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自由と束縛 大絶滅審判の日

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自由の反対語
Weblio対義語・反対語辞書https://thesaurus.weblio.jp/antonym/content/%E8%87%AA%E7%94%B1
1.対義語・反対語 自由 ⇔ 専制

2.対義語・反対語 自由 ⇔ 統制

3.対義語・反対語 自由 ⇔ 束縛


 「対義語・反対語辞典」http://hanntaigo.main.jp/
・自由⇔専制 ・自由⇔束縛 ・自由⇔統制


 「対義語辞典-WORDDROW.NET」
http://worddrow.net/searchReverse?keyword=%E8%87%AA%E7%94%B1
自由...他から制限や束縛を受けず、自分の意志・感情に従って行動すること
⇔束縛...行動の自由を制限すること
自由...他から制限や束縛を受けず、自分の意志・感情に従って行動すること
⇔窮屈...その環境に身を置いて、自由に行動・思索が出来ない様子






自由の反対語はなんですか?
小学生にこの質問をすると、必ず何人かは「不自由」と答えるものがいる。
反対語とは対義語で、不や無をくっつければいい言葉ではない。
自由の反対語には上記辞書の例が言うとおり、拘束、束縛、統制、専制、窮屈などがある。
それぞれ使う場合の意味合いがある。専制や統制はイズム、政治の方向性で使うし、束縛や拘束は状態を言う表現、そして窮屈とは束縛や統制の結果として人間が感じる用語である。これらは会話の内容によって使い分ける。単に自由の反対は?と聞かれたらまずは束縛、窮屈と答えればピンポ~ン正解!がもらえる。

そう、自由の反対は不自由ではない。それは束縛なのである。

かつて筆者のブログで自由が一番、人間に必要な最大のものは自由だと書いていた時期があり、そのときコメントが「あなたは自由を押し付けているっとしか思えない」という反論が書き込まれたことがある。この人には自由が何かがわかっていないと判断して、その書き込みを筆者は無視した。自由とは束縛されない状態のことなのだから、それを押し付けるなど最初からあるはずがない。自由が一番だということは、押し付けなどではありえず、文中には「そしてそれを選ぶのもあなたの自由だ」がもれなく含まれているのである。筆者はそれが自由主義だとも書いていない。自由主義の反対語は上にあるように専制主義、統制なのである。そこには政治的なイデオロギーがあるから、いくばくかの押し付けはあるかも知れない。

では統制、束縛、窮屈な状態とはどういうものだろうか?
例えば戦時中の日本の軍部、ナチスドイツ、北朝鮮、オーム真理教団、今話題の日本ボクシング協会Y会長のやっているような状態を考えればわかりやすいだろう。そこには一元的な考え方しかない世界である。要するに人間がそこで生きていくための選択肢がない。自由であるためには、少なくとも二つ以上の生き方、考え方の選択肢がなければならず、つまり多元的世界でなければならぬというルールがある。たったひとつのルール、たったひとつの人間の類型、思考しか選べない世界はすべて一元的束縛世界だということなのである。

自由と束縛、あなたはどっちがいいですか?と聞かれて、ほとんどの日とは自由を選ぶはずだ。
ところが人間は不思議な生き物で、自由でいい世界に生かされているのに、あえて不自由なほうがいい、他人に決められるほうが楽だ、選択肢があると頭が混乱する・・・などと言うものが存在する。なぜなのか?

選択肢があるとどれを選ぶかで悩むと彼らは言う。ひとつの方向を、全体主義や金太郎飴のごとくに全員が進めば一番シンプルじゃないか?と。しかし、もしそのたったひとつの考え方が、まったく方向性を誤っていた場合、その全体はどうなるか?日本の帝国主義の敗戦を思い出せばよい。「親亀こけたらみなこけた」になってしまう。ところが全員にそれぞれの選択肢があれば、ひとつが失敗しても、また別のやりかたが選べる。そういうことがどうしてもわからない人がどの世界、国家にも若干いる。それもまた自由だ。

