■惟喬親王
「惟喬親王(これたかしんのう、承和11年(844年) - 寛平9年2月20日(897年3月30日)は、平安時代前期の皇族。文徳天皇の第一皇子。母は紀名虎の娘・更衣紀静子。別名小野宮。同母妹に恬子内親王がいる。当親王を支持した紀氏は、側近だった者らを顕彰し六歌仙となったといわれる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B
「惟喬親王(これたかしんのう、承和11年(844年) - 寛平9年2月20日(897年3月30日)は、平安時代前期の皇族。文徳天皇の第一皇子。母は紀名虎の娘・更衣紀静子。別名小野宮。同母妹に恬子内親王がいる。当親王を支持した紀氏は、側近だった者らを顕彰し六歌仙となったといわれる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B
惟喬親王は木地師の祖といわれ、木地師が用いる手挽き轆轤(てびき・ろくろ)を発明したと言われている。もちろん木地師はプライドが高い職人ゆえ、彼らが親王や平家を出自とする伝承は、職能民独特の「貴種流離譚」のひとつである。
母親である静子には「しずこの舞姫」というあだ名がある(綛野和子)。
要するに紀氏が娶った白拍子であろうかと言われている。
紀貫之が『古今和歌集』の編纂に当たったことも、紀氏出身者と職能民の関わりが、木の国・紀州や熊野で往古からあった・・・紀氏はその管理者であったことを思わせる。かつての「先の王家」に関与していた紀氏が、在地管理では民衆に近い、というよりも、紀氏自身が職能民とよく似た境遇にあった可能性が考えられる。その上下関係はおそらく河内王朝以来のものだったのだろう。紀氏はもともと紀ノ川河口部に入り、東の葛城氏や吉備王氏たちと王家を構成した古い氏族と考えられる。紀ノ川河口部には河内王朝時代の大古墳が存在する。
岩橋千塚古墳群→http://inoues.net/ruins/otani_kofun.html
→http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53255514.html
母親である静子には「しずこの舞姫」というあだ名がある(綛野和子)。
要するに紀氏が娶った白拍子であろうかと言われている。
紀貫之が『古今和歌集』の編纂に当たったことも、紀氏出身者と職能民の関わりが、木の国・紀州や熊野で往古からあった・・・紀氏はその管理者であったことを思わせる。かつての「先の王家」に関与していた紀氏が、在地管理では民衆に近い、というよりも、紀氏自身が職能民とよく似た境遇にあった可能性が考えられる。その上下関係はおそらく河内王朝以来のものだったのだろう。紀氏はもともと紀ノ川河口部に入り、東の葛城氏や吉備王氏たちと王家を構成した古い氏族と考えられる。紀ノ川河口部には河内王朝時代の大古墳が存在する。
岩橋千塚古墳群→http://inoues.net/ruins/otani_kofun.html
→http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53255514.html
■轆轤木地師
ろくろはおそらく中国から入ってくる。惟喬親王発明というのはもちろん木地師たちがこしらえたお話である。
ろくろはおそらく中国から入ってくる。惟喬親王発明というのはもちろん木地師たちがこしらえたお話である。
さらに紀氏の管理下にあったろくろ木地師や漆部(ぬりべ)たち技術者の、さらに古い出身地を探していくと、やはりさざれ石の出る滋賀県永源寺に行き着く。
木地師は日本の職能民・技術者の中でおそらく唯一、その出自と姓名が明確な部民なのである。
木を扱うゆえに山に籠もり続け、ほとんどほかの血が混じらなかったためであろう。
彼らは永源寺君ケ畑から全国に散らばるが、その理由は材木と漆の枯渇に始まる。
その経路は少なくとも6つあるとされる。なぜそれがわかるかというと、彼らはプライドが高いがために、かならずどこから移動したかを明確に言うように一子相伝されてきた。だから宮崎県椎葉の木地師なら、その前は久住山といい、久住山木地師は玖珠耶馬渓と言い、玖珠木地師は四国といい、四国では永源寺というふうに明快に答える。
そしてその姓名は小椋、筒井、星、大蔵、真壁などで、これは『『新撰姓氏録』』にちゃんと記載がある。だから木地師や漆部は差別されていなかったことがわかる。使用する木材や漆が深い山の中にしかなかったから、自ら率先して山にこもったのである。
木地師は日本の職能民・技術者の中でおそらく唯一、その出自と姓名が明確な部民なのである。
木を扱うゆえに山に籠もり続け、ほとんどほかの血が混じらなかったためであろう。
彼らは永源寺君ケ畑から全国に散らばるが、その理由は材木と漆の枯渇に始まる。
その経路は少なくとも6つあるとされる。なぜそれがわかるかというと、彼らはプライドが高いがために、かならずどこから移動したかを明確に言うように一子相伝されてきた。だから宮崎県椎葉の木地師なら、その前は久住山といい、久住山木地師は玖珠耶馬渓と言い、玖珠木地師は四国といい、四国では永源寺というふうに明快に答える。
そしてその姓名は小椋、筒井、星、大蔵、真壁などで、これは『『新撰姓氏録』』にちゃんと記載がある。だから木地師や漆部は差別されていなかったことがわかる。使用する木材や漆が深い山の中にしかなかったから、自ら率先して山にこもったのである。
■その流出ルート
1 永源寺→大和→紀州・熊野(紀州塗・根来塗)→四国→耶馬溪(内匠などのキジ車)→久住山→祖母山・竹田→高千穂町→椎葉村→人吉(キジ車)
2 永源寺→伊勢→三河→上野・下野
3 永源寺→美濃→飛騨高山(東山木地師の墓)→木曽(春慶塗)
4 永源寺→若狭→越前→加賀→輪島(若狭塗・輪島塗)
5 永源寺→丹波→但馬→因幡→伯耆
6 永源寺→大和→備中→備後→出雲→石見→安芸→周防→長門
すべての木地師が故郷を近江君ケ畑と看板にしている。
永源寺まではバスがあるが、そこから君ケ畑、蛭谷へは大変な山道で、今でも一日では無理である。
1 永源寺→大和→紀州・熊野(紀州塗・根来塗)→四国→耶馬溪(内匠などのキジ車)→久住山→祖母山・竹田→高千穂町→椎葉村→人吉(キジ車)
2 永源寺→伊勢→三河→上野・下野
3 永源寺→美濃→飛騨高山(東山木地師の墓)→木曽(春慶塗)
4 永源寺→若狭→越前→加賀→輪島(若狭塗・輪島塗)
5 永源寺→丹波→但馬→因幡→伯耆
6 永源寺→大和→備中→備後→出雲→石見→安芸→周防→長門
すべての木地師が故郷を近江君ケ畑と看板にしている。
永源寺まではバスがあるが、そこから君ケ畑、蛭谷へは大変な山道で、今でも一日では無理である。
江戸時代、近江領主の蒲生氏郷は徳川幕府によって会津に封じられたが、このとき、わざわざ近江から木地師を呼んだ。これが会津塗となる。箱根細工も木地師の作品である。また大分県竹田市や別府市内成(うちなり)の竹細工(人間国宝生野祥雲斎・籃胎漆器)などもこの流れであろう。
熊本県小国町にもキジ車や酒林の職人あり。
熊本県小国町にもキジ車や酒林の職人あり。
木地師に較べて竹細工師はそのルーツ探しが難しい。なぜなら竹はどこにでも植えられ、平地でも育つからだ。
次回、竹細工師と「うつぼ」