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息長氏異聞その1オシサカ

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伝承地の息長氏サイトから転載
 
●忍坂の息長伝承
奈良縣櫻井市忍坂の初見記事は「記紀」の神武東征神話の舞台として語られ、神武天皇が九州より東征のおり生駒越を那賀須泥毗古(ながすねひこ)に阻まれ、熊野からの迂回路を取ったとき宇陀から、現在の忍坂街道(伊勢街道)を通り奈良盆地へ進出したといわれ、古代の忍坂の地は、ヤマト王権成立の時期から倭の五王の時代にかけて、王権を支える重要拠点であったと思われます。

歴代天皇の中で唯一息長の名を持つ29代舒明天皇(息長足日広額、おきながたらしひひろぬか)の父は敏達天皇の皇子、忍坂日子人大兄皇子(おしさかひこひとおおえのみこ) 母はその異母妹、糠手姫皇女(ぬかでのひめみこ)書紀では田村皇女の名で記されています。

忍坂日子人大兄皇子は敏達と息長真手王の女、比呂比売の間に生まれているので、舒明の父、祖父さらに遡れば26代継体天皇まで濃淡はあるが息長氏との繋がりが見られる系譜伝承になっています。この舒明天皇の陵墓は桜井市忍坂にある段の塚古墳で3段築成の方形壇の上に2段築成の八角墳が築かれています。文久年間の「山陵考」によると南面が崩壊し石室が露出したとあり石室内に二基の家型石棺がおかれ、奥の石棺は横向き、前の石棺が縦向きに安置されているそうで舒明と母の糠手姫皇女の合葬陵といわれています。
 
また忍坂日子人大兄皇子の叔母、大伴皇女の忍坂内墓もここにあります。舒明陵のある所は今、外鎌山と呼ばれていますが近世まで忍坂山と呼ばれていたそうで麓に式内忍坂坐生根(おっさかにいますいくね)神社が鎮座し祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)ですが本殿はなく背後の宮山がご神体になっています。地元には息長氏が勧奨した神社という伝承もあるが真偽の程は不明です。忍坂の西には神功皇后の磐余宮の伝承地もあり、また六世紀の磐余には天皇の諸宮がこの地に置かれて、この地に王権の武器庫があり、刀剣や武器・鉄器製作の鍛冶工房があり、王権の軍事力を支える基盤になっていたようで、その生産と管理にあたつていたのが息長氏だったという伝承もあります。
 
 
イメージ 1

上の写真は和歌山県橋本市の隅田八幡神社に伝わる5~6世紀頃製作の銅鏡で青銅製で径19.9cm。正確な出土年代や出土地は定かでなく、鏡には古代中国の伝説上の人物である東王父(とうおうふ)・西王母(せいおうぼ)他の人物を、その周囲には半円形と方形からなる文様帯、その外側には鋸歯文(きょしもん)を配し、周縁部に漢字48字からなる銘を左回りに鋳出する。

人物画像鏡で、この鏡に刻まれていた『癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作 此竟』との銘文で、これを額面どおりに釈読すると《癸未(みずのとひつじ)の年八月十日、大王と男弟王(おほどのおおきみ)が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻(しま)が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人(えひと)(漢人)今州利(こんすり)の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱(かん)をもってこの鏡を作る》となり即位前の男弟王(継体)が忍坂に居住していたことになり、継体天皇は息長系統の天皇といわれる由縁とも一致し息長氏が皇室の湯人であったという説も真実性を帯びてきますが、この釈文には異説も多く今日まだ、この人物画像鏡の銘文解読についての定説はないようです。

隅田八幡の人物画像鏡の銘文「癸未年」から意柴沙加宮(忍坂)を推定すると継体天皇即位は「書記」によると即位507年、治世25年、崩年531年、御年82歳。と記されており、人物画像鏡の「癸未年」は440年か503年のいずれかになります。

443年とすると、倭王済が宋に使いを遣わして「安東将軍倭国王」の称号を得た年であるから、大王は、允恭天皇を指すものと解釈できます。また、意柴沙加宮は忍坂大中姫皇后(おしさかのおほなかつひめこうごう)と何らかの関係があるとみられる。男弟王は誰であるまだ分かっていません。

503年説においては、当時倭国と緊密な外交関係をもち、大陸の文物を大量に輸出していた百済武寧王(ぶねいおう)(502~523)の諱(いなみ)が「斯麻王(しまおう)」であることから、鏡の作者「斯麻」を武寧王と推定する解釈が有力である。

また、443年説では継体の生年が450年なのでこの説は不可。503年説では53歳となり即位は57歳となり紀年では矛盾しませんが即位4年前に忍坂居住という点が少し気懸かりになります。因みに古事記では継体天皇の生年不詳、崩年丁未(ひのとひつじ)年(527)4月9日で年令も不詳です。こう見てくると忍坂宮の創設年は不詳ですが400年代から推古朝の(593~628)田村皇子(舒明天皇)の頃までの存在が推定されますが息長氏の誰が管理していたのかといった事や宮の存在も推定のみで実証文献等はありません。
  
