■騎馬民族征服王朝説の歴史
みなさんもよくご存知の江上波男(えがみ・なみお、考古学・東大)が提唱して戦後話題沸騰したこの説、実は最初に言い出したのは共産党中央委員長から転向し、民社党立ち上げた佐野学(さの・まなぶ)が最初の提唱者だと知っている人は少なかろう。
1928年『日本歴史 無産者自由大学第六講座』において三期も、ツングース系民族が日本九州の日向地方へ渡来して日本を征服し、王朝を作ったのだと書いた。1930年、『佐野学集2 日本歴史研究』に再論掲載。
その後政治犯として投獄中に、高山兄という知己へ手紙を送っている。
「日本に渡来した征服種族は、匈奴の一系であるといふテーゼをボンヤリ久しく考へてるが、(匈奴をトルコ族、シベリア族、蒙古族等の遊牧族の政治体系と考ふれば必ずしも不合理でないとおもふ)何か匈奴を研究した日本書はありませんか、そんな証明ができれば日本の有史以前は頗る(すこぶる)世界史的意義を帯びてくると思ふのです。(匈奴は世界史的種族ですから)」1930年七月『中央公論』第510号
この着想をおおやけに公表したのは1946年の『日本古代史論』である。ここにはすでに江上や山口博よりも先んじて、クリルタイ(遊牧民の長老合議制の国家版)、戦闘における呪術、出土する武装・武器の北方性が述べられていて、先見の明を感じさせられる。
また、スサノオが天孫兄弟にされていることを「神話の統一の行はれたことを示す」と、まだ戦後間もない頃にはっきりと書いた。江上が騎馬民族征服王朝説を『中央公論』に発表するのは、この二年後の1948年である。だから日本最初のこの説の発表者は佐野が最初なのである。
●なぜ戦中戦後にこのような論理が考えられたのか
と言うと、戦時中は当然右思想でがんじがらめの世の中で、戦後にはそれが一転して左へ動く。これは世の常である。「あれで負ければ、じゃあこっち」という短絡な動きが民衆に起きたわけだ。それで多くの文化人・作家らが共産党へ殺到する時代があった。しかしすぐに「共同体幻想」という机上の空論に気がつき、あえなく転向。転向組から民社党のような社会主義への転進が起きるわけである。
このことがはっきりと出たのが学生運動の安保反対と東大抗争、そして赤軍派による全日空ハイジャック事件である(この当時、日本にはまだ日本航空のような海外便がなかったと知っていますか?)。いわゆる中核、革○。といった赤いヘルメット・火炎瓶・投石、ジグザグ行進、シュプレヒコール・・・・最終的に空港テロ事件によって彼らは壊滅。学生たちの熱は一気に冷めて行った。そうでしたね?団塊世代、ニューファミリーだったみなさん。あなたたちも転向して、日本は経済ばかの即物的生き方へ一直線。今に至りましたね?そのあなたももう引退してただのおじん・おばん、じじばばになりましたね?何していますか?旅行や銀座?貴金属?相変わらずの即物人生でしょうか?いい加減に目覚めたらいかがです?
