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京都ディープ2 朱雀権現堂聖徳太子像と安寿と厨子王と「お岩木さま一代記」と敗北者の歴史


●説教節「さんせい太夫」と森鴎外の「山椒大夫」
「岩城の判官正氏の御台所、その子安寿とつし王(厨子王)が、帝から安堵の令旨を賜るべく都へと向かう途中、人買いにたぶらかされて親子離れ離れに売られ、姉弟は丹後の長者「山椒太夫(三庄太夫)」のもとで奴隷として辛酸をなめる。姉の安寿は弟を脱走させたため山椒太夫の息子・三郎によって凄惨な拷問を受けた末に殺されてしまう。つし王は神仏により救われて出世し、山椒太夫父子に苛烈な復讐を行う。」

あらすじ
「平安時代の末期、陸奥国の掾であった平正氏は、上役の罪に連座して筑紫国へ左遷された。妻と、安寿・厨子王の幼い姉弟は、正氏に会いに行く途中、越後国で人買いに騙され、離ればなれになってしまった。安寿と厨子王は、丹後国の苛烈な荘園領主・山椒大夫に売られ、奴隷としてこき使われるようになる。やがて、成長したふたりは、荘園から脱走することを考えるようになった。そしてある日、安寿は厨子王に脱走をすすめる。厨子王は都への上洛を果たし、関白藤原師実の知遇を得て丹後に国司として赴任(実際は遥任であるが)、厨子王の脱走とともに入水した姉の菩提をとむらうとともに、丹後一帯での人買いを禁止。山椒大夫はやむなく、奴隷を解放し賃金労働者として雇うようになる。その後、母が佐渡国にいると聞きつけた厨子王は、佐渡にむかい、盲人となった母親に再会する。」

「世に知られた安寿・厨子王伝説をいかにして小説『山椒大夫』に仕立てたかを随筆「歴史其儘と歴史離れ」で鴎外自らが具体的に語っている。それによると、伝説の筋書きを基にしながら、登場人物の年齢から実際の年号を振り当て、そのうえで辻褄が合わない、あるいは鴎外の好みに合わない部分に小説的な脚色を加えていったと述べている[1]。鴎外は小説化にあたり、安寿の拷問や山椒大夫が処刑される場面など、原話で聴かせ所として具体的に描写される残酷な場面はほとんど切り捨てている。また、賃金を支払うよう命じられた一家が、その後むしろ一層富み栄えたというのも森鴎外のオリジナルである。」Wiki山椒太夫





「「いわき市」に「安寿と厨子王 誕生の地」という名所が、いつのまにやら できているそうな。

 「安寿と厨子王」の物語は、元々は 中世の「説教節」で丹後(現京都府)地方の伝説 『さんせい太夫』。それを 森 鴎外が 小説『山椒太夫』にし、映画にも なって広まった。

 森鴎外の『山椒太夫』では、二人が住んでいた所を「岩代国」としている。ところがどっこい「岩代国」と いう国は、明治2年になってできた国なのだ。 平安時代には無かった。平安時代は「陸奥国」一国。 江戸時は「陸奥の国」と「出羽の国」だった。そして、 戊辰戦争直後の明治2年、陸奥国は「岩代国、磐城国、 陸前国、陸中国」の4カ国に分けられた。しかし、それも わずか3年だけの ことだったのだ。

 福島県の西半分が「岩代(いわしろ)国」、東が「岩城(いわき)の国」である。

さて、「安寿と厨子王」の原点である「説教節」の『さんせい太夫』では、二人の父を「岩城(いわき)判官」と している。この「岩城判官」という名から、「いわき市」が安寿と厨子王の生誕地と 名乗りをあげた。

しかし『説教節』では、「岩城判官」は「奥州50郡を治める平正氏」とし、伊達の郡(こおり)、信夫(しのぶ)の庄の住人」というのだから、「安寿と厨子王」の住居は、
 「現在の福島市や三春町周辺」となる。福島県の中通り地方だ。そして、その近辺でも、あちこちに「伝説の地」の碑が建てられているそうな。そもそもは、この話は、まったく荒唐無稽な創り話なのだが。」
https://blog.goo.ne.jp/goo3360_february/e/b83936b4709d510eeb039abb2fb1bc79