街で嫌いなタイプの人間に出くわすと、そういう人々はそれを排除したくなるらしい。しかし社会はいろんなタイプの人間がいないと、個性が消えてしまい、楽しさや多様性がなくなる。つまり自由とは、多くのルールを認め合い、場合によっては大多数の意見に従い、遵守することで成り立っているのである。それがないと、結局はY会長のように叩かれることになる。修正するか、できなければ除外されることになる。法律を遵守できない犯罪者と同じ扱いになってしまうのである。このように自由とは、なんでもかんでもが解放されて、好き勝手にしていい世界でもない。全員に好ましい状態への共感が共有されていて、そこから大きくはみだすと離れ猿、村八分にもなりかねないのが自由である。自由空間や自由主義にもちゃんと掟やルールは存在する。しかしそれは束縛されたものではない。だから勘違いが起こる。それを小さいときからちゃんと教えるのが教育やしつけだろう。

ところが学校や親が、それをちゃんと教えているとは言えないのが現代の日本社会ではなかろうか?「なにをして生きてもいいんだよ。でも責任はかかるし、全員が同じ事をするわけじゃあないからね」である。

自由と気楽はそのように違う。
自由だから、その中で生きてきたから結果として気楽なのだ。快適なのだ。束縛にはそれはない。そしてそっちのもうが楽なら、それがその人の自由である。ただしその人だけの自由だ。宗教やイデオロギーが、いかほど正しかろうと、もし仏陀やキリストが「おれの言うことだけきいていろ」といったならそれはもう自由なものではない。それは押し付けにほかならない。憲法の宗教・信仰の自由とはそういうことだ。そこにはほかの宗教やイデオロギーに対する選択の自由もなければならない。つまり改心は常に許容されねばならぬ。

なぜ人類は自由とか束縛とか、信仰とか宗教とか哲学を生み出したのか?それは本能が、ほかの生物ほど持たされていないからだ。本能はうむを言わせぬ宇宙の摂理に乗っ取った生き方のルールであり、そこには選択肢はない。あるのはそのルールの範囲内で自分が作り出した機能や形態である。鳥も獣もさまざまの姿かたちを選んで自由に生きている。つまり摂理とは束縛ではないことがわかる。

生まれながらの束縛は誰もが持っている。人類としての機能の限界という束縛である。しかしあらゆる生物は、あるとき機能の臨界に達すると、劇的な変化と改革を起こすようにプログラムされている。突然変異や火の発見、芸術の発見などのビッグバンである。イベントとも言う。

地球にもそれがある。
温暖化を引き起こす二酸化炭素は、増加が行き過ぎると地球によって減少する気象変動が起こると言われている。例えば全球凍結などもその自浄作用の一種だと言う。二酸化炭素を減少させるためのひとつの手段として、地球には全球凍結などの、種の絶滅、立ち上げ直し機能が持たされているという。温暖化の一番の原因である生物を絶滅させてしまうのもその機能の選択肢のひとつだ。つまり人類全滅、あるいは人口最小化である。地球温暖化をストップさせるための多くの選択肢を人類は持っている。持っているにもかかわらず変らない。ならば人類そのものを減らすしかない・・・。それも地球の自浄作用の一種だろう。そうなっても誰もどうにもできない。聖書の洪水神話などはそれを語るものだ。つまり宗教世界でそれは天罰だが、実際には地球の自然現象でしかない。聖書は「そんな生き方しているとこうなるよ」と、サンプルをできるだけ恐ろしげに書くことでただ反省をうながしているだけのことだ。つまり警句、警告であって、それは約束や契約などではない。ところが地球の摂理がやることは聖書さえ凌駕するものである可能性もある。洪水ならもう毎年世界中で起こっているし、ひょうも豪雪も起きている。その先はもう聖書では考え付かない現象が待っているのだろう。




そのときはじめて、自由は通用しない。
そこに見えるのは黙示録か、それともソドムか?
誰にもわからない。
だがそう遠くない。刻々と近づいていることだけは確かだろう。




サバイバルできるのは?誰?
それは菌類と細菌だけかも知れない。













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