記紀神話でスサノヲには二つの神格が与えられている。
ひとつは災害神そのもの
ひとつは災害神に対する障碍神(しょうがいじん・災厄を避ける神。道祖神や猿田彦などもそう。道の神=ナビゲーターの神格を持つ)としての神格である。
矛盾すると思われるかも知れない。
しかし「鬼を殺したモノは鬼」となるという古代史信仰の方程式には合致する。
スサノヲとは、一言で言えば「自然神」である。
その点で、ほかの三貴神の太陽=アマテラス、月=月読となんら変わりはない。
その視点で言うなら、スサノヲは明白に地球だ。
ただし、地球上で起きる自然現象の神である。
スサノヲのスサは「スサム」で、漢字では「荒む」、つまり荒ぶるという意味になる。だからスサノヲは「荒神」なのだ。
荒ぶるという一面と、正反対の荒ぶるモノ(=神話では八岐大蛇)を退治する神なのである。八岐大蛇は明白に河の氾濫であり、スサノヲはそれを出雲では治める。つまり治水=地域の開闢と統治=大王となる。
出雲は都の北西=黄泉、祖霊の来る方向にあっやがために、そういう統治されるべき地方の代表にされただけのことで、中央為政者から見れば、為政者が住まう場所以外はすべてそういう場所である。スサノヲに関して出雲だけに依りそうのは間違いである。これは記紀の中国史書・軍記から学んだ勧善懲悪思想だったというだけだ。
スサノヲとは、要するに高天原から「追い出された」「敗北者」である。ゆえに放浪する。放浪とは漂泊である。そのことは、ヤマトタケルもまったく同じである。蘇民将来がときにスサノヲで、武塔神とされるのは、「むとう」=無塔ではないか。塔は仏教のシンボルなので、そうではない神と言うことか?
正月前にCATVが繰り返し「日本誕生」東宝映画をやっていた。ご覧になっただろうか?筆者の世代ならこの映画は小学校で見せられた人も多かろう。三船敏郎主演だった。筆者には忘れることのない想い出の作品だった。今回二度ほど観た。
(ちなみに、この年末~年始にかけて筆者が観たテレビ番組は、この日本誕生、大林監督尾道三部作とハウス、伊丹十三のたんぽぽ、篠田さんの英雄番組の弥生~蘇我氏まで、ぶらタモリ再放送四連続特に京都鴨川、料理研究家土居喜治の究極の料理食べ歩き、孤独のグルメ再放送、2001年宇宙の旅、紅白歌合戦大トリ、などなどである。紅白に天才作曲家である「ゲスきわ」が出られないのは日本のPOPSにとって残念だったが。あそこのキーボーもベースも天才である。)
「日本誕生」にはスサノヲ神話がいくつか挿入されているが、是非、今の神話無知な若い人には観てほしい映画だ。
スサノヲにはもうひとつの神格分類がある。
さきほども申したように、追われたものという視点である。
高天原から追われた彼は、つまり敗者である。
敗者がアジールを探し漂泊する。
たまたま出雲に行き着き、そこで荒ぶる、地方の災害神であるヤマタノオロチを平定し、盟主となる。さらに人間的な人格も持たされる。
それは喜怒哀楽である。
人間的なそこに多くの愛好家も生まれるのである。
なぜ、アマテラスや月読にそれがないか?
当然である。
われわれ人類、日本人が住んでいる地球ではないからだ。地球外の存在である太陽と月は、申すまでもなく地球外にあって、ゆえに冷徹な存在であるが、同じ地球の気象現象である災害の神であるスサノヲには、喜怒哀楽がある。それは気象・天象がそういう存在だからだ。身近な自然神だからスサノヲは愛されてきた。なぜなら人間そのものがスサノヲだからだ。
2001年宇宙の旅の冒頭で、人類原初の祖先である猿人が、動物の骨という道具をはじめて使うことに気付くシーンがある。人類の歴史的イベントのひとつである。人類は、道具、火、肉食によって脳を大きくし、60万年でホモサピエンスとなれた。しかし反面で、その道具を武器として、敵をたたきのめしてテリトリ-を確保できもする。それは現代の戦争の始まりでもあったわけだ。
やがて、蘇我氏もそうだったが、敵対する反抗勢力が、英雄を追い出そうとする。歴史とはまさにそれそのものだとも言える。
織田信長はなぜスサノヲの神文である木瓜を使うかと言えば、信長自身の先祖が福井の漂泊者であり、スサノヲと同じ敗者だったからである。だからこそ信長は敵に対して完膚なきまでの「滅ぼす鬼」になれたのだ。
キュウリの神文は今や八坂神社の神文である。スサノヲを祭るのは平安時代の御霊信仰からであり、スサノヲがたたる神だとされてからである。
その根源にはスサノヲが追われて漂泊する被差別者という発想がある。
災害は人を喰うと往古は考えられた。災害で多くの民人が死んでゆくからだ。死とは神に食われることだったのである。そこから生贄が考え出された。食われるのなら、神に先(せん)から「えさ=にえ」を食わせて饗応しよう。ご機嫌を取ればあまり人を喰うこともなかろう・・・。そういう災害障碍信仰である。日本の。いやアジアの古い神がそういう存在だったことはそれで説明できる。そこから障碍神が生まれ、ニエを神前に供えるようになるが、最初は今のような供物ではなく、女人だったことはヤマタノオロチの生贄が奇稲田姫(くしなだひめ)だったことでもわかるだろう。
明治時代ですら生贄・人柱が江戸城に埋まっていたことはすでに常識である。
すべて女性である。なぜか?
