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蘇我氏は嗽加氏と書く? 大宝蔵殿銅像釈迦如来及び脇侍像光背銘文

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法隆寺大宝蔵殿銅像釈迦如来及び脇侍像(脇侍がひとつ失われている)
 




法隆寺大宝蔵殿銅像釈迦如来及び脇侍像光背銘文(造像記)

戊子年十二月十五日朝風文
将其零濟師慧燈為嗽加大臣
誓願敬造釈迦佛像以此願力
七世四恩六道四生倶成正覺 


大意
戊子年十二月十五日、朝風文将、其れ濟師慧燈をして、嗽加大臣の為に誓願して、釈迦仏像を敬造せしめたまふ。此の願力を以て、七世の四恩、六道の四生、倶(とも)に正覚を成さむことを。


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法隆寺大宝蔵殿銅像釈迦如来及び脇侍像光背銘文(造像記)




嗽加大臣は音読で「そうか」と読める。「嗽」は「漱ぐ=すすぐ」でうがい(夏目漱石のペンネームは「石を枕に流れに口漱ぐ」の漢詩をさかさまにもじって石で口を漱ぐとした)のことであるが、この場合は、意味は関係なく、単なる当て字である。文献史学では一般的に「そが」と読ませて蘇我蝦夷、あるいは当時すでに死んでいた馬子のことだと言われている。理由は戌子(ぼし)年十二月十五日は推古36年(628)に当たるので、当時の大臣は蘇我蝦夷しかいないからである。馬子なら追善を蝦夷が行ったのであろうが、いずれにせよ当時生きているのは蝦夷。

ただし。
この光背銘文も、あとから彫ることはいくらでも可能で、安易に信用できない。
嗽加大臣が蘇我大臣であったなら、蘇我氏はあくまでも大王の大臣であることになり、大王であったことはないことになる。


「そそぐ」は罪を漱ぐという後世の後付けの可能性もある。「すすぎくわえる」という文字構成だ。嗽加が双方ともに「口」を持っている漢字で、すすぐは特にこの文字を選んだとも考えられる。その場合、銘文そのものが蘇我氏シンパによった後世のものとなるだろうか?

この仏像の様式が止利式(鞍作止利が造ったというよりもその工房全体の作風。北魏風とも)であるので、当然、法隆寺西院釈迦三尊像などと同じく、あとから弟子=止利工房により造られた可能性はある。もっとも仏像と光背は付け替えが可能。問題は光背銘文の作られた年だろう。

釈迦三尊の銘文は、区切られた一章ごとの書体がすべて同じ時代のものとは言えず、部分的に後年、意図的に書き加えがあった可能性がある。また銘文にある「法興」年号は記紀では存在しない。ただし、それが蘇我王朝によった私年号であって、記紀編纂時にそれらは消されたと考えるなら、むしろ法興年号は実在したが藤原氏によって消された、蘇我も実際は「嗽加」表記が正しく、『日本書紀』の蘇我は滅ぼしたゆえに卑文字に変えられた、と考えることになろう。法興を九州年号だったなどと考えるよりも、蘇我年号だったと考えたほうが現実性が高くはなかろうか?


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しかし、蘇我は石川の地名で宗我とも表記され、その音は「そうが」となり嗽加(そうか)に近くなる。結論は出せない。

なお止利式で、脇侍型菩薩としてやはり止利工房が造っただろうと言われているのが夢殿の秘仏であった救世観音像である。戌子年像の脇侍が様式で非常に救世観音に似ている。救世観音像はもともと西院釈迦三尊の脇侍であったものを、単独菩薩像として調整した可能性が指摘されている(『日本の古美術3』保育社1987 町田甲一企画・大西修也)。

おそらくその調整を天智・持統親子か藤原光明子がほどこさせたか?



聖徳太子を蘇我蝦夷だったと考えたら、以外に矛盾が消えてゆく。
蝦夷の事績を陰画にしてさかさまのことをさせると聖徳太子になる。

●「橋をわたるとき(坂を上るとき)、民衆に一度に質問攻めにあい、大臣は一部は聞き取れなかった(すべて聞き分けた)。

●雨乞いをして大臣は雨を降らせることができず、女帝が祈ると大雨になった(大臣が祈ると大雨が降った)。

●豊浦寺を別宅にし、仏教に帰依し、甘樫丘に屋敷を立てて、警備させた(近つ飛鳥に住み、斑鳩宮を宮として、仏教に帰依し、皇太子となった)

●息子の入鹿が誅殺された(息子の上宮王家が殺された)。


いかがかな?

















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