古代史には多くの解けない疑問がある。
その中で
1 石槨内での銅鏡の置かれ方の疑問
2 銅鏡祭祀の始まりと大和への移動の歴史が畿内銅鏡配布説と矛盾
3 ついでに狗奴国はどこにあったか
の、3点をメモしておきたい。
まず1
銅鏡の配置の仕方、置き方
これは今のところ筆者も古墳時代、大和の黒塚古墳の画像しか見ていないので、専門家に聞いてみたいことがらになる。
黒塚古墳の三角縁神獣鏡の置き方
黒塚古墳では石槨の中に長い割り竹型木棺が収められ、その外側と石槨石組みの間に、30枚以上の三角縁神獣鏡が無造作に置かれていた。それも被葬者が安置されていただろう位置の下半身方面の両側に鏡面を外側(訂正!内側でした)にして並んでいた。鏡面とは顔が映るほう。模様がない側。
内向きというのが気に入らない。
鏡は、弥生時代までは巫女が胸にさげて、必要に応じて「祭天の呪具」として天の太陽光線を反射させていたと考えられている。しかし古墳時代には船の両側に吊り下げて魔よけにしたり、古墳内では死者にとりつく魔物を追いやるために鏡は外向きに置かれるのではないかと思っていた。
しかし上の画像でもわかるように、鏡はすべて鏡面を被葬者の側に内向きに置かれている。これは理屈に合わないのではないか?これでは魔物は払えない。ここがわからないのである。
同じ黒塚古墳で、唯一の鏡、画文帯神獣鏡である。
この鏡はたった一枚しかなく、しかも被葬者の頭部真上に写真のようにささるように突きたてられていた。しかもちゃんと頭部を護るように鏡面を外側に向けてある。
三角縁神獣鏡の扱い方のあまりにもぞんざいなのに首をかしげる。
下半身に置かれていたことじたい、意味はなんなのだろう?
木棺の外側に置かれたということは魔よけとして、画文帯ほど重視されていなかったとは、よく聞かれる意見でこれは納得できる。しかし鏡面くらいは外向きにしておかねば、魔よけとしてもまったく期待されていないことになってしまう。すると、こういうことだろうか?この鏡は死者が反ヨミガエリの呪で封じられた?
しかしそれなら木棺内部の画文帯の置き方と矛盾する。
さっぱり理解しがたい。
黒塚以前に大量の三角縁神獣鏡を出土した南山背の木津川流域にある有名な椿井大塚山古墳ではどうだったのだろう?発掘が古いのでネット上に発掘当時の内部写真を見ることがない。
ここの鏡は例の大和中心主義の権威である小林行雄氏が言い出した「分配説」が有名であるが、もちろん、今そんなのんきなことを言う学者は小林シンパの古い大和説学者くらいのものだろう。そもそも南山背では畿内の古墳だと言えないし、木津川の支配者がなぜ大和を差し置いて全国に鏡を配布するかという基本的部分の考察が欠けている。
この先走った迷惑な思いつきが、これまでどれほど大和が当然一番説を生み出したことだろう。罪作りなことである。実に非科学的である。
まず木津川の勢力の詳細分析が必要である。それをしないで数が当時一番出たからというだけで、分配したとはまずもって京大らしからざる大失敗ではあるまいか?
木津川と云えば継体大王を輩出した息長氏が思い浮かぶ。そして大住車塚古墳のある隼人である。さらには狛地名で考えられる高句麗や半島経由の渡来系氏族もいる。中でも息長氏の先祖だった場合、記紀天皇系譜の息長系天皇の出現が遅くはなかったことも考え付く。もしそうなれば、三角神獣鏡の分配が大和朝廷の中に入り込んでいった息長氏によるとなり、三角縁分配説の信憑性はもっと高まったはずである。
2の銅鏡配布が大和からという説だが、これも奇妙な説である。
墳墓に漢鏡を入れる風習はまずは弥生時代に筑紫で始まった。だから日本でこの風習を開始したのは筑紫の氏族である。それがなにゆえに先進地九州から地方へ配布されずに、まだ作られたばかりの大和から配布されねばならないのか?ここがわからない。
しかもその鏡は粗製濫造の青銅鏡である三角縁神獣鏡などとは笑止千万ではないか?それは確かに後漢がその頃にはもう鏡を作っている場合じゃないほど北の公孫氏によって衰弱していたから、国内で造らねばならなかったかもしれないが、平原遺跡などでは自前で銅鏡を作れていた。先進地筑紫がもらって嬉しかっただろうか?
