全国に一の宮が建てられている。ほぼ一国につき一社が当然。ところがそれが二社もある例外がある。今の大分県、豊後国である。
ここには西寒多神社(ささむた・じんじゃ)という「本音一の宮」と柞原八幡宮という武士の「建前一の宮」のふたつがある。
大友氏家伴衆の子孫として、筆者藤原近藤流子孫寒田鑑秀末裔であるKawakatuが、その理由をはっきりとさせておきたい。
豊後国一宮の比定
『豊後国志』『太宰管内志』「大分郡志」等によれば豊後一ノ宮は西寒多神社としてある。一方で、柞原八幡宮も一ノ宮を主張する。
『豊後国志』『太宰管内志』「大分郡志」等によれば豊後一ノ宮は西寒多神社としてある。一方で、柞原八幡宮も一ノ宮を主張する。
「嘉応3年(1171年)の史料で「由原八幡宮」を一宮とするものがあり、宇佐八幡宮別宮の柞原八幡宮が当社を差し置いて一宮に転化したと見方が強い。一宮について記した史料では、根拠は不明ながら、『諸国一宮神名帳』(1375年以前成立)は柞原八幡宮を、『大日本国一宮記』(16世紀頃成立)は当社を記載している。これに関連して、安永10年(1781年)の縁起では「当社を柞原神社ともいう」として両社を同体視する伝承を載せている。ただし、これは誤りと見られている。」
Wiki西寒多神社
西寒多神社
祭神
主祭神(本殿)
西寒多大神 (ささむたのおおかみ)
西寒多大神 (ささむたのおおかみ)
天照皇大御神、月読尊、天忍穂耳命の総称
古記社伝では最初月読尊
明治期に皇国史観からアマテラスに変化し
現在はどちらも併記して西寒多大神
相殿神
応神天皇
神功皇后
武内宿禰
応神天皇
神功皇后
武内宿禰
殿内所在諸神
伊弉諾大神、伊弉册大神
大直日大神、神直日大神
天思兼大神
大歳大神、倉稲魂大神
軻遇突智大神
天児屋根命
経津主神
伊弉諾大神、伊弉册大神
大直日大神、神直日大神
天思兼大神
大歳大神、倉稲魂大神
軻遇突智大神
天児屋根命
経津主神
一ノ宮が二箇所あるのは豊後国だけである。なぜそうなったか、というよりも、一ノ宮は西寒多神社でよいと筆者は考えているわけだが、まずはこの二つがいずれも豊後大友氏によって創始された中世の時代の社だということ。そして西寒多神社はそもそも大友氏が、母方のある相模国秦野市(大友郷波多野)にある寒田神社(さむた・じんじゃ・祭神ヤマトタケル)の地名寒田を、守護職(しゅごしき)として下向(鎮西守護職は多くが元寇の際に現地に下向)した豊後国に同名の土地を切り開き、その地は最初、現在の西寒多神社のある大分市大字寒田ではなく、やや南下した臼杵市野津町と豊後大野市にまたがって存在する西寒田であったこと。そこから新たに現在の地に新たに勧請したのが今の西寒多神社であること。
・八幡大神(やはたおほかみ/はちまんおほかみ)
・軻遇突智命(かぐつちのかみ) 【火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)】
・少彦名命(すくなひこなのかみ)
・伊邪那美命(いざなみのみこと)
・菅原道眞命(すがわらのみちざねのみこと) 【天満天神(あまみつあめのかみ)】
『龜山隨筆』にも「西寒多神社は初め大野郡野津ノ荘寒田村」に鎮座していたことが記され、また『豊後國志』には「大野郡寒田神社を西寒多神社とし、応永15年(1408年)大友親世が大分郡植田に移し寒田と名づけた」。
・軻遇突智命(かぐつちのかみ) 【火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)】
・少彦名命(すくなひこなのかみ)
・伊邪那美命(いざなみのみこと)
・菅原道眞命(すがわらのみちざねのみこと) 【天満天神(あまみつあめのかみ)】
『龜山隨筆』にも「西寒多神社は初め大野郡野津ノ荘寒田村」に鎮座していたことが記され、また『豊後國志』には「大野郡寒田神社を西寒多神社とし、応永15年(1408年)大友親世が大分郡植田に移し寒田と名づけた」。
つまりここが先にあった西寒多神社であることは間違いない。
