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寒冷化でわかる弥生文化の中心九州→近畿移行の謎

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考古学のこれまでの検証では、弥生時代の文化・文明の中心地はやはりどうしても九州から始まるのに、3世紀以降、なぜそれが出雲→吉備→近畿へと変化したのか、の謎解きである。

中国の歴史だと、やはり3世紀前後は大帝国から戦乱期となって隋・唐時代へ移行が起こっているので比較しやすいだろう。

いずれも共通するのは寒冷化である。

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ローマ帝国ですら、この移行期には衰亡し、新時代が欧州で起きている。だから、世界史的に見ても、日本の1~3世紀に起こった中心地変化は、矛盾していない出来事であり、なんびともそれを否定できないことなのである。


上のような気候変化グラフが欲しくて、Yahoo検索で「戦国時代、寒冷化、火山」と入れてみるとトップが自分の記事だったのでやや驚かされた。



地球史の長いスパンで見てみると、やはり古生代→中生代→新生代のはざまでは、大寒冷化と生物種の大量死滅が起きている。いわゆるK-T境界、P-T境界と呼ばれる全球凍結がこれである。そのたびに地上生物の80%前後が入れ替わったことはご存知だろう。その原因は、K-T境界もP-T境界も、巨大隕石落下だったのではないかといわれている。K-T境界期には古生代生物の絶滅が起こり、P-T境界期では恐竜=爬虫類から哺乳類への大転換が起きた。植物相の変化も起きている。人類の誕生は新生代の温暖・乾燥期にアフリカ東部の森林が消えたことで起こっている。(KTPはそれぞれ白亜紀などのラテン語・ドイツ語からとられた頭文字)

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古生代、中生代、新生代、それ以前の世代境界はみな隕石落下や大接近で爆発、火山噴火連発、などの宇宙や地球規模の一大環境変化が突然的で急速でしかも一気的な寒冷化を引き起こすことで生まれた。少なくとも地球は五度の大量絶滅が起こった。

K=ドイツ語 Kreide =白亜紀
T=英語   Tertiary=新生代第三期
P=英語   Permian=ペルム期
現在はK-TはK/Pgt境界 Cretaceous-Paleogene boundary と呼ぶようになった

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●前生代の生物は生き残らないで、新生物に更新される
恐竜や海竜はなにものかとそれぞれ交配して鳥やイルカに道を託し、ネアンデルタールはサピエンスと交配して道を託した。

●現在の生物進化の系統樹はいずれ間違っていたことになるだろう。サルからヒトが進化したのではなく、あらゆる種が最初の生命体から、昆虫の独立性のように、独自に進化していったとなるだろう。





また、人類の進化も温暖化と寒冷化の繰り返しによってむしろ苦境を乗り越えることで、精神と肉体と頭脳の大イベントが引き起こされ、そのつど人類は絶滅と更新を繰り返し現生人類にたどりついた。その影には異人種との交配があったことは遺伝子学が明らかにしてきている。ネアンデルタールとデニソワ人、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの交配はその最も新しい例で、たがいのたりぬところをそれによって乗り越えたわけであろう。当然、それ以前のピテクス=猿人の時代にもそれはあっただろう。そうしなければ氷期を乗り越えられなかったのだ。ハイブリッドすることこそが人類生存の謎を解く鍵だ。

今、現生人類の前身であっただろう霊長類が生きていないのは、環境淘汰されて消えたためで、全生物ではむしろ、過渡期の同類が存在することなどありえないのであって、人類に限ったことではないのだ。サルとゴリラとチンパンジーはどうだと反論するかもしれないが、彼らも同種の進化系ではなく、それぞれ異種なのである。人類の進化と同じで、彼らも順次消えてゆく運命にあり、最終的に彼ら類人猿のどのような種に変わるのかは、今後の寒冷化による絶滅に命運がまかされていることで変わりはない。つまりサピエンスの先祖生物の同時代存在は起こるはずがなかった。






寒冷化を引き起こす原因として、地球を覆いつくし太陽光を遮る煤煙が何度も地球を周回したことが直接のもので、それが起こる原因が隕石衝突や火山大噴火である。

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日本の戦国時代の開始は、その前の室町期に起きた世界的火山噴火の多発によって、地球が灰につつまれたことで寒冷化したことに起因する。中国の前漢滅亡、後漢滅亡も、直接の原因は寒冷化であり、その原因は火山噴火多発による旱魃であった。いとも簡単に大国家が気候に翻弄されてきたことはもう定説である。



すると、日本の弥生時代の文化の東での別の動きが見えてくる。
出雲・吉備・近畿は、大陸の争乱でそれまでの中国・半島とのダイレクトな文化の吸収力が縮小する九州とは別に、おそらく日本海での半島や北魏からの段階的な中国文化を摂取することで力をつけたのだ。だから『日本書紀』には出雲、葛城、吉備を近畿が吸収して発展する様子が書き残されたわけだ。南九州を起源とするという書きようも、北部九州から南下せざるを得なかった人々の東への移動が最初に近畿を開発していた、それを正統に受け継いだのが大和朝廷だと言うためである。つまり先着した彼らを吉備や葛城氏族は関東へ追い出したとなろう。

