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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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継体大王淡墨桜と葛城・蘇我

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 鯖江市上河内町にあるエドヒガン桜(市指定文化財(天然記念物))を「うすずみざくら」と呼んでいる。
継体大王が上河内の山の中に桜を植えたという伝説があるという。
現在ある薄墨桜がその孫桜とされ、地域のシンボルとなっているそうである。
http://www.eonet.ne.jp/~etizenkikou/keitai.htm

イメージ 1


奥美濃最高峰で、岐阜福井県境の能郷白山(1617m)
「根尾谷淡墨桜」
「樹齢1500余年、回生を図るべく昭和24年に近くの山桜の若根238本で根接ぎしたところすっかり元気になった、樹高17.2m・幹回り9.1mで花の盛りは4月上旬、更に伝説として、都での迫害を逃れてこの地に潜まれた男大迹(オオト)王が長じて29歳の時都に迎えられて皇位を継承し継体天皇と称せられたが、この地を去るに当たり形見としてこの桜を植えられたと言う。」
http://d.hatena.ne.jp/misakay/20030920/1209271593





エドヒガンには改良種以前の原種もあり、以前はスモモとされていたこともある。長寿の樹木で、神代桜という樹齢2000年にもなるとされるものすらある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%A3%E6%A1%9C

淡墨桜は樹齢1500年。しかしながら、1500とか2000年となると、本当なのかどうかは筆者は責任は持てない。その間、ずっと誰か一族が見てきたということでもないだろうし、生きている限りは切って年輪を見ることもできまい。伝承があるということは、一応信じるしかあるまい。まあ、それだけ接木されつつ、子孫の桜が生かされているという意味であろう。


鯖江市上河内町地係 標高約400M
アクセス方法/
(1)徒歩の場合・・・上河内町から北側山中へと伸びる登山道を歩いて約1時間
(2)車の場合・・・鯖江市尾花キャンプ場から林道を通り約20分





継体大王は担がれて大和の大王となるが、そのわけは、前の王朝であった河内王朝の男子子孫が断絶したからだとされている。河内王朝とは、始祖を応神大王として、巨大古墳群を持った河内の一族。仁徳天皇陵をはじめとする巨大そのもの前方後円墳を大阪府の泉州に作らせた。中国では倭の五王の時代に彼らは生きたとされ、次の飛鳥王朝の前にあった王権である。

応神の母は息長帯姫、いわゆる神功皇后である。

その治世の後半で、雄略大王(ワカタケル)は宰相に葛城氏と吉備氏をもって、外戚とし、大和西部で、東部の物部氏や和邇氏と対立的なふるい王権を保持してきた。しかし雄略は葛城も吉備も、滅ぼし、王権を男系で独占しようとしたらしい。その葛城王権は迫害された、最後の子孫だった市歯辺皇子も殺される。その忘れ形見がオケ・ヲケ王だった。のちの顕宗・仁賢大王である。飯豊青皇女は彼らが見つかるまで摂政。

この葛城をのちになのろうとしたのが蘇我馬子である。
蘇我氏は石川に入って石川朝臣を名乗るが、馬子・イナメ一族だけは宗岳に入り「そが」を名乗った。彼らが真実葛城氏出身だったかどうかは不明である。

いずれにしても氏族名の「そが」「いしかわ」「そがのくら」などはすべて地名名乗りで、もとから王族ではなかい豪族だったのだろう。

継体大王は越前から招聘されて淀川周辺の摂津にまず本拠を置く。そして河内の前王朝の嫁をもらって葛城と雄略の血をうけつぐことになったようだ。葛城は日本最古の外戚で、伽耶の鉄をほしいままにした大豪族。秦氏を連れ帰り、思うに日本府の王だった一族である。その血脈は雄略によって消されかかったが、継体がその末裔の姫を娶ることでかろうじて飛鳥と河内はつながった王権となるわけで、それは言い換えてしまえば、本当は切れているはず性器野の王権を、記紀8世紀のイデオロギーでつなぐための重要な存在である。もしいなかったとしても日本史が変るはずはない。

しかしいなかったとするには、百済武寧王との関係によって贈られた朱塗りの木棺などが、その実在性のあかしとして存在する。彼の葛城の入り婿としての意味は、のちの蘇我氏の、葛城の臣としての葛城地域要求の底辺にあり、蘇我氏は葛城に住んだだけであったにしても、葛城を氏族のステータスにしたわけで、継体の存在と蘇我氏は切って切れない関係を持つのである。

淡墨桜が、なぜ大和や河内ではなく岐阜県にあるかといえば、そこが東国と西国をつなぐ関門のあった場所で、東国と日本海が白山を越えることでつながる地域だったからにほかなるまい。あくまでも伝承ではあろうが、東海の尾張氏と日本海福井の海部氏が同族であることと、この往古のけわしい道の存在はかかせない。そういう背景から継体は日本史に登場する。その道、白山信仰の奥底にあるのは、応神がもっている限りなく朝鮮渡来の王子というイメージを共有する。

新羅の王子がそこには関わる。ゆえに記紀はわざわざこの渡来王子の前例を二度も書き残す。すべては継体のために。継体のためということは、前王朝と8世紀の王朝が正統につながっていることのあかしとなるからである。すべては8世紀記紀のイデーが日本史のはじまりにある。











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