日本史の継体天皇までと飛鳥時代を区切って考えると、前者は近畿地方の王権だったかどうかいくらかの疑問点が垣間見えるが、後者は、飛鳥に蘇我氏の墳墓や遺跡が出ることで、これは飛鳥は間違いなく大和の王権であると言うしかなくなる。
神武から三輪王家までは、九州の伝承が大きな影響を見せており、三輪の前半、崇神・垂仁あたりまでは奈良の、小さな王家内部のエピソードになっており、後半が景行~神功皇后といった九州的な話に。ヤマトタケルの遠征で、熊襲だけではなく、東国遠征がやっと扱われる。こういう部分は、大和王朝の全国平定を前倒しで描いて、天皇家が古い正統な王家であることを言っているだけである。つまり天皇家出現は天武、持統を遡らない。その直前の国際的な東アジアデビューの時代が蘇我氏・聖徳太子の飛鳥時代だろう。どこまで正しいことが書いてあるかは、しかしあとの不比等時代の潤色もある。
『日本書紀』では蘇我氏がどこから出てくるか、誰にもわからなくなっている。継体王家がみな死んで、欽明が大人になると、どこからか蘇我稲目なるものが現れ、葛城と高句麗が贈って来た女性などを嫁にして、いきなり大臣となってしまう。そして欽明よりも(梅山古墳)大きな墓・・・しかも蘇我氏としては異例の前方後円墳(五条野見瀬丸山古墳か?)を造り、河内の飛鳥にも大きな方墳を造らせている。これは考古学者によって説が分かれるところだが、五条野のほうが欽明にふさわしいのだが、年代が合わないと思われもする。
継体が九州王家に迎えられたのだとすると、その前の河内王権も実は九州にあった、それが河内へ移動していったという人もいるようだ。そして先ごろ大雨で土砂が流出した朝倉~東峰町あたりの山中に、継体のでっかい古墳はあるのだという珍説もあるが、あれほどの土石流が流れ出ても、いまだいっこうにそういう情報はない。
河内王朝の王墓は確かに羽曳野台地にあるが、それだからと言って彼らが全部、太子町あたりに王家を形成したと言えるかどうかは知らない、大和の葛城山に住んでいた可能性もないとは言えぬ。墓は宮城の西に造るものだからだ。雄略の墓はぐっと大和に近寄っている。
もし近つ飛鳥一帯が河内王家の在所だったとするならば、そこに隣接して宰相一家の葛城氏や許世氏、あるいは紀氏が居住したことと合致する。しかしなぜか河内で母である神功皇后の痕跡を聞かないのは奇妙だ。
蘇我稲目は、妻だった葛城の娘の持つ王家宰相としての権威をフルに活用して、娘を二人、王家の妃にした。二人とは堅塩姫と小姉君である。つまり馬子の兄弟である。
この二人の子孫が、その後の天皇を生んでいく。その血脈は100年後の持統女帝とその兄弟姉妹まで続く。しかしここで蘇我氏は天誅を受けて、母方は息長氏の娘広姫の血筋へ急変換。以後、天武、天智から桓武、そして現代の天皇家へ受け継がれた。つまり今の天皇家は母方の大元が息長氏であることになっている。その息長氏からは、継体と神功皇后が出たことにされている。しかしこの息長氏というのが、これまた正体不明の豪族で、蘇我氏と同じく、妻に葛城の姫を迎えることで王家に妻を出す一家とされている。こういうのは葛城血脈がいかに王家、大臣一家にとってステータスだったかを『日本書紀』は言いたいわけである。しかし、すると神武以来のニギハヤヒつまり物部の血はどうなったのかとなるだろう。
守屋が殺されたことで、物部氏の大連のステータスは、まったく消されてしまう。ところがその妹は、実は蘇我馬子の嫁になっている。それが物部大刀自(おおとじ)である。「とじ」は長女である。 別名「太姫」で、これも長女であろうと思われ、兄の死後、大連として物部所領のすべてを手中にできた。それのおかげで馬子は大臣となった。
考古学で、馬子の石舞台古墳が、もしかすると馬子の墓ではなかったのではないか?と言われ始めている。しかし近隣には島の庄の地名があり、島があったとされる池も存在する。ところがこの池には島があった痕跡が見つからない。別の場所からそれらしき池が別に出てきた。また石舞台を旧来から「桃源墓 もものさと」とよんで来たが、島の庄に桃源の地名があった記録がない。すると桃源は地名ではなかったとも考えられ、島の庄という地名も、池とは関係ない古名だとも考えられるケースがある。
面白いのは、王家だけではなく、大臣家でも、諸豪族でも、前の大臣の妹や娘をもらう風習があったらしく、蘇我氏を滅亡へ追いやった藤原鎌足の嫁は蘇我氏の娘である。その息子が不比等である。
不比等は、当時、宰相どころか大臣にすらなれない没落氏族となっており、そのわけは天智の子供・大友皇子(弘文天皇)を天武が壬申の乱で滅ぼしたからだった。ついでに蘇我氏親戚だった石川家の大臣就任もなしで、全員、天武が都から追い出している。それで蘇我・石川の血は宮中から消えることとなる。藤原の血は、不比等の持統接近で復権し、しかしその血脈は、直接的には天皇家には伝わらなかった。聖武の母親の藤原宮子は不比等の養女で外の人である。
藤原氏は、蘇我氏を反面教師として、決して王座を狙ったり、はでな所業をしなかった。影の存在として永続できた。ただし奈良時代には橘氏と骨肉の争いを幾度もひきおこす。藤橘の争いは、のちの怨霊思想の大元になる。藤原四兄弟の菅原道真怨霊により死滅なども、似た話になる。
蘇我氏の墳墓が、その多くが改葬されて飛鳥から近つ飛鳥へ移されて、本来の方墳に葬られたのは、つまり飛鳥から蘇我の痕跡を消そうということだろう。それをしたのは不比等以外に考えられない。
飛鳥の多くの不思議な石造物の中に、鬼の俎板と雪隠があるが、あれは古墳の石室で、最初の斉明天皇の墓だったと考えられ、その後、近つ飛鳥へ移され、あとの墳墓は壊されたと考えられる。だから雪隠はひっくり返された格好で今に残った。なぜ斉明の墓かと言うと、五条野・梅山・鬼の雪隠と俎板、天武持統陵、文武天皇中尾山古墳が一列に並ぶ、蘇我氏系の王家の墓だからだ。
そして遠つ飛鳥には聖徳太子の墓とされる墳墓がない。斑鳩にもなく、それは近つ飛鳥にあるので、聖徳太子として厩戸皇子が、最初は言われていなかったという考えが可能である。彼はその時代には聖徳太子ではなく、天智、持統、藤原光明子の時代に、伝説的聖人となったのである。その伝説のほとんどすべては、蝦夷・入鹿の怨霊封じのための蘇我氏持ち上げ記事として記録に残された。天智にとっては、太子がいたとすることは、自分が殺した蝦夷と入鹿の怨霊封じであると同時に、白村江敗北で攻めてくるだろう唐・新羅軍に立ち向かうための旗印でもあった。
光明子には太子は、橘氏勢力と立ち向かい、その争いを逃れて仏教に傾倒してゆく夫・聖武のための信仰上の聖人であり、かつ天智同様に、祖父鎌足が殺した蘇我という怨霊へのいいわけだっただろう。