久しぶりに考古学のお話を。
全国県別古墳分布順位表
参考資料:平成28年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数
総数:159636
1位)兵庫県:18851
2位)鳥取県:13486
3位)京都府:13016
4位)千葉県:12765
5位)岡山県:11810
6位)広島県:11311
7位)福岡県:10754
8位)奈良県:9700
9位)三重県:7025
10位)岐阜県:5140
11位)群馬県:3993
12位)静岡県:3829
13位)大阪府:3427
14位)愛知県:3101
15位)埼玉県:3100
16位)長野県:2831
17位)島根県:2571
18位)香川県:2256
19位)石川県:2107
20位)茨城県:1862
21位)和歌山県:1486
22位)熊本県:1364
23位)徳島県:1120
24位)神奈川県:1098
25位)愛媛県:1083
26位)栃木県:1081
27位)福島県:1041
28位)滋賀県:897
29位)大分県:893
30位)宮崎県:832
31位)東京都:714
32位)山梨県:651
33位)新潟県:632
34位)佐賀県:566
35位)山口県:552
36位)福井県:541
37位)鹿児島県:529
38位)宮城県:508
39位)長崎県:470
40位)高知県:229
41位)富山県:216
42位)山形県:134
43位)岩手県:64
44位)北海道:0
44位)青森県:0
44位)秋田県:0
44位)沖縄県:0
2位)鳥取県:13486
3位)京都府:13016
4位)千葉県:12765
5位)岡山県:11810
6位)広島県:11311
7位)福岡県:10754
8位)奈良県:9700
9位)三重県:7025
10位)岐阜県:5140
11位)群馬県:3993
12位)静岡県:3829
13位)大阪府:3427
14位)愛知県:3101
15位)埼玉県:3100
16位)長野県:2831
17位)島根県:2571
18位)香川県:2256
19位)石川県:2107
20位)茨城県:1862
21位)和歌山県:1486
22位)熊本県:1364
23位)徳島県:1120
24位)神奈川県:1098
25位)愛媛県:1083
26位)栃木県:1081
27位)福島県:1041
28位)滋賀県:897
29位)大分県:893
30位)宮崎県:832
31位)東京都:714
32位)山梨県:651
33位)新潟県:632
34位)佐賀県:566
35位)山口県:552
36位)福井県:541
37位)鹿児島県:529
38位)宮城県:508
39位)長崎県:470
40位)高知県:229
41位)富山県:216
42位)山形県:134
43位)岩手県:64
44位)北海道:0
44位)青森県:0
44位)秋田県:0
44位)沖縄県:0
後期大型古墳分布図
後期とは6世紀~7世紀か
サイズは墳丘58m以上のもの
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古墳は時代によって変遷する。特に前方後円墳は中央集権が政治的、歴史的に始まることの指針とされる遺跡だ。
だからその分布の多いところとは、それだけ中央とのつながりが深かった地域だと考えられる(都出比呂志らの意見)。
ただし、その時期がいつかをあわせて考えることで、中央がどの時代にどこを重視したかが編年できる。また中央集権がいつごろ近畿地方ではじまったかの指針にもなる。
さて、古墳遺跡が一番多いのはどこでしたか?
兵庫県である。奈良県だと思っていなかった?
なぜ兵庫県が多いのか?