「農耕文化は九州から全国へもたらされたもので、そのことは意識されていたかもしれません。弥生文化に伴う南海産のゴホウラ貝の腕輪が、その後(貝釧(かいくしろ)やKawa)鍬形石として古墳祭祀に受け継がれるなど、古墳時代の文化には、弥生時代から継続しているものが数多く見受けられます。また、先進文化は九州を通して大陸から輸入されており、九州を無視して国造りはできなかったのでしょう。三種の神器につながる、鏡・玉・剣を王の墓に埋納する祭祀は、北部九州では弥生前期にさかのぼります。考古資料ではヤマト政権につながる勢力が九州から畿内へ東征した証拠は見あたりません。したがって、ヤマト政権が古墳祭祀を確立し、全国を平定しようとする際に、九州勢力への配慮を欠かすことができなかったため、先進文化を持った九州勢力を天皇の祖先としてあつかい、古墳祭祀の中にその祭祀を取り入れたのではないでしょうか。神武東征の伝説も天皇と神を結びつけるとともに、九州勢をヤマト政権に取り込む仕掛けの一つだったのでしょう。」
考古学・古庄浩明 『考古学が解き明かす古代史 日本の始まりに迫る』 朝日新聞出版 2012
実に正鵠な判断であると云えよう。
ヤマトはまだ力不足で、全国の古くから続いた実力者たちを力では押さえ込めなかった。だからいくさの痕跡が出てこないのである。もちろん九州へ遠征することなどできるはずもなく、甕棺の中の戦争被害者や山口県日本海側や鳥取県で出てくるいくさの痕跡はヤマトと地方の争いではなかったのである。ということは記紀の国譲りもまた、ウソだったということになるだろう。
3 狗奴国はどこにあったか?熊野ではまた南に戻るじゃないか
邪馬台国大和説がでは狗奴国はどこにあったかと聞かれると、古い学者はだいたい纒向の南にあった紀伊半島・熊野であろうと口にしてきた経緯がある。これまた矛盾に満ちている。
魏志の方位を南を東に強引に変えてまで大和まで持って来ようとしておきながら、では狗奴国はとなると、とたんに魏志の「邪馬台国の領域の南」を採用して熊野・・・。おいおい、それはないでしょう。
南が東の間違いだったら、大和の東の尾張以北・以東にするのが当然じゃあないですか?だったら埼玉の稲荷山古墳周辺とか狗奴国的な隼人集団と親しかった尾張氏の濃尾平野に持ってこなければおかしいでしょう?
尾張氏なら神武東征でも熊野にいたとなっているし、前方後円墳とは別の氏族と考えられる前方後方墳文化圏であるから、何も南の出張所熊野にしなくても、本拠地尾張以東でいいじゃないですか?
狗奴国については方墳・前方後方墳の点在する日本海から太平洋側、関東までが連合体で、大和はぐるっと取り囲まれていて、瀬戸内も筑紫に牛耳られていたし、細々と琵琶湖から福井に出て、出雲を中継地にして半島へ出るしかない情勢は如実。ということは、考古学的にも史学的にも、やっぱり神功皇后~息長~継体とうまくつないである継体系譜がここで大和説をたすけてくれるはずなのに、そこは使わない・・・。奇妙なことだ。
ヤマト説は、このようにどうしても自前で全国豪族を平定して朝廷を形成したと思いたいらしいのである。だから多くのファンがなかなか納得しないのだ。そいう居丈高なところを反省して考ええくれないと、大向こうは納得しないのじゃないか?
朝貢外交の時代、強力な中国の後ろ盾さえ手にすれば、中身はからっぽでもなんとか盟主に持ち上げてもらえたのが弥生~古墳時代であろうことは纒向の中身を見たらまさにそのとおり、吉備や九州の祭祀と墳墓埋納に、東海・信州の土木工人たちが飲み食いした土器ばかり出てくるので気がつくはずだ。3~6世紀はずっとまだ連合体なのである。だから鏡の配布とか寝ぼけた夢のようなことを言わないことだ。
もっと推理愛好家たちをうならせるアイデアを出してこなくては。
一応、東大や京大を出ているんでしょう。しっかりし、ヤマト説。
また九州説も、吉野ヶ里以降、これといった目覚しい発掘がないよ。こっちもしっかりしてくれ。
どっちもわれわれをもっと喜ばせてくれよ。
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