大島と言えばよく知られているのは伊豆大島、奄美大島だろうか。それ以外にもおおしまはたくさんある。「おおしま」は単なる大きな嶋で、その地域で一番大きいので大島なのだから。
このサイトで「おおしま」と名前がついている場所を探したら、あるわあるわである。表記は大島だけでなく渡島と書いて「おおしま」とかある。目の前にあって渡れるのだろう。渡ったところにある島である。
日本で太平洋を眺めたかったら和歌山県紀伊半島の突端、串本町に紀伊大島という割合大きな島がある。筆者、知り合いの生まれ故郷であるらしい。有名な磯釣りのメッカであるそうだ。
熊野灘が一望できる絶景の樫野崎から、谷川健一も海を眺め、目の前を流れゆく黒潮と日本文化の深い関わりのあっただろうことを書いている(『日本の地名』「はじめに」冒頭)。
紀伊南部(南紀)は白浜を初めとして串本も関西圏のリゾート地なので、京都に住んでいたころは、筆者もよく家族旅行している。熊野灘と言えば平安~中世には、補陀落渡海で知られた土地柄でもあった。最初は行者たちの修行であったが、やがて貴族の間に流行って、小舟で海に出て還って来なかったものもかなりあったらしい。なぜまた海に出るかというと、よくはわからないが、末法思想的な、世をはかなむものもあったり、修行だったり、仏に近づきたいなどなど、さまざまである。
なぜ熊野灘なのだろう?
『古事記』に神武天皇が、先住ナガスネ彦に拒まれて大和に入れず、しかたなく迂回してここから熊野へ入ったことになっているのが紀伊大島近辺であるらしい。
「「古事記」の神武東征神話によると、初め日向(ひむか)の国<宮崎県>の高千穂宮(たかちほのみや)にいた神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコノミコト)(神武天皇)は、兄の五瀬命(イツセノミコト)と相談して、「どの地を都とすれば安らかに天下を治められようか、塩土老翁(シオツチノオジ)のいうには、東の方に青山に囲まれた美しい国があり、そこには饒速日(ニギハヤヒ)【櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤビノミコト)】<下記注1>であろうか、天磐船(あまのいわふね)に乗って飛び降ってきたものがあるという。やはり東方を目指そう」と日向を出発します。
途中、宇佐(うさ)<大分県>、筑紫(つくし)<福岡県>、安芸(あき)<広島県>、吉備(きび)<岡山県>を経て瀬戸内海を東に進んで浪早(なみはや)の渡り<大阪府>に至り、河内国(かわちのくに)<大阪府>で登美能那賀須泥毘古(トミノナカスネビコ)の抵抗に遭い、五瀬命が彼の矢を受けて、出血甚だしく、紀伊国<和歌山県>へと迂回することになりました。そのとき、男之水門(おのみなと)<現・和歌山市小野町の水門吹上(みなとふきあげ)神社・大阪府の泉南市という説もある>に上陸し、ここで五瀬命が雄たけびをして崩御(ほうぎょ)され、竈山(かまやま)の地<現・和歌山市和田の竈山神社>に葬り申し上げました。
記紀の東征の物語は、この後さらに軍を南に進め熊野<紀伊半島熊野地方>へと向かいます。
そこから狭野(さの)を越えて熊野の神邑(みわのむら)に着き、天磐盾(あまのいわたて)に登って、そこから軍を率いて次第に進みます。
「狭野」は、現・和歌山県新宮市佐野、熊野古道佐野王子跡あたりです。「熊野の神邑」は新宮市に三輪崎(みわさき)という地名があり、「万葉集」に神(みわ)の崎と詠われています。
苦しくも 降り来る雨か 神の崎 狭野の渡りに 家もあらなくに(万・巻3-265)
「天磐盾」は、新宮市新宮の熊野速玉大社の摂社・神倉神社の境内の神倉山であると伝えられています。
一行が船で進もうとした時、海上で突然暴風雨に遭遇して、船団は漂流しました。その時、稲飯命(イナイノミコト)【稲氷命(イナヒノミコト)】<神武天皇の兄>は嘆かれて「ああ何としたことだ。わが祖先は天神(あまつかみ)、母は海神(わたつみ)であるというのに、どうして私を陸で苦しめ、また海で苦しめるのであろうか。」と仰せられ、言い終わるやそのまま剣を抜き、海に身を投じて鋤持神(さいもちのかみ)となられました。」
佐野とは大阪府泉佐野市である。山を越えると葛城へ出られる。
