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マツタケの歴史は森林枯渇の歴史

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「半島の東から北部は乾燥気候で日本以上に松茸にむいた気候である。しかし中国には松茸はなかったようで、中国へ旅した李氏朝鮮時代の使節が中国人に「松茸ってどんな味?」と聞かれたという記事が『心田稿』にある。

 中国の文献で松茸が出てくるのは1918年の『植物学大事典』が初出であるから、まったく知らなかったと言ってよかろう。

 日本では東日本ではまったく松茸を知らない人ばかりだった。
 「江戸では高すぎて高嶺の花だった」(渡辺信一郎『江戸川柳飲食事典』)
 「手に入っても多くは塩漬けだった」(図説江戸時代食生活事典)

つまり関東以北には松茸はなかった。赤松も少なかったということになる。赤松は関東ローム層やシラス台地などの火山灰地層では育たない。残念ながら。
 『日本書紀』応神天皇条、国樔人の献上品として「茸」とあるのが松茸の初出であるそうな。

 『播磨国風土記』には「甘茸」とある。播磨は今でも松茸の産地。かわかつ買ったことあり。大きくて香りが高い。

 「茸」という文字をキノコ類にあてるのは日本と朝鮮だけ。
 中国では菌、芝など。

これからの穴場はロシアと北の国境であろう。手つかずのシロがありそうである。」
民族学伝承ひろいあげ辞典2007/8/25「松茸、キノコ」より






マツタケの歴史は森林破壊の歴史 
                     そうだじゅん


マツタケが日本を代表するキノコになった理由の裏には豊かだった日本の、人間による森林伐採の歴史がある。本日はその因果関係をもう一度ちゃんとたどってみよう。話は弥生時代、卑弥呼の時代に始まる。

製鉄が渡来すると森林伐採はすぐに始まった。高温を作り出せる炭が求められたからである。その前の縄文時代からでも、すでに船材としての樹木伐採は徐々に増えていた。私たちは現代日本の豊かな森林の、特に原生林と呼んでいる風景を、太古から変らないものと思って生きている。しかし、太古から手付かずの原生林など、実はほんのわずかな僻地だけにしか残っては居らず、ほとんどの森はすべて人間の炭材、建築材、仏像材、船材としてすべて植生が切り替わったものを見ているのだ。

古墳時代から掘っ立て柱の巨木利用が始まる。神社の式年遷宮や王宮の遷都・遷宮は、都市、神社周辺の山々から伐採された樹木でまかなわれた。特に飛鳥時代、王朝が安定化してからは、それが顕著になった。奈良の山々の森はあっという間に禿山と化してゆく。全国神社の式年遷宮の多くが20年ほどの間隔で行われたのは、掘っ立て柱基礎そのものの、土中での腐敗に根本があった。ほかにもさまざま理由はあるが、まず根本は根元が20年もすると腐り、建造物が倒壊したからである。記紀でも、出雲大社がよく倒壊したことを記録している。やがて20年単位の遷宮は定着して神事となることで、慣例化したのである。そしてそのことは、宮大工技術の存続を許した。

蘇我氏~天武天皇時代あたりには、百済仏教とともに礎石を置く大陸型の建造物が入り、奈良の山々からはほとんどの樹木が消えていた。そこで木津川を経由する杣(そま)番匠(ばんじょう)たちのきこりの川による遠隔地からの樹木運搬が開始された。聖武天皇時代には天然痘が流行り、天皇は疫病から逃げるために何度もの遷都を繰り返すようになった。これらは地方での森林伐採を進めてゆくことになった。

日本は季節風が吹く。大陸の高気圧から北西の風が吹いてくる。その風は乾いて、寒冷な風であり、大陸から土やほこりとともに植物の種も運んでくる。人的に伐採された禿山に、種は落ち、植生が変化した。もう縄文時代の植生はまったく変ったと言える。その種の中にアカマツの種もある。アカマツは、ほかの植物が嫌う乾燥した土を好んで育つ植物で、従来の湿った落葉樹の森では育たない。それ以前は奈良・京都で秋の味覚・珍味であったキノコはほとんど平茸であったのが、鎌倉時代前までにすっかりマツタケに切り替わっていた。木曽義仲のエピソードに、京の都に入って国司に振舞うためにキノコを探させたが見つからず、故郷の木曽から取り寄せ食わせた話があるが、それが平茸であった。要するに湿めった森が近畿では消えていたのだ。それを食べた国司はおどろき青くなったとある。うまさに驚いたのだろうか?

そういえばギリシア人が地中海の森林を、船材としてすっかり切り出したために、地中海沿岸は森が消え、そのあとに中東人、ユダヤ人たちがオリーブを植える話が思い出される。フランスでは牛肉を確保するために、豊かなブルゴーニュの森まで伐採し牧草地にしてしまった話もある。そしてそれは西洋では容易には復元しないようである。しかし湿潤な日本では、森の再生が起こる。人の伐採はそれを追い抜くほどのスピードで起きたのである。人工的に樹木を植え始めるのは記録では奈良時代、それ以前もあっただろうが知る由もない。

ただし、植物の種や花粉の分析で、当時の環境再現は今や考古学でも始まっている。その当時の植生は堆積物の年縞(ねんこう)からわかる。その種や花粉は現代の、あとから植えられた植生と違っている。日本では特に違いが出る。つまりそれは日本列島の環境の歴史なのである。

マツタケは和歌にもなっている。藤原定家ですら歌にした。平安時代、日本を代表するキノコはマツタケに変っていた。丹波のマツタケは往古は多すぎて、すき焼きに放り込んで食べるという風習を生んだ。それは今も丹波では続く。しかし、それが始まったのは平安時代、丹波篠山の古い原始林が伐採されアカマツに変ったためであり、環境・植生の歴史上ではアカマツ・マツタケは森林破壊の痕跡として把握されるのである。

さて、今年はマツタケが不作だったという。マツタケは乾燥した日当たりのいいアカマツの、しかも6~10年の稚木の足元でしか育たない。古いアカマツ林だとどんどん消えてしまう。なぜマツタケがどんどん高嶺の花になってきたのかは、こうした理由からである。アカマツの再生が充分でない環境になっていったからである。つまりアジアの、いや地球の気象そのものが大きく変ってきたにほかならない。そしてその歴史も、作ったのはわれわれ人類である。それを現代人は「温暖化」と呼んでいる。温暖化は海を暖め、雨が増える。インドシナの熱帯雨林のように日本の森を変えてゆく。そこにマツタケなど生えるはずもなくなる。これはもう止められない日本列島の運命だ。

森の変化は、海の資源すら変えてしまう。漁獲量変化も起こっている。鯨の北上コースにも影響する。プランクトンの多い海の場所を変えさせるからだ。そしてまた、海賊的な海外漁船の乱獲がこれを助長している。あなたの子孫の時代に、日本人はもう魚もキノコもまったく違うものを食べていることになるのだろう。伝統はこうして消えてゆく。そして新たな生き方が求められ、変らなければその民族は滅びるしかない。

ただそれだけのこと。それも歴史。



参考文献 田家 康『気候で読み解く日本の歴史』2013 日本経済新聞社出版

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