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多度神社と空海

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多度とはなんだろうか?


「多度大社(たどたいしゃ)は、三重県桑名市多度町多度にある神社である。式内社名神大)で、旧社格国幣大社。三重県では伊勢神宮二見興玉神社椿大神社に次いで4番目に参拝者数の多い神社であり、2013年には1,407,000人が参拝した。」Wiki多度大社



ここには神宮寺があった記録がある。


空海は多度に生まれた。
最初から官度だったわけでなく、多度周辺で修行する私度の行者でしかなかった。
もし彼に、義父の阿刀大足(あとの・おおたり)という縁者がいなかったら、空海も真言宗もなかっただろう。それほどのパトロンだった。



多度の「度」とは得度のことである。
得度(とくど)とは、サンスクリットで、pāramitā (波羅蜜 はらみった)のことである。インド仏教では本来、「悟りの世界に渡ること」を言う言葉だ。要するに悟りを開く修行を経たものだけが剃髪・僧籍をうることがかなう。


だから多度とは、官の得度を得たものも、私の修行僧=私度僧も、あるいは勝手に修行を始めた自度のものも、あらゆる得度を得た人も、すべてが多度の神によって許容された空間、という社名になるのだろう。


そもそも僧侶の資格を得ることを、中国では「公度」と言った。日本ではそれを官度と言う。官民の公的な資格を得た僧が官度僧である。一方、私度・自度の僧は、資格を得ぬままの修行者でしかない。そして律令制度では、それらは百叩きの刑になると決められていた。ところが記録上、それらが刑罰を受けた例がない。


律令制が、禁断だとしいていながら、その実例がないというのは、つまり律令制そのものが有名無実であったことを語ってしまうことになる。


空海も、土佐などで天啓を受けるまでまったく律令制の刑罰は受けた痕跡がなく、大足の力で、なんとか遣唐使に選ばれる前に、その叔父の金銭や力でどうにかこうにか官度を得たときにも、行政からなんら刑罰も忠告も受けてはいないのである。

こうした私的な修行者が僧の資格をのちに受ける事例は多いが、どれも一切、注意すらないばかりか、むしろ大いに持ち上げられている。代表的な人物は、大仏建立のさいに、出羽金山を掘り当てたグループの中にいたある渡来私度僧が、聖武天皇から位階を得たことだろう。このときも法律は彼になんの処分も与えていないばかりか、金を見つけてくれた集団のひとりとして大変なもてなしだった。彼は刑罰どころか名声を得たのだ。

律令制とは、そういうアバウトな法である。

学校で、貧しくて食えないものどもが、続々と私度になろうとしたのを、律令制は押しとどめたとか教えられたが、とんでもない。むしろ、官度僧が増えたほうが政治には影響が大きかったのだ。私で得度して、勝手に修行していたものでも、税金はかけられている。だから私度などは、たいした影響はなかったのである。


『日本霊異記』などには、そういう私度僧らしきものが山ほど登場する。


なんとなれば修験の始祖である役の行者も優婆塞で、つまり私度修行者である。つまり彼が朝廷からいろいろな疑義をかけられて捕縛されたという記述は、建前上、律令が遵守されてますよということに過ぎないことがわかる。だから彼はスケープゴートとして書かれたに過ぎない。ということは、役優婆塞が、葛城の出身で、いかにもなにか反駁するものの末裔という、冤罪だったことになるだろう。

筆者的には、充分なパトロンを持っていた空海は、小説などが言うほどの、障害を持ってもおらず、けっこう思い通りに入唐できた可能性が高いと思うのだ。だから南朝真言に行こうと言う知識と意欲さえあれば、行けたのだと。



むしろ最澄のほうが、最初から官度であるがために、かえってプレッシャーや障害もあったのでなかろうかとさえ思う。



要するに、空海が入唐前から、なぜ南の真言密教をしっていたかを今後は調べねばなるまい。




























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