●日本人が3万年の歴史上、初めて、かつて営々として先人たちが大切に守ってきた「何か」を忘れてしまった時代の始まりだった。ぼくにとっては、中学の道徳教師に友人が耳元で「ぶっとばしてやろうか」と恫喝された思い出がまさにその悠久の「忘れ物」に気付いたときだった。それからぼくの人生はスサノオに支配されていったのかも知れない。常識の瓦解した瞬間だった。教師はボクシングのプロライセンス保持者だった。クラス全員が硬直した。
当時の歴史学、考古学も同様に、はじめは左思想、左歴史観が大学に蔓延。戦前の皇国史観をこぞってこきおろし、マルクス主義史観はまだいいとしても、そのうちに自分たちを最低最悪な民族だとする自虐的史観を展開。
戦時中は日本民族こそは世界一優秀だと教え込まれ、教えていかねばならなかった不満を、まったく正反対の、日本人は、天皇は世界でも最悪という感じにまで貶めてゆく。この影響で、しばらく日本人は「とほほ」な史観ですべてを考えてしまい、世界になかなか出られない、出て行っても顔を上に向けて歩けないものすら多くなったのである。まじめな日本人ならではの、右から左への迷走時代だった。
そんなときに登場したのが騎馬民族征服王朝説であるから、やはり中心にあるのは日本民族などそもそも騎馬民族に征服された民族なのだという、非常に卑下した論調が民衆の共感をもって受け入れられてしまったのだった。
その後、池田・佐藤内閣による経済的復興が成功すると、石原慎太郎などの新右翼的な「ノーといえる日本人」などが刊行。いくらか日本人の左志向も落ち着き社会党や民主党が一定の議席も取るようになる。右より史観のほうでも、政治がアメリカとの融合を選ぶようになってからは、世界の中の日本経済・政治・交易を考えるゆとりが生まれ始める。史学界では、あまりに自虐的だったマルクス主義史観の権威たちが東大や京大からいなくなると、比較的冷静な自由・開放的な史観へと、徐々に切り替わっていった。
昭和元禄~平成の期間は、京大皇国史観もなりをひそめ、弟子たちも多くが入れ替わって今に至っている。徒弟制度の中で、権威とその弟子たちがいつまでも時流に合わない古ぼけて主観的な史観を繰り広げてきた日本歴史学や、その影響でおとなしくするしかなかった考古学その他の科学的史観の人々も、今はあらゆる派閥や学閥、科目、テリトリー、国を乗り越えた「越境する史学」に気がつき始めているところである。
史学だけでなく、神話の南方型ばかり追いかけてきた民俗学や神話学も、そこに気がつき、違う意味で騎馬民族説にある北方型神話の源流を調査するようになった。特に最初は南方一辺倒だった大林太良の発想転換は、大きく比較民俗学=民族学を動かすことになる。それまで民俗学・神話学では、海外との比較研究は「掟破り」の低次元思想と見下げられていたのだ。史学でも『日本書紀』研究だけやっていれば教授になれる時代が久しく続いた。比較論もさることながら、考古学を技術屋と見下げており、科学に背を向け、遺伝子学などとんでもない、環境考古学?ふふん・・・というのが小林行雄らの時代である。そこから佐原を経て、ようやく森浩一、その他の同志社学派が越境、古代学などの新しい見方を著しはじめ、やっと自由に、学問の縦割りを抜け出せる時代になった。世界ともよく共同発掘がなされ、韓国や中国はもとより、世界中にあるべきだった日本人起源までの道程を、少しづつ掘るようになった。
松本清張は当時の史学世界のいらだちをこう書いて叱咤した。
「日本のことばかり見ているから、分からないのさ。皆目、無知なことばかり言うようになる。古代の朝鮮、北アジア、東アジアの民族習慣に眼を向けないから、トンチンカンなことばかり書いたり、言うようになる」
耳の痛い年長愛好家は多いのでは?
