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古代船の名称と構造




今回からシリーズで、海と船と古代の港について、船の構造や、海に関わる地名の語源、あるいは古代縄文海進残存時代の港湾のありさまなどなどについて石村智『よみがえる古代の港』から、いくつかを切り取って題材にした記事を書こうと思う。





まずは古代の船の構造と名称から。



●丸木舟


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イメージ 1
Wiki丸木舟より


最も原始的な舟。
一本の大木を刳(く)り貫いて作る。
縄文以後の先史時代に最も身近で使用された。
浮沈構造舟であるため、大きな船とは違い、浅瀬や岩礁、海峡などで長期的に併用され続けた。


日本では丸木舟の遺物はよく出土するし、準構造船の船底としても発見されている。また千葉県などでは中に遺骸の入った舟葬(ふなそう)の棺として、海蝕崖の洞穴などからの発見もある。ただし、日本でポリネシアのような大小二艘の丸木舟をかけはしでつなぐアウトリガーボートの発見はない(もっともつなぐ棒はすぐにはずれてばらばらになるので、あった可能性は否定できない。)。しかし二艘を横につないだダブルボート(双胴舟)の使用は、地域によって近年まで存在したらしい。

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イメージ 4
現役のアウトリガーボート。



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イメージ 3
アイヌ明治20年 Wiki丸木舟より



古墳時代になると、丸木舟を前後につないで大きくした「複材刳舟(ふくざい・くりふね)」が作られた。



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イメージ 2
大阪府鼬川(いたちがわ)出土の複材刳舟(複材式独木舟とも言う)。
杉材二本を前後につなぎ刳りぬいた舟、長さは11m、中央接合部の幅は1.4mもある。


飛鳥・奈良時代、続く平安時代でも丸木舟は活用されている。山形県鶴岡市藤島町では12mもの丸木舟が出土した。

その利便性は小回りの効くことや、さきほども書いたが浅瀬や瀬戸でも縦横に動けたためで、そうした地形の多いところでは、最近まで丸木舟が使われていた民俗学の例証がある(種子島や男鹿半島など)。また世界の島嶼地域では、現在でも実用舟である(台湾南部高山族のチヌリクランやポリネシア・トンガなどのアウトリガーに使用)。


日本では舟をつないで艀(はしけ)にすることは多かったようで、幾艘もつないだ様子は神話の因幡の白兎の渡ったワニが並んだようであろう。つまりあの神話のワニの橋も舟はしけのことかも知れない。記紀にも女帝が伊勢か尾張にいくのに、舟を並べたはしけを使うシーンがあったように記憶している。

丸木舟は瀬戸内のような島が多く、セトになった海峡が多い海では、かなり長期的に使われただろう。一方双胴船やアウトリガーは、大洋を渡って島々を往来した海人族、海洋民族には重宝だった。


なお、エジプト壁画や日本の装飾古墳の壁画(福岡県珍塚、鳥船塚古墳など)に多いのが丸木舟だが、たまに二重構造の準構造船らしき絵もある。丸木舟の上に前後が反り返る丸木舟を置いたのかも知れない。

なお古代には丸木舟は王族のもがり用として使われている(奈良県巣山古墳など)。
「殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。 その棺を安置する場所をも指すことがある。」Wiki殯


ちなみに「もがり笛」虎落笛は冬に寒風が木立を通り抜ける音だが、藻狩り船とは水面で海草をとる船のこと。「もがり」とはそもそも悲しいという意味だろう。
「も(喪)あ(上)がり」の音変化 コトバンク
一方虎落笛は語源不肖。もあがりのように寂しい音か?





●準構造船

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イメージ 6
https://kitokito.at.webry.info/200612/article_39.html
国立九州博物館に展示された一体成型型の準構造船。丸木船底のへりに、垂直に舷側板を立てる式の準構造船である。

丸木舟の側面に波除の舷側板を貼り付けた大型船。
弥生時代に登場したと考えられている。
最古は滋賀県守山市赤野井浜遺跡で出た弥生中期のもの。
大阪府蔀屋遺跡の古墳時代中期の舷側板出土もある。


二股船(二体成型船)という構造もある。


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イメージ 7

画像は大阪歴史博物館に展示される2種類の船形埴輪である。 大阪市平野区の長原遺跡・高廻り1,2号墳(ancient Takamawari Tombs in the Nagahara Tomb Cluster)で発掘された 古墳時代中期・4世紀末~5世紀初の埴輪である。説明書きによれば、 船形埴輪は5世紀前半の例が多く、いずれもが船底に丸木舟を用い、舷側に板材を組み合わせた準構造船となっていた。そして、 船の両端が二股に分かれる二体成形船(高廻り2号墳例、手前の埴輪)と、船底の突出をなくした一体成形船(高廻り1号墳例、右奥の埴輪) とが存在した。


この二体式成型船が上で書いた丸木舟が丸木舟に乗っかったものだったか、そうでなかったかは壁画からではわかりにくい。最初二重構造にしていたものが、二体式に進化したか?

いずれにせよへさきに反り返った波きり板がついて、これでは前が見えたのだろうかと心配してしまう形状だ。しかし、速度が出るから、外洋では反っていないと波が大量に入って沈没してしまったと言う。

二股船の遺物は大阪久宝寺遺跡(弥生末~古墳初頭)で埴輪が出ている。
前後が二股になっていて、下に波はたまらず左右へ分かれる。下部はサーフボードのような波きり、波乗り構造である。民俗誌例ではインドネシアのアリスアリスという船がこういう様式である(写真なし)が、日本の古代船で実際にこれが出た例はなく、実用性が不明である。ただし先の巣山古墳のもがり船がこれだったとすると、この二股の二体成型構造は、もがりのための形であった可能性がある。つまり上部がそのまま死者を置く棺という風習で、下部がそれを運ぶ船の形になっていたと考えてみたら、なるほど、もがり舟とは過去からの船葬の風習から来ていたのかと目からうろこも落ちるだろう。


なお準構造船からは舟本体と舷側板をつなぐ手法が登場する。古墳時代まではまだ船釘が存在せず、縄文的な「ホゾ差し」手法でつないでいる。サクラの樹皮で作った紐で、板に穴をあけてしばった(守山市下長遺跡・古墳前期)。万葉集でも

桜皮(かには)巻き 作れる舟に  山部赤人 万・六ー九四二 とある。
「かには」とは桜や白樺の樹皮を乾燥させると赤茶色になる、その色を蟹の甲羅に見立てたか?あるいは「かにわ」で樺(かんば)の端っこ?不明。


あぢさはふ 妹が目離(か)れて 敷細(しきたへ)の 枕も巻かず
  桜皮(かには)巻き 作れる舟に 真楫(かぢ)貫き 吾が榜ぎ来れば
  淡路の 野島も過ぎ 印南嬬(いなみつま) 辛荷の島の
  島の際(ま)ゆ 我家を見れば 



後期の久宝寺遺跡ではホゾ穴、ホゾ溝を合わせて木くずの栓でうめる手法の舟の遺物が出ている。
こうした手法の舟はつい20世紀まで、東北地方北部にあった。




古代の舟にはこのほか、奈良時代の遣唐使船に使われるような構造船、また草で編んだ草舟、葦舟(まとこおふすま『古事記』)、ジャンク帆船、筏などがあった。古墳時代の松阪の宝塚古墳などで構造帆船らしき埴輪も出ているが、はじまりは遣唐使だといわれている。また船釘の使用は鎌倉時代からと言われている。いずれも考古学の今後次第だろう。




次回 地名瀬戸内、志賀、紫香楽を扱う。












































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