久しく記事を書かない。
なぜか?
その理由は山のようにある。
そして、その理由についても、ずいぶんぼくは悩み、いかに整合な答えを見つけようかと、この二月と三月に費やしてきた。
その1はもちろん、書き続けてきたものが一旦やめたときに生まれる、安息の心地よさだが、しばらくずぼらをしていると、今度は「いいのか?」「書かないのか?」「どうすrのだ?の葛藤がやってきた。そんなことは表現するものなら誰にでもいつかはやってくるものだ。
やがて、言い訳を考え始める。
そして行き着くところは、これも誰でも同じ。
重い言葉だが、「責任」であった。
このブログに、毎日数百人の、ぼくが何を言い出すかを期待してくれ
る読者が来てくれる。その重さである。当然、筆者のぼくはそれに答えねばならない。そういう重圧が毎日、毎時、かかっていることを意識してしまう。
次に、「そうでhない」という煩悶が訪れる。
誰も期待なんかしてはいないんだ、という否定である。
しかし、その否定は、同時に自己すら否定することとなってしまう。
いい加減な推理推測だけを・・・ただその日の思いのままに書き連ねていればよかった時間は、楽しいだけの”ドリーム・タイム(夢見の時間)”でしかなく、それに引かれて読んでくださるあなた方に、なにかの問題を提示していればよかったが、さて、時は過ぎ去り、やがて、これまで書いてきたことどもの、「その判断でよかったのか?」が始まった・すると書き手は、何も書けなくなったのである。
さて、海民のことを書こうと、一ヶ月以上、思い悩んでいる。
書くことで、迷惑を感じる人もいる。これまではそんなことには無頓着だった。しかし、困る人々の中には、たまさか、死を選んでしまったりもあるかも知れない。
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それでもなお、海の民の日本人への重要性は書かねばならないのだ。
海人が「ただの海賊だろう?」とか言う人々がいる限りは。
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孫右衛門について書く。
大阪の雑魚場魚河岸を開き、たまたま、信長に呼ばれて関西へ来ていた徳川家康に出会ったことから、その海民の子孫は江戸の日本橋に魚河岸を作ることになる。今の築地市場の前身である魚河岸を、攝津大阪の海の民が作ることになったのだ。そんぽ日本橋魚河岸が明治に移転したのが今の築地市場である。
彼ら摂津海人族漁師たちの「板子一枚下は地獄」の心意気は、江戸っ子気質の地盤を形成することとなる。
なぜ大阪の海岸部にそうした海人族が集住したかの歴史と、江戸っ子気質が生まれる背景にあった海人族の、縄文後期あたりから引き継がれてきた「倭人の魂」が、日本人の性格の形成に、どれだけ関わってきたかが重要なのだ。
元本は中沢新一『アースダイバー 東京の聖地』2017である。
復活のきっかけ
それがこの記事になると自分自身願っている。
がんばれと激励してほしい。
言葉が欲しい。