昨日のトップニュースの北朝鮮の軍事演習動画を見てふと、
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頭に浮かんだものがある。これだ。
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島根県神庭荒神谷遺跡の大量銅剣
記紀が書き立てる出雲の国譲りを思い出したのだ。
現代の、私たちの目の前で起こりつつある、アメリカ・日本・韓国の朝鮮海への威嚇行為が、国譲り神話に実によく似ていないだろうか?と。
出雲国譲りは、もちろん大和側の視点で作られた侵略譚である。しかしあれが出雲を大和が侵略し簒奪したとするには、近畿地方にはまったく軍事的遺構が出ていないことはご存知の通り。戦争した痕跡は、弥生時代の北部九州の甕棺墓の中の遺体や、山口県の土井ヶ浜遺跡や鳥取の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡など、すべて日本海側に集中している。一方、同時代の大和には武器らしきものの出土は皆無で、代わりに銅鐸や銅鏡などの祭祀用具ばかりが出る。つまり記紀出雲神話国譲りは、大和がやったわけでないことは明らかだ。
この矛盾を理解しようとするときに、今の朝鮮での軍事状況は大変示唆に富んでいることに気がつく。
北朝鮮は、よせてくる米軍に対して、船隊がいる海に向かって、ずらりとある限りの武器を並べ、脅威を見せ付けようとしたわけだが、出雲神話の大国主たちも、おそらく、日本海を南下してきた大陸の軍船に向けて、ありったけの最新銅器を部下に持たせて、海浜にずらりと並べ敵を迎え撃ったにちがいあるまい。その青銅器の剣こそがその後荒神谷に埋められたのではなかっただろうか?
出雲人民はタケミナカタを筆頭に、銅器こそは最新の武器だと信じていた。しかし外からやってきた敵は、鉄器を持っていた。一度戦えばその実用性の差はわかったはずだ。出雲の剣はもはや鉄の前では、ただ重くて切れ味の悪い、古臭い武器でしかなかった。そのことに気付いたとき、つまり神話では、「ふつのみたま」の霊的に鋭利な切れ味をまるで最新ターミネーターの変幻自在な腕のように描いてあるわけだが、銅器しか知らぬものにとって、鉄器の切れ味はまさしくカミワザに見えたことだろう。その後、これを教訓にして、出雲地方はたたら製鉄のメッカに変身して行ったことでもわかるはずだ。
出雲のタケミナカタは、これによって腕をもがれた赤子のごとくに日本海を越へ逃げるのである。圧倒的武力の前に、彼らは無気力化し、国を明け渡してしまう。
ただし、この神話そのものは、北部九州という最新武器を常に最初に手にしてきた渡来人子孫との戦いであったわけで、近畿との戦いなどはなかったのであろう。記紀はそれを自分たちの手柄として書いただけである。あるいは、彼ら近畿の人々の遠い先祖が九州の渡来人だった可能性もあるが、それは弥生人対在来縄文人+海人族の戦いであり、侵略戦争であっただろう。
翻って北朝鮮の武器を見るに、いかにも旧式であり、パレードの最中に列から離脱する戦車さえあったわけで、中国が燃料供給を止めてしまえば、もうそれらの自信満々の古い武器は、動かすことさえできなくなるだろうしろものだと思えた。
記紀で出雲に代表された日本海側の縄文的な旧勢力のいくさの結果は、現代の北朝鮮の想定できるそれと同じだろう。静かなる国譲りを選んだ事代主、争いを選んだタケミナカタ、戦況を見つめて身を引き、銅器をすべて山間の聖地神庭へと埋納し、たたる神霊となった大国主。さて、北はどれを選ぶのか?
(大国主が大和の三諸山=三輪山に祭られたいと言った、とか、大和大物主が大国主の幸魂であるかいうのは、大和中心の考え方で描かれねばならなかった記紀のロジックであることは言うまでもない。大和はそのころ、九重の環濠に守られた唐古・鍵遺跡の中でただただちいさくなっているだけの祭祀集団でしかなかった。九州の物部氏前身=遠賀川弥生人が日本海沿岸全域を攻めたのだ。中臣氏の神などは書き足されただけの藤原氏の正統性の主張でしかないだろう。)
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近寄ってくる最新兵器の軍団