熊野にしても紀ノ川にしても、紀州は海人族のメッカであった。黒潮に乗れば、海人の原郷である壱岐対馬、南九州などへ「ひとっとび」できるのだろう。神武がわざわざここを選ぶのは、おそらく『古事記』が重要視した天武(大海人 おおあま)の故郷としての南九州・母方熊野水軍を暗に言うが為であっただろう(壬申の乱は尾張や大分や紀氏海人族ばかりが活躍した)。
長崎の壱岐は月読信仰の震源地で、海人族は記紀神話の中で目立たない月読を、自分たちのシンボルだと思い、あちこちに月読信仰をもたらしたであろうが、なぜか熊野には中央アマテラス思想ももたらされ、むしろ全国的には伊勢の後ろ戸としての記紀神話証明のためのテーマパークにせられてしまう。その背後には、藤原不比等と盟友であった紀氏のいることは想像できる。書紀編者は後の箇所で「東道将軍紀阿閉麻呂(あえまろ・飛鳥時代後半の人。紀伊国守、壬申の乱で活躍)等」と書かれているから間違いなかろう。大山誠一は、紀臣は『日本書紀』のみならず、その後『百済本紀』もまた彼らの影響下で、百済王族が朝鮮逃亡時に持ってきたみやげである百済の史記を書き換えただろうと言う。日本にしか残っていない書物だけに、そこには信憑性が感じられる説である。『日本書紀』は成立後、代々の宰相くらすや皇族の手直しを受けただろう。
すると紀伊の氏族の、初期には紀直氏、のちに紀臣氏の歴史が、国史に影響を与えたことは間違いなさそうである。紀ノ川の河口部の南北対岸に彼らは住み分けていたが、『日本書紀』編纂の頃には紀臣が優勢になっており、不比等と盟友関係にあったようだ。それが神武の南九州出発の元にもなるし、ナガスネ彦との戦いでの迂回路に紀伊熊野灘が選ばれた理由だろう。さらに熊野が花の窟などのテーマパーク兼修験と補陀落のメッカになる背景にも彼らがあっただろう。
そもそも紀州には須佐があり、スサノオとイタケルも、彼らの神話が取り込まれた証拠である。しかしその現場は出雲に持っていかれてしまった。朝廷の真西に蘇我氏の怨霊を守護として置くためである。また真東の伊勢には皇室・・・とは言っても不比等が武内宿禰=蘇我氏祖人で皇室参謀を演じていた時代だけだが、アマテラスがおかれた・・・と言うよりも丁重に、あとの為政者が畿内の外へ追い出したのである。
だから歴史的には、藤原氏の力と紀臣の力が衰える頃・・・仲麻呂~諸兄へと政権の中枢が移る奈良時代に、伊勢が創建されたことが見えてくるわけである。要するに『日本書紀』記述に従った神社・・・これが神宮クラスばかりなので、あたかも時代の中枢の神々に見えてしまった・・・のすべては、ほぼ不比等~光明皇后時代のものは古いが、次の諸兄以後のそういう神社は、『日本書紀』イデオロギーではなく、新しいイデオロギーで追い出されたとか、彼ら自身の神を祭ったなどした、新しい神社だとなる。(もちろん橘氏の肝いり神社もあっただろう。橘氏は県犬養(あがたいぬかい)氏から出るので、そもそも吉備の海人族であろう)
神社にはそういう大きな見分け方がある。
もちろん武家が庇護した宮島の厳島神社や、鎌倉の鶴岡八幡や三島大社、あるいは在地の部民が最初に祭ったうじがみである鹿島・香取神宮、渡来人が海人族の三女神=スサノオの娘=いちきしまひめ=厳島姫、玉依姫、豊玉姫などなどの比売神を祭っていたところに八幡神と神功皇后(息長の姫)がかぶさった渡来人のための宇佐八幡宮など複雑な神もある。そのとき宇佐の比売神には秦氏の渡来女神=大地母神がかぶさる。比売とはおしなべて鉱物・織物などの産物ことである。
古代の「ひめ」が単に女酋長とかシャーマンとかだけで考えていたら、神々のなぞはとけない。そこには経済と政治が必ず隠されている。極めて現実的なのである日本の記紀の神は・・・。
●●●もうひとつ面白いことがある。高野山である。
空海と紀氏にも深いかかわりがある。
「弘法大師・空海が高野山金剛峯寺を開いたのは、 地主神たる「丹生都比売神社」がその神領を譲ったことによると伝えられ ...」https://ameblo.jp/taishi6764/entry-11906061402.html
「以後、紀伊丹生氏は大伴氏や土豪の紀氏と血縁の関係をもち紀伊丹生総神主家として代々続く。」http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/nagasawa/new-13.html
「柿本紀僧正真済(しんぜい)は空海の高弟で、今日の空海を支えた人です。
文徳天皇が次期天皇に第一皇子、紀の一族の惟高親王を望みましたが,