福島浜通りと言えばあの大震災・大津波の震源地的な場所でもある。漁師町だが、古くは以前も書いたかと思うがそういうことがあっておかしくない地域だった。いやそもそも漁師町の、その地域の隔絶された場所・・・岬の突端や、山で囲まれた小さな海岸には、全国的に古いままのサンクチュアリ的場所がまだ多い。それは歩いてみたらすぐにわかる。津波はそういう場所に必ず来るし、そういう場所にはある種の特殊な近代施設も同居する。これはここを長く読まれた人や民俗学に詳しい方なら、暗黙の了解事項だろう。



安寿あんじゅと厨子王ずしおうの物語
「この母子像はあの有名な森鴎外の小説「山椒大夫さんしょうだゆう」にでてくる姉の安寿(万寿まんじゅ)と弟の厨子王(千勝ちしょう)、そしてお母さんの旅の姿です。

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今から約1000年の昔、いわき地方を良くしようとする仕事についていたお父さんの平政道たいらのまさみちは、小山田おやまだ(今の山田町)の桜を見物に行った帰り姥うばヶ岳たけ(近くの水道バックのところ)でおそわれ命を落しました。
 次の年、母と子は家来の大村次郎と召使めしつかいの小笹こざさをともなってお母さんの実家のある信夫しのぶ(今の福島市)に逃れましたが、途中大村次郎は追っ手と戦い戦死してしまいました。

 主従の一行はお父さんが殺されたことを訴えるためにさらに都(今の京都)へ向かいました。

ところが途中越後えちごの国(今の新潟)で悪者にだまされて母と子は別々の船に乗せられ、安寿と厨子王は丹後たんごの国の山椒大夫という人買ひとかいに売られ、お母さんは佐渡へ売られてしまいました。

 召使の小笹は船から身を投げ自殺しました。
 安寿と厨子王のつらい生活が3年ほど続きました。
 水がぬるみ草が萌もえる季節がやってきました。

ある日、安寿は自分の身を捨てて厨子王を山椒大夫のところから逃れさせました。
やがて立派に成人し朝廷に仕える身となった厨子王は、人買いを禁止してよい政治を行ない、父の仇あだを出羽でわ神社付近(東田町あずまだまち)で討ちました。
そして盲目もうもくになったお母さんと佐渡で再会をはたしました。
いわき市のこの金山町かねやままちの周辺には安寿と厨子王にまつわるゆかりの地が沢山あります。

 親子、姉弟のかたく結ばれた愛情を物語るこの母子像の姿は、永くのちの世まで伝えてゆきたいものです。」
 平成12年
 金山の昔を伝える会
(説明板より)

安寿と厨子王
「安寿と厨子王丸[1](あんじゅ-ずしおうまる)は日本の童話。『安寿と厨子王』とも言う。悲劇的な運命にもてあそばれる姉と弟を描く。
中世に成立した説経節『さんせう太夫』を原作として浄瑠璃などの演目で演じられてきたものを子供向けに改変したもの。ゆかりのある各地で民話化している。近世になり絵本などの媒体にて児童文学ともなっている。」Wiki安寿と厨子王
http://www.geocities.jp/bane2161/anjyutozusiou.htm





「山椒大夫」「安寿と厨子王丸」の話はもともと説教節など、全国各地に存在した話を森鴎外が脚色した話。だからそもそもどこの地域の話かどうかわからない。
どこからこういう「人買い」譚が出てくるのかと考えれば、古代から、坂上田村麻呂の蝦夷討伐や、アテルィの戦いなどで蝦夷が俘囚となり西日本各地へ連行移住させられるという、政治的な人種の均一化=同化政策があってのことではなかろうかと考えている。

東北には説教節の一種「お岩木さま一代記」という形でイタコの口承で伝わっていたらしいと西川照子は言う。

京都の南にある朱雀権現堂には、厨子王丸が背負っていた皮籠(かわこ)が残されているそうな。
http://webheibon.jp/sekkyoubushi/2014/09/post-19.html

朱雀は陰陽五行の南の方位で、京都では七条朱雀を言うが、七条大路と旧朱雀大路との交差点・七条七本松交差点あたりである。筆者が40数年前、塩小路東大路から大学へ通っていた道沿いにある。

