『日本書紀』の崇神天皇6年の条に登場する。宮中に天照大神と倭大国魂の二神を祭っていたが、天皇は二神の神威の強さを畏れ、宮の外で祀ることにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑に祭った。倭大国魂は渟名城入姫命に預けて祭らせたが、髪が落ち、体が痩せて祀ることができなかった。 その後、大物主神を祭ることになる件が書かれている。
六年、百姓流離。或有背叛。其勢難以治之。是以、晨興夕、請罪祇。先是、天照大・倭大國魂二、並祭於天皇大殿之內。然畏其勢、共住不安。故以天照大、託豐鍬入姬命、祭於倭笠縫邑。仍立磯堅城籬。
籬、此云比莽呂岐。亦以日本大國魂、託渟名城入姬命令祭。然渟名城入姬、髮落體痩而不能祭
なぜ崇神はこの二つの古くからの神々を宮中から出さねばならなかったのか。
その理由は、大和大物主という大和の水垣の宮近くの在地神が、祟りをなしたからであるとされている。
そのために最初は宮中のアマテラスを祭る巫女を大物主の嫁にして、祟りを治めようとしたが、大物主は正体を見られたことでいよいよ荒ぶるようになって手に負えない。つまりアマテラスではこの祟る神は抑え切れなかったのである。それは倭大国魂=椎根津彦でもだめだった。そこで仕方なく大物主だけを鎮撫せねばならなかったわけである。
さて、それは現実にはどういうことだったのか?
崇神にとって、アマテラスも倭大国魂も、ともに古い時代の神々だったということになる。崇神がみまきに入る以前の太陽信仰と地主神=祖霊信仰を追い出して、あらたな土地神を祭ったのであるが、その大物主とはいかなるモノなのか?
アマテラスを追い出すとは、崇神の前の王朝までの、つまり3世紀前半までの女神を殺す行為であり、王殺しなのである。ということは崇神は、3世紀半ばに起きたなんらかの政変によって新しく大和を統治した新興勢力であり、アマテラス信仰とは別の信仰を持つものだったことになる。
大物主とは崇神が入って滅ぼした相手の信仰を象徴する神である。それが三輪山にいた既存氏族だったことになる。ということは三輪山を本拠にした氏族となるので、物部氏しか考えられない。
しかし物部氏の祖であるニギハヤヒが帰順し、ナガスネヒコが殺された時代は、10代前の神武の時代であるはずだ。なぜ二度もそういうことが起こるのか?
それは神武とは崇神であるからだろう。
崇神こそがニギハヤヒを追いやった勢力だったことになる。
では神武東征はなんだったのか?
神武とは崇神の前の王家東征伝承として、崇神がやったことをあてはめた存在である。しかし実際に神武のような人物とは物部氏や、倭大国魂を祭る倭直(おおやまとのあたい)という先住氏族の王の東征なのである。これは大和朝廷の前に政権が二転三転、何度も変わったことを如実に表している。
崇神の三輪王朝が四代続いて15代目に応神が登場する。この王朝は大和ではなく河内にあって、三輪王朝とは別の王家である。三輪王家を乗っ取ってそれがまた大和に入ったのである。そしてまた継体以後、それが欽明によって飛鳥に移動する。そして天武が登場してアマテラス信仰が復活する。いや復活したように書かれるのである。
天武と持統が壬申の乱直前に鈴鹿山地からはるか伊勢のアマテラスを遥拝し、そして天武は勝利したのに、実はアマテラスはそのまま伊勢に置かれたままである。ということは天武がアマテラス信仰したというのは『日本書紀』の(不比等の)うそである。旧態勢力をとりこむための方便でしかない。
崇神は笠縫邑にアマテラスを追い出す。ところがアマテラスはその大和三輪に近い田原本町の笠縫から、また今度は東の穴師の山上に移動させられ、そこでも落ち着けず、各地を巡幸させられたあげくやっと伊勢におさまるのである。しかし持統の代でもあいかわらずの遠隔地住まいのまま。
