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◆談山神社嘉吉祭御神饌
◆北野天満宮梅花祭御神饌
◆和布刈神社(めかりじんじゃ) 和布刈神事御神饌
「めかり」とは「め」=海藻を神職たちが海に入って刈り取り、神にささげる神事
◆老杉神社エトエト祭御神饌
エトエト祭とは近江、湖東の神奈備山・三上山に春を告げるオコナイ神事。
オコナイとは来訪する神々(精霊)を迎え入れて饗する祈願。
◆住吉神社(大阪市西区野里) 一夜官女神事御神饌
一夜官女・・・
のざとすみよしじんじゃ・ひとよかんじょ
2月20日
人身御供神事
中津川という川の水害になやんでいた村人たちは、毎年白羽の矢を立てた家の娘を唐櫃に入れ深夜、境内にそなえることにした。ちょうど7年目に通りかかった武士がこれを聞き、、娘に代わって櫃に入り、神の正体である大きな狒々(ヒヒ。猩々とも)を退治した。いわゆる世間に知られた岩見重太郎のヒヒ退治がこれ。
毎年、祭では「当矢」(とうや・白羽の矢が当たった家)一軒と七人の「官女」が選ばれ、神官たちが当矢の家まで出迎えにゆく。
当矢と神官が盃を交わし官女を送り出す。別れの涙。
官女たちは神官とともに神社に渡り、「別れの盃」を交わし、当矢が運び入れた神饌を入れた「夏越桶」(なごしのおけ)とともに神前に「供えられる」。
神前に向かって官女は座らされ、そのまま神事が続く。ずっと観衆に背を向けたまま祭は終わる。
これは「神饌の供進」と言い、神官以外はみな神事が終わるまで手前で控えていなければならない。つまり神が官女を「犯し」、「食らう」のをじっと待つのである。
全国夏越し祭が「虫封じ」神事であるように普通は夏の神事でなければならないが、ここでは二月に行われるところを見ると新春儀式となっているようだ。
おひつに入れられた神饌と官女は同じ「おかず」である。
その点、熊本の「うなり」の役目と同じ。うなりはもっと残酷に、猛暑の中を自らの頭におひつを乗せて運び込み、あげく神に喰われてしまう・・・つまり。言い換えるとそのまま生け贄となっていたのである。
住吉神社のこの祭には娘を嫁に出す親との別れのシーンが表されており、つまり官女が神への嫁入りをする意味合いが色濃く表現される。しかし嫁入りはすなわち「死」である。」
2月20日
人身御供神事
中津川という川の水害になやんでいた村人たちは、毎年白羽の矢を立てた家の娘を唐櫃に入れ深夜、境内にそなえることにした。ちょうど7年目に通りかかった武士がこれを聞き、、娘に代わって櫃に入り、神の正体である大きな狒々(ヒヒ。猩々とも)を退治した。いわゆる世間に知られた岩見重太郎のヒヒ退治がこれ。
毎年、祭では「当矢」(とうや・白羽の矢が当たった家)一軒と七人の「官女」が選ばれ、神官たちが当矢の家まで出迎えにゆく。
当矢と神官が盃を交わし官女を送り出す。別れの涙。
官女たちは神官とともに神社に渡り、「別れの盃」を交わし、当矢が運び入れた神饌を入れた「夏越桶」(なごしのおけ)とともに神前に「供えられる」。
神前に向かって官女は座らされ、そのまま神事が続く。ずっと観衆に背を向けたまま祭は終わる。
これは「神饌の供進」と言い、神官以外はみな神事が終わるまで手前で控えていなければならない。つまり神が官女を「犯し」、「食らう」のをじっと待つのである。
全国夏越し祭が「虫封じ」神事であるように普通は夏の神事でなければならないが、ここでは二月に行われるところを見ると新春儀式となっているようだ。
おひつに入れられた神饌と官女は同じ「おかず」である。
その点、熊本の「うなり」の役目と同じ。うなりはもっと残酷に、猛暑の中を自らの頭におひつを乗せて運び込み、あげく神に喰われてしまう・・・つまり。言い換えるとそのまま生け贄となっていたのである。
住吉神社のこの祭には娘を嫁に出す親との別れのシーンが表されており、つまり官女が神への嫁入りをする意味合いが色濃く表現される。しかし嫁入りはすなわち「死」である。」
◆彌美神社(みみ・じんじゃ) 例大祭御神饌
福井県三方郡三浜町
福井県三方郡三浜町
トコロの地下茎とホンダワラ
トコロ
●ところ 【野老】
ヤマノイモ科の蔓性(つるせい)の多年草。原野に自生。葉は心臓形で先がとがり、互生する。雌雄異株。夏、淡緑色の小花を穂状につける。根茎にひげ根が多く、これを老人のひげにたとえて野老(やろう)とよび、正月の飾りに用い長寿を祝う。根茎をあく抜きして食用にすることもある。おにどころ。《季 新年》「―うり声大原の里びたり/其角」
http://kotobank.jp/word/%E9%87%8E%E8%80%81
ヤマノイモ科の蔓性(つるせい)の多年草。原野に自生。葉は心臓形で先がとがり、互生する。雌雄異株。夏、淡緑色の小花を穂状につける。根茎にひげ根が多く、これを老人のひげにたとえて野老(やろう)とよび、正月の飾りに用い長寿を祝う。根茎をあく抜きして食用にすることもある。おにどころ。《季 新年》「―うり声大原の里びたり/其角」
http://kotobank.jp/word/%E9%87%8E%E8%80%81
※トコロは普段は食べない野草。一般は正月にだけ食す。クワイやユリネのような存在。髭だらけが翁=長寿の象徴。
ちなみにナス科のハシリドコロは地下茎がトコロによく似て、しかし有毒ゆえご注意。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/176211/m0u/
また見た目がそっくりなタチドコロはよく混同される。
http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=ie8sc&p=%E8%80%81%E9%87%8E+%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%AD#mode%3Ddetail%26index%3D2%26st%3D0
今が走りというときに 根っこを食べて たちどころ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神饌の大元は生贄に始まる。
最初の贄は人である。
やがて動物、生き物から海山の食品へ。これは神への神饌であるとともに=為政者への税であった。
人生贄はやがて外来の旅行者となり、人形(ひとがた)へ変化。いくらなんでも村の人口が減っていくことに気付いたのだろう。仏教の殺生戒の影響というのはあくまでも官幣大社での、都合の良い解釈である。地元に根ざしたやしろでは、近世まで生贄、人身御供、人柱は存続する。カルトな離れ部落などではついこのあいだまであったと思われる。
神を喜ばす祭りとは、自然の災害が起こらぬようとの願いである。
自然神はそもそも人が大好物である。
饗宴してもてなすのは神に限らない。民が為政者をもてなしたという記録は、つまり民が彼にひれふした、帰順のあかしであり、逆に、為政者が民をもてなすのは、利用目的があっての事前の慰労と承諾を意味する。
おごってもらって労働は嫌だとは言えないのである。
最近は、一宿一飯のお返しも理解できない田舎モノも増えているようだが。
土産にせよ、神饌にせよ、正月の御節にせよ、捧げモノは最高の産物でなければ何も意味を成さない。
何もなければ命を捧げる。それが掟である。
食わせてもらってそれを裏切ることができるのは、それこそ神だけなのである。
裏切り者は死罪が当然だった。
心あるものは決しておごられたことを忘れない。
それを忘れる行為を「おごり」と言うのだ。
奢れるものは恩を知らず、必ず神罰を受ける。平家のように。