●奈良県桜井市忍坂(おっさか)集落  舒明天皇陵(息長足日広額天皇)  忍坂坐生根神社
また忍坂集落の伝承によるとこの地は往古、息長庄と呼ばれていた時代もあったということです。この当時は息長氏の本願地は近江から、ここ忍坂に移っていたのだろうか、それともここには近江息長氏とは別系統の倭(やまと)息長氏がこの地を新たな本貫地として中央進出をしていたのかも知れません。いずれにしても中央政府のある京(みやこ)で活躍するには京の近隣地に居住地を求める必要があります。また忍坂の地名と息長氏の関連は隅田八幡宮の人物画像鏡の銘文「男弟王在意柴沙加宮」にあるようで男弟王を「記」の袁本杼命(をほどのみこと)・「紀」では男大迹(おほど)とし即位前の継体が忍坂に一時期居住しており、この忍坂宮は大郎子(おほいらつこ)の妹、忍坂大中津比売(おしさかのおほなかつひめ)の宮で近江息長氏の別業(別宅)で都に所用の折りに利用していた。皇子女の養育所で息長氏が天皇家から管理を任されていたといわれており、日本書紀の允恭天皇二月十四日条、忍坂大中津比売を立て皇后とされた。またこの日に皇后のために刑部(おしさかべ)を定めた。
 
また以前皇后がまだ母と一緒に家においでになつた頃、闘鶏国造(つげのくにつくり)が側を通りかかり大中津比売に無礼なおこないがあったことを忘れずに皇后になられてから、その折の無礼な振る舞いを責めて姓を稲置(いなき)に落とされた記述があり、この時大中津比売が居たのが忍坂宮で闘鶏国造とは今の奈良市都祁(つげ)の事だと思われます。この時点では大中津比売は母の弟比売真若(おとひめまわか)と忍坂に居住、此処で成長したので忍坂の名が付いたのでしょう。
 
またこの忍坂に居住していたのは皇后になる十年から十五年前ぐらいと推定すると允恭二年は西暦413年ですから398~403年頃となります。「書記」(646)大化二年三月二十日条、に『群臣・連・及び伴造(とものみやつこ)・国造(くにつこ)の所有する昔の天皇の時代に置かれた子代)の入部(いりべ)皇子たち私有の名入りの私民、皇祖大兄(すめみおやのおおえ)の名入りの部五百二十四口、屯倉は百八十一所を献上します』という皇太子、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)の入部・屯倉献上の記述があります。

この入部・屯倉は「皇祖御名入部」で大和国忍坂だといわれていて允恭天皇皇后の忍坂大中津比売の名代(なしろ)で、この忍坂部が忍坂大中津比売から一世紀を経て忍坂日子人太子→田村皇子(舒明)→中大兄皇子にと引き継がれています。この膨大な「皇祖御名入部」の管掌者が息長氏であったともいわれています。因みに忍坂日子人太子は敏達天皇の第一皇子で、母は息長真手王の娘・比呂比売(広姫)で舒明天皇・茅渟王の父に当たる人です。
http://music.geocities.jp/mtaketoshijp/newpage9.htm
 
 


 
 
息長氏には各地にさまざまな形で伝承があるが、はじめはまず筑紫の豊前国にある。神功皇后の筑紫での通り名であろう息長帯姫大目命(おきなが・たらしひ・おおまの・みこと)という大地母的名称であるが、その名前で祭られている神社は秦氏が住み着いた豊前国田河郡香春町の香春岳の女神であることになっている。秦氏(豊前秦人・秦部)たちが八幡の神の前身としてなぜ息長氏の名前を持った女神を祭るのか?
 
息長氏の渡来氏族、製鉄精銅金属氏族、そして海人族船の民としての「波多臣」という別氏族との相関関係がここにある。そして香春新羅神を祭る祭祀氏族である敦賀氏は若狭の気比の氏族である。
 
秦氏と息長氏の間に墓前で婚姻関係があったということだろう。そして秦氏が「はた」と自称した背景には、武内宿禰後裔氏族である波多臣との婚姻関係もあったのだろう。それらが共通して新羅の大地母である大目命を祭る。女神の皇子神は限りなく記紀の天忍穂耳に近い「あめのおしほね命」であることの不思議。
 
香春岳を形成する英彦山山系には、天孫ニニギの父である天忍穂耳が祭られていて、それは英彦山修験道の神である。
 
その「おし」は奈良県と和歌山県のさかいにある葛城山系で「おしさか」地名につながっている。
「おしさか」は「おっさか」で、もしや「おほさか」の古い言い方でもあるかもしれない。
 
そもそも「おさかべ」「おしさか」があり、忍坂宮に住まった大中姫のための部民が刑部であるが、允恭天皇の后忍坂大中姫命の名代 として設定され忍坂部が正字とされる。
 
允恭天皇は非実在天皇かもなので、この逸話自体が実は怪しいが、刑部を管理した刑部氏を名乗っていたのが熊本の火葦北国造アリシトである。彼の「アリシト」という諱は、ある共通性のある名前であろう。ツヌガアラシトの「現人」については新羅系伽耶王族役職名の「うしち・ありしち・かんき」の「ありしち」を和訓したのが「アラシト」である。伽耶の貴人という意味になる。葦北国造は敏達紀に記録されている。その敏達天皇は息長氏の娘を皇后にした最初の天皇である。つまり息長氏は明白に新羅系伽耶からやってきた海の豪族、それも伽耶の鉄氏族なのだろう。
 
それが葛城氏と結びついて中央では神功皇后が生まれ出す。応神天皇=八幡神の母親である。応神=アメノオシホ耳という構図がここにすでに取り込まれている。
 
息長氏はわかりにくい。
しかし記紀の天皇系図は広姫を中心として、倭五王系譜を彼らが引き継ぐことにしてある。
継体大王もここから生まれたとされた。
それほど重要な氏族であるが、蘇我氏や物部氏ほどに、息長氏は研究されていない。
天皇を尊崇する研究者や右よりの人々の間でも、息長氏と言うと口をつぐむ人が多くいる。
なぜだろうか?
今の天皇家の口からも息長氏という言葉を聞くことがほとんどないようである。
 
 
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