その時期は古墳時代後期であり、その時代に播磨や摂津が中央政権にもっともよく近しくしたことになる。反面では、中央集権が古墳時代後期に最も力を持ったことにもなるわけである。
これが末期だと群馬県が最も多い。
60m以上の前方後円墳の数は、発祥の地であり、しかも大王が最も多く住まった畿内地域の後期前方後円墳の数は39基、関東地域は215基と最も多い(白石太一郎)。
確かに近畿の奈良や堺市などには巨大な大王墓があるという印象は強いが、中央ではかえって豪族が遠慮しなければならない事情があって、大規模な墓は大王とその身内、そして大臣クラスに限られていたわけである。一方遠隔地なら目も届かず、はばかることなくばんばん造れたからだ。関東では特に埼玉と群馬は、7世紀の藤原政権下でばんばん墓を造った。中央近隣が薄葬令に従った反面で、地方は豪華な墓を造ったのが後期(6世紀中ごろ以後)から末期(7世紀中盤)の特徴である。
つまり蘇我~藤原京時代(6後半~7中盤)こそが、大和王朝の画期だったとわかるわけである。
それ以前では河内王朝末期のワカタケル大王(雄略大王?)の時代も画期だが、飛鳥~藤原時代よりも、巨大ではあるが数は少ない。
また6世紀以前は、筑紫が非常に多く、6世紀後半になると朝鮮半島の南西端・光州にまで前方後円墳が多量に造られた。彼らはおそらく筑紫と中央(仁徳~雄略?王朝)が親密だった時代であり、光州の墓は九州の海人族=海部(あま)豪族たちの朝鮮進出の結果作られたであろう。
畿内周辺では、中央の目が届くために、形式まで大王墓に準じたはずであるが、地方豪族国家ではその必要もなく、外見は似せてあるが石室内部の構造は個性的である。地方へゆくほど勝手ができたのは、もうひとつ、中央が彼らを武力として認め、利用したいからでもある。ある程度は自由を許してやらねば、いざというときに武力が使えないかも知れなかった。つまり時代によって中央政権は、各地の勢力を点々と変えたのである。
4~6世紀は九州と半島南西部あるいは伽耶地域、そして東国を重視。→ワカタケル
6後半は摂津播磨重視。→継体
7世紀飛鳥時代は半島重視で墳墓そのものが高句麗型の階段状方墳や方墳に変化
7~8世紀終末期 藤原時代は北関東重視
こうしてみると、大和朝廷中央集権政治が間違いなく完璧に確立したのは藤原京時代の8世紀だと見て取れる。
なぜなら、ワカタケルの時代までは大王墓は河内や紀ノ川河口部にあって、筑紫と埼玉にはその送り込んだ吉備系、紀氏系らしき国造がおり、石室がまだ彼ら独自のもので、権威的財力として王冠や金象嵌銘文の入った剣などを与えねばならない状態。つまり国造でさえ、いつ反駁するかも知れず、まして地方は官吏によって監視せねばならなかったわけだからだ。地域で見てもこれは河内王権であって大和ではない。
(応神・仁徳がいたかどうかは知らぬが、あの巨大な前方後円墳の様式が継体まで同じ形式とはいえないし、あの時代だけの特殊な大きさと形式である。またそれ以前の3世紀後半(前期)の試作品である纒向型とも違う。濠を三重にして将棋の駒型である。あるいはあとの政権が、天皇の血筋の正当と、実力の会った先祖がいたことを見せるために造ったあとづけ古墳なのかもしれない。雄略の墓に比定される古墳だけが方墳で、規模も小さいのも変である。実際は高句麗系王権だったのではないのか?もちうろん蘇我氏の場合も高句麗系王権だし、継体は百済系王権である。倭人オリジナルの大王は持統だけなのだ。だから八角形墳墓が彼女から始まっている。河内の巨大古墳はどうも怪しいと見ている)
案の定、ワカタケルという武力実力兼ね備えた大王が死ぬと、いずこからか大王を担がねばならなくなって、半島の血筋だったはずの継体=百済王の分家東城王が登場する。するととたんに6後半、筑紫国造磐井が反駁。さらに群馬の上毛野王もこれに呼応している。
