任那 にんな
「みまな」は『日本書紀』のなまり。
「みまな」は『日本書紀』のなまり。
(ここでは『日本書紀』の史観は除外して、中国の記録している任那資料を列挙する)
狭義・・・金官伽耶連合国家の西南部海岸地帯 百済南部全羅南道まで含める?
広義・・・任那諸国の汎称
任那は「広開土王碑文(414年建立) : 永楽10年(400年)条の「任那加羅」が史料初見とされている。
『宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。その後の『南斉書』も併記を踏襲している。
『梁書』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
525年前後の状況を記載した『梁職貢図』百済条は、百済南方の諸小国を挙げているが、すでに任那の記載はない。
『翰苑』(660年成立)新羅条に「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700~800里の地点に並在している。」と記されている。
『通典』(801年成立)辺防一新羅の条に「加羅」と「任那諸国」の名があり、新羅に滅ぼされたと記されている。
『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)もほぼ同様に記述している。
なお、宋書倭国伝によると、451年に、宋朝の文帝は、倭王済に「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けたという。また、478年に、宋朝の順帝は、倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授けたという。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E9%82%A3#.E4.B8.AD.E5.9B.BD.E5.8F.B2.E6.96.99.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E4.BB.BB.E9.82.A3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E9%82%A3#.E4.B8.AD.E5.9B.BD.E5.8F.B2.E6.96.99.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E4.BB.BB.E9.82.A3
実証主義を否定する韓国民族史観
現在では、記紀の記述や考古学的成果、他に傍証として、広開土王碑、『宋書』倭国伝等の記述をもとに、任那日本府は倭国の軍事を主とする外交機関であり、倭国は任那地域に権益(おそらく製鉄の重要な産地があった)を有していたとする説もあるにはあるが、まだ小数で、多くはいまだに考古学や中国資料・碑文までも否定しており、韓国側の歴史観は極めて主観的である。
科学性を否定し、あくまでも倭国が半島を一部共有していたことを否定しようとするのは、頑迷で古い考え方であるとしか言えない。
現在では、記紀の記述や考古学的成果、他に傍証として、広開土王碑、『宋書』倭国伝等の記述をもとに、任那日本府は倭国の軍事を主とする外交機関であり、倭国は任那地域に権益(おそらく製鉄の重要な産地があった)を有していたとする説もあるにはあるが、まだ小数で、多くはいまだに考古学や中国資料・碑文までも否定しており、韓国側の歴史観は極めて主観的である。
科学性を否定し、あくまでも倭国が半島を一部共有していたことを否定しようとするのは、頑迷で古い考え方であるとしか言えない。
日本の弱腰迎合歴史観
任那の実在について、広開土王碑文ばかりでなく多くの中国史書がちゃんと記録している。にも関わらず当の日本人学者さえもが、韓国の異常な主観性に迎合し、「あった」とは言わない始末である。
『日本書紀』では欽明天皇からは夥しく記事が増え、ほぼ毎年、任那関係の事件が見える。同天皇23年(562年)の条には、加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国の総称を任那と言う、とある。この10国は562年の任那滅亡に近い最末期の領域である。とし、そこのどこかに「日本府」が置かれていたとする。これはしかし記紀史観の日本優位性を誇張しすぎた記録とみてよく、日本府というものが支配地という意味ではなく、今で言う駐留地とか大使館的なものであったとは思える。
韓国考古学者の客観的意見
「任那四県の地名の位置比定については、多くの研究者の見解がありますが、大きく見ても任那地域を離れるものでないため、音のみを根拠に全羅南北道にわたる広い地域を対象に比定する見解は妥当であるとは言いがたいものです。栄山江流域を任那四県に比定するならば、当時慕韓と呼ばれていた点とも相反することになります。慕韓を任那とは別途に認識していたことは、倭の五王の諸軍事都督権対象地域名において確認されるところです。
先に述べましたように、任那四県は、熊津期百済の・・・・とりあえず全羅南道東部の海岸地帯・・・」
朴淳發(ソウル大学)「百済の南遷と倭」2003
「任那四県の地名の位置比定については、多くの研究者の見解がありますが、大きく見ても任那地域を離れるものでないため、音のみを根拠に全羅南北道にわたる広い地域を対象に比定する見解は妥当であるとは言いがたいものです。栄山江流域を任那四県に比定するならば、当時慕韓と呼ばれていた点とも相反することになります。慕韓を任那とは別途に認識していたことは、倭の五王の諸軍事都督権対象地域名において確認されるところです。
先に述べましたように、任那四県は、熊津期百済の・・・・とりあえず全羅南道東部の海岸地帯・・・」
朴淳發(ソウル大学)「百済の南遷と倭」2003
以上
任那日本府
『日本書紀』雄略紀などが言う出先機関。
世界各国では世界約50カ国で教科書を出版しているオックスフォード大学の出版社が制作している教科書は「5世紀の日本の勢力は朝鮮半島南部まで支配した」と記述している。また、プレンティスホール社が出版しているアメリカの教科書『世界文化』は「西暦400年ごろ、(日本は)幾つかの氏族が連合して日本の大半を統一し、朝鮮南部の地域を統治するまでに至った」と記述してあり、カナダやオーストラリアの教科書もまた、同様の記述が存在する[17]。またコロンビア大学のオンライン百科事典や米議会図書館には、「古朝鮮は紀元前12世紀に、中国人、箕子が朝鮮半島北部に建てた国だ。その当時、朝鮮半島南部は日本の大和政権の支配下にあった」と書かれている[18]。中華人民共和国では上海人民出版社が出版している教科書『世界史講』は「新羅は、半島南方で 早くから長期間にわたって倭人の基盤となっていた任那地区を回復した」と記述している[19]。
中華人民共和国の外務省は、同省のホームページの日本史介欄で、「5世紀はじめ、大和国が隆盛した時期にその勢力が朝鮮半島の南部にまで拡大した」と記述していたが、韓国政府からの抗議を受け、日本紹介欄から第二次世界大戦以前の日本歴史部分を全て削除した。
倭国が半島南部を一時的に支配したことがあった時期は可能性としてはなくはない。というのは、当時の半島国家はまだ国境があいまいで、間に多くの緩衝地帯がほったらかされたままになっていた。倭がそこに入り込む隙間があったとすれば、それは半島そのものの未熟だった時期なのであり、責任はどちらかといえば、ルーズだったほうにあることになる。
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