
黒田官兵衛孝高(よしたか)像
黒田官兵衛のエピソードをご紹介します。
備中・高松城攻略で冴える官兵衛の戦術

有岡城の件で黒田官兵衛は織田家への忠義が認められ、小寺家から独立し、羽柴秀吉直属の武将となりました。不自由な身体ながら、官兵衛は輿に乗って出陣したと伝えられています。
中国征伐は続いており、天正10年(1582年)、秀吉と官兵衛は織田信長の命を受け、毛利氏配下・清水宗治の守備する備中国高松城に軍を進めていました。
備中高松城は低湿地を利用した平城(沼城)で、鉄砲・騎馬戦法にも強く、守るに安し、攻めるに難し厄介な城。どうやって攻めるか思考する秀吉に、官兵衛は近くを流れる川を堰き止め、城を水没させるという「水攻め」を進言します。秀吉はこの奇策を取り入れ、早速堤防を築きました。さらに梅雨の大雨も味方し、高松城は湖上に浮かぶ孤島と化します。
この奇策は成功し、水攻めのため、物資の補給路を断たれて兵糧米が少なくなった城内は動揺、毛利氏の援軍が来ないことも重なって兵の士気は低下。さらに水が城内まで入ってきたため、ついに城主・宗治は秀吉軍との講和に踏み切ります。
中国大返し「秀吉様、今こそ天下を取るときです」
秀吉は講和条件として、「五国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)」の割譲と城主宗治の切腹を要求します。
高松城攻略は、ほぼ成功と思われた矢先、天正10年6月3日(1582年6月21日)深夜、秀吉軍に不審な人物を捕らええます。それは明智光秀から毛利への密書を持った間者でした。そこには「信長が明智光秀の謀反により、本能寺で落命した」と書かれていたのです。動揺して泣き崩れる秀吉。しかし、官兵衛は秀吉にそっと告げます。「秀吉様、天下を取る機会が訪れました」と。
我に返った秀吉は宗治を切腹させ、講和を取り付けると、明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返します。備中国高松城から山城国山崎までの距離は約200km。
官兵衛は、先駆けを走らせ、秀吉の居城・姫路城まで、帰路に沿っての松明や炊き出し、替え馬・渡し舟などを手配、徹底させました。また、織田家配下の武将たちが光秀側につかないように「信長は生きている」との情報を流すのです。

6日(4日説もあり)に高松を発った秀吉軍は7日に姫路城に到着。全軍はここで休養をとりますが、このとき秀吉は、姫路城に備蓄してあった金銭・米穀を身分に応じて配下の将兵に分け与えたといわれています。その目的は光秀討伐。命がけではあるが、勝てばさらなる恩賞も期待できることを示したのです。
6月9日、秀吉は兵を率いて進撃を再開。11日には尼崎に到着し、中川恒興や高山右近ほか、畿内の武将に協力を呼びかけます。驚いたのは光秀でした。まさか秀吉がたった10日前後で引き返してくるとは思わなかったからです。
6月13日、秀吉・光秀軍は山崎で激突します(山崎の戦い)。結果は兵力に勝る秀吉軍が光秀軍を圧倒。光秀は敗走しますが、坂本城へ向かう途中、小栗栖で土民に襲われ命を奪われてしまいました。なお、この高松城から山崎の戦いに至るまで、わずか10日ほどでの大移動は「中国大返し」と呼ばれています。
およそ参謀とは
1 兵法にたけて
2 人心掌握にたけ
3 時流に聡い
ものだ。
しかしなかなかこのすべてをもっているものは出世できない。
なぜならそのような完全無欠の性格では、王とならんとするものから疎まれ、やがて必ず親分との対立、確執、疎遠、やがては流されたり、首になったり、ひどいときは暗殺されてしまうから歴史に多くは残らない。
たとえばあの諸葛孔明や竹中半兵衛は、軍略家のように見られるが実は政治が本分で、どちらかといえば軍師よりも参謀向きである。源義経は軍略にはたけていたがスタンドプレイヤーで、人心掌握術は幼稚だった。
黒田官兵衛は、しかし非常にまれなことに、王ともなれる才覚にあふれた軍師であった。
その本分は、雇用主である秀吉が天下統一後重臣の前で語ったひとことに尽きている。自分の後、いったい誰があとをつぐ天下取りになれるかと聞いて、秀吉自身の答えはなんと黒田官兵衛であった。
当然のごとく、歴史の必然で秀吉は官兵衛を忌み嫌うようになり、半兵衛自身は失意のまま九州豊前中津にひきこもり仏門に入り如水(じょすい)を名乗った。
如水の名はしかし仏教用語ではなく、道徳経にある「上善如水 水のごとく善し」に由来しており、また官兵衛はキリスト教の洗礼名すら持っていた。このとき如水はすべての野望を捨て去ろうと考えたのである。
官兵衛の本領は人心掌握にあり、いくさは極力さけるところにある。そこが秀吉は気に入っていたのであろう。あまりにも自分と似ている、そう思ったに違いない。
中国大返しでは、金を使い、家臣どもの気合を高め、亡き信長追悼の弔い合戦に疾駆してゆく街道沿いの農民に、いち早く馬を走らせてまかないを用意させ、道沿いでまるでマラソンの給水所のように、食料を与えさせている。
いくさで不可欠の金銭を、このとき官兵衛は大量に使ってしまっている。しかしこの金は家臣たちへの秀吉の強いとむらいへの気持ちを伝えるに充分で、一日150キロというはやがけの疲労を気合にかえるに十二分に力を発揮した。
この人心操作こそは一種の「正のマインド・コントロール」である。
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