『日本書紀』「応神天皇3年10月条に東の蝦夷(えみし)を使って厩坂道を造ったとみえる。同15年8月条によると,百済(くだら)王の遣わした阿直岐(あちき)に命じて軽坂上(かるのさかのうえ)の厩で良馬2匹を飼育させたといい,現大軽(おおがる)町付近と推定される。」
うまやさか
坂の入り口が戸である。
厩坂の入り口が厩戸。
厩戸皇子の名はここにちなんだと考えられるそうな。
坂の上下には馬がいる。
なぜ?
登るのに馬が必要なやんごとない身分の人がいたから。
すると登る一方では坂の上に馬がたまってしまう。
それで下りも使ってやらにゃならん。それが経済ってもんだ。
クルド人がいるような砂漠では、往来に馬やらくだが使われたが、
砂漠は砂丘で、片方がどうしても坂になる。
それでベルベル人の飼う馬は、片足が短かったという伝説がある。
砂丘の斜面が右側に傾斜していたら右足が長い馬を使い。帰りは左足が長い馬を使ったという。それも経済なんである。
一方通交では、外交や経済は成り立たないものなんだな。
飛鳥に行ってチャリンコを借りる。乗りっぱなしでは貸しサイクリング屋さんから自転車がなくなってしまう。店に戻るとそこはまた飛鳥駅。それも経済だろう?
蘇我蝦夷は、橋を渡ろうとすると、両側からちまたの庶民から、いろいろ要求の声をかけられたそうな。で、蝦夷は二・三人は聞き分けたが、あまりに多いと聞き分けられなかった。しかし厩戸皇子は十人の声を聞き分けた。
蝦夷はさらに、雨乞いをしたけれど雨はわずかしか降らないが、皇極女帝が祈祷すると大雨になったそうな。
聖徳太子のエピソードは、そういう理を実現できた理想像から作られているわけである。
わかる?