持統という女帝を反対勢力氏族に認めさせるために、不比等は詭弁を使い、旧王家の女神信仰を復活したとして、女帝つまりおのれの意のままになる女帝を強引に認めさせたわけである。
大物主がアマテラスの鎮魂祭祀でもおさまらなかったのは、それが自分を出雲へ流した相手、姉だったからだ。
と書けばおわかりだろうが大物主という出雲神とはスサノヲだったからである。
スサノヲには先住氏族・敗北者としての大和における先住出雲勢力とともに、大和先住の縄文勢力や海人族や渡来氏族のイメージが同衾しているのである。それが敗北者としてナガスネヒコひとりに代表されたのだ。そのためにナガスネヒコの雇い主である物部氏は親分としてナガスネヒコの怨霊を管理・監視することで生き残る。
歴史上いつも直接やられるのは氏族よりも部民である。闘わされてまければ殺される。しかしその長は帰順し新王朝の片腕になる。寝返るのである。
穴師坐大兵主神社
櫻井市の穴師(あなし)には今、穴師坐大兵主神社がある。穴師山から吹いてくる風、北西からの「あなぜ」を祀っている。しかしそこは大和盆地の東にあり、つまり日の上がるところである。だからアマテラスはここに置かれたはずである。今の笠縫は多神社や秦楽寺のある「秦の庄」であるが、そこでは日は昇らないから穴師へ動かし、それでは近すぎたのでたらいまわしされてゆく。そしてようやく日の昇るかなたである伊勢に落ち着いた。その後、海部の食事の神である豊受大神によって監視された。それを大和からも遥拝できるようにしたのが檜原神社だ。なぜなら帰順した旧王家勢力の再び裏切ることを恐れたためである。神を消し去れば彼らの怨念が復活する。そういう脆弱な信頼関係である。それがこの国の最初の王家の実態であった。
※穴師とは「あな」怖ろしい「風」という意味の地名。あなぜの風(あなしのかぜ)の「し」は科野の「し」であるので風である。北西から辰巳に向かう風をあなぜのかぜという。これは北西からの秋のモンスーンのことで11月の風で、それは=たたら風でもある。兵主とは武器管理者だった物部氏のことである。石上神宮門前にスサノヲと同じな前の神が祀られている。その出雲健神社こそが物部氏のそもそもの祖神出雲スサノヲであって、石上とは縄文の石神=ナガスネヒコで、諏訪の風の神と同根である。主祭神フツのミタマは軍事氏族物部氏のステータスだ。
ニギハヤヒとは大阪の日下にいけば、東の山に石切剣矢神社があり、ニギハヤヒが彼らの「先の太陽神」であったことを如実に物語っている。日下は日の昇る場所。生駒山こそが日本国名の生まれ出る山である。さらに物部氏もまた多氏同様に、海人系=太陽信仰の人々であること、それを殺した聖徳太子・蘇我氏もまたその同族であること、それが南九州からやってきた神武氏族であることがわかる。
風の宮である。そこに太陽神が置かれたのは、持統が科野に都を作ろうとしたことともリンクし、さらにはニギハヤヒが天照國照彦=先のアマテラスだったこととリンクする。
その海部氏と尾張氏が物部氏を裏切り神武についたとされる氏族である。敗北者を監視するのは、史上、同族だった氏族に決まっている。
倭直という東九州から播磨へ入った氏族は、つまり卑弥呼の男弟のことなのだろう。
のちの渡来氏族が倭の姓を与えられたときに倭直は大倭値と改名するしかなく、「おおやまと」=「大和」神社もまた今の場所に移された。そこはあの黒塚古墳のすぐそばである。黒塚古墳の被葬者こそが難升米だったからだろう。なぜならば黒塚からは、U字型パイプ状遺物が出る。それこそが魏が卑弥呼に与えた黄幡だからである。
黒塚古墳出土U字型鉄製品
中国の史書にある黄幡。キヌガサの下の飾り部分がU字型になっている。
なぜ黄色い旗指物なのか?
それは黄色が鬼道の色であるからである。黄巾の乱。
倭大国魂神社もまたあちこちさせれた。