Quantcast
Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1881

アメノヒボコ・ツヌガアラシト=鉄、アカルヒメ=銅の渡来を象徴

$
0
0

アメノヒボコとツヌガアラシト、そしてその妻であるアカルヒメの渡来ルートや相関関係は、これまでも渡来を考えるうえで重要として、筆者は何度か記事にしてきた。あるいは著書にもいくらか書いたりもした。

天日矛=製鉄渡来の象徴
都怒我阿羅斯等=製鉄渡来の象徴
阿加流比売=製銅渡来の象徴

今回筆者はここに行き着いた。
その渡来ルートはすでに図表にしている。


上田正昭『渡来の古代史 国のかたちをつくったのは誰か』を今回読み直した。
上田はヒボコ・アラシトは製鉄集団であろうとしている。それで筆者にひらめきがあったのだ。これまで一般的に彼らは銅矛氏族だったのではないかという説が多かった。理由は兵庫県豊岡市気比で銅鐸が出てきていたからである。日本海に面した気比浜から少し南下したところに気比神社がある。この名前はアラシトの本拠地福井県敦賀市の気比神宮と同じ地名、社名である。いずれも神功皇后や応神天皇に関わる伝承が中心にあるが、それはこちろん記紀中心志向の神社側からの主張であり、実際の祭神にはなくともそもそもは気比大神=都怒我阿羅斯等を祭っていたものに相違ない。


イメージ 2
有名な城崎温泉から円山川を隔てて対面する一帯である。この川は往古は深く出石町までえぐれた良港である。船で出石神社のあるところまで進入出来たことは、ここで古代船の遺物が出たことから確かである。


社号 式内社 但馬国城崎郡 気比神社
 読み: 古 ケヒ 現 けひ
所在地 兵庫県豊岡市気比字宮代286
旧地名 但馬国城崎郡田結郷気比村
御祭神
 主祭神 五十茶狭沙別命(いささわきのみこと)
 配祀神 神功皇后 仲哀天皇
 (じんぐうこうごう ちゅうあいてんのう)
社伝によると、和銅2年(709)の創祀。
神社から北へ少しの場所に、銅鐸出土地の史跡がある。
この地、兵庫県豊岡市(当時城崎郡港村)気比字鷲崎の突端において、大正7年(1912)9月15日港東小学校改築用の石材採取作業中に、東側の岩窟内部より出土した渦巻文流水文銅鐸4個は、東京国立博物館に所蔵されている。


●気比(ケヒ・けい)のいわれ
『国司文書 但馬故事記』城崎郡に、「 第14代仲哀天皇2年、
 天皇は皇后・息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)とともに、越前笥飯宮(けひみや)に行幸されました。百名が従いました。そしてのち、皇后を笥飯宮に置き、さらに南を巡狩し、紀伊に至りました。

この時、偶然にも熊襲(くまそ)が反(そむ)きました。
天皇は使いを越前笥飯宮に遣わし、皇后と穴門国(長門国)に会うことを教え給い、自ら海に泛(うか)び、穴門に至り給われました。

皇后は越前角鹿(今の敦賀)より御船道を北海に取り、若狭の加佐・与佐・竹野海(丹後)を経て、多遅麻国の三嶋水門*に入り、内川(円山川)を遡り、伊豆志大神に詣で給われました。

伊豆志(出石)県主・須賀諸男命は、その子・須義芳男命に教えて、皇后に従わさせました。

 須義芳男命は、豪勇にして、腕力があり、射狭浅太刀を携えて随身しました。これを荒木帯刀部命と云います。

皇后は下って、小田井県大神*1に詣で、水門(気比)に還り宿られました。ある夜、越前笥飯(気比)宮に坐(いま)す五十狭沙別大神(いささわけのおおかみ)が夜の夢にあらわれ、皇后に教えました。
「船をもって海を渡るには、すべからく住吉大神を御船に祭れ。」と。
 皇后は謹みて教えを奉じ、
 底筒男命・中筒男命・表筒男命を祀られました。船魂大神これなり。
いま住吉大神を神倉山に祀るは、このいわれに依ります。(絹巻神社*1・名神大 海神社)

また御食(みけつ)を五十狭沙別大神に祀りました。ゆえにこの地を気比浦と云います。(今の豊岡市気比ノ浜・式内 気比神社)

