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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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皇統譜の断絶

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記紀では第21代雄略天皇のあとの22代清寧天皇に男子の継嗣がなく、継体大王まで、以下の諸天皇を挟んでその系譜を飛鳥王家につないである。
これは、ある意味、飛鳥以後の奈良天皇家とのあいだの断絶を想像させる記事になっている。
継体大王も、同じく、外からの人であるので、二度も不確定な「つなぎ」の王がここに挟まれることとなる。雄略を、大和ではなく河内の「別の王家」だったと考えると、それを無理やりに別系統や婿入りによってつないでみせているわけで、むしろだからこそ、彼らが創作された王であり、河内と飛鳥につながりがないのではないか?と好事家を喜ばせてしまう記事になっている。

●飯豊青皇女
飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ、允恭天皇29年? - 清寧天皇5年11月?)
記紀に伝えられる5世紀末の皇族(王族)
履中天皇の皇女、または市辺押磐皇子の王女。

第22代清寧天皇の崩御後に一時政を執ったとされ、飯豊天皇とも呼ばれる。
飯豊(いいとよ)はふくろうの別名、青は鬼(人ではない、あるいはシャーマン)をそれぞれ意味し、『日本書紀』表記は彼女を蔑視(夜ばいする淫乱巫女?)したとも考えられるが、日本最初の巫女天皇になるか。

飯豊皇女または飯豊王女(読みは共に「いいとよのひめみこ」)と書かれることが多い。他表記ならびに別名は、飯豊女王(いいとよのひめみこ)、飯豊王(いいとよのみこ)、飯豊郎女(いいとよのいらつめ)、青海皇女(あおみのひめみこ)、青海郎女(あおみのいらつめ)、忍海郎女(おしぬみのいらつめ)、忍海部女王(おしぬみべのひめみこ)、忍海飯豊青尊(おしぬみのいいとよあおのみこと)。

「おしぬみ」は葛城内の地名「忍海 おし(う)み」で、のちに「凡海 おほしうみ」か。飯豊王の本拠地。

忍海部は、飯豊王の子代部民
漢人(あやひと)をかかえた雑工部(物品製造に携わる職工集団)でもあったらしい。

「あをみ」は不詳(あるいは青海郎女の「青海」や飯豊青尊の「青」は福井県大飯郡高浜町(大飯・高浜原発で有名)内の地名かとも思われる)。
 修二会過去帳拝読で読まれる「青衣の女人(しょうえのにょにん)」や、葛城山の枕詞(木幡、忍坂山等にも掛かる)の「青旗」等、「青」の意味を考える価値はあると考えられる。このように青い旗は女性シャーマンを思わせる名である。

男王不在時の「つなぎの女王」だといえる。




●弘計 読み「ヲケ」王は、
=顕宗天皇(けんぞうてんのう、正字体:顯宗天皇、允恭天皇39年 - 顕宗天皇3年4月25日)のこと
記紀・『播磨国風土記』が共に第23代天皇(在位顕宗元年1月1日~同3年4月25日)に作る人物。
兄は24代仁賢天皇。
弘計天皇(をけのすめらみこと)『日本書紀』
来目稚子(くめのわくご)
袁祁王
諡号=袁祁之石巣別命(をけのいわすわけのみこと)『古事記』
袁奚天皇(『播磨国風土記』)とも。
市辺押磐皇子(履中天皇の長子)の第3子。
母・葛城蟻臣(ありのおみ)の女・荑媛(はえひめ、荑は草冠+夷)。
同母姉・飯豊女王(いいとよあおのひめみこ)。




●仁賢天皇(にんけんてんのう、允恭天皇38年 - 仁賢天皇11年8月8日)
第24代天皇(在位:仁賢天皇元年1月5日 - 同11年8月8日)
名は億計天皇(おけのすめらみこと)
大石尊(おおしのみこと)
意祁命・意富祁王(おおけのみこ)
諱は大脚(おおし)または大為(おおす)、字は嶋郎(しまのいらつこ)。