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源為義の墓があるので有名らしい。









 「『三代実録』によれば、この地は「三災不動の地」といわれ、疫神祭がおこなわれる地であった。

 権現寺の寺伝によれば、実際に平安時代から鎌倉時代にかけて災禍に見舞われなかったという。

 保元の乱後、源為義(みなもとのためよし/源義朝[みなもとのよしとも]の父)はこの地で斬られた。

 『保元物語』には、為義が斬られたのを知った為義の妻がこの地を訪れたが、何の名残も見えなかったという記述がある。

 鎌倉時代以来、この地に祇陀林寺(江戸時代中期に「権現寺」に改称)があり、「朱雀権現堂」「朱雀地蔵堂」と呼ばれた。

 寺の前には源為義の塚と供養塔があった。
 権現寺は明治四十四(1911)年、梅小路貨物ヤードの整備に伴い、七条通と七本松通との交差点を下がった地点に移転し、源為義の塚と供養塔も寺とともに移転した。」
http://www.mutsunohana.net/miyako/oji-koji/shichijo-suzaku.htm?201708




しかし京都に平安京ができた頃までは、京の朱雀と言えば今の八幡市のあたりにあった巨椋池(おぐらいけ)のことである。いわゆる三川合流の大湿地が、平安京の南の鬼門。よく言えば守りの要(かなめ)だった。それで岩清水八幡宮が置かれたわけだろうが、四至(しいし)の守護に聖獣(玄武=船岡山・朱雀=おぐら池・青龍=鴨川・白虎=山陰道入り口老の坂か愛宕山)を置いた、中国の四神相応思想が元である。この思想は古くは5・6世紀古墳時代の筑紫にすでにあり、畿内では、確かなところでは7世紀の高松塚やキトラ古墳に描かれている。

で、その後今の七条通と旧朱雀通りの交差点が朱雀とされ、ここに権現寺が置かれた。中世には京都は小さくなってしまったのだろう。秀吉の頃にはおぐら池も干拓され、鴨川も治水工事されて、お土居も造られ、さらにコンパクトに様変わりした。

それが今の朱雀権現堂があるあたりか?聖徳太子ゆかりの寺院と言われる。ここのお顔が真っ黒な聖徳太子像が、なぜかはしらねど、「説教節」の金勝地蔵に重ねられ、太子像は厨子王の姿であるという俗説に。権現寺伝承にも同じことが書かれた。どうもそのあたりは後世の混乱があるようだが、厨子王のような人買いされた物語と聖徳太子伝説は、どうも結びつきやすいものらしい。

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西川照子『幻の京都』より 
往古から信者に触られて顔が真っ黒になった聖徳太子像


さんせい太夫そのものが、そもそも起源がよくわからぬお話だし、聖徳太子伝説は京都の秦氏の得意とするおはなしだから、ここに見事にそういう混成した伝承が残ったのだろうか?厨子王の名が、太子の玉虫厨子を思わせたからだろうか?ほんらい「つし王」と濁らないそうなのだが。厨子を背負っていたのは乞食坊主や阿弥といった厄払いの徒で、それをシャーマンとしての太夫とも呼んでいたのが中世から近世である。家康の父や、秀吉の父がともに阿弥であった。

「やっくはらいましょ」と年末の落語でよく出てくるのが風来の阿弥である。ほかの噺に、籠ではないが「いかき」などのざるを売りあるくものが出てくる。(「米上げいかき」)
年末年始に「しょうけ」「いかき」「ほうき」「みのかさ」「箕」あるいは正月の注連縄といった竹やしゅろで編んだ「あらもの」を行商するのは、主として「ちゃせん」「箕作り」「竹細工」などの埒外の賎民であったわけだが、結局のところ京都の南のはじっこの朱雀権現寺なんぞには、そうした人々が「駆け込む」「逃げ込む」サンクチュアリとしての機能があったのかも知れない。これは西川や師匠の梅原、あるいはそのまた師匠でもある柳田らも感じていたことではないか?

蝦夷俘囚にしても、出雲の阿国にしても、秦氏にしても、逃亡者、敗北者である。聖徳太子の大元である蘇我氏もそうだし、物部氏や和邇氏もそうであろう。そういうすべてを聖徳太子は救う存在だという、一種の現実逃避がそこにはありそうだ。すべての厄を、忘れさせてくれる救いが、民衆には必要だったのである。スケープゴート(みせしめ)の正反対の観念。つまり救世観音の救世とは、西欧で言う救世主なのではなかったか?

はてさて、古代は日本が狭かった。そして京都は懐が深い場所だった。どうやらそれは秦氏がそこにいたからかも知れぬ?


丹後でも岩木山でも、この人買い話の主役はもともと安寿のほうだった。安寿は神としてお岩木山の山頂の神として祭られている。






「ツィゴイネルワイゼン」予告編をひとつ前の記事に貼り付けた理由もそこにあるのよ。





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