のち、香飯大前神十三世の孫・香餌毘古命は、五十狭沙別命・仲哀天皇・神功皇后
をこの地に斎き祀ったと云います。


城崎郡田結郷気比庄
 気比(ケヒ)・田結(タイ)・湯嶋・桃島・小島・瀬戸・津居山
 右 気比庄と云う。
下鶴井・赤石・結(ムスブ)・戸島・楽浦(ササノウラ)・飯谷(ハンダニ)・畑上・三原
 右 下鶴井庄と云う。


●ひめこそ伝承とは?
昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、天之日矛と出会った。天之日矛は、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしても天之日矛は許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。天之日矛がその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。
天之日矛は娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶった天之日矛が妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津に逃げてきた。その娘は、難波の比売碁曾の社に鎮まる阿加流比売神であるという。

都怒我阿羅斯等は自分の牛に荷物を背負わせて田舎へ行ったが、牛が急にいなくなってしまった。足跡を追って村の中に入ると、その村の役人が、「この荷の内容からすると、この牛の持ち主はこの牛を食べようとしているのだろう」と言って食べてしまったという。都怒我阿羅斯等は牛の代償として、その村で神として祀られている白い石を譲り受けた。石を持ち帰って寝床に置くと、石は美しい娘になった。
都怒我阿羅斯等が喜んで娘と性交しようとしたが、目を離したすきに娘はいなくなってしまった。都怒我阿羅斯等の妻によれば、娘は東の方へ行ったという。娘は難波に至って比売語曾社の神となり、また、豊国国前郡へ至って比売語曾社の神となり、二箇所で祀られているという。

摂津国風土記』逸文
応神天皇の時代、新羅にいた女神が夫から逃れて筑紫国の「伊波比(いわい)の比売島」に住んでいた。しかし、ここにいてはすぐに夫に見つかるだろうとその島を離れ、難波の島に至り、前に住んでいた島の名前をとって「比売島」と名附けた。
上記筆者過去記事より


渡来ルート
伽耶南岸?→筑前姫島→豊後姫島比売許曾神社→吉備総社福谷秦村鉄神姫社→播磨揖保郡粒丘→播磨宍粟郡比治里奪谷・柏野里伊奈加川→摂津西成玉造→近江草津穴村安羅神社→近江陶の谷の鏡村→竜王町鏡村→若狭福井三方郡須可麻神社・御方神社→若狭気比神宮→若狭遠所製鉄遺構→但馬城崎郡気比の浜→但馬出石

もうひとつコースが考えられる。日本海出雲神前郡多陀里糠岡でもヒボコは伊和大神と争っている。出雲から吉備へは今JRが通れるほどなだらかである。石見から広島三次へもなだらか。中国山地は何箇所かの山陽との往来道が存在するほどなだらかな谷間が多い。

さて二箇所の気比があってどちらにも気比神社がある。そして銅鐸が出た。
ところがヒボコらの移動ルートをつぶさに見ていくとむしろ鉄関連の場所が多いことに気付く。まずヒボコの本拠地で彼の八種の神宝を祭る出石神社のそばに方墳群があって、入佐山3号墳石室から砂鉄が出ている。福井県遠所製鉄遺構は最古のかんな流しらしき遺跡である。大阪のアカルヒメ神社は玉造にあり勾玉氏族が同行していたらしい。

もういちど地図を見てみよう。

イメージ 3


これらの地域は、それぞれ鉄と銅がほとんど同時に日本に来たことの痕跡になっているのだ。まずアカルヒメという銅精錬氏族がやってきて、それを追う様に製鉄集団がやってきた。


そして重要なのはその集団がどうやら秦氏であったらしいことである。
岡山県の秦村に鉄神姫社がある。吉備は備後や高梁川の砂鉄と、山間の鉄鉱石が存在した。そして出雲・播磨の大国主(葦原のシコォ神)や伊和大神といった先住氏族と戦う。その出雲の神庭荒神谷で大量の銅剣・銅鐸が地中に埋められていた。鉄の氏族と在地銅の氏族は争って、棲み分けたのである。





次回、天皇の神器は二種から三種にはなぜか?






Viewing all articles
Browse latest Browse all 1881

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>