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高木神4 九州を出た日下部の痕跡

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◆大阪府八尾市弓削神社
「本日訪れたのは、弓の制作を専業とする弓削部(ゆげべ)を統括していた古代氏族・弓削氏(ゆげうじ)が氏神を祀ったとされる弓削神社である。さらに足をのばして、称徳天皇・弓削道鏡時代に平城京に対する西の京として造営された旧蹟の跡に建つ由義神社も訪れた。
筆者が八尾市に興味を抱く理由は、物部(もののべ)氏が支配した地域だからである。物部氏は、元々は大和王権のもとで兵器を管理する氏族だったが、弓矢や馬具を制作する集団とそれらを統括する氏族を配下に持ち、大伴氏とならぶ軍事氏族として成長していった一族とされている。
物部氏は河内国の哮峰(いかるがのみね)に天皇家よりも前に天孫降臨したとされる饒速日命(にぎはやひのみこと)を遠祖とみなしてきた。西暦587年に勃発した丁未の変(ていびのへん)で、蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)が一族の存亡をかけて戦い、物部本宗家が滅亡したことはよく知られている。その物部本宗家や、弓削氏、矢作氏、鞍作氏といった武具制作集団を統括する一族が居住していたのが、現在の八尾市やその近辺である。 」
 

 
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◆同じく由義神社
「八尾市には、弓削神社の他にもユゲ神社がある。由義と書いて「ゆげ」と読ませる由義神社である。八尾木北5丁目に鎮座するこの神社は、祭神として素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀り、少彦名命(すくなひこなのみこと)を配している。
神社の境内に置かれた『由義神社由来』によれば、この神社は「由義宮の跡地に建立され、その規模、格式ともに近隣に比を見ない堀を巡らし、森をようした荘厳な式内河内5社の1社で立派な旧社であった」とされている。由義宮とは、称徳天皇・弓削道鏡時代に、平城京に対する西の京として造営された宮である。道鏡が関係しているとなれば、弓削氏と縁がない訳でもない。 」
BGM付きサイトにつきご注意 http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2007_12_27.htm
 
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同じ八尾市に良く似た名前の神社が存在する。
「ゆげ」と「ゆげ」である。
弓削は守屋で知られた物部氏本宗家の本貫地になる。
一方、由義神社は弓を作った氏族ゆかりの地である。
どちらも先に書いた大伴氏と日下部氏の役名である靫負(ゆげい)に近い読みである。
ここまでは書かなかったが「ゆげ」とゆげい」は同じ弓矢に関わった氏族地名ではないか?
弓削=靫負。

弓削という地名は「弓を削る」であるし、「ゆげい」はゆきを負う、靫とは弓矢を入れる道具である。
特徴的なのは、矢のやじり側を上に向けて立てる入れ物ということで、それでは矢を抜くときに手を切ってしまう。だからこの道具はわざと磨いたやじりを太陽に照らさせて敵に見せる、威嚇のための道具で、実用品ではない。やじりを下にして羽を上にするいれものは中世には胡籙(ころく)と呼ばれたが、古代にはおそらく文字を変えて「靱」であろうと思う。日田市のゆぎあみ町は「靱編」で実用品を作った氏族の地名になる。それが靫負日下部氏の配下である部民・日下部である。
 
このように渋川物部氏の本拠である弓削に、弓を作る氏族がいたことが神社からわかる。

八尾、堺などいわゆる南河内地方と、枚方・交野市などの北河内地方はみな物部氏の領地だった。守屋の乱まではである。
 
聖徳太子は守屋を弓矢の達人の矢で射落とさせている。弓矢の氏族が同じ弓矢の氏族によって撃ち落された。これはつまり政権交代を意味した寓話である。象徴的に物部氏が弓矢の靫負集団を持っていたことをにおわせたのである。
 
九州で靫負部を管理していたのは倭五王宰相である大伴氏であった。東国の靫負部も大伴氏同族の膳(かしわで)氏の配下にありこれを膳靫負というが、膳氏は西国では大彦の子孫である。大彦の子孫には筑紫国造家がある。その筑紫の君は多氏出身だと自称している。多氏=大伴=膳=物部その下の日下部氏となるのである。
この構図が倭五王、河内王権の上下関係である。
 