太政大臣 藤原良房は幼少の清和天皇を強引に擁立して、
真済が擁立した惟高親王が敗ました
後年 「応天門の変」で大伴氏と供に紀氏は政治的に滅ぼされます。
悲劇の紀の一族です。」http://zan35441.on.coocan.jp/sub12.html
文徳天皇が次期天皇に第一皇子、紀の一族の惟高親王を望みましたが,
太政大臣 藤原良房は幼少の清和天皇を強引に擁立して、
真済が擁立した惟高親王が敗ました
後年 「応天門の変」で大伴氏と供に紀氏は政治的に滅ぼされます。
悲劇の紀の一族です。」http://zan35441.on.coocan.jp/sub12.html
真済(しんぜい、延暦19年(800年) - 貞観2年2月25日(860年3月25日))は、平安時代前期の真言宗の僧。父は巡察弾正紀御園。[1]空海の十大弟子の一人で、真言宗で初めて僧官最高位の僧正に任ぜられた。詩文にも優れ、空海の詩文を集めた『性霊集』を編集している。また、長く神護寺に住し、その発展に尽力した。高雄僧正・紀僧正・柿本僧正とも称される。 」Wiki真済
人麻呂の子孫も大いに空海と関係者になっており、柿本氏が紀氏血縁だったことがわかる。その柿本という姓が日本で多いのは和歌山県と佐賀県である。佐賀と言えば基肄郡は紀氏の九州における集住地で、靫負集団がいた。佐賀の筑後川沿線から日田市にかけて靫負は並ぶように住まった。それは大伴靫負集団。その時代は継体大王時代なのである。そこから武内宿禰の子孫たちは生じる。それが蘇我氏の正体を暴く糸口でもある。
大島に戻ろう。
大島は文字通り、地域一番の大きい島であるが、日本列島も神話では「大八嶋 おおやしま」となっている。
「やしま」はたくさんの島々=列島である。遠隔地にあまり行くはずのない中央豪族がそう書いたのだから、やはり日本列島の形状や位置関係を知っているのは海人族しかありえまい。神話で、イザナギ・イザナミはまず淡路島を造って、九州や四国を作り、しかし東北以北は無視したうえで、いくつかの大きな島の名をあげている。佐渡や壱岐対馬や、隠岐島などである。それが『日本書紀』編纂時の大和の王権が手の及んだ地域であり、それ以外は埒外・・・日本ではなかったことになる。よかったですね。
すでに半島南部は出てこない。伽耶はもうないのである。つまり飛鳥時代にはもう日本府などあるはずもない。
紀伊大島についての記述は残念ながら記紀神話にはない。神武東征記録でも大島とは出てこない。そのあたり地元のヒトにはちょっと残念だろう。神話は重要な村おこしになるからだ。だが重要な捕鯨の中継地であった。捕鯨の最古はこれもまた壱岐勝浦の「いさなとり」であり、紀伊の捕鯨は、壱岐海人族が移住したことで始まっている。それが今は発信源の壱岐では衰退し、逆に紀州の捕鯨漁師が教えにいくという、逆転現象になっていると壱岐のタクシー運転手に聞いたことがある。
紀伊大島に弥生遺跡や古墳がないのも残念だろう。それらは対岸の串本周辺にはある。これを熊野国造の遺跡と考える学者は多い。しかし紀氏だという意見もあってよかろう。
今回の「おおしま」地名は、さほどの地名派生のなぞがなかったが、歴史はどこにもあることはわかった。藤原不比等の参謀に、中臣大嶋という人もいて、彼も『日本書紀』編纂に関わっているのは偶然だろう。映画監督の大島渚の「おおしま」は出身地長崎県の大嶋からだろうか?天草に大島がある。渚という名前は、父親が水産試験場の研究者だったからだろうと思う。瀬戸内海で研究していたらしい。その瀬戸内では愛媛や山口県に大島がある。いずれも海人族越智氏関係の島であろう。また大三島もそうである。三島信仰は海神と大山積を祭る海人族の神である。みしまは静岡県と大阪府に移動している。それぞれ鎌倉時代、古墳時代である。三島大社を大三島から分祀したので三島市。継体大王が筑紫海人族の海運の港にしていたのが淀川の摂津三島である。
(継体大王の鏡が紀ノ川の隅田八幡にあった理由、わかりましたか?紀氏です)
中日ドランゴンズにいた大島選手は大分県の漁師の子孫。同じく広島カープの阿南元監督もそうだった。それぞれ津久見市、佐伯市出身。古代には海部郡である。
「旅する民俗学者」宮本常一の出身地は瀬戸内の周防大島(屋代島)である。
紀伊大島から太平洋を見ると、海のみちは無限にどこにもつながっていることを実感できる。一度は行って見てください。ニライカナイまで見えるかもしれません。