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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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地名・人名 蛍原・指原・飛鳥・井伊など

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あくまでも筆者の考え。



●蛍原 ほとはら由来
「ほと」とは柳田國男によれば女陰の古語。
転じてそのような地形。
火山の噴火口。二股の地。渓谷。
あるいはほたるのように光ったり、明るい、燃えている(マグマが見える?、重油=燃える水が湧く?)ような広場。
「ほど」「ぼぼ」などと地方で訛る。→類語「ほぞ」。狭いすきまや穴や暗がり、裏道。「せど」も

『古事記』(イザナミの)ミホト(=美しい女性器)は火傷し病気になって伏した。
ほとたたらいすけよりひめ=『日本書紀』いすずひめ
ホトを箸で突いて死んだ(スサノヲ伝説・丹塗り矢伝説)
「ほと」はこの場合健康でよく子供が生める元気な女性の美称であり、「たたら」と続くことからたたら鍛冶の坩堝や火口(ひぐち)や火山の火口(ほぐち=ほとぐち)を女性器に見立てたものであろう。

一説に能登のホタルイカ漁師の村名由来ともいう。
しかし「ほたる」由来よりも女陰地形由来のほうに説得力がある。全国に湿地帯を「やち」、青森の「ほど」地名などは非常に多い。狭く、暗く、長い穴であろう。




●安宿 あすか由来

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大阪府柏原市、八尾市一帯、太子町の古称。近つ飛鳥。
飛鳥戸部の地名が残る。戸部は集落。由来は往古、村のリーダーは巫女であり、これを「とめ」と呼んでいた。戸女。集団の巫女王。

「あすか」音の読みは元古朝鮮語で「あんすく」=首都。これが訛った。
この説が最有力なのは、信貴山・生駒山地をはさんで隣接する奈良県の「なら」由来が同じく朝鮮語の国=なら由来だと考えられるので。百済語で「くんなら」が大きな国。それが日本で「くだら」に変化した。今のソウルやピョンヤンがやはり古くは朝鮮民族にとっての「国 なら=首都」だったと同じこと。

これ以外の説はすべて日本の学者の勝手なあとづけであろう。なにしろ日本では朝鮮語由来は好まれない傾向があった。現代では、つまりそれこそが明治以来の半島蔑視の皇国史観から出たものであることは否定できない。ことほど左様に、古代では朝鮮文化も差別なく受け入れられた歴史があったことを認める寛容さが必要。近畿地方は特に朝鮮語由来地名や単語は、むしろどんどん受け入れられたと見る。新進文化を取り込んだのは漢字や仏教も同じであり、明治以降の西欧文化もそうである。外来語のひとつと考えるのが当然。一方で、くんならがくだらになったように、大和言葉による変化も当然。そのほうが言いやすかったに過ぎない。「あんすく」が「あすか」になったのはそういうこと。

そしてやがて定着した「あすか」地名が、日本人好みのとんちある表記「飛鳥」「明日香」に。和歌の枕詞にするにはそのほうが優雅だったからだ。



●今木 いまき由来
最古は新羅系氏族だった東漢氏集団が蘇我氏に招聘されて入った地名。今来とも。
古い移住者であるそれ以前の渡来人たちよりもあとから来たので、区別するための地名。
「いまきのてひと」=新しく来た技術者



●乳部 みぶ 由来
壬生とも表記。
貴族や王家の養父だった人々。または特定大王やのちの天皇のための養育料を税として出すための部民。刑部、石上などがある。多くは天皇の宮の名と同じ。



●指原 さしはら由来
姓氏研究家の森岡浩によれば、
「指原という名字は大分市東部の舟川地区に集中して存在し、市内には『佐志原』という地名もある。『さし』とは上代語で焼き畑を指し、またまっすぐな地形を指すとも言われる。舟川地区は丹生川に沿って長く伸びる谷間で、古代より『丹生郷』として資料にも登場する。この、古くから開けた谷間を『さしはら』と呼んだのが由来だろう。」

また地形では砂嘴「さし」は神戸のような海に突き出る鳥のくちばし状の三角の岬を言うので、そういうところにいた海民か、砂洲「さす」から訛った地名か。

指物師(さしものし)由来もあるか?
いずれものちに良い文字で幸「さち」などに変化したケースも?



●紀伊 きい・井伊 いい由来
もとは「木」「謂・渭」である。

奈良時代に良字二文字にせよとの令が出され、一文字地名は伸ばして「紀伊 きい」「渭伊 いい」になったというのが定説だが、そもそも一文字、一音は日本語では座りも悪く、人に伝えにくい。民間で音は先に変化していた可能性は大きい。地名や人名にならなかった葉、目、歯なども近畿地方では「はあ」「めえ」と伸ばす。つまり音に関しては、政治的な変化だったとは言いにくいのである。

静岡県浜松市の浜名湖北岸部・引佐(いなさ)町に井伊谷地名が今も残る。井伊家出身地。
ここには巨石群の天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡(4世紀前後~)あり。渭伊神社境内
http://www.hamamatsu-books.jp/category/detail/4c8db569a6886.html

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『蘇我氏三代と二つの飛鳥』から転載

大河ドラマの舞台になっている祭祀遺跡。
つまりここも水の湧く幽谷で、水祭祀をする巫女がいたのであろう。


紀伊は紀氏(きの・うじ)地名。海外から木の種を持ち込んだ船の民。船材としの樹木を植えた=スサノヲの子供五十猛(いそたける)を祖とするものと、武内宿禰末裔と二種ある。後者は葛城に移住して大和氏族としてのステータスだろうから、そもそもはやはり船の民でよかろう。

例外は三重県の「津」市 つ・し。なぜか「つう」にならなかった。こっちはこっちで不思議である。




●斑鳩 いかるが由来

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法隆寺のすぐそばから出た若草伽藍を、法隆寺以前からあった斑鳩寺跡と考古学は考えている。その寺は筆者は物部氏別業と見ているが定かでない。法隆寺も、物部氏敗北の跡に、蘇我氏が建てたと見る。聖徳太子(厩戸皇子)が建てたとは思わない。当時の蘇我氏は大王家よりも金力があり、物部氏から奪った土地の権益は馬子とその妻が握っていた。つまり大王家は蘇我氏の許可なしで、おそらく勝手に建造物は建てられない。経済的にも無理である。大王も天皇も、要するに有力豪族たちの言うなりだった存在。お飾りである。一皇子に、法隆寺のような巨大な寺は造営できまい。

「いかるが」地名は、諸説あるが、少なくとも鳥のイカルがここに特に営巣しているという事実はなく、間違い。地形から申せば「怒る河」。一万年前、ここは背後が山塊、前が古奈良湖の扇状地地形。古墳時代当たりまでここは水際で、水害が多い場所だったと思える。

あるいは「い」接頭語として、「かる」は軽、狩で軽石あるいは鉱物地名。
猪狩、碇も。





●ヲガンジ おがんじ由来
近つ飛鳥にある地名。ここに烏含寺(おがんじ 新堂 廃寺)があったという由来地名か。ヲガンジ池があり瓦窯跡が出た。大阪府富田林市の地名。近所に「お亀石古墳」。「おかめいし」「おがんじ」どことなく似ている。どっちかが変化かも。


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