そうした中で、かつての騎馬民族説の中の、ある部分でなるほどという部分に注目が集まるようになっている。
筆者がこのブログを書き始めた2006年頃、まだまだ一般好事家の眼も頭も、日本のことばかり考えている、見ている人は山ほどいたなと感じている。やがて、そういうトンチンカンな意見を書き込んでくる「やから」「前世紀の遺物」的な天然記念物研究者は毎年減り、今はまずもって反対する意見すら皆無。あまりに静かになって、こっちがめんくらうほどになった。まあ死んだか、やめたか、消えたか、変わったか、なのだろう。
新しい騎馬遊牧民的史観は、実はまだ今始まったばかりである。かつてのような敗戦日本から生まれた卑下したものでなく、発掘遺跡や遺物から、科学的に冷徹に、客観的に、騎馬民族・遊牧民族の移動とその源流、日本神話への影響、渡来人研究、具体的武具遺物などの比較、伝承の比較・・・とにかく世界史的な広範囲な視野と、人間にかかわるあらゆる生活様式、食器、食事、馬の渡来、南北シルクロードのコース、仏教美術、政治、経済、貿易・・・ありとあらゆる事象・事物、あるいは地球環境の変化の影響・・・すべてを俯瞰し、比較する新しい騎馬民族説渡来説が始まっているのだ。もちろん南方、島嶼文化も重要だし、人類学・生物学・遺伝子学・地震学・災害史など、知っておかねば何もいえないというほどに、民間好事家にはエンドレスな時代になった。
そういう中で、いまだに「皇国史観」のとりこになり、日本民族至上主義に振り回されている人も存在する。歴史愛好家の中で、もうネアンデルタール人になりつつあるのに、まだ気がつかない。ものの哀れすら感じてしまう。
一方で、女子の多くは、歴史研究ではなく、マンガや情緒や神秘性などでこの世界のはじっこをたゆとう生き方をする「歴女」なる生態系の人々もますます増えた。本来女子は歴史にまったく興味もない生き物だったので、むしろ興味本位やイケメン武士にあこがれての歴史探訪でもありがいことである。もっとも、神秘性、呪術など、奇妙な方向性へ行ってしまう「救い要望型」婦女子は大変危険性を感じている。だいたい歴史遺跡、古墳、神社仏閣などの場所は、人影も少なく、うすぐらく、それゆえに神秘的で、感受性の強い若者には充分にびびっと感応してしまう魅力はあるのだが、なにしろひとりでそういう場所へ入り込むのは大変な危険もある。不可思議な稲荷大社裏側などにはマニアックな信仰ゾーンもあり、立ち入りの危険な場所、禁制地すらあったりする。
情緒ほど危険なものはない。
歴史は常に冷静で、空からものを見るような客観性がなければ入り込んでほしくない。推理の楽しみも。呪術には、かける側の冷徹と、かけられる側の情緒性があって成立してきたのだ。詐欺にだまされる人と、危険に知らずに入ってしまう人には、よく似たところ、脳波が感じられる。君子あやうきには近寄らぬものだ。
さて、中国文明、中華思想などとわれわれは簡単に言うことがある。しかし中国人は多種多様な雑居民族で構成された「共和国」である。日本のように単純な日本人と言うくくりからはみ出す民族であふれている。いわゆる一般人が中国人と言っているのは漢民族のことで、多くは中央から北部にいる民族だが、思想統制が厳しい中国では、どこへいっても全員が「自分は漢民族だ」と言うようにしつけられている。ところが漢民族とは北方系騎馬遊牧民族であり、王族だけがそう言えるほど厳格な格付けがある。つまり中国の王朝は、歴代、そのほとんどは騎馬遊牧民やモンゴル民族が建国した国の連続だったと言ってもいい。始皇帝も玄宗皇帝も、唐も隋
も、清も、満州国も実は北方系民族である。そういう視点がないと、あの広大で遠大な国土とその歴史的背景は理解できなくなる。太公望も、諸葛孔明も漢民族ではない。そこ大事なところである。そして彼らの多くが奴婢だったり、敗北王家になったのである。日本よりややこしいことは覚悟してほしい。
え、じゃあ、もう歴史がめんどくさくなった?
それがいい。今のうちに手を引くのが一番安全な生き方ですよ。
いのちかかりますからね。刺されてもしょうがないと思える人じゃなきゃ、やらぬに限る。友人、家族、恋人、同僚・・・だれも理解しません。孤独・孤立します。いきなり「難しい生き方するなあ、あんた」って言われたことありますか?仲間増やそうなんか、ばっかじゃないの?やめとけや。
参考 山口博『創られたスサノオ神話』2012 「エピローグ」より編集
私にとってのスサノオ学はまだまだ入り口に入ったばかりです」Kawakatu
20185月8日午後