この元の西寒田には、大友氏狩猟用のイヌを飼育する「犬追物」がおり、ゆえに一帯を広く犬飼とよんでいたこと。それが今の犬飼町の名の元である。その犬追物の役目を筆者先祖の分家のひとつである寒田雪之助なるものが負っていた記録が『大分県資料』にあること。その寒田氏の来歴は記録では不明だが、おそらく大友氏豊後下向に伴って波多野(はたの)大友郷寒田からやってきた寒田(さむた・そうだ・かんだ)親景(ちかかげ・兵部少輔)や親将(ちかかど)の祖先とその一族郎党が豊後府内近辺一帯に入り、そこを寒田と呼ぶことで「西の寒田」=西寒多として鎮守したのが始まりであろう。社名に多を使うのは、古来、田よりも多の文字に呪があるとされるからである。
※筆者は現在「そうだ」と名乗っているが、明治時代には「かんだ」と名乗っていた。それは廃仏毀釈・皇国史観の「敗者」として仏教関係者の隠れ蓑でもあったかも知れないし、あるいは往古、大内氏との戦い(勢場ヶ原の戦い)で戦死した敗軍の副将子孫としての隠れ蓑であったかも知れない。戦後、『大分県資料』作者である田北学氏と市職員が筆者の祖父宅まで来訪して、読み名がそうだであると諭され、末子だったわが父だけがこれを名乗ったという経緯がある。こうして寒田姓は復活された。祖父は最後の豊後府内春日神社神宮寺大宮司であった。藤原寒田鑑秀(かねひで)子孫。墓所は上野金剛宝界寺内。宗派真言宗。
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一方、もうひとつの一ノ宮と目される柞原八幡宮も、大友氏が宇佐から分祀した社で、鎌倉時代の武家が八幡神を軍神としたことが契機であろう。八幡神はそもそも天皇家の、伊勢に次ぐ宗廟であり、祭神も記紀記録では応神天皇以下とその母とされた経緯もあり、武家の天皇への忠誠をも示す「小道具」でもあった。
一般的に言えば、中世武士団のほとんどが、本来の祖先神とは別に、武士として皇室の守りとしての役割を世間に言うがための記紀の神々・・・という二重構造が見えてくるわけである。本音と建前、それが柞原八幡宮と西寒多神社であるというのが筆者の最もわかりやすい、シンプルなとらまえかたである。
武内宿禰=天皇の宰相・補佐役・託宣者・・・つまり武士団となる。
そして豊後大友氏は関東藤原氏近藤流を名乗っている氏族。大友は母方の郷名である。なぜ母方かと言うと、先代豊後守護職である室町時代の氏族・中原氏が大友母方波多野氏の氏姓である古庄(ふるしょう)一族だったからだろう。だから初代大友直能はまず中原の養子になって守護職を次ぐ形をとるがために、相模波多野の古庄分家を名乗った上で中原家に養子に入って守護職を授受できる身になってのち、頼朝から正式に豊後守護を拝領できた。そして拝領してからは母方古庄姓大友氏を名乗りながら、同時に鎌倉武士としては、関東藤原氏の始祖である藤原秀郷(ひでさと・田原の藤太たわらのとうた)子孫の近藤流藤原を表の姓としたのであろう。
ややこしいが、そういうわけで、筆者の氏姓は、その寒田氏一族の中の祭祀者「部門」を受け継いだものである。武家も古代豪族と同じで、うじかばねがあって、また同じ姓でも身分が上から下までいろいろあったのである。先ほど書いた犬飼氏族は、おそらく戦国時代なら下級武士クラスだろうが、大名の中にはイヌの番から百万石にまで出世したり(前田犬千代)、百姓でありながら厩番・草履役から関白にまであったもの(豊臣秀吉)もいたわけで、身分階級をあなどってはならない。
一方、もうひとつの一ノ宮と目される柞原八幡宮も、大友氏が宇佐から分祀した社で、鎌倉時代の武家が八幡神を軍神としたことが契機であろう。八幡神はそもそも天皇家の、伊勢に次ぐ宗廟であり、祭神も記紀記録では応神天皇以下とその母とされた経緯もあり、武家の天皇への忠誠をも示す「小道具」でもあった。