安康天皇3年10月1日父市辺押磐皇子雄略天皇に殺されると、兄の億計王(後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した。丹波国与謝郡京都府丹後半島東半)に行き、後に播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた。清寧天皇2年11月、弘計王自ら新室の宴の席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。子がなかった清寧天皇はこれを喜んで迎えを遣わし、翌年2王を宮中に迎え入れて、4月7日(5月10日)に兄王を皇太子に、弘計王を皇子とした。
同5年1月16日に清寧が崩御した後、皇太子の億計は身分を明かした大功を理由として弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、弘計はこれを拒否。皇位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した。結果的に兄の説得に折れる形で顕宗天皇元年元旦、弘計が顕宗天皇として即位する。引き続き億計が皇太子を務めたが、天皇の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない。罪無くして死んだ父を弔い、また父の雪辱を果たすべく雄略への復讐に走ることもあったが、長く辺土で苦労した経験から民衆を愛する政治を執ったと伝えられる。同3年4月25日、崩御。『古事記』に38歳(但し治世8年という)、『一代要記』に48歳。なお、即位前に志毘臣(しびのおみ、平群氏)との恋争いのもつれから、これを夜襲して誅殺したという話もある(『古事記』)[1]。」以上Wiki顕宗天皇より


イメージ 1
Wikiより



●武烈天皇 25代天皇
彼もまた皇女しか生まず継嗣がいなくなって継体天皇がやむなく担がれた。
●継体天皇 26代天皇
なぜか河内王朝初代の応神天皇の、遠い孫とされ、日本海越前福井の三尾氏の娘と、近江の息長氏とのあいだの子とされる。妻は最初尾張氏の娘だったが、あとから河内王家武烈の娘・手白髪皇女が正室として迎えられる。つまり継体は正統王家の、外戚から入った婿養子という格好になる。悪く言えばあとの飛鳥王家との間を血脈だけでつなぐための「種馬」的存在。息子は安閑・宣化天皇だが、先のオケ・ヲケ同様に皇位を譲り合っており、いかにも両者からオケ・ヲケのエピソードが作られたと匂わせる。

また、オケ・ヲケのような一種の貴種流離譚が、播磨あたりから出るのも、どこか地方民間伝承のにおいがあり、また職能民から出てきそうな話に見えるし、考えてみれば、どこかしら中国の秦の始皇帝になる前の「貴貨置くべし」話に似ている気もする。

つまり、この部分はあきらかに創作だろう。
ということになれば、本来無関係な河内王家と飛鳥王家を、万世一系・皇紀2000年の、世界に類例のない、断絶なき王家だと言うがための、藤原不比等らの意思が見えることになる。

ではなぜ記紀は、日本の大王家が一度の断絶もなく、神武以来2000数百年続くとしたかったのだろうか?ならばなぜ中国史書にある卑弥呼や臺與、そして倭の五王なども確実に存在した王家を記事に反映させなかったのだろうか?さらに神功皇后・継体大王・息長広姫とつづく息長の系譜が葛城氏娘との婚姻から生まれるとしたのだろうか?ただの貿易商人・海人族だった息長氏と藤原氏の間に、いかなる癒着が?筆者にはどうしてもそれがわからないままである。

不比等は実際の初代天皇である天武以後の新大王家を、それまでの前にあった諸豪族たちが伝承してきた大王家とつなぐための努力を『日本書紀』でやっている。それは天武の息長・葛城血脈と、継体から欽明の飛鳥正統王家とつなぐために確かに必要ではあっただろう。諸豪族の民意をおさめるためにはそれは必要だったとは思う。しかし、天武死後、なぜか兄天智の血を引く女帝を持ち上げ、背後では天武血脈は次々に消えていった。結果、王家の正嫡は天智の後裔に変化し桓武が登場する。それでも血脈はまだ息長・葛城のままではある。

ところが、天武には、天智の弟ではなかった可能性が書かれた。この矛盾は?

天武は年齢が諸説あり、天智よりも年上で、しかも兄弟ではなかった可能性まで『日本書紀』はこそっと示唆してある。これはいったいどうしたことか?また継体大王にも『三国史記』で、天皇と二人の皇子が「ともに亡くなった」と記録してある。この矛盾は何を意味するのか?

極め付きは平安時代に『日本書紀』の要所に書き換えの可能性があることを学者が指摘していることであろう。






付記
先日、サードパーティに宮内省のクッキーを発見した。以後、クッキー設定でサードパーティすべてをブロックするに変更した。




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