また蘇我氏の飛鳥前半は、対外政治が盛んで、墳墓まで大陸的になったということは、それまでの継体までとは違う王権だったわけで、これも大和王朝とは呼べないからだ。
さて、河内王朝の中で実在が確かだとはっきり言えるのは鉄剣二本に名前が刻まれていたワカタケルだけだと言える。今のところ、応神や仁徳、神功皇后その他の大王が存在していたのかどうか知らないとしか言えない。いたのは倭の五王だが、それが彼らなのかどうか、見てきたわけでもないので筆者には言えない。
では継体大王はどうかと言えば、あきらかに百済からやってきて、前の高句麗系だろう河内~ワカタケル政権を転覆乗っ取った東城王(余一族の分家)だと考えている。もちろん筆者だけがそう考えているのであるが。
継体一族の墓は摂津の今城塚だと考古学が言う。そして太田陵墓はその父親であるオオホド王の墓だといわれだした。しかし継体の墓は実際には紀ノ川河口部の淡輪に最初あったのを、あとから『日本書紀』にあわせて摂津三島へ動かした可能性は捨てがたい。藤原氏の墓らしいもの(阿武山)がここにあるが、それも百済豊璋のものかも知れず、古墳だから絶対その時代に造営したとは断言できない。
継体時代の埋蔵物を見ると筑紫・肥後の古墳からは今城塚と同系の王冠や剣が出るわけだが、それが継体が贈った威信財であるかどうか、今一度考え直してみることも必要かもしれない。粉々になった石棺が三種類出る。阿蘇ピンク石、二上山石、そして竜山石であるが、地震があったとは言いながら、あまりにも粉々で、しかも破片がいくつか残っていただけである。おそらく庭石とか築城に持ち去られたのだろうが、阿蘇の石があるということは、熊本に継体が国造クラスの官吏を送り込んだとすると、それは葦北国造だとなって時代が合うのだろうが、火葦北国造刑部靫負阿利斯登は吉備王の血脈であり、それを送ったのならワカタケルの時代のほうがいいように思える。ワカタケルまでは吉備と葛城は妃を出す大臣であったが、継体の頃には衰退している。継体のバックアップ集団は息長や宗像であった。
それは彼らが百済の配下にあったからだろう。継体はあくまで百済王が送り込んだ一時的外人王権である。ならば摂津に筑紫津、筑紫津神社があるのは少しおかしい。宗像ならば摂津には確かに疣神社がある。ここは宗像の祖人である安曇磯良と神功皇后が祭ってある。まずもって安曇・宗像海人族は継体と百済をつなぐ氏族である。しかし息長には実態が見えず、琵琶湖東岸の坂田は、『日本書紀』に合わせた場所かも知れず、どこか怪しさがある。
今城塚の三つの石棺はそれぞれ、同時に死んだと百済本紀にある継体と二人の子供ではないかと見えるが、阿蘇石があるのなら、あれは他人の墓やも知れない。阿蘇石は大王ではなく、国造や蘇我系天皇の石で、不遇な最後をとげた霊魂の封じ込めの石ではないか?推古、厩戸、物部などに使われていると見る。蘇我本家には使われてはいないようだが。
『日本書紀』は藤原氏と紀氏が中心になって書かれた日本史であって、それは8世紀のその時代に彼らに権勢があったからにほかならない。だから神武にしても紀氏先祖の話が反映されてある。ほかの別氏族が権力者だったらまったく違うことが書かれたかもしれないのである。事実、蘇我氏が持っていた史書は残されていない。焼け出されるときにかろうじて持ち出せたと『日本書紀』はうそをついている。まったく違うことが書いてあるから、参考にしたあとで焚書してしまったのではないか?
前方後円墳国家という論調が近畿学閥には蔓延しているが、3世紀の卑弥呼からそれがつながった墓制だとするのはいかがなものあだろう?先に書いたように、近畿の墓の様式は少しづつ変化している。纒向型は吉備様式であるし、羽曳野や百舌鳥の様式は変形されて巨大。蘇我氏は方墳。藤原氏時代は八角形であるのだから、全部を一本で万世一系としてしまのはいささか筆者には首肯しがたく思えてしまうのである。