大がはかられている。六甲山地南麓の低地部は、地形的にみて山地から丘陵、扇状地、海岸低地、人工埋立地に大きく分けられ、それぞれの境目は地層境界ともほぼ一致している。
2.1地形区分
 調査の対象とした六甲山地南麓部は、山地から海岸方向に幅の狭い、ゆるい傾斜地形とその南側に、東西方向に細長く延びる海岸低地部とから構成されている。山麓に近い部分は、丘陵や段丘などから成り、芦屋川、住吉川、石屋川、都賀川、生田川、新湊川などのそれぞれの河川は、1~4度の勾配をもつ急流となり、その流域は扇状地形を形成し、河口付近には三角州、砂州、砂堆が広がる。この地域の地形図や空中写真などをもとに行われた地形分類の代表的なもののひとつに、図-2.1に示されるような田中眞吾神戸大学名誉教授による詳細な微地形区分図がある。この図の特徴の一つは、兵庫県内に分布している地形面の詳細な研究に基づいて、扇状地の形、配置、形成時期などに規則性があるとして、扇状地を形成期によって5つに区分していることである。これらの区分の詳細は図中の凡例に示しているとおりであるが、地盤の特性を考える上で重要な資料となる。
図-2.1
2.2地質構成
 神戸周辺の地質は図-2.2に示されるように、六甲山地に露出する花崗岩類などの中生代白亜紀以前(約7000万年前)に形成された基盤岩類と、新生代第三紀以降(約3000万年前)に基盤岩類を覆って堆積した被覆層に大別される。
図-2.2
 基盤岩類は、おもに六甲花崗岩、布引花崗閃緑岩などの花崗岩類などより成り、一部の地域には、流紋岩質凝灰岩類や変成岩などが分布している。
 一方、被覆層は形成時期の古い方から、約3000万年前の神戸層群、約300万~20万年前の大阪層群、約20万~2万年前の上部洪積層(段丘層および段丘相当層)、そして2万年前以降に堆積した沖積層に区分される」
http://www.city.kobe.lg.jp/safety/prevention/foundation/chishitsu/index.html
このように中生代の古い花崗岩の上に、薄皮のように沖積世の表土がかぶさるから、大変土砂崩れしやすく、地滑りもする。おまけに花崗岩は地震で崩れやすいという危険地帯。中国地方全体が非常に土砂が横滑りしやすく、くずれやすいのだ。

その花崗岩の山々が多くの砂鉄やミネラルを雨で瀬戸内海へ流しだす。しかも山が近く、神戸の平地は狭いので、川は短く、一気に、大量のミネラルを流す。ゆえに瀬戸内は豊富なミネラルでプランクトンを育て、豊富な海産物を生み出せる。砂鉄は紀伊半島南岸にたどり着き、海草郡あたりでは往古から砂鉄によるたたらが隆盛した。これは吉備地方でも同じだ。また対岸四国の讃岐などもそうである。ゆえにここに武器の兵庫が作られた。それで今、ここは兵庫県。


では兵庫県の中の兵庫はどこ?
それが実は神戸なのだ。
兵庫県神戸市兵庫区兵庫。ここに武器庫があった。

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まさに兵庫中の兵庫がここだ。(この地名は筆者学生時代から、同人だった女友だちが通う甲南女学院があった地名なので気になっていた。はがきにこの地名があった。)ここが武器庫だった土地だろう。

それを管理したのが旧くは播磨物部氏。天皇家の武器庫を物部氏は握る氏族であったから「大連」。それが蘇我氏によって大敗して、兵庫は蘇我氏そして最後は藤原氏の管理下に。

それを奪うのが中世の平家であった。もうして清盛は神戸大和田に港を開き、それまで筑紫が独占していた海外からの輸入品を、すべてここに水揚げさせることに成功する。しかしやがて源氏によって平家は追討され、兵庫は源氏のものに。源氏は三代で北条家に乗っ取られ、北条家は南北朝で足利氏に・・・・とつながってゆく。

その間、ずっと大和田泊は日本最大の輸入港だった。それがやがて神戸と改名。

さて、神戸、そしてどうなるのか?

神戸地名は実は古く「平安前期の『和名抄』に「摂津国八部郡神戸郷」の名で見られる。 神戸は「かんべ( カムヘ)」と読み、神社に租税を納める民のこと。 この地は、生田神社に租税を納める民 戸があったことに由来する。」とある。

ちなみに郡名の八部は「やたべ」で、旧くは雄伴(おとも)郡。八田部、やがて八部、矢田部。

「『摂津』[2]P7「郡名異同一覧」には、矢田部・八田部・八部と、時代あるいは書物によって異なる表記が用いられてきたことが記されている。

雄伴郡は、淳和天皇の時代(在位823年 - 833年)、天皇の諱である「大伴」(おおとも)に発音が近いことから、八部郡(やたべぐん)と改名された。仁徳天皇の妃八田皇女名代が付近にあったためともいわれている[3]。『摂津』[2]P538 第三章 氏族 第十三節矢田部郡の「八田部」の項に、「古事記仁徳段に八田皇女の御名代として八田部を定める」と引用する。矢田部郡及び八部郡の地名(矢田部郡は八部郡の別表記)は、御名代八田部の名に由来するとする[2]。改名当初は八田部郡と書いた[4][5][6]。」


もちろん史書の地名由来はあてにはならない。矢田部は矢を作る靫負地名であろう。部だから『日本書紀』が言う皇女の御名代(なしろ)部というのは遠くない。だが矢がつくならおそらく矢に関わる。つまりやがてここが兵庫となる武器であるからだ。なお別に「はった」で摂津秦氏との関連性も?秦氏は最終的に平安遷都までの土地融通と遷都建設のために藤原式家子孫の清成と婚姻し、松尾の「秦下氏」となった。式家の宇合の孫が長岡京建設の立役者藤原種継で、その父の妻は秦下氏の娘である。
また秦下嶋麻呂の娘は聖武 恭仁京建設した藤原葛野麻呂の母である。このように秦氏は遷都のたびに藤原氏に近づき、松尾秦氏は本家の葛野の嵯峨野秦氏を凌駕してゆく。やがて秦氏本家の惣領としての酒公、太秦公の名も松尾秦氏へ移動してゆくこととなった。河勝以来の嵯峨野秦氏は、こうして平安京に土地を融通して離散してゆく。一方、四家が道真の怨霊で消えようとしてた藤原氏にとっても、式家長男藤原広嗣が乱で殺された失態を遷都建都で乗り越えて氏族の中心になり、宰相として復活する原動力にできた。それはやがては平安時代の道長の繁栄につながったのである。










「ろっこう」はもと「むこう」である。向こうの山が語源で、それを音読みで六甲としゃれ込んだ。こういう地名はほかに栃木の日光がある。日光は二荒山で「ふたら」だったが二荒を「にこう」と読んで、やがて関東人好みのしゃくり発音の「にっこう」となった。


六甲がもとは向こうだった痕跡は地名に残る。武庫川である。

























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