子孫を産む存在だからだろう。子孫が絶えればそれはそこを乗っ取ることになる。
ついでだが、日本人はあと少しで絶滅するという。それは女性が子供を産まなくなった、男が結婚を恐れるようになった、双方の理由である。ひとつのカップルが二人以上の子供を産まねば、計算上、日本人は半減するのは自明の利であるが、現代では結婚すらなくなっていきつつある。すると日本人はすぐに絶滅。減少したら税金を納める人口が減るから、いきおい、国家はどんどん税金を増やすしかなくなる。つまり子供を産まない、結婚しないと言う現代の若者たちの志向性は、そのまま自分の税金を増やしていることになるわけである。こんなことは子供でもわかるはずなのにである。
税の頭割りが一人当たりどんどん上昇する。いくら物価が上がったところで、意味がないのだ。景気がいいというのは企業だけで、国民にはその実感がないという不思議な現象が今起きている。
スサノヲは、そうした敗北者の逃げ惑う神であるから、当然、差別される民衆のことをあらわす。ゆえに彼らは荒れる。ゆえに「荒神 こうじん」が生まれる。
それが漂泊して宿を借りる。それが「宿神 しゅくじん」で、漂泊者も「しゅく」と呼ばれだし、夙となり江戸期にはそれがヒニンと言われ始めた。
宿を借りる漂泊者を神として、北西=戌亥から風の乗って来訪する祖霊に重なる。これが各地で祭りとなって「ヤドカリ神事」となる。宿神はあなし=風の神ともなり、つまり風来坊に重なる。諏訪では風を切る神事が阿蘇氏によって定着すると、「それまでの縄文由来の巨石信仰とないまぜになり「しゃくじん」が生まれた。これがいわゆるミシャグジー信仰である。縄文人もかつて渡来人によって故郷を追われた敗者だった。ミは敬称の御で、シャグジーは「し」=風の通る道つまり聖地だ。社口ともかかれるのは神社が要するに災害の通り道をふさぐ障害として置かれたからだ。その神社が聖地としたのが巨石や林=自然そのもの=神のいる森だったのである。自然とともにいない現代人にはそんなこともわからなくなっている。
諏訪の神長館にある季節風を祭る祭壇には4本の柱が立つが、重要なのは北西と南東の柱で、あきらかに季節風を意識している。
信州の多く、静岡などで家の屋根に刃物を突っ立てる風切り神事風習は有名である。
スサノヲにはそうしたあなしの季節風や夏の台風のイメージがもたらされている。だからこそヤマタノオロチという梅雨の大雨と河川の氾濫を、夏の台風が終わらせる=梅雨の終わり=イネの順調な生育へとつながった。
災害には荒ぶる一面と、前の災厄を終わらせてくれる災害払いの二律背反する神格が、こうして生まれることとなる。
さらに言えば・・・
蘇我氏もまたそういう存在だと思われたのではあるまいか?
蘇我氏は天皇家が生まれる前の王家である。
もし都塚古墳が稲目の墓であると確かに証明できるなら、それは前方後円墳からの墓制の一大変化だったのであり、蘇我氏と、吉備・息長血脈である天智・天武政権の、明確に別種王朝だったことが証明できるだろう。考古学にはどんどんそこをやってほしいわけである。都合が悪くなると意見を潜める学問ではないことを祈る。ま、無理だろうな。所詮、捏造のある学問ではな。は。
祇園信仰が京都で流行り、八坂神社は祇園さんになったが、そもそもは、鴨川の氾濫対策で、河岸拡張があり、それまで鴨川河岸にでっぱっていた八坂神社が、内陸になってしまう。その埋立地が今の四条花見小路あたりで、ここが本来の祇園である。そこには河原モノが多くいて、これを追い出して花街ができたのは江戸の吉原と同じである。その祇園が八坂神社の名前になる。そこから祇園信仰が生まれた。祇園精舎はサンスクリットの怨霊鎮護の神であった。
このように怨霊鎮護と花街誕生には深いかかわりがある。そもそも、鎮護したかったのは河原ぬ巣食う被差別民であり、それを技芸によってオブラートしたのであろう。技芸は朝鮮ではキーセンだが、日本の芸者は御茶屋の中で芸をし、キーセンは宮中の外で舞った。日本で芸者が置く座敷の隠れたヒメ事芸になる裏には、やはりアジールに引きこもるおたく的な敗者の隠れ家的な卑屈さがある。
日本人は日本列島と言う、隔絶されたアジールに引きこもった、そもそもが歴史上のおたく=スサノヲなのである。ときおり荒れ、ときおり和らぐ。それが実は人類のサルとしての本質なのだ。
ところで猿が進化した人類・・・ものまねで進化してきた。ではいったい、先祖のサルたちは、なにを真似して進化できたのだろうか?人類より進んだ何者かが、われわれの手本として60万年前に地球に存在したのか?
いずれにしてもサルが道具を発見したとき、それは大イベントではあったが、それにより確かに脳が発達し、どんな生き物よりも早急な進化も可能にした。しかしそれは同時に種としての人類の滅びを急速化することでもあったのだろう。