アラビア海は世界史で最初に開拓されたモンスーンの海。
夏の地中海は砂漠の影響下で無風の海となり、これがアラブ諸国を商人の港にしてゆくこととなった。
古代地中海世界では、アラビアの海はエリュトラー海の延長線上であり、文化と貿易の出発港と認識された。
エリュトラーとは「紅い」という意味(ギリシア語)で紅海を言う。
紅海~ペルシア湾~アラビア海~ベンガル湾~南シナ海はアラブ人商人の船によって最古の交易ルートが形成された。
紅海の海流はモンスーンと連動している。だから帆船時代はここから始まる。冬はアラビア海、ベンガル湾を左回りする海流が強く、夏は右回りになった。
紀元一世紀、エジプト人が書いた「エリュトラー海案内記」という本が残っている。ローマ帝国では香辛料、綿、絹を欲していたので、すでに南インドのサータヴァーハナ王朝との交易が始まっていた。
インド亜大陸は東シナ海に大きく張りだしており、比較的初心者でも航海がしやすかった。地中海から南インドシナへの航海日数は約一年、往復二年である。それでなくとも寿命の短かった時代に、商人たちはそのほとんどを航海に費やした。それほど価値のある航海だったということだ。大金が手に入った。
こうして1世紀頃から、すでに欧州・エジプト・インドシナ・インド・中国は地中海によって東西に交流が存在した。これが南シナ海経由で中国、そして半島や日本にも西の産物を届けるようになる。帰るときは絹やヒスイや貴重な貝殻で満載になって地中海へ戻る。
インドのロータルという都市はインダス文明の中心地だったが、ここから出た印章にはインダス文字がたくさん刻印されていた。紀元前2000年に、すでにインダス川とペルシア湾が交流していたことが書かれてあった。アケメネス王朝のダイレオス一世も、インダスとエジプトを結ぶ航路に艦隊を派遣し、二年半にわたる海域調査を行った。
ロータル遺跡
地中海の定期的モンスーンの存在は、アレクサンダーの遠征ではじめて世に知られるようになった。ヘレニズム時代である。これを契機に、沿岸地域ではアレキサンドリアなどに地中海商人が登場する。これをエジプトでは「ヒッパロスの風(貿易風)」と呼んで、自前の操舵手が発見したことにしている。そうなのかも知れない。しかし実際にはインド・ペルシアを航海する商人からの情報である。
インド東岸のマドラスからローマのコインが出ている。紀元前1世紀~紀元二世紀のもので、その交流は卑弥呼よりもはるか以前からあったわけだ。
船乗りシンドバッドは世界中に知られたアラビアン・ナイトの主役である。シンドとはインド北西部の地名で、バッドとは旅人である。魔法のじゅうたんとは帆船のことであり、決して夢物語だったのではない。紀元前、アラビアこそは世界の最先進地だったのである。
三方を海に囲まれ、モンスーンの風に恵まれたアラビアでは、緯度の測定を間違えない限り、北極星利して容易に世界中に出て行けた。
中国ではイスラーム商人の国を「大食」と表記したが、これはタージ、タージクのことで、アラブ部族のタッイ人を指していた(『旧唐書』8世紀)。
彼らの船をダウと言う。
カマルという観測板を使い、板の真ん中には結び目が指の幅につけられたひもがあって、紐の長さをイスパー(1.5度 指の幅)、ザーム(その八分の一)と単位していた。船の上で縄を結ぶ計測方法は、言葉の表現方法にもなっていく。
カマル復元物
星の数ほどの無名のシンドバッドがいた。唐にまで到達した。これを海のシルクロードと呼ぶようになった。
四月~九月の夏のモンスーンで東へ向かい、十月~三月の冬のモンスーンで帰港した。
『シナ・インド物語』(作者不詳・851年)には、ペルシア湾のシーラーフ港から広州湾までの船旅の日数は寄港地での停泊を除き、順風で120日以上とある。
ペルシア湾からインド西岸までが約一ヶ月、ベンガル湾までが一ヶ月、マラッカ海峡以東へは二ヶ月となっている。ただしマラッカ海峡は風向きが難しく長期間の風待ち日数がかかるため、全工程片道一年とされていた。そうしてみると帆船での大航海の日数の基準になる。邪馬台国の道程日数の目安にもなろうか。「水行10日」はアラブ商人の中国までの日数の10分の一以下の近距離航行であることがわかる。「陸行一月」にしても当時ではたいした距離ではないと判断できそうだ。
ワクワクの国
これは倭国である。
奥州金山開発の平安時代ころから名前がバグダッドでも出てくる。
黄金の国だと書かれているので、マルコ・ポーロなどよりも早くから、アラブ諸国は日本を知っていたわけである。
『シナ・インド物語』では新羅がシーラーとして登場。シナ皇帝とクモツを交換しないと雨が降らないと書かれている。当時から朝鮮は中国の属国だったことが明白である。
一方倭国は、アッバス帝国の中心官僚だったイブン・フルダーズベが「シーンの東にワクワクがある。ここには豊富な黄金があってその住民は犬の鎖やサルの首輪を黄金で作り、金の糸で織った衣服を着ている、持ってきたあまりの衣服を売るほど豊かだ」と書かれている。シーンはシナであろう。
イスラーム商人と倭国のつきあいは九世紀の大宰府鴻臚館跡から出たペルシア陶器やガラス壷、ガラス杯などからうかがい知れるが、もっと古く、八世紀の宗像君徳善の墓(宮地嶽神社古墳石室)からは、ガラスの一枚板やペルシア瑠璃玉が出ており、飛鳥時代後期~奈良時代初期七世紀にすでに交易があったと見てよい。その時期は蘇我氏全盛時代、崇峻天皇紀に百済から来た博士として名前が日本書紀にもある。斉明天皇が元興寺建設に使った工人である。
トカラ列島のトカラを、ペルシア語であるという説もあり、トカラがペルシアの極東貿易の中継港だったという説もある。かなり信憑性が高くなっていると見ている。
少なくとも黄金で名前が知られた倭国は、記録上、9世紀までに世界で知られ始めていたことは間違いない。ということはもっと前から、中国を経て知られていた倭国もあったと考えてもいいのではないか?
行ったきり帰ってこなかった太古の海洋民族とは違い、イスラーム・ペルシア人は帰ってきた貿易者だった。
参考文献 宮崎正勝『風が変えた世界史』
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
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デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1
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