「長男馬養は、後るること六日の寅卯のときに、同じ処に依りて泊てぬ。当土(淡路島)の人たち、見て来由を問ひて、状(さま)を知りあはれび養ひ、当の国司に申す。国司、聞き見て、悲しび賑(めぐ)みて糧を給ふ。小男嘆きて曰く、「殺生の人に従ひて、苦を受くること量(はかり)なし。我まためぐり到らば、彼れまた駆使せられ、猶しついに殺生の業を止めじ」といひて、淡路国の国分寺にとどまり、その寺の僧に従ふ。
長男は二月経て、本の土(故国)に帰り来る。妻子見れば、面目つづらか(顔面蒼白)なり。驚き怪しびて言はく、「海に入りて溺れ死に、七々日をへて、斎食(さいしき)を為し(葬儀をし)、報恩することすでに畢(をは)りぬ(喪に付してしまった)。思はぬ外に何ぞ活きて還り来れぬ(どうやって生き返ったのか?)。若しは是れ夢か。若しは是れ魂か」といふ。馬養、妻子に向かひて、つぶさに先の事を陳(の)ぶ。是に妻子聞きて。相悲しび、相喜ぶ。馬養発心し、世を厭ひ、山に入り法を修しき。見聞く者、奇しびずといふことなし。海中難多しといへども、命を全くし身を存(とど)めしは、まことに尺迦如来の威徳にして、海中に漂へる人の深信なり。現報すら猶し是(か)くの如し。況(いわん)や後世の法をや。」
家族のない少年祖父麿は、「殺生に生きる人に従属したがために、なんとも大変な苦労をさせられたものだ。このまま戻ったら、またこきつかわれて、もっと殺生してしまうに違いない」と嘆いて、淡路島に留まり、国分寺の僧侶にその身をゆだねた。
一方、家族がある馬養のほうは、ふた月ほど療養して家に戻った。すると妻は顔面蒼白。びっくりして怪しみ、「あなたは海で溺死して、もうとうに葬儀を済ませた。死んだはずのあなたは、いったいどうやって無事に戻れたの?夢のようだ」と問う。馬養は経験したことをとつとつとして妻に語った。その後、馬養は発心し、世をはかなんで、僧の修行に山へ入ったという。このうわさを見聞きした者たちはみな、実に稀有な話だと感心した。命が無事だったのは仏を信じたおかげであり、まことに仏法は守るべきだ。
第二十五はこれで終わっている。
ハーマン・メルビルの『白鯨』や、ヘミングウェイの『渦にのまれて』を少年時代に読まれたことがあろうか?これらは思春期の男子中学生くらいにおすすめする名作だが、ちょうどそのようなお話ではあるまいか?主人公はこのお話では渦潮に呑まれて遭難し、命からがら生還したとき、頭髪が真っ白になっていたという。それほどの艱難辛苦である。しかし日本の二人は、ともに僧の修行に入るのである。「殺生を仕事とするもの」とはもちろん網元の万侶朝臣のことだ。漁業とは殺生なのである。
魚を捕らえて食べる行いを、仏教は殺生であり、やってはならぬことだとしている。しかるに二人はそれを生業とする網元にこきつかわれていた。今回の遭難は、まさに殺生の報いであり、それゆえにともに僧侶の修行に向かった・・・これがこの一文の主題である。一方、それを聞いた民衆は、仏の名を唱えたから救われた、まことに仏法のご加護だ・・・と感心している。
魚も肉も殺生で手に入る。それは確かにそうだ。しかし植物である野菜やコメはどうだろう?あれとて殺生であろう。ところが仏教では、植物食は殺生には入らない。なにが違うだろうか?筆者にはそこがわからない。
ならば植物は仏法で、動物から差別され、生命があるものと思われていないのか?まさに遅れているではないか?仏教を信じるあなたなら、これをどうするのか?
人が死んだとき、斎食をする。これを「おとき」などと言う。精進料理である。精進潔斎して家人を見送るのであるが、精進料理とて、植物食であるにすぎまい。なまぐさ食は古代仏教で紀伊しく規定があり、葬儀以外でも日を決めて四足や魚介を食べないようになっていた。そして仏教が特に入り込もうとしていたのが漁村だった。漁業が殺生行為だったからだ。毎日、漁師たちは海で生き物をとらえている、だから特に彼らには仏法の殺生禁断を教え、慈愛を持って彼らこそ救済せねばならぬモノだった。
日本で、最も寺が多くある地域、あなたはご存知だろうか?まず京都・奈良・・・そして福岡である。筑紫。筑紫は日本で最も早く文化が到着する場所であった。稲作も製鉄も、道教や仏教も、一番最初に届く。日本最古の寺院が、間違いなく奈良の飛鳥寺であった証拠は記紀にしかない。しかし福岡の観世音寺のほうが古い可能性はある。ただ九州には記録が残っていない。だからいきおい、考古学の発掘と記録の比較ができにくい。面白い話になかなかならない。あるのは魏志だけだからだ。九州に住むものとしてそれは慙愧の念である。いかんせん、九州の歴史が全国的には話題性が低いのはそういう理由である。考古学だけでは・・・。
筑紫は、文化はいくつもやってきたが、そこから文明へとアップデートできていない。これはやむをえない歴史だろう。つまり大和のように朝廷を築き上げるには、立地があまりに列島の端っこだったということだろう。紀氏や海部たちが、西から東へ動いた、その理由がそれだ。筑紫はあまりに大陸に近かった。大陸が動揺すると、まともに影響を受けてしまう。要するに最前線から撤退したものたちが朝廷を作ったのだ。逃げ込んで、争いを避けて生きる・・・それが文明成立の、少なくとも日本での歴史だった。そしいぇ近畿はまさに列島の中心部で、瀬戸内海をいう大動脈があった。あなたなら、どっちを選んだか?きっとあなただって大和を選んだことだろう。そうして近畿は天下の台所を呼ばれる、流通のかなめになりえた。歴史の必然だと思うべきだろう。
和歌山は現在、関西で「近畿のおまけ」とすら言われるはじっこの地域に甘んじている。これも立地や歴史の必然だろう。しかし弥生時代から古墳時代、そこは吉備を経てやってきた大陸文化の玄関だった。紀ノ川は吉野~奈良へ通じる高速道路だった。紀ノ川沿線からは大阪の藤井寺などへも道が通じている。藤井寺周辺は太子道で大和へつながっている。そういう場所から紀氏のような有力氏族は台頭できた。そして彼らの、近畿以前の本拠地は九州だったのである。
今、筆者は関西生活から生まれ故郷の九州に戻って生きている。戻った頃は、なんと時間がゆっくりと動いているところだろうという驚きしかなかった。忘れられた辺境であった。車は遅く、反応は鈍く、愚鈍で粗野な人たちが生きている・・・そう感じていた。近畿での生活の前、高校生で九州を出た頃と、少しも変化していない地域。今もさしてそれは換わらない感想である。ゆっくりと時間が動いている。だがそれでいいのだとも思うようになった。なにを急いで変らねばならないのか?還暦を過ぎて、せいていた青年時代、大都会のせわしない暮らしにはもう戻ろうとも思わない。それでいいのだ。地方は変らなくていい。変るのは首都圏と大阪だけで充分である。なぜって民族の特性が飲み込まれ、どこへ行っても同じ町しかない日本に、魅力を感じないからである。
次回は上巻を扱う。