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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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韓国光州の前方後円墳群の被葬者の日本人は誰か?

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この問題はすでにいくらかは解決済みである。
韓国・慶北大学の朴天秀(パク・チョンス)らの在韓国学者の間で、それが倭人であることはすでに論じられている。
 
『日本書記』欽明二年(541)七月
紀臣 奈率 弥麻沙(きのおみ・なそちの・みまさ)
欽明四年九月
物部 施徳 麻か牟(もののべの・せとく・まかむ)
欽明五年三月
許勢 奈率 歌麻(こせの・なそつ・かま)
 
奈率も施徳も百済の役職である。
 
6世紀中盤に紀氏や物部氏の中で、百済に移住し、高官となったものがあったわけで、記録以外にもたくさんいただろう。なぜなら光州・栄山川流域がかつての「記紀が言うところの伽耶の倭の出先機関「日本府」があったところが近いからだ。
彼等の時代は6世紀中盤で、光州の前方後円墳の建造年代に近似値であり、まず彼等、彼等の先祖・子孫である。
 
紀臣弥麻沙は記録で、韓国の妻を娶った紀氏の子孫であろうと書かれている。『日本書記』
 
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(形状が日本のものとやや違うように見えるのは両国の復元ノウハウの相違でしかない。当然のことだが、日本は前方後円墳の本場ゆえに、復元はより正鵠であると言っていいだろう。そもそも基本的にかの国家は倭人がここにいたことなど認めたくない性格であるので、立場が違う。立場の違いとは、国家の建前で、いかんともしがたい範疇の概念だ。認めないと言えば角が立ち、認めるといえばこっちの立場が崩壊する。国家間のアイデンティティの問題は邪魔ではあるが、相手も尊重してあげるのが日本人の世界に冠たるすばらしい態度である。もちろん勧告側の復元が正しい可能性も認めてさしあげねばならない。それこそが日本がかつては扶桑だったというステータスの勇気ある継承であろう。真の「誇り高い国民性」とはそういうことである。)
 
 
 
 
 
福永伸哉(大阪大学)は、これらの人々は継体が百済武寧王の軍事支援のために送り込んだと見ており、すべて九州にいた人々であるとも書いている。物部氏は特に、磐井の戦争で九州北部に送り込まれ、竺紫物部氏となっていた。継体時代のことである。
 
 
 
 

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