日本人の金属器の輸入
考古学からわかっていること
●縄文~弥生時代
1 日本列島での鉄器使用(製鉄ではない、製品の輸入)が始まるのは縄文時代晩期である。これは水田耕作の開始とほぼ一致する。その鉄器の種類は農具である。つまり鉄と稲は、おそらく同じ人々が、同じ時代に、同じ場所へ持ち込んだ技術であろうと考えられる。同じ場所とは北西部九州である。例証として福岡県二丈町曲り田遺跡出土小型板状鉄斧(縄文晩期)、熊本県天水町斎藤山遺跡出土手斧(弥生前期初頭)などがあげられる。
(藤尾慎一郎は弥生中期説)
北九州市立考古博物館・曲り田遺跡出土日本最古の鉄斧
2 北西部九州の人々は、これを列島各地へ伝えた発信源で間違いない。製品と輸入された原料鉄はまず南九州、瀬戸内、山陰へと持ち込まれ、中期後葉になるとついに近畿へ突如として爆発的拡大を見る。そこから近畿を第二の中継地として後期には関東・甲信越伝播した。(東北・南北海道へは、いち早く稲作とともに九州から伝播したと考えられる。)概して、近畿の鉄の輸入先は北西部九州だけでなく半島南部や遼東にも求められる(鉄成分の違う物があって、製鉄が始まったときにも羽口形状や炉形式に違いがある、後述)。
3 これらの原料鉄に共通するのは、金属分析学的にみて、曲り田遺跡の斧が鋼の結晶を有しているので、鍛造品が輸入されている。鉄斧の輸入はそのままのちの製鉄のための炭材伐採の進化をもたらすことになる。ただし鉄斧の形状はのちの古墳時代に増えるインゴット(鉄鋌 てってい)の形状に近く、中国での斧の形状インゴットが、斧を意識したものだったことはありえるだろう。鋼は鉄鉱石の加工品であるから、この技術そのものは、最古の発見品であるトルコのカレホユックの製鉄法がインドを経て中国に伝わったであろうことを証明する。
鉄鋌の形状
4 一部考古学者には斎藤山の斧は鋳造だという意見もある、また一部金属学者は退火処理品であるという意見も出ている。これを証明するには斧の断面分析が必要。しかし遺物の破壊になるため難しい。
「ところが出土した当初は鋳造品との見方が強かった斎藤山遺跡出土鉄斧は,明治大学工学部,川口寅之輔のスペクトル分析によって炭素量 0.3%の鍛造品と公表されたため[乙益 1961],近藤義郎のように日本の初期鉄器文化は鍛造品から始まると規定する考古学者も存在した[近藤 1962]。その後,潮見浩,長谷川熊彦などから斎藤山の鉄器の材質をめぐる疑問が投げかけられることとなり,その後しばらく,膠着状態が続くことになる。しかし 80 年代に入ると,中国 ・ 朝鮮半島の鋳造鉄斧の型式分類を行った川越哲志が,斎藤山の鉄器は燕国で作られ,鋳造品を熱処理脱炭したものという見解を発表した。その上で明治大学による分析は,表面に形成された脱炭層の部分を対象としたものなので,低炭素量になるのは当然だと結論づけた[川越 1980]。日本列島に熱処理脱炭された鋳造鉄器が入っているという川越説は,大澤正己が北九州市中伏遺跡出土の二条凸帯斧の破壊分析を行い,顕微鏡写真等によって,白鋳鉄の芯部に,焼きなまし熱処理によって脱炭された外表面をもつことを明らかにしたことによって証明されることになる[大澤 1992]。・・・」(上記藤尾サイトで全文が読める)
金属学の分析は錆を使っているが、鋳造と鍛造によった、いずれにせよ鋼製品であることはゆるがないだろう。
参考 佐々木稔・赤沼英男「鉄器と原料鉄の生産技術の進歩」弥生時代における鉄器製作と鋼製造の開始
※鉄斧、銅戈(どうか)を上に書いたように、金属文化伝播の初期は、インゴットの代わりにしていた可能性は高い。奈良時代にはそれは銅銭などになっている。おsれら輸入製品の中のよいものを、日本では神格化することがあったと思える。
※銅鐸も銅剣も、最古の工房は佐賀県吉野ヶ里周辺だったと考えられ。弥生時代前期までの近畿は、北西部九州へ、これを物々交換に出向いていただろう。そしてやがて半島からも輸入し始めるのは、距離的な問題と瀬戸内海通行権での通行料の問題であり、やがて琵琶湖~日本海~出雲という経路を開発し、伽耶だけでなく高句麗からも技術や人や製品を独自に持ち帰り始めたであろう。
●古墳時代前・中期
古墳時代中期の鉄てい出土地
活発な鍛造技術が関東にまで及んだ時期である。
1 5世紀初頭まで、製鉄の証である鉄滓(てっさい、スラグ)は北部九州以外ではほとんど出ない。近畿では5世紀中盤から工房跡が急激に増加する。それまでは、輸入した鋼製品を叩いたり、焼き直して再加工したり(村上恭通)していた。持ち帰りもう一度溶かして加工する工房は、九州では弥生時代2~4世紀からあったが、近畿では5世紀中盤をさかのぼることはない。
スラグ
鉄を溶解したとき出る不純物の塊である。
けっこう山に行くとどこにでもあるが気づかないだけ。
筆者は一度だが見たことがある。大分県豊後大野市三重町宇目
考古学の初期にはスラグや鉄片はゴミ扱いされていた。
2 それは歴史的には、倭五王の時代に相当し、前方後円墳最盛期に合致する。従って倭五王は近畿に入ったことが、近畿の製鉄加工の開始であると考えられよう。それ以前は2~3世紀吉備や東瀬戸内地方である。
鍛冶工房はだから、最古は弥生中期の北西部九州に始まり、瀬戸内・中国・山陰・北陸と増えて行き、5世紀半ばにやっと近畿にできる。このときからが、近畿に王家ができるための画期だったとなるだろう。稲作と鉄鍛冶を手に入れて、ようやく大和は「近代化」できた。九州の技術と、人、さらには伽耶、中国北東部国家の技術や人、半島百済や高句麗のそれらによって、近畿はようやく大王国家としてのとっかかりを手にすることとなる。そして列島における中心部にあるという地の利、瀬戸内海という「貿易道路」、琵琶湖・福井・出雲という貿易コース、遼東から入手した製品と情報と文献などなどによって、8世紀なりやっと朝廷を手にしたのである。
途中、飛鳥初期には蘇我氏によるそれはある程度完成しかかっていたが、蘇我氏を滅ぼし、王権を天皇氏へ無理やりのクーデターによって藤原氏が転覆させたことは、しかし大和朝廷がそこに始まること、蘇我氏の飛鳥朝廷という既製品を換骨奪胎、変革したわけでなく、そっくりそのまま藤原氏が簒奪、物まねしての朝廷だったことがわかってしまうのであった。
次回、百練などしていない稲荷山鉄剣・煉とは何か?
参考 同上 古墳時代前・中期の製造技術の革新
参考文献は多すぎるので最後にまとめて書きます。