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うるち米ともち米のルーツが違うのは奇妙じゃないか?縄文のモチは東日本でも四角くはないはず


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歴史学も考古学もう水稲=うるち米のルーツは朝鮮半島から、また陸稲のルーツは中国江南としているようだが、それで本当にいいのかな?

もち米の渡来ルーツを調べると、だいたい東南アジアだとしてある。どうしてうるち米とモチ米はルーツが違うのか?


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もちは縄文時代からある。
ならば陸稲と一緒にもち米が来ていてもおかしくない。
ならばそのルーツはスンダランドということになる。
ただし縄文時代だ。後期である。


水耕栽培の稲作は江南か、半島南部から来たが定番意見だが、江南のほうがふさwしく思ってきた。南方植物の米が先に寒い朝鮮半島にいくというほうが変だからね。
しかし縄文の陸稲はインドシナか江南だったと言う学者が多い。おいおい、弥生の水稲は半島からで、それより古い縄文の陸米は江南ですか・・・。矛盾するね。



だったら原産地だったインドシナからどっちも来たとはなぜ考えないのか?もち米と一緒に。


もちで調べるとこうなっていた。

「考古学の分野では、間壁葭子が古墳時代後半(6世紀頃)の土器の状況からこの頃に蒸し器の製作が社会的に普及したと判断し、日常的に蒸す調理による食品の種類が増し、米を蒸す事も多くなり、特に餅を作る事も多くなったと考えている[3]。ただし、蒸し器の普及には地域差が見られ、佐原眞の『食の考古学』(1996年)によれば、6世紀時点の西日本では土器の状況から蒸す調理より煮炊き中心で、蒸す食物(餅も含む)はハレの時に用いられたとし、むしろ東日本の方が蒸す調理用土器が普及していたとしている。

日本における餅に関する記述として、『豊後国風土記』(8世紀前半)には次のような内容の話が語られている。富者が余った米で餅を作り、その餅を弓矢の的として用いて、米を粗末に扱った。的となった餅は白鳥(白色の鳥全般の意)となり飛び去り、その後、富者の田畑は荒廃し、家は没落したとされる。この記述は、白鳥信仰と稲作信仰の密接な繋がりを示す証拠として語られ続けている。また、この記述自体が古来から日本で白鳥を穀物の精霊として見る信仰があった事を物語っている。」Wiki「餅」より




うるち米は弥生時代に西九州(佐賀県菜畑遺跡)へというのが考古学の定説。しかしもち米については言及が少ない。東北にうるち米が来るのは九州からでまず間違いないが、ではもち米はなぜ早くから東北の縄文人は知っているか?三内丸山遺跡(縄文後期)からはもちだけでなく、中国の文化の痕跡がいくつも出ていて、青森の縄文人が丸木舟で中国江南長江文明と交流していたことがわかってきた。その長江文明というのが商(殷)という国である。ここは黄河の北に都を持った。普通なら中華国家は黄河と長江のあいだの「中原 ちゅうげん」という場所を首都にする。なぜ黄河の北だったか?ステップロード交流ではそこが一番西域から近かったからである。メソポタミアから海岸沿いでは中国へは遠い。西域商人の民族は多くが騎馬、ラクダで運搬するから平坦な砂漠や草原が得意だ。ヒマラヤを大きく北へ迂回して物品も文化も中国に入る。その入り口が商が選んだ黄河北部なのだ。

で、商の文化には米と小麦の両方が存在した。
本来、長江文明人は南の長江内陸(三国志時代なら蜀のあった場所)から出るが、首都はワイ河のデルタ地帯で、北部の都市はシルクロード交流のためのわざわざ作った受け入れ口だった。ワイ河は黄河支流で、複雑に支流を作って南の長江へと舟を導くいわゆるジャンクションだったからまず首都に。だから最初は中原こそが中心地。しかしやがて西との交流が首都を北へと動かす。


だから商はいろんな地域の文化を取り込めた。それはそのまま反対に世界中に文化を伝えられるということでもある。米が極東へ行くならこのルーツが一番最適地だとなる。ならば黄河・長江で奥地の商へ行ける縄文人にもち米が伝わるのならここが最適とまずは考えるべきだが、モチを調べるとどうも中国には米のモチがなくて小麦粉を蒸して作るらしい。じゃあ朝鮮のモチはとなると、米は米なのだが、一旦米粉にしてつくので、どっちも日本のモチとは製造法・原料が違っているのだ。帯に短したすきに長しなのだ。


だから、もち米だけはインドシナから拡散したとなるわけである。


スンダランドがあった時代、主食はもち米。それが海進でなくなってゆくと、難民が舟であちこちへ。もち米持参で日本へ・・・となったわけなのだ。



ところが面白いことに、もち米は縄文人のいる東北があったかい頃ならじゃんじゃん生産できたが、弥生時代から鎌倉時代あたりで二度ほど日本が寒くなった頃から作れなくなる。これは小豆などもそうで、東北は寒冷地になったので温暖地植物が消えてしまうのだ。だからケンミン番組でも、東北の多くの料理では小豆やもち米のかわりにほかの豆やうるち米が使われる「代用食」になったんだろう。


大豆も商経由でやってくるが、大豆もまた南方系だから東北から消えたらしい。



するとそのもちって丸くなかったか?だって丸めるほうが、鉄器がまだの時代なら造りやすい。四角にはなるわけない。四角いモチは日本では武士の時代からだ。古代はもちは日本じゅうで丸だったはずだ。縄文時代の三内丸山のもちも丸である。そもそももちとは「望月」で完全型である。完璧を表現しているものだ。四角は不完全だし、わざわざ切らねばならない。四角にするのは、東北が異常乾燥地域で、四角のほうが保存しやすいからだった。それが起きたのはあきらかに東日本が寒くなってからあとのことなのだ。あったかいなら丸のままだっただろう。関東が武士が多いから四角にしたというのはおかしい話。だってうなぎは腹を切るので背開きにしたのpが武士社会だったからというのは、まあわかるとしても、モチだけは切って四角くするのもダメだろう?切るのは縁起が悪いじゃないか?そんなのは後世の勝手な発想だ。















栃モチ見てご覧。丸いじゃないか。

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モチは本来丸いんだよ。絶対に。


















































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