縄文初期には、鬼界カルデラの大噴火で鹿児島の上野原文化人が四散し、縄文後期には寒冷化で三内丸山縄文文明が消失している。この一時的寒冷期が弥生人を列島へ南下させた。稲作は最初から南方原種だった縄文米から、改良された寒冷地対応型のうるち米でなければならなず、それを持ち込んだ半島弥生人でなければ、温暖だったはずの九州でさえ栽培はならなかったのだろう。

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上野原遺跡縄文の森
錦江湾に面した火山灰カルスト台地の上にある。


おそらく九州以北の日本はまだ縄文海進も残存し、環境的には縄文的で住めない。それが次第に温暖にもどるとすぐに九州弥生人は日本海で南北海道(苫小牧)まで稲作や土器や祭祀を伝え始めた。またたくまに稲作は東北まで広がり、最後になったのは関東であった。この謎はやはり関東地方の気候と大地にある。関東ローム層が水田にむかず、寒冷なために縄文狩猟採集文化が最後まで居残っていた。その残照として関東のブタ食がある。畑作だったことよりも、さらに縄文文化のイノシシ食が舌の上に頑迷に居残ったのだと筆者は見ている。



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福岡県石人山古墳石棺の直弧文装飾


さて、古墳時代だが、四世紀~五世紀の北部九州古墳石室では「直弧文」というデザインが登場する。いわゆる装飾古墳と呼ばれる一連の装飾のある古墳の中で、最初のものがこの直弧文である。そして九州で、直弧文の前身であるべき絵柄は、弥生時代~3世紀までの九州の墳墓にまったく存在していないのでつなぎ遡る証拠がない。赤く塗る風習はあっても、絵を描く、刻む風習がないのである。

直弧文のブームが熊本で吹き荒れたあと、装飾はなぜか5後半~6世紀の幾何学壁画へ一変した。そしてそのブームは吉備、島根まで広がって消えてゆき、しかし7世紀にはまったく遠くはなれた北関東茨城や福島海岸部で突如流行する。九州氏族の北上、あるいは影響があったためだろう。九州最初の壁画古墳は宮崎県の5世紀。おかしなことに南九州の地下式横穴石室で始まっていた。それが北へと徐々に移動するのである。そして九州最北端の遠賀川流域まで到達した6世紀半ばに、王塚・竹原というページェントの芸術となって大成して消える。そして時代は記紀に言う福井の継体大王の時代へ。飛鳥直前のことである。


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●大萩37号地下式横穴墓(おおはぎ) 宮崎県西諸県郡野尻町大字三ヶ野山
5世紀https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54372403.html


北関東の装飾古墳と前方後円墳は、実はその飛鳥時代に最発達した。なぜ九州の幾何学壁画を描く種族は北関東へ?それはやはり環境の変化と、吉備~大和の台頭であろう。

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茨城県ひたちなか市虎塚古墳




中国が寒冷化で五胡十六国時代に入った頃、日本の九州も寒冷化した。2世紀までに九州弥生人は一旦、南や東へ移動してゆく。九州式横穴石室の大和へ向う時期に合致する。しかし幾何学壁画は吉備でとまり、河内・大和へは線刻画しか入らなかった。壁画氏族と線刻画氏族が違っていたか、同じ氏族で階級が違っていたことを想定させる。その壁画氏族だけが北関東へ向い、ついには福島を経て大震災が起きた双葉町でストップする。彼らは同族である。

では4世紀主流だった直弧文はどこから九州に来て、どこへ消えたのか?

直弧文の源流と言われるのは吉備世紀前半の弧帯文で、それが3世紀に大和の纒向で弧文へ変化する。それが4世紀になって突如、絵柄を切り取られた上に、真ん中に否定を意味する×をつけられた直弧文として熊本に登場するのが4世紀~5世紀前半である。すると想像できるのは、直弧文を墓に張り巡らされた氏族とは吉備の氏族だと言うことである。それが倭五王の河内王家によって支配されて、地方へ派遣されたのだとなる。ところが在地九州豪族の墓には直弧文はなく、代わりに幾何学壁画と線刻画・・・。前者は派遣された管理者、後者は在地豪族と考えるのは当然であろう。


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なぜ吉備系豪族が派遣されたか?
4~5世紀、中国と半島は戦国時代の争乱期。これを監視するために河内は九州経営に乗り出さねばならない。しかし九州の地の利に詳しくない彼らは、1~2世紀交流があった吉備王族と半島と出雲に詳しかった大和の葛城氏族を配下にする。それらを地方官吏(さきもり)や知事、国造として各地に派遣するのである。例えば阿蘇国造・大祝氏、例えば出雲大宮司氏、例えば諏訪神長官守屋氏と阿蘇風の大祝氏などなど・・・。


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直弧文が5世紀に九州から消えてしまったのは、大陸の安定、さらに吉備・葛城の各地での越権行為・既得権益摂取などが起こることや、大和で倭五王政権が消えることで合致する。そして登場するのは福井の継体~飛鳥蘇我氏だったと『日本書紀』は言い募るのである。




この流れに矛盾はないように思える。
気候変動とも合致する。

いかに。




3世紀纒向の氏族は吉備・出雲葛城であるが、継体、飛鳥の政権氏族は別物氏族であろう。五王の末裔なのか、あるいは日本海の渡来商人氏族だったかはいずれまたわかるときがあるだろう。



























また線刻画は、日本海、近畿、関東へ広がった。このことは?

























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