 

◆堺市草部 日部神社
(くさべじんじゃ)は、大阪府堺市西区草部(くさべ)にある神社である。式内社で、旧社格は村社。
彦坐王・神武天皇・道臣命を主祭神とする。彦坐命は日下部首氏の祖神である。日下部首氏はこの一帯を拠点としていた豪族で、一族には浦島太郎もいたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%83%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE
 
ビンゴ!である。
日下部氏の神社である。
しかも彦坐王(ひこいますのおおきみ)とは息長氏・神功皇后・応神天皇の祖先である。また道臣命(みちのおみのみこと)とは大伴氏の祖神である。
この神は九州では由布院町川西に蹴裂権現(けさきごんげん)として祀られている。
日下部氏と息長氏にはどのようなえにしがあるのだろうか。今後の検証に譲る。

「当社は明治時代に鶴田村大字草部字輪之内にあった日部神社、同字寺山の八坂神社、大字原田の熊野神社、大字上の菅原神社を合祀したもので、社名と主祭神は式内社である旧日部神社のものを採用している。他に旧八坂神社の素盞嗚尊、旧熊野神社の伊弉冉尊、旧菅原神社の菅原道真を合せ祀る。」
息長氏はのちに合祀されたためかもしれないが、河内王朝を立ち上げた応神天皇ならばその警護隊である日下部氏が祭るのは当然である。大伴氏は九州での直属の上司なのでこれも当然。

泉州は物部氏と大三輪氏の領地である。泉北は大三輪氏、泉南は物部氏と考えられる。そこに日下部氏がやはり神社を持っている。このように日下部氏は海部氏、尾張氏、物部氏という河内王権の主体氏族と同族となっていた。

京都府宮津市近辺には海部氏の籠(この)神社、日下部氏の浦島神社が同じ海岸線に並んでいる。堺市の浦島子孫伝承も同じく日下部氏=水之江の浦島子の祖先で海部氏同族でつながるのである。
 
このほか枚岡市の日下も関係しているかも知れない。ここにはニギハヤヒを祀る石切剣矢神社がある。
剣と矢、物部氏と日下部氏の合体であろうか?この日下地名は聖徳太子ゆかりの舎衙(くさか江)の地名であり、生駒山の麓になる。かつてはここは大阪湾の港であった。
枕詞・・・ひのもとのくさか
つまり日本国号はここから出てくる。日下をは太陽が昇る真下である。
ここで、高木神は太陽神を含む造化三神に変わっていったのかも知れない。するとそれは物部氏によるのか、あるいは藤原氏の改名か?
 
 
 
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ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
 
 
 
 


 
 

◆兵庫県姫路市高之木神社
 兵庫県姫路市花田町高木字宮止筋149番
ここに聖神社が合祀されており、姫路の重要産業だったなめし皮が、靫負によってつくられるシカ皮の靱・靫から始まったことを忍ばせている。ここは高木神信仰が東征してきた一時的な寄港地だったのだろう。
http://himeji.jibasan.jp/leather/history/01/03.html
 
 
高木神社は関東まで山ほどあるけれどほぼすべてが日下部氏関連神社であろう(例外もあるか)。
広島県府中市高木神社・・・旧備後国。出雲の神を祭る神社である。
福井県福井市高木神社
東京都目黒区高木神社
東近江市・野洲町高木神社
 
きりがないが、豊前国企救郡(きくぐん・今の北九州市小倉周辺)には企救物部氏がいたことがわかっている。いわゆる「聞く物部」である。その時代は定かでなく、もしや継体天皇の筑紫磐井平定のときの大和からの移住者かと思っていたが、それは記録では竺紫物部とかかれており、豊前では場所が違うことになり、もしやそれ以前の最初の物部氏がいたところかとも考えられる。もしここで田川の日下部氏との合体が起きたとすれば大伴氏から物部氏へ日下部が委託移動した?九州では大伴直属だったが、九州を出るときに物部氏が海部氏と同族ゆえに舟の便宜で委託したか?
 
 

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