ことに大友六~七世あたりでは、豊前国を取り合って大内氏と合戦を繰り広げている。宇佐は国家の所領で、周防の大内氏は天皇家との親密な関係から、宇佐社領地を非常に欲していたのである。それは王家との関係を示すためのステータス。そのため、豊後大友氏側は、これを防ごうとして八幡宮を大内に先んじて豊後に分祀する必要が生じたわけである。そのとき宇佐荘園であった国東高田の田染荘園を管理したのがわが先祖である兵部少輔・寒田親景(そうだ・ちかかげ)であった。
それで全国に八幡神は、ことに武家の時代になって広く分祀されたわけである。それ以前には船の守り神として古代海人族・海部ら厚く奉祭されてきた。柞原八幡宮分祀に伴って宇佐・中津から祭祀者賀来(かく)一族がやってきて、住まったのが八幡から南へ高崎山山麓を下ったところにある大分市賀来であった。そこに賀来神社があって、祭神は賀来氏の氏神である武内宿祢である。宿祢はヤマトタケル~応神天皇の大臣。ここでようやく本来の波多野寒田神社の祭神に関係する武内宿禰が出てくることで、豊後大友氏が自らの祖先神として記紀のヤマトタケル・仲哀天皇・応神天皇そして神功皇后という祭神を持ち込んだということがわかるのである。
一般的に言えば、中世武士団のほとんどが、本来の祖先神とは別に、武士として皇室の守りとしての役割を世間に言うがための記紀の神々・・・という二重構造が見えてくるわけである。本音と建前、それが柞原八幡宮と西寒多神社であるというのが筆者の最もわかりやすい、シンプルなとらまえかたである。
武内宿禰=天皇の宰相・補佐役・託宣者・・・つまり武士団となる。
そして豊後大友氏は関東藤原氏近藤流を名乗っている氏族。大友は母方の郷名である。なぜ母方かと言うと、先代豊後守護職である室町時代の氏族・中原氏が大友母方波多野氏の氏姓である古庄(ふるしょう)一族だったからだろう。だから初代大友直能はまず中原の養子になって守護職を次ぐ形をとるがために、相模波多野の古庄分家を名乗った上で中原家に養子に入って守護職を授受できる身になってのち、頼朝から正式に豊後守護を拝領できた。そして拝領してからは母方古庄姓大友氏を名乗りながら、同時に鎌倉武士としては、関東藤原氏の始祖である藤原秀郷(ひでさと・田原の藤太たわらのとうた)子孫の近藤流藤原を表の姓としたのであろう。
ややこしいが、そういうわけで、筆者の氏姓は、その寒田氏一族の中の祭祀者「部門」を受け継いだものである。武家も古代豪族と同じで、うじかばねがあって、また同じ姓でも身分が上から下までいろいろあったのである。先ほど書いた犬飼氏族は、おそらく戦国時代なら下級武士クラスだろうが、大名の中にはイヌの番から百万石にまで出世したり(前田犬千代)、百姓でありながら厩番・草履役から関白にまであったもの(豊臣秀吉)もいたわけで、身分階級をあなどってはならない。
おまけ、
西寒多神社主祭神の変化について
これは歴史的にどこでも起こったことである。
武家である大友氏が当初、武士、宰相、大家の番人としての月読(つくよみ)を祖先神として祭るのは極めて当然しごくのことである。古代から月読は壱岐島王の祭神であった月神である。それを記紀は皇祖アマテラスの従者である船の民の象徴として取り込んでいる。その影にいたのは宗像海人族であった宗像君徳善(むなかたのきみ・とくぜん)であることは間違いなかろう。アマテラス信仰は藤原不比等が持統女帝以下の傀儡女帝政権の正当化のためにクローズアップした伊勢の海人族・あまたちの女神に過ぎなかった神。女神信仰・太陽信仰はどちらもそもそも海の民の信仰であるのを利用した。それがために徳善と宗像氏はにわかに天武・持統時代から記録に登場するのである。
ところが明治維新政府が、廃仏毀釈と祭神・神社統一を突然開始する。いわゆる万世一系・皇国史観による富国強兵・軍国主義のための国民イデオロギーの統一戦略からである。各地の大社にあった神宮寺はことごとく、官憲による指導に従った民衆自身の手で焼き払われ、全国の村社や郷社はひとつにまとめられてゆく。南方熊楠の大山神社もその対象だった。そして当家の春日神宮寺も焼かれた。
大社であっても主祭神すら置き換えられた。その名はアマテラス。