あなたはご自分の誕生日を知っているだろうか?
一般的な話や、法律上のではなく、この世に生を受けたその瞬間のことである。
一般的には誕生日とは、その人が母親の胎内から出てきた日である。あなたはそれは年何月何日かは知っている。しかし、では何時何分何秒かと聞かれたら、即答できる人はかなり減るだろう。しかし役所へゆけば父母や医師の出生証明書によった詳細な時間はわかるようになっている。中には、申請した日がその日とされていた時代もあったし、しかもそれはあくまでも胎内から出てきた日である。
しかし、実際にあなたが生を受けたのは、生まれる十ヶ月と10日ばかり遡るなどと、考えたことはおありだろうか?つまり生物学的に受精した正確な日時だ。わかるはずもない。
けれど、法律的にもし、「生を受けた」日が誕生日だったとしたら、これはなかなか大変な事務処理が必要になりかねない。生物学では、生物のオスとメスが受精した瞬間に卵の・・・つまり細胞の分裂が始まってゆく。
では、もしそれを申告するとしたら、それはその瞬間からなのか、あるいは少し間をおいた卵割開始時期なのか、それとも着床して確実となったときなのか・・・それこそてんやわんやして出生届を出すはめになるだろう。だから役所でも、便宜的に一般の常識を採用してこの世に出産された日を誕生日としている。
まあ、それでさえ、父母の届けがいい加減なとか、覚えやすい日や時刻にしてしまうことだってありうるから、結局、絶対とはいえないかもしれないが。
「私の子供は、私と妻が何月何日何時に和合して生まれた卵だから」と、申告を受精日にしている人などまずはいないだろう。
誕生にしても、それ以外の日時にしても、けっこう科学性がないものであるケースは多い。人間世界で本当に厳密に時間を問われるのは、まずはスポーツの公式記録だけだと言っても過言ではないのかも知れない。ほかにはロケットの発射時刻なども記録されるから厳密か?
もし発射した瞬間を申告しろとなったら、おとうさんもおかあさんも、うかうかいたしてはおられまい。しかし、発射しただけではちゃんと受精されたかはわからない。一回に何億個もの精子が母の子宮内に発射され、そのうちのたった一個だけが目的地にたどりつき、しかもうまく着床しないことだってありえる。だから申告日は生まれてきた日にしているのだ。
縄文人はどうだろう?
土器に刻まれた誕生の瞬間は、やはり母親のワギナから胎児が顔を出した瞬間を切り取ってあるのだから、それが誕生だったはずだ。つまり世界中、どの時代だろうと、誕生日の規定は一致している。
しかし、土器にはみづちのような浮遊生物が描かれていたりして、それが精子だったり、魂魄の姿だったりするかも知れないから油断できぬ。縄文人がもし、受精から誕生日を換算していたとしたら、超現代人だったことになるかも?
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ちょっとわき道にそれるが、この土器の胎児にせよ、土偶のデザインにせよ、古代人は生死について現代人よりも深く深く考えていた。土偶の大半がが壊されて捨てられる理由は、死者があの世で生まれ変わるために行われた呪的行為で、その風習は北方民族スキタイに類似するために、列島北部の縄文人の祖先のひとつがバイカル湖遊牧民にあることのひとつの証明になっている。一方、南方的な風習も縄文人は盛っているので、縄文人を一元的民族と考えるのは古い考えとなってきている。
土偶にも、壊されずに人形か魔除けのように家内に丁寧にかざられていたもの、つまり完全体のものがたまに存在する。一概に縄文人と弥生人の違いという紋切り型の区別をしたがるのも間違っている。というのは北方系縄文人も弥生人も、その大元の祖先は北方系であるからだ。では縄文人の南方系風習や家屋スタイル、生活様式、稲作などはどうやってきたかも諸説ある。中国長江遺物の類似品が出ることから同一民族来訪説や、あるいは舟で見に行って持ち帰った、交流があった混血したなどの説もある。一元論は往々にして民族至上主義を生み出すので、避けるべきである。
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宇宙の誕生の瞬間は科学者の想定、仮説に頼っている。いや、天文学の多くが、ほぼ仮説で成り立っている。だからどんどん変わる。まるで見てきたように宇宙の果てのことが語られる時代だが、それでいいのかどうか、実は誰も見ていない。恐竜だって化石があるから姿かたちや絶滅期が想定される。もし化石が見つかっていなければ最初からKT=ジュラ紀も白亜紀もないことになる。地球の誕生だって誰も見たことはない。
アインシュタインは相対性理論で、人間は未来へはゆけると論じた。けれど相対性理論では過去へはいけないのである。よく考えてみると、わたしたちは今を生きてはいるが、それは常に未来へ向って生きているのであり、論理上、ちょっとだけなら未来へゆける。しかしそれは科学でもほんの一瞬先に行けるだろう・・・だけである。それならただ待っていたって未来はむこうから常にやってきているわけである。
この記事の書き始めから、この段階まででも、ちゃんともう今は未来なのだ。
見えないこと、見たことのないことも、人間は平気で科学にする。わかろうとする。
筆者がたとえば63歳の誕生日を迎えた朝、すでに筆者は63歳と数時間を過ごしてしまっているわけである。で、それは父母の受精日から数えて何年何ヶ月何時間何十分何秒か?などと考えている奴などいるはずはない。そんあことたいした差ではないからだ。でも少なくともあなたもわたしも、生まれたとき、すでに母親の胎内での十ヶ月あまりを過ごしてしまっている。そういうこと、酒飲みながら、たまにでいいから考えてみるといい。きっと・・・
酒がまずくなるから。
おっと誰か組長みたいなえらいさんが靴を壇上で鳴らしたぞ。この辺で夕食にするかな。おお怖い。たたり神に違いない